第1話 霹靂の騎手(2)

 新緑まぶしい木々の間を抜け、いずこへとも知れぬまま、献慈はひた走る。

 これだけ裸足で動き回れば、足裏に小石や枝の一つも刺さりそうなものだが、今のところは無事だ。人の手で管理されている場所なのかもしれない。


(ちょっと……走りすぎたか)


 勉強は苦手だが、運動は大の苦手だ。献慈は早々に足取りを緩めた。

 息も上がってきた。滲む汗で眼鏡もずり落ちそうになる――と、鼻頭に寄せた指先が空を切る。


(……っと、そうだった)


 眼鏡はおろか、腰に巻いた手ぬぐい以外、何も身に着けていないのだから当然だ。裸眼でも視力が落ちていないのは、ここが現実ではないことの証左でもある。


(何て突拍子もない夢だ……いや、夢だから突拍子がないのか)


 夢には抑圧された願望が表れるともいう。そう考えると、献慈は途端に己の精神状態が心配になる。


(乗られたり、見られたり……しかもあんな綺麗な女の人に……)


 衝撃的な出会いをした、和服の女性の容姿をつぶさに思い起こす。


 艶やかな黒髪と、豊かな睫毛の向こうから覗く黒目がちな鳶色とびいろの瞳。

 不可解な言葉を紡ぎ出しつつも、心地よい声音を発する薄紅色の唇。


 背格好はどうだろう。十六歳の男子としては平均的な自分より、いくらか上背もあったように思う。

 その恵まれた体格を支えるのは、立派に発達した腰部と臀部――


(……! こ、これ以上の妄想は危険だ。さっさと先に進もう)


 献慈は心を無に、左右の脚だけに神経を集中させることにした。




 程なくして、辺りの木々もまばらになってきた。同時に足元も、徐々に石混じりの地面へと移り変わる。

 林を抜けると、見下ろす先にまた別の景色が広がっていた。


(ここは――)


 走り通しの献慈をまるで待っていたかのように、緩やかに流れる川が、涼しげな水音を響かせていた。


(水……飲んでみても平気かな)


 もとよりここは夢の中。二の足を踏む理由があるでもなく、献慈は喉の渇きに従う。


(意外と冷たいな……どれ)


 川の水を両手ですくい、そっと口をつける。別段変わったところのない、ごく普通の軟水だ。

 人心地ついて今一度、空を見上げる。


 やはり、真夏の空模様とは様子が違っている。強いていえば、春の大型連休の後半は毎年こんな陽気だったように思う。

 二ヵ月前といえば、悪友であるあの男ともだいぶ打ち解けた頃だ。


(…………。ほかにも思い出すべき人がいる気がするんだが――)


 急な寒気が献慈を襲う。水辺に長居したせいだろう。

 それにキュウリは、その身に含まれるカリウムによって、体温を下げる作用があるともいわれている。


(――ん? キュウリ……?)


 川上から流れてきたそれを、献慈は何となしに手に取る。紛うことなきキュウリであった。


(なぜこんなところに……)

「オイ! ソイツヲ寄越セ!」


 同じ方角から飛んできた怒声。どこか湿り気を帯びたような声色に、献慈は警戒しつつそちらを振り返る。


(う……嘘だろ……!?)


 全身緑色の肌、甲羅を背負い、頭頂部に皿状の外骨格を頂いた生物――日本人なら誰もが知る妖怪の代表格・カッパが、群れを成してやって来るではないか。

 その数、総勢六体。

 カッパたちはわらわらと献慈を取り囲むと、口々にわめき立てた。


「ソノきゅうり、オレタチノダ! 勝手ニ盗ルンジャネー!」

「イヤ、元々オレタチ、村カラ盗ンダ物ダロ」

「カッパッパ! ソリャ違ェーネー」

「ソンナコトヨリ、オマエ! ナゼ裸ダ? アヤシイヤツメ!」

「何言ッテル。オレタチモ裸ジャネーカ」

「カッパッパ! コリャマタ一本取ラレタナ!」


(何か喋ってる……ってか、ちょっとリアルすぎてグロい!)


 背丈こそ献慈を下回ってはいるが、人ならざる異様な風体が呼び起こすものは、侮りでも好奇心でもなく、未知への恐怖である。

 身をすくませる惰弱な人間を前に、カッパたちが増長を始めるのは自然な流れだった。


「ソレヨリコイツ、弱ソウダゾ」

「ヒョロヒョロ、ガリガリ、ゼンゼン肉ツイテナイ」

「ソウダナ。胸ナンカぺったんこ――」


 水かきの付いた手が献慈の体に触れようとした矢先、


「お前もぺったんこにしてやろうかぁああァ――――ッ!!」


 天からの雄叫びが河原じゅうにこだました。


「――グェッ」


 打ち下ろされた一太刀が、背後からカッパの脳天を直撃する。足元に突っ伏す被害者のひび割れた皿は、その威力の程を物語っていた。

 高みより颯爽と立ち現れたのは誰あろう、木刀を携えた袴姿の女性――霹靂の騎手、再来である。


「ケガはない?」


 そう問われて、献慈は考えるより先に「はい」と返事をする。


「ならよかった。あとは下がってて」

「わかりまし……(あれ?)」


 言われたとおり岩陰へ退避しながら、献慈は女性との会話が成立していることへの違和感を覚えずにはおれない。

 それどころか、カッパたちの発する言葉さえ聞き取れているのを、はたして気のせいで済ませてよいものか。


「不意打チトハ卑怯ナリ!」

「武士ノ風上ニモ置ケネーナ!」

「ソウダソウダ! 名ヲ名乗レ!」


 浴びせられる罵声に苛立ちをあらわにしつつも、女性は律儀に応じる。


「み……おお曽根そねみおですけど!」

「我々ハ、河童デアル!」

「キュウリ泥棒に改名しなさい!」


 口先での応酬もそこまでだった。先制したのはまたも彼女――澪である。疾風のごとき打ちかかりから返す刀で、あれよという間にカッパ二体を叩き伏せてしまった。


「武器ヲ使ウトハ卑怯ナリ!」

「力士ノ風上ニモ置ケネーナ!」

「ソウダソウダ! 相撲デ勝負シロ!」


 残る三体が性懲りもなく煽り立てる。


「私、お侍でもお相撲さんでもないからぁ!」


 散り散りに逃げ惑うカッパたちを、澪は真っ赤になって追いかけ回す。

 だが水辺においてはカッパたちに地の利がある。川面を踊るように滑走する三体を相手に、澪は早くも翻弄されつつあった。


「んもぉ~! こうなったら――」


 木刀を片手持ちに、頭上へ振り被ろうとする澪。その後ろ姿に、献慈も一旦は気を取られかけた。


(何だろう、あの構え……いや――待て、マズい!)


 注意すべきはそれより手前、先に倒されたカッパの一体が密かに起き上がり、背後から澪に襲いかかろうとしていた。


(どうする……大声で知らせるか? けど……)


 現時点で澪は三体を敵に回している。下手に注意を逸らしては、かえって彼女の身を危険に晒してしまう恐れがある。


(だったら――)


 決断に必要なのは思慮ではない。


(――俺がやるしかない!)


 手に持ったキュウリを、献慈はカッパに向かって投げつける。狙いはわずかに外れたものの、カッパは――おそらく反射的に――自分からキュウリに飛びついていったため、大きな隙ができた。

 献慈はここぞと、落ちていた流木を拾い上げ、両手に構えて突進する。


(夢の中ぐらいカッコつけさせてくれよ――!)


 ここが自覚のある夢、すなわち明晰夢の中であるならば、ある程度思いどおりに振る舞うことは可能なはずだ。


「(鋼鉄神メタルゴッドよ、俺に勇気を――)〈鹿ろっ狼乱ろうらん〉ッ!!」


 意識に浮かび上がる動作を、献慈は寸分違わずトレースする。少し前に観たカンフー映画のワンシーン――華麗なる棍術の連続技を、一撃残らず敵に叩き込んでやった。

 つもりだった。


(すごい! こんなに身軽に動けるなんて! こんなに軽々と……軽く……軽い……?)


 たしかに動きこそ完璧だった。惜しむらくは、初撃の時点であっさり流木が折れ飛んでいたことに、調子に乗った献慈は気づいていなかった。


「……あれっ……」


 虚しき乱舞を終えた時、目の前には黙々とキュウリをかじる無傷のカッパが、じっとりと献慈をねめつけていた。


「食事ノ邪魔ヲスルナー!」

「――ぁご……ッ!」


 カッパの振るった怒りのビンタが下顎にクリーンヒットする。献慈は砂利の上へ無様に転倒した。


(痛い……何これ、マジで痛いんすけど……!)


 頭の先まで突き抜ける生々しい痛みに悶えながら、献慈はかろうじて四つん這いに身を起こす――その体勢が、図らずもカッパに対し致命的な急所を晒しているとも知らずに。


尻子玉デザート、頂クゾ!」

「ふっ……ふぁあああぁ……っ!?」


 怖気立つようなこの感覚を、正確に言い表すことは容易でない。それはまるで、自分が今まで持っていることを気づかずにいた未知の器官へと、これまた未知の物体を出し入れされているかのようであった。


(や……ぉ、嫌だ……こんな、悪夢――)


 献慈の意に反して、四肢の力は抜け、意識は遠のいてゆく――かに思えた。


「――グェエエッ! 不味ゥッ!!」


 挿入されていた何かが引き抜かれる勢いで、献慈の体が横向きに転がる。


(うぅっ……何が……どうなった……?)


 苦しげな様子でフラフラと後ずさりしてゆくカッパの向こうには、ぐったりとしたお仲間たちがあちこちに転がっている。

 その中を堂々と進み来るのは、八相に構えた澪の姿であった。


「弱い者いじめとは――卑怯なり!!」

「アガッ……ギギ……」


 横薙ぎに払われた一太刀が、最後の一体を討ち果たした。


「どうして――」


 澪は、白目を剥いて倒れるカッパには目もくれず、献慈のもとまで走り寄って来る。


「どうして、飛び出して来たりしたの!?」


 覗き込む眼差しに、上ずった声に、どこか悲痛な思いを感じた気がして。


「ごめん……なさい」


 覚えず口にするや、澪の表情と声が和らいだ。


「……ううん、助けようとしてくれたのはわかるよ。でもホラ、私こう見えて結構頑丈だし。少しぐらい殴られたってへっちゃらだから」

「……関係、ない」


 なぜわざわざ言い返したりしたのか、献慈にもわからなかった。


「えっ……?」


 仰ぎ見た彼女の面差しが、強がっているように映ったから――なのか。

 気がつけば、献慈はうわ言のように口走っていた。


「強いとか、弱いとかの……問題じゃない……女の子が、傷つけられるの……黙って見過ごせない」

「…………」


 澪は、驚きとも戸惑いともつかぬ表情を浮かべたまま固まってしまった。

 言いつけに背いただけでは飽き足らず、年上の女性を女の子呼ばわりしたのだ。当然の反応かもしれない。


(あぁ……また俺、間違えたんだな……)


 ケガと疲労と失意とが、献慈から弁解する気力をも奪い去る。

 ふたりの間に流れる沈黙を破ったもの。


「――澪! あぁ、ようやく追いついた」


 林の方角からこちらを呼ばわったのは男性の声だ。地面を伝って足音が、その声が、みるみる近づいてくる。


「いやはや、まさか本当に結界を抜けて……その子は無事なんだな?」

「……え? う、うん。お父さん、早く治療してあげて」


 澪はそう言うと、献慈の頭側へ回り込む。


(……ん?)


 不意に持ち上げられた後頭部が、何か柔らかいものの上に収まった。


(…………んんっ!?)


 逆さに見下ろす澪の顔にたじろぐ間もなく、献慈のすぐ横で男性が朗々と祝詞のりとを詠み上げる。


「つゆばかり くみてよかるや みなもとの ましみづさして つくろわうずる」


 負傷した顎の辺りへ、男性の手が伸びてきた――と思いきや、手のひらが淡い光を帯び始める。

 ひんやりと心地良いような、温かくて安らぐような、何とも神秘的な輝きの中へ、体中の痛みが吸い込まれるように消え去ってゆく。


(魔法……!? あぁ、そうか……これは夢なんだっけ……)

「ケガは大したことはないが、霊気を吸い取られているようだね。無理はせず少し眠ったほうがいい」

「大丈夫。お父さんも私もあなたの味方だから、安心して」


 二人に言われるまでもなく、献慈の疲労は限界に達しようとしていた。魔法の力もどうやら失った体力までは補えぬものらしい。


(夢の中で寝ると、どうなるんだろうな……まぁ……どうでも、いいか……)


 いまだ疑問は山ほどあったが、それらも閉じゆく瞼の向こう側へ、泡沫のごとく溶けてゆく。

 すべては意識下の産物――そう納得しながらも、まどろみの中、鼻先に漂う柑橘の香りは鮮烈に残り続けていた。


(……この匂い……何だったっけ、かな……)




 橘の 匂ふあたりの うたた寝は――。

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