第6話 悪だくみ(2)

 かぎりなき しじまあまねし

 なきのうみ ささらなみたつ

 たまさかに わたるゆくへは

 いづかたや をとまほらまの

 ながめをか はたうつさむや 

 よするなみにぞ

                      万城目和津まきめかづ『ミハカセノフミ』より




 手持ち無沙汰に開いた本の内容など、まったく頭に入ってこない。しおりも挟まず、なおざりに机の上へ置く。

 どのぐらい時間が経っただろう。実のところ、それほどでもないような気もする。

 午後の仕事をほったらかしに、献慈は自室に閉じこもりっきりだった。


(何やってんだろ……俺……)


 己のしでかしたことを改めて省みる。つまらぬ癇癪を起こし、無責任にも仕事を投げ出して来てしまった。一年前に学校を留年した時から少しも成長していない。

 閉め切った窓際でうなだれる自分が、どうしようもなくみじめだった。

 柏木に嫌味を言われるぐらい、毎度のことだ。そんなものはどうだっていい。


(澪姉……何でだよ……!)


 澪のことを考えると、胸が苦しい。

 新しい居場所を見つけたかに思えたのも、錯覚にすぎなかったのだろうか。自分を優しく受け入れてくれたあの態度、あの笑顔までも。


 大袈裟だ、悪いほうに考え過ぎだ、という自分がいる。

 だが、そんな内なる声に耳を傾けられる余裕は、今の献慈にはなかった。


 さっさと仕事に戻ろう。

 戻れば澪と顔を合わせなければいけない。

 関係ない。

 仕事を終わらせて帰って来ればいい。

 家に帰れば澪がいる。

 ここで待っていても澪が帰って来る。

 ならば今戻ったところで同じこと――。


 一体何度、堂々巡りを繰り返しただろうか。


「……献慈、いるんでしょ?」


 ふすま越しにふと、あの優しい声が聞こえてきた。

 本当は今すぐにでも立ち上がって、出迎えたい。


 ――澪さんに対してはやけに素直なのだな、君は。


 ――捨て犬と主人の関係ですな。これはまた微笑ましい。


 憎たらしい口ぶりが頭の中でリプレイされる。動こうとした体がこわばって、その場に踏みとどまろうとする。


「……入るね」


 戸が少し開き、様子を窺うよう止まった後、また大きく開いた。

 畳の上を広がる薄明かりの中に、巫女姿の影が差していた。

 再び戸が閉められると、澪は少し離れた場所に腰を下ろす。


「ほら。大事なもの、置いて行っちゃダメじゃない」

「…………」


 そっと壁に立てかけられた包みが何であるのかは、あえて尋ねるまでもない。

 双方無言のまま幾秒かが過ぎた。

 やがて澪がおもむろに膝を進めてきた。そして「ごめんなさい」と一言だけ口にし頭を下げた。


「謝られても……困るよ」


 実際、献慈はどうするべきかわからずにいた。子どもっぽい意地を張って、澪を困らせているのは自分のほうなのに。

 そんな戸惑いをよそに、澪は話を続けた。


「本当ごめん。柏木さん、ぶん殴って来ちゃった」

「そう……。……………………。……はい?」


 理解するまでに時間を要する内容だった。呆気にとられるとはこのことだ。

 澪は顔を上げたものの、きまり悪そうに肩をすくめながら髪を弄んでいた。


「献慈のこと馬鹿にされて、ついカッとなって……手が出ちゃったといいますか……笑ってやり過ごそうとしたんですけど……ダメでした」

「…………」

「うん……そりゃ言葉も出ないよね。あの人も殴られた瞬間、まるで空が落ちてきたんじゃないかってぐらいびっくりしてたし」

「……ぶふっ」


 献慈は柏木の様子を想像し、吹き出してしまった。それを見た澪も口元を押さえつつ、笑い返していた。


「フフッ……でもこれでまた献慈が意地悪されたりしたら、絶対に私のせいだね」

「ううん。澪姉は悪くないよ。悪いのは……俺だから。今度からは何があっても俺自身でどうにかしてみせるよ」

「なぁに~? 急に男らしいこと言っちゃってさ」


 おどけながら鎖骨の辺りをつついてくる、澪の笑顔が少し滲んで見える。

 そこから不意に、澪はくるりと向きを変え、献慈の隣に身を寄せてきた。閉め切られた窓掛けが背中に押され、差し込んだ光が一瞬その麗しい面立ちを照らす。


 献慈は心臓が跳ね上がりそうになるのを堪えつつ顔を伏せるが、すぐ横からかすかに聞こえる息遣いと、黒髪から漂う芳香は、少年の高鳴る心を休ませてはくれない。


「あっ、あのさ、俺……」


 いたたまれなくなった献慈は、これまで抱え続けていたみじめな気持ちを吐露する。


「こっちへ来る前だって、そんな大した人間じゃなかったんだ。引っ込み思案で、ろくに友だちもいなくて、勉強も運動もできない落第生で……今まで虚勢を張ってたけど、本当はいろいろ引け目を感じてて……そんな部分を、あいつに見透かされてたんだと思う」


 一区切りしたところで、黙って聞いていた澪も口を開いた。


「そんなに自分を卑下しないで。同じだよ、私も……強がってるだけ。ある意味、落第生なのは一緒だから」

「そんな……」

「ううん、実際そうなの。まだ話したことなかったよね。四年前……私が御子みこほうじに挑んで、失敗した話」


 澪が口にしたその単語に、献慈は憶えがあった。


「御子封じって……たしか、ワツリ村に古くからある風習だよね?」

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