第22話 これから
もう、話すことはなかった。
桐原の弟は、駅まで送ると言い張った。
俺たちは、一緒に、埃じみた田舎道を歩いた。
「吉塚さん。ご家族は?」
尋ねる声に、はっと我に返った。
桐原によく似た青年が、俺を見つめていた。
桐原よりずっと若く、青白く痩せた、肺を病んだ青年。
「母と妹は、母の田舎に疎開して、助かった」
桐原の両親と同じ町内だったのだ。
疎開しなければ、二人は、生き残れなかったかもしれない。
桐原の、そしてこの弟の「かえりみ」は、残酷に失われてしまったけれど、俺の「かえりみ」は、まだ存在している。
千人針や別れの涙で、俺を庇護してくれた二人……。
今度は俺が、二人を守る番だ。
「許嫁の方は?」
「……、え?」
聞き逃しかけて、はっとした。
「兄から聞きました。あなたには、許嫁がいらっしゃるって」
桐原のやつ。
余計なことを、ぺらぺらと……。
「芳江ならね。他の男の妻になっていたよ。俺の戦死広報が流れたそうだ。それで……」
よくある話だ。
あり過ぎるくらいだ。
俺には男兄弟はいない。彼女が、俺の身内の妻にならなくて良かった。
そして俺は、彼女に会いに行けてない。
生涯、会いに行かないんじゃないかと思う。
だって、彼女には、幸せであってほしいから。
「すみません」
桐原の弟は、しょげかえっていた。
「なぜ、君が謝る?」
「だって……。すみません」
再び、彼は謝った。
郵便ポストの角を曲がると、駅は、もうすぐだった。
「取引しないか?」
うつむいたまま、俺は尋ねた。
「母の実家はね。農家なんだ。卵がたくさんあるそうだ。それと、引き換えに」
「卵!」
桐原の弟は、目を丸くした。
肺病には、栄養が必要だ。
だが、卵はまだまだ、手に入りづらかった。
「でも、僕には、あなたに差し上げられるものなんか……」
言いかけた桐原の弟を、途中で封じた。
「俺に『万葉集』を、教えてほしい」
「『万葉集』を?」
「間違えて覚えていることが、いっぱいあると思うんだ。この先、再び有事があった際に、二度と、家持の思いを悪用されないように、俺に、万葉の歌を教えてほしい」
俺を殴り倒した上官の顔が、脳裏に浮かぶ。
軍事政府による恣意的な引用。
それは全く、家持にふさわしくない。
……「違うんだ……」
桐原の、苦しそうな顔。
愛する歌を汚されて、彼は、どれだけ悔しかったろう。
「俺に、歌を教えてくれ」
「でも、僕は、専門に勉強したわけじゃ……、」
「桐原の『かえりみ』に教えてほしいんだ」
うまく言えなかった。
桐原の書くはずだった、小説。
読んでみたいと思った。
桐原はもういないけど、彼が心を残した家族は、まだ、生きて、ここにいる。
返事はなかった。
振り返ると、桐原の弟は、泣きながら頷いていた。
家持は、どのような思いで、安積親王亡き後、彼の親族たちに仕えたのか。
少しだけ、わかった気がした。
fin.
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