第17話 製糸工場の幽霊1
篠原市は製糸業が盛んな土地である。
市内には製糸工場がいくつか存在する。たくさんの女工たちが寄宿舎で寝泊まりをして朝から晩まで働いてる。久保田製糸工場もその一つである。
「幽霊が見えたのですか?」
隣に立つ久保田社長に建介が尋ねた。
「信じられないでしょう。あの梅の木のてっぺんに立っていたのが見えたって。」
久保田は頭を掻きながら件の梅を指した。
背は高いが細い幹と枝の梅。今はもう季節ではなく花は咲かせていない。無骨な壁を背景にして枝を見せているだけだった。
木登りでもしようものならポッキリと折れてしまいそうだ。まして頂上に立つなど軽業の領域だ。
梅の木は、女工たちの寄宿舎と壁の間に生えている。どちらかというと壁の方が梅の近くである。
その壁の後ろは寂しい空き家だという。
「あの梅はですね。篠原藩の重臣が工場設立の際に埋めてくださったんです。」
久保田が梅の木を丁寧に説明する。ただし、丁寧さは梅ではなく重臣に向けられている。
「元は、その重臣の所有する土地でしてね。篠原の発展のために土地を提供してくださったんです。そして工場が栄えることを願い、和歌を添えて梅を与えてくださったのです。」
感慨深く話す久保田の口調が急に冷ややかになる。
「それなのに女工たちときたら、その大事な和歌で替え歌を作って我々を揶揄するんですよ。」
久保田は信じられますかという顔をする。
「最初は女工たちがふざけたのか、新手の労働争議なのかと思ったけれど、世話婦や門番まで見たって言いだす始末なんです。これじゃあ、私の工場の評判が落ちます。どうか幽霊の正体を探ってください。お願いしますよ。私は仕事がありますので。これで失礼します。」
久保田は慇懃無礼に頭を下げると建介を一人残して立ち去って行った。
「あの…ちょっと…。」
建介が呼び止めようとした時、すでに久保田は見えなくなっていた。
「ったく…。」
小さく頭を掻いた。
久保田は謎
「案内ぐらい付けて欲しかったんだが…。」
建介は仕方なく一人で工場内を探ることにした。
まず声を掛けたのは門番だった。門番から幽霊を見たという女工を教えてもらうつもりだ。
「見たぜ。梅の木に立つ幽霊を…。」
門番はいかにも怪談を話すような口振りをする。
「俺は女工たちが夜中に逃げださないよう見張っているんだが、厠で離れる時もあるんだ。幽霊を見たのは厠の帰りだった。」
「梅の木の上に立っていたんですか?」
「ああ…立っていたんだ。こちらを覗くようにしてな…。あの時は腰抜かすかと思ったぞ。」
門番は両手を幽霊のようにぶら下げる。
「夢でも見てるのかとしばらく頬を引っ張ったりしてみたが夢じゃなかったんだよ。気がつくと幽霊はいなくなっていた。」
「他に変わったこととかないですか?」
「いいや。あっ。そう言えば。」
門番が興奮しながら伝える。
「他にもおかしな話があるんだ。うめき声が聞こえるって話がさあ。」
「どこで聞こえるんですか?」
「例の梅の木の場所だよ。」
「梅の木?」
建介は首をかしげた。
「うめき声を聞いたのは俺じゃなくて別の門番だけどな。そいつの話だと工場の敷地を巡回している時に聞こえたらしい。女工が逃げ出したのかと思って辺りを探したけど誰もいなかったんだと。」
「それは奇妙な話。」
「だろ。しかも、後で考えたら女というより男の声に近いような気がしたんだと。」
「へえ。その門番には会えますか?」
建介と話をしている門番の方は首を振る。
「そいつは怖がってやめちまったよ。『こんな所いられるか。』って逃げるように田舎に帰っちまった。」
「じゃあ他に見た人はまだ残っていますか?」
「残っているよ。世話婦のねえさんが。怯えて『辞めてやる』とか言ってるけど。」
門番がそう言うと少女の声が聞こえた。
「じゃあ今のうちに聞いとかないとね。」
門の外を見ると藤世がいた。
「藤世さん。どうしてここに?」
「お父さんが話を聞きつけて行ってこいって言われたから。」
「そう…。」
建介は思いっきり『この一家は‼』と叫びたい気持ちであったが何とか堪えることができた。
「あんた。この子入れようか?」
「そうしてください…。」
門番に尋ねられ、脱力しながら答えた。
「本当にいいの?」
今度は藤世が尋ねる。
「ああ。断ったら次はどんな手を使うか分からないからな。」
建介が言うと藤世は堂々と工場の中へ入ってきた。
建介は藤世を伴い世話婦の部屋を訪れた。
「そうよ。私ははっきりと見たの。」
妙に婀娜っぽい世話婦は必死に主張するのだった。
世話婦の部屋の中は片付いていた。
これは本人の綺麗好きからではなく、いつでも出て行けるようにするためだ。部屋の隅にまとめられた荷物が語っている。
「寄宿舎の見回りをしていた時にね、ちらりと窓の方を見たんです。そしたら人が浮かんで見えたんです。暗くて男か女か分かりませんけど、人が梅の木の上に見えたんです。」
世話婦はすがりつくような目で建介を見る。
「あの子たちが幽霊の話を見たって聞いた時は、賃上げか何か企んでんじゃないかって私は思ってたんです。」
「ああ争議という奴ですね。」
建介がその言葉を出すと世話婦は大きく頷いた。
「ええ。巷で盛んになってるでしょ。うちでもね賃上げだ。休みを増やせってあったの。もっとひどい工場はあるっていうのにねえ。夜中に逃げ出さないよう寄宿舎に鉄格子を嵌めたために、火事になっても逃げられず女工たちが焼け死んだって所があったでしょう。」
世話婦は明治33年の織物工場の火事と比較して久保田製糸工場は良い所だと云いたいのだろう。彼女は建介と藤世に同意を求めるように話してくる。建介と藤世はその意図を無視した。
「幽霊を見たっていう子たちに会えますか?」
「ああ、その子たちはまだいるわよ。最初に見たのは
例の女工たちは仕事中であった。久保田を通して話をさせてもらえた。
寄宿舎の広場に五名の女工たちが集められた。年少が十四、年長が十九と若い娘ばかりである。
「君たちは幽霊を見たんだね。」
建介が口を開くと一番年長の女工が我先にと答えた。
「見ましたよ。厠の帰りでした。こちらを覗くようにしている幽霊を。最初に見たのはあんたでしょ。スヱ。」
「はい。」
五人組の中で最年少のスヱが元気よく答えた。
「私が見たのは広間に忘れ物を取りに行った帰りです。あっ広間では仕事終わりに皆で手習いをしたり、裁縫を習ったりしているんです。その日はちり紙を置きっぱなしにしちゃって。それに気づいて取りに行って部屋に戻る所だったんです。」
スヱは真剣に話し続ける。他の女中たちは神妙な顔で聞いている。
「そして窓から見えたんです。梅の木の上に立つ幽霊が…。」
「その後どうなったんだ。」
「悲鳴すら出ず腰を抜かしました。必死で部屋に戻って先輩たちを起こしました。」
その時、スヱがうつむいた。
「でも信じてくれなくて。皆私のことを笑ったんです。そればかりか夜中に騒ぐなって怒られて。その明日には笑い者にされたんです。」
スヱの言葉に他の女工たちが罪悪感ありそうな顔をした。
幽霊を見たという女工たちも最初から信じているわけではなく目撃者を道化として扱っていたのだろう。
「その後で他の人も幽霊を目撃して信じざる得ないことになったわけなの?」
藤世の問いに四人の女工たちは恐る恐る頷いた。
「まさか…本当にいるとは思わなくて。」
「ごめんねスヱ。」
「工場では幽霊についてどう話されているのか教えてもらえるかい?」
建介の問いに女工たちが口々に答えた。
「社長に恨みある幽霊だとか昔ここで惨殺事件があったに違いないとか聞いたよ。」
「私は元々ここの土地の持ち主だった重臣が本当は土地を渡したくなかったんだって話聞いたよ。」
その時、最年長の女工が声を張り上げた。
「社長たちは私らの仕業だって言いたいみたい。」
「何それ?」
スヱら三人の女工たちは顔を見合わせた。残る一人は既に知っているのか不満そうな顔つきで頷いている。
「私たちが看守たちを追い出そうとした企みだって云いたいみたい。」
看守…。女工は門番と世話婦をそう言い表した。
「はあ? 出ていきたいのはうちらなのにさ。」
「それでも賃金のためと思って我慢してるのに。」
少女たちは建介と藤世を無視するようにワイワイと云い合っている。
「じゃあ君たちの方で幽霊の正体はどう思うかな?」
「決まっています。」
女工の一人が胸を張る。
「社長と看守たちの仕業に決まっているじゃありませんか。」
「そうよ。私らがストと争議をするのを幽霊を見せてそれ所じゃないようにしてるに違いない。」
少女たちは胸を張り断言する。
女工の一人が歌いだした。
「絹糸を つむぐ私ら 知りもせず 篠原の金を むさぼる上かな。」
久保田は梅の木が植えられた際、元の土地の持ち主が和歌を添えたが、その和歌を女工たちが替え歌していると言っていた。それが今、女工が歌った歌なのだろう。
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