第2話 英語を話せない国王
1714年8月1日。イギリスにニュースが駆け巡る。ケンジントン宮殿において脳出血のためにアン女王が49歳で
1701年に王位継承法が議会で制定されており、アン女王亡き後はスチュアート家の血筋でプロテスタントでもあるハノーヴァ選帝侯エルンスト・アウグスト妃ゾフィーの子孫が王位を引き継ぐことになっていた。
国内にはアン女王の異母兄弟のジェームズ(1688年の名誉革命によって追放され、フランスへ亡命していた)を支持する者がいた。しかし彼はカトリック教徒であったため、議会が即位に強く反発をしたのである。このように議会が王位継承をコントロールすることに不満を持つ人々も少なからずいた。
亡命しているジェームズ2世こそ王にふさわしいとして支持する者がジャコバイト(名誉革命の反革命勢力)としてくすぶっていたのである。
しかし1701年にジェームズ2世は亡命先のフランスで死亡し、彼とともに亡命をしていたジェームズ・フランシス・エドワード・スチュアートが王位を要求していた。
8月も終わろうとしたある日のスチーブンソン家。
「今度イングランドへ来られる新しい王様はどのような方かしらね。まあ、庶民がどうこう言っても届かないのだけど少しは社会が良くなるように祈るわ」
「統治者が変わろうとあたしたちは今までと同じです。あたしはたいして期待もしていない」
ハリエットの言葉に笑いながらマリサはエリカを抱く。エリカは日増しに可愛さを増し、幾度見ても飽きないほどだ。
エリカは乳より食べる方が盛んになってきた。柔らかくしたパンやスープなどを欲しがり、マリサはハリエットに教わりながらそれらを食べさせた。一口ほおばるたびにエリカは笑顔を見せ、もっと口に入れてとねだる。そのしぐさがたまらなく愛おしく、頬にキスをした。
まだほんのりと甘い乳のにおいがするエリカ。乳を必要としなくなったら自分はアーティガル号に乗る。だからといって家事と育児に手を抜かないとフレッドに約束をした。正直、使用人として働いていたマリサにとって家事は全く苦にならないし、どんなやんちゃをされようがエリカなら笑って済ませた。
そんなエリカを前にしてマリサに迷いがあるのをハリエットは見逃さなかった。
「船に乗ることはもう決めたことでしょう?心配しないで。エリカはわたしがしっかりと面倒を見るわ。その代わり、無事に帰ってきなさいよ。フレッドと二人分心配をする身にもなって頂戴」
ハリエットの言葉にマリサは思い出すものがある。
「イライザ母さんも同じことを言っていました。デイヴィスと二人分心配をする身にもなってって。でも今は戦時中じゃない。海賊が出没すると言っても知れたもんでしょう」
「そういう問題じゃないのよ。さあ、食事がすんだら港まで散歩をしましょうね。マリサももう普通に歩けるようになったんだからコーヒーハウスへ顔を出しましょうか。噂ばかり尾ひれをつけて広められるからどの程度大きな話になっているか確かめるためにね」
彼女の言う通りマリサは体力を取り戻していた。目の前でデイヴィージョーンズ号を沈められ、自らも処刑される身となり、何もかも信じられなくなったあの日から何か月もマリサは心を閉ざし、体を動かせる状態ではなくなった。それはマリサから体力と機敏さを奪い、まるで廃人の様に自分の存在を無くそうとしていた。
エリカのおかげで自分を取り戻し、家事や育児はいい体力回復になった。今は普通に港まで歩いて行ける。コーヒーハウスへの寄り道はマリサの機能回復の証でもあった。
「このあたしがデマを一掃してやります。変な噂や中傷する奴はこうして……」
と、マリサは胸元に手をやり、慌てて手を引っ込めた。
船に乗っていた頃のマリサは胸元やサッシュに小刀を忍ばせていた。しかし普通に育児をするマリサには授乳をするにも抱っこをするにも小刀は邪魔でしかない。今のマリサは武器の携帯ができなかったのである。
「おやめなさい。そんなことをしたら相手の思うつぼよ。私たちは素知らぬ顔でコーヒーをいただき、余裕の顔を見せるの。武器で傷つけるだけが戦いじゃないはずでしょう」
そうハリエットが言うのは至極当然のことだった。マリサは頷くと散歩の準備をした。
マリサは散歩で港を見るのが好きだった。家事や育児に追われ一日が終わる日々は望んでいたはずなのに物足りないものがあり、それだけに様々な船が立ち寄っては出ていく港の喧騒がマリサの心をとらえて離さなかった。
戦争が終わり、それまで国に貢献していた私掠船や海軍の船の乗組員も無職となった。仕事を求め港をたむろする連中もいる。フレッドの様に士官クラスなら給与が減るぐらいだが、そうじゃない乗組員は陸で仕事を探さねばならない。軍隊は戦争があってこそ仕事となるのだ。
マリサ達は帰り道にコーヒーハウスへ寄った。ここは港が近いとあって船乗りから知れた各地のネタが良く飛び交っている。マリサやフレッドの噂もここで物語の様に広がっているのだ。
マリサ達が店内に入ると一斉に視線を浴びる。店内にいたのは男性を中心に失業して暇な船乗りや時間つぶしの市民などだ。
マリサは彼らに向かって思い切り微笑んでこう言った。
「皆さん、ご機嫌いかが。おほほ……」
女優マリサはまだ健在である。ハリエットは隣でエリカを抱き、笑いをこらえるのに必死だ。
店主が慌てて席を用意し、二人は余裕ある顔で座る。この堂々たる態度であらゆる尾ひれを切り刻みたい、そんな思いだ。
二人はコーヒーを堪能しながら客たちに何か聞かれては答え、反対に情報を仕入れる。
「新しい国王はどのような方でしょう。教えてくださいな」
マリサの質問に知識人(自称他称問わず)たちが新しい国王について情報を話す。
「5月にゾフイー(ハノーヴァー選帝侯妃)が嫁ぎ先のドイツで83歳で亡くなったのだが、王位継承法により彼女を議会はアン女王の継承者として承認していたんだ。そのゾフィーが亡くなると議会は権力争いの様に摂政委員会を再編させた。その後アン女王が脳卒中で話すことができなくなり、摂政のリストが公表され、ゾフィーの子ジョージがグレートブリテンおよびアイルランド王・ジョージ1世として即位した。今頃は船でイングランドへ向かっているころだろうよ、英語を話せない国王としてな」
「英語を話せないって?あたしたちはそんな国王に国を委ねるのか」
マリサは生まれや育ちも他国であり国の言葉さえ話せない者が統治者となることに驚く。
「心配なさんな。そのための議会だよ。国王を操り……じゃなかった……国王を助ける議会が機能している。でもな、あまり国民感情は良くないようだぜ」
そう言って知識人と称する男たちは笑った。市民にとってどこか他人事なのかもしれない王位継承の問題であった。
「だからと言ってなんでわざわざ英語を話せないような人物を国外から招くんだ?本当にスチュアート王朝は途絶えてしまうのか」
マリサは言葉も分からぬのに統治者となることに納得がいかない。
「……いや……いることはいるんだよ。今はフランスに亡命をしているジェームス・フランシス・エドワード・スチュアート様がそれだ。フランス国王ルイ14世は彼を擁護している。ただな……フランスはカトリックの国だ。そう、そのジェームズ様はカトリック教徒なんだよ。そしてそのジェームズ様を支持する人々がジャコバイトと呼ばれる一派だ。スチュアート家はもともとスコットランド出身なので、ジャコバイトの支持基盤はスコットランドであり、カトリック教徒という面ではアイルランドもジャコバイトを支持している。これまでにもジャコバイトはあちこちで事件を起こしていることから危険分子とみなされている。……かかわるなよ、あいつらは国をかき乱そうとしているんだ」
そのように男がマリサに忠告をした直後、男の身体が大きく揺れ、うめき声をあげて男が倒れた。店内にいた客の一人がマリサとさっきまで話していた男を睨みつけている。そして手にはサーベルを持っており、血を滴らせていた。知識人の男は背後から切られたのだろう。
「お前はアン女王陛下に命を助けられたはずだ。ならばこんなところで悠長にやってないでジャコバイトとして戦え」
そうして剣を差し向けてくる。
マリサは周囲に視線を送り様子を見る。この場には義母ハリエットやエリカもいる。ごく普通の市民もいる。巻き添えは避けたかった。
「武器を持たない女に剣を差し向けるとは紳士的じゃないな。あたしは身分や宗教、人種など問わない海賊の頭目だった。それは今も変わっちゃいない。お誘いは断る」
そのようにマリサが言うと男は逆上し、切りつけようとした。マリサはとっさに身をかわすと椅子を男めがけて投げつけた。
椅子をぶつけられ、床に倒れこむ男。周囲の客たちが取り囲み、役人を呼ぶ声がした。男は暴れるもその場の男たちに取り押さえられてしまう。
エリカとハリエットのそばへ行き、無事を確認するマリサ。
「今日はもう帰りましょう。全く、寄り道がとんだことになったわね」
そういう彼女は体の震えが残っていた。怖かったのである。それは抱いているエリカにも伝わり、エリカがぐずりだした。
「もう大丈夫だよ」
マリサはエリカにキスをするとハリエットとともに店を出た。
マリサ自身もこんな緊迫した状況はひさしぶりだ。相手は自分を元海賊だと知ってあのように言ってきたのだ。
(この国の変化は単に王朝が変わるだけじゃない……。ジャコバイトは何をしようとしているんだ……)
何か大きなものが動こうとしている。それがわかるのは先の話だった。
ぐずるエリカをなだめるハリエットとともに帰路につくマリサ。ごく普通のコーヒーハウスで起きたこの事件は、それまでのんびりと過ごしていたマリサ達に衝撃を与えた。
(あの男の様にこれからもジャコバイトはかかわろうとしてくるかもしれない。あたしが陸にいることでエリカとお義母さんを危険な目に合わせるのではないか……)
マリサはそんな思いでいっぱいだった。
残念な散歩を終え、家に帰ると誰もいないはずなのに人の気配がした。以前、義母が開かずの部屋にしたあの部屋からだ。立ち止まり、義母とエリカを玄関で待たせるとマリサはほうきを持ち、静かにその部屋に向かう。自分のサーベルや銃などは自分とフレッドの部屋にしまったままだ。今さらにそれを悔やんだがこの状況では悔やんでも始まらない。
一歩二歩……。静かに歩むと息を止めドアを開け、叫んだ。
「誰だ!泥棒ならよそへ行け」
ほうきを突き出すようにして叫ぶとマリサの目に人影が写った。……それは泥棒ではなかった。
「……フレッド……?」
マリサはほうきを降ろすとフレッドを見つめる。何か月も会えないままのフレッドが帰っていたのだ。
「……や、やあ……ただいま……」
日焼けした顔ではあるが、少しやつれた感じがある。
「お義母さん、フレッドが帰っている!」
マリサの声にエリカを抱いたハリエットが走り寄ってくる。
「まあ、驚かせないで頂戴。本当に心臓に悪いわよ」
そう言いつつ顔は笑顔だ。エリカとともにフレッドに駆け寄り歓迎のキスの嵐だ。こんな状況は今も昔も変わらない。義母の目にはいつもフレッドがいる。愛してやまない息子なのだ。
エリカは久しぶりにみる父親を人見知りして泣き出した。
「あーん……」
「よしよし……心配ないよ。あなたのお父さんだよ」
そう言ってマリサがエリカを抱き、フレッドに渡すが、エリカは激しく泣き出した。
「あーん、あーん……」
そんなエリカを抱いてなだめるマリサをフレッドは元気なく見つめている。ハリエットとマリサもこの表情に何かあったことを悟る。
「久しぶりに帰ったというのにどうしたんだ……」
マリサはフレッドに問いかける。
「ごめん……」
フレッドはどのように話を切り出すべきか迷っていたのである。
「久しぶりに帰ったのに良いニュースを持ち帰らなくてごめん……。昇進試験は不合格だった……。ごめん……」
フレッドがうな垂れるのも仕方がないように思えた。彼が結婚前から昇進のために猛勉強をしていることを知っていたからである。
フレッドの消沈ぶりに思わず抱きしめるマリサ。
「家族を養うために昇進を目指してとあたしが言ったことでフレッドを追い込んでいたのなら、あたしの方こそ謝るよ」
その言葉に首を振るフレッド。
「……僕は海賊の君と結婚をした。だが、世間はそれ以上に君が貴族の血を引いていることをネタにしている。どこにいても僕は『身分違いの結婚をした市民』として見られている。このことはこれからもずっとついて回るんだ……。昇進を目指すのは君の身分に少しでも近づきたいと思ったからだ」
フレッドの悩みはマリサもコーヒーハウスのネタにされたことから知っていることである。
「周りがどう見ようとあたしたちはあたしたちだ。気にするな。あたしはデイヴィスとイライザ母さんのもとで育ち、オルソンの屋敷では使用人として働いていた市民のマリサだ。そして海賊でもあった……。だから貴族のかけらなんてそんなものは持ち合わせていない。例えこの先誰かが貴賤結婚のことで噂にしても堂々としていたらいい。ここで変に焦ったらそれこ世間話のネタになってしまう。それより……」
そう言ってマリサはフレッドにエリカの口を見せる。
「歯が生え、乳以外のものも欲しがるんだよ」
エリカの口の中にかわいらしい歯が数本見えており、さっきまで気落ちしていたフレッドに笑顔が出る。そのフレッドの優しいまなざしは人見知りをしているエリカに笑顔をもたらす。
「まんま、まんま」
何やら喃語を話すエリカ。
「お腹がすいたのよ。授乳する?」
ハリエットの言葉にマリサは頷くと椅子に腰かけて授乳を始めた。
「この子が乳を必要としなくなる日は遅かれ早かれ必ず来る。寂しい気もするけど」
「そうなると君は再び船に乗ることとなるんだな。エリカはきっと泣くだろうな」
マリサの言葉にフレッドが返す。
「マリサもそれを承知しているのよ。あまり揺さぶらないで。そのことはそっくりそのままあなたにも言えるのよ」
そう忠告するハリエットもどこか寂しそうだ。この二人はやがてそれぞれ海へ出ていく。自分は家を守り、エリカを育てねばならない。
「フレッド、あたしは総督に言われたからあんたと結婚したわけじゃない。自分が望んで嫁いだ。だから結婚まで自分に課せられた掟を遵守した。あたしにはフレッドしかいない。これからもフレッドだけだ。だから『壁』をみるな」
マリサはフレッドの胸に顔をうずめる。『壁』と戦っているのはマリサ自身もそうだったのである。
英語を話せない国王を迎えようとする国。時代が変わりつつあり、自分たちも変わらねばならないと無意識に感じていた二人だった。
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