2話 撤退準備


 これからは一刻の猶予もない。

 私はブーツの音を響かせて王宮を駆ける。王の城を全力疾走するレディなど、これまでもこれからも存在しないだろう。


(まあ、私はもうアールトネン家の人間じゃないから、レディでも何でもないのだけれど)


 細かいことは置いておいて、人目を気にせずに全力疾走できるというのは良い。


 私は王宮の端にある、立派なドラゴン舎に駆け込んだ。

 ドラゴン舎は、厩舎の三倍ほどもある、チャコールグレーの堅牢な建物だ。石造りなので中が涼しく、ドラゴンの飼育に適している。

 中では十六頭のドラゴンたちが、石と大理石でできた台座の上で、思い思いの格好で過ごしている。

 彼らの面倒を見ていた飼育人のミカエル、ダンテ、アーニャ、クリスティンがはっとした顔で私を見つめた。


「お父様が危惧した通りになったわ。アールトネン家はドラゴン飼育権をはく奪の上で名を封じられ、私は北方辺境へ追放。あ、ついでに名目上の婚約関係も破棄ですってよ」

「そんな」

「貴方たちもこのドラゴン舎から追い出されてしまう。本当はここで働き続けて貰いたかったのだけれど、力が及ばなくて……」

「私たちのことはどうでも良いのです。なぜお嬢様が北方辺境へ追放されなければならないのですか!? 野生のドラゴンと流罪人しかいない、極寒の地ですよ!?」


 アーニャが叫ぶ。彼女は昔からうちに仕えてくれている飼育人で、ドラゴン医と呼んでも過言ではない程、ドラゴンの病に詳しい。

 彼女の技量をみすみす手放すなど正気の沙汰ではないが、まあハンス皇子が正気だったことなどあんまりないので、失望はしない。


「私が皇子の望む通りの行動を取れなかったから、追放されて、我が家は断絶するの。お父様が亡くなられて、私が有力な婿を取れなかった時点で、この結末は見えていた」

「ですが、お嬢様はドラゴンの飼育に貢献されていたはず……! 何かの間違いではないのですか」

「残念ながら、間違いじゃないの。――私がもう少ししっかりしていたら、こうはならなかった。ごめんなさい」


 言いながらも私は、ドラゴンの背を掻く為のトライデントや、鱗を磨くためのシルクが掛けられた道具棚に駆け込み、目立たない小さなレバーを引いた。

 するとドラゴン舎の奥まった部分の壁が、ごとりという音を立てて浮かび上がった。我が家の隠し扉である。

 と言っても大したスペースはなく、私はじゃれついてくるドラゴンたちの尾や翼を避けながら、その扉の中にあった革袋を全て引っ張り出した。


「これ、少ないけれど、退職金と思って受け取って」


 彼らの手にそれぞれ押し付けたのは、大きな宝石をたくさん詰めた革袋だった。売り飛ばせば、向こう五年は楽に暮らせるだろう量だ。

 中身を見たダンテが、むすっとした表情で言う。


「こんなにたくさん頂けません」

「むしろそれだけしか渡せなくて申し訳ないわ。貴方たちは父の頃からアールトネン家に仕えてくれた。その見返りが宝石だけだなんて、本当に、父が見ていたら怒られてしまうわね」


 本当なら、ドラゴンの卵や体の一部、記念品になるベルトやブレスレット等を贈呈すべきなのだ。

 それすらできない私の没落ぶりったらない。


「ですがお嬢、あなたが持つべき宝石は?」

「小袋一つ分くらいはあるから大丈夫よ。これがうちの全財産、アールトネン家の本邸にはもう、金目のものは一つもないわ」


 壁紙まで剥がして売り払い、ドラゴンのご飯代にしたのだ! だから今のアールトネン家に差し押さえるものは何もない。


(そう――。お母様がよく弾いていたピアノも、お父様が自慢にしていた剣や弓も、ドラゴンの引き取り手から感謝の念を込めて贈られた美術品も、もうない)


「今まで仕えてくれて本当にありがとう。感謝してもし切れない。そして貴方たちの仕事に、こんな形でしか返せない私を許してちょうだい」

「そんな……。こんなの何かの間違いです、お嬢様」


 アーニャは小袋の中身を改めもせず、私の手に戻そうとした。まるで、そうすれば私が全て嘘だと言ってくれるはずだ、と期待しているみたいに。

 けれど私が小袋を受け取らないから、アーニャはこれが現実であることを悟る。


「お嬢様はたった一人でこのドラゴン舎を切り盛りされていたではありませんか! 餌代も治療費も全て持ち出しで、王族は一枚の銅貨だって出さなかったのに……!」

「それは――プラチナドラゴンの仔を育て上げられなかった、私の責任だから」


 プラチナドラゴン。

 このセミスフィア大陸において、王族の前にのみ出現するという、聖なるドラゴン。

 望まれた仔が産まれてから六年。アールトネン家はその子を成体に育てることが出来なかった。


(私の力不足だ。私のせいだ。……私が、アールトネン家を滅ぼす)


 覚悟はしていたつもりだったけれど、その事実がじわりと私の足元から這い上って来て、寒くもないのに体が震えそうになった。

 震えをごまかすように、素早く身じたくを済ませる私を見て、アーニャの次に長く勤めているミカエルが、低い声で呟いた。


「お嬢。この宝石は受け取っておきます。――ですが、これはお嬢が戻られるまで、保管しておきます」

「いいえ、使って。その技能があれば、再就職も難しくはないだろうけれど、アールトネン家に仕えていたという経歴が、貴方たちの足を引っ張るかも知れないから」

「旦那様とお嬢の元で働かせて頂いた栄光が、私たちの足を引っ張ることなどありえません」


 ミカエルは短く言うと、他の皆を一瞥した。彼らもその眼差しを受けて頷き返す。


「我らアールトネン家に仕える飼育員一同、お嬢のお戻りをお待ちする所存です」

「いいえ、いいえミカエル。私は戻らない。北方辺境は酷い所だもの、病を得るか野生のドラゴンにやられて終わりよ」

「お嬢ならば、必ずそれらの困難を乗り越えられます」


 まるで老いたドラゴンのような鋭い眼光が私を射抜く。


「プラチナドラゴンはお嬢にとても懐いていらっしゃいます。その事実が、お嬢の優れていることの何よりの証左。断言しましょう、あなたは必ずこの困難を乗り越えて、ここにお戻りになる」

「ミカエル。……ありがとう。その言葉だけで嬉しいわ」


 予言めいた言葉は、私の行先をほんの僅かに照らしてくれる。

 尊敬する飼育人の力強い言葉で勇気づけられた私は、身の回りの物を詰め込んだ布袋を背負った。


「そのプラチナドラゴンに挨拶してから行くわ。皆、本当に今までありがとう」


 涙ぐむアーニャ、私をじっと見つめるミカエルとダンテ。

 そうして、まだ事態が分かっていない様子で小首を傾げるクリスティンは、声変わり前の可愛らしい声で呟く。


「プラチナドラゴンが育たないことが、どうしてお嬢様のせいなの? だってあれは、王族の聖なる力を吸って大きくなる生き物だから、育たないのは皇子様のせいでしょう?」


 私は答える言葉を持たず、ただ苦笑して、ドラゴン舎を後にした。

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