雪の少女

示紫元陽

雪の少女

 少女は飢えておりました。冬の山小屋で独り、母の帰りを待っておりました。外は重い空の下、真白で冷たい雪が轟々とうなりを上げているだけでございます。それでも少女は、もうしばし待てば、きっと母が食べ物を手に戸を叩くだろうと信じておりました。凍える身体を布に潜り込ませ、氷の夜を耐えておりました。

 母が出かけて半時ほど経った頃でしょうか。いくらか風が穏やかになりました。少女は気を張り詰めて瞼が落ちるのを堪えておりましたが、さすがにその頃にはうつらうつらしてきたようでした。そうしてさらに半刻ほど経った時でございます。戸外で物音がしましたので、少女は忽ち目を覚ましました。

「母様。」

 弱々しい声が少女の口から漏れ出しました。少女はここ三日、ほとんど食べ物を口にしておりませんでした。だから、今日こそは何か腹を満たすものを手に入れなければならないという次第でした。

 そういうわけで、少女は母の帰りを知って心の安寧を取り戻しました。独りで暗い小屋にうずくまっていることの、なんと物寂しかったことでしょう。相変わらず空気は冷たく、風が隙間を抜ける音が不気味で堪りませんでしたが、安堵が少女の身体を綻ばせました。

 しかしながら、少女の驚いたことに、聞こえたのは知らぬ男二人の声でした。

「おい、誰かおらぬか。」

「さすがにこの季節、誰もいないか。」

「戸は閉まっている。」

「しかし、このままでは我らが凍え死んでしまう。」

「おい、誰かおらぬか。」と、今度は先よりも語気の強い声でございました。

「致し方ない。こじ開けるか。」

 がたがたと乱暴に戸を動かす音が響きました。途端に少女は恐くなって、押し入れの奥の物陰に隠れました。しばらくすると扉が壊れたようで、風が押し入ってくる音と同時に、無遠慮に板を踏むのが床を伝って感じられました。少女は震えながら声をひそめるのに必死でありました。

「火を熾せそうだ。」

「まだ燻っているのはどういうことだ。」

「まぁ気にしても仕方あるまい。ひとまず助かった。朝までやり過ごそう。」

 どさりと音がしたので、男たちが二人して腰を下ろしたのだろうと少女は思いました。押し入れの戸に小さな穴がございましたので、少女が片目でそれを覗き込んでみますと、囲炉裏の火の横に二つの影が見えました。藍の着物に影が黒く揺れて、床に置いたみのの濡れているのがちりちりと白く輝いておりました。

「狐に化かされているのでなければよいが。」

「その時はこれで始末するまでよ。」

 がちゃりと音を立てて男が手にしたのは、猟銃でありました。

「それでは小屋が消えてしまう。」

「化かされているのなら同じことではないか。同じなら、最後に一泡吹かせんと気が済まん。」

 少女は息を呑みました。黒光りした筒は重そうで、もし男たちに見つかれば一巻の終わりであると、少女は身を縮めるほどに恐れました。

 この時少女は、恐怖から無意識に身を引くような動きをしたのですが、これがいけませんでした。床を軋ませるという過ちを犯してしまったのでございます。若い方の男が気づきました。

「今、何か聞こえなかったか。」

「いいや何も。」

「あっちの隅の方。」

 男が押し入れの方を見たので、少女は男と眼が合ったように思われました。落ち込んだ眼の奥にある瞳が光を吸いこむように黒くて、一度そこに己の姿が映れば、もはや逃れることなど不可能だと思われました。まるでかの銃口を鼻の先に向けられているような気分でありました。

「鼠か何かではないのか。」

「獣ならとっ捕まえて飯にできるぞ。」

「鼠なら食いたくはないがな。」

 男は提灯を取り出して火を点けると、猟銃を手にし、もう一人と話しながらゆっくりと押し入れの方へと近づいてきました。無精髭の多いのが影に浮かんで、それが判然とするほどに近づくと、少女はいっそう戦慄しました。瞬きをすることなど、とっくに忘れたようでございます。少女は夢だと信じようともしましたが、ひたひたと近づく足音が、穴の向こうの世界を現実にするのであります。とうとう男の手が伸びました。少女は目を瞑りました。

何方どなたでございますか。」

 戸口から聞こえた女の声に、男の手は止まりました。つらいほどに冷たい声でございました。提灯を持った男は振り返って押し入れに背を向けたので、穴の先が真暗になってしまいました。それでも先の冷たい声は、間違いなく少女の母でありました。

「これは失礼した。雪で道を失ってしまい、仕方なく上がらせてもらった次第で。」と、囲炉裏の傍に坐したままの男が飄々と言いました。

「それはそれは、難儀ございましたでしょう。何もないところでございますが、どうぞごゆっくりなさってくださいまし。」

 戸を閉じましたので、雪のすさんでいたのが些か静かになりました。女が囲炉裏に近寄ると、その肌がいやに白いのが男の目に映りました。まるで雪のようでございます。袖から除く手が炉にかざされると、血の気のない爪が焔の色を吸い込んでおりました。

「ところで、ここらで十ほどの女子おなごを見たことはないか。」

 男が訊いた途端、女の眼がぎょろりと男を舐めました。

「いえ、なにぶん雪が深うございますし。そのように独りでいる子は見たことがございません」

「一人でないなら見たことがあると。」

「そうでございますね。数年前でしょうか。ちょうど貴方様のような方が、幼子を雪に埋めているのを見た気もございます。」

 女の声が静かに怒気を帯びたので、男は無意識に猟銃に手を添えました。

 その幼子はある姫のお子でございました。姫は殿の寵愛を受け、皆から愛情を注がれた子は、甘美な世で穏やかに育てられておりました。しかしながら、別の女がこれをねたんで、臣にその子を消すよう命じたのでございます。臣は子を攫い、山へ入り、子を大木の傍の雪に埋めました。城ではそれは大事の騒ぎになりましたが、とうとう姫の子は見つかりませんでした。

 その最中、臣はどうにも気が落ち着かないので、翌朝また逃げるように山に入り、子を埋めた場所を覗いてみました。すると、樹の根本の雪がすっかり掘り起こされているではありませんか。臣は肝を冷やす思いで山を駆け回りましたが、見つかるわけもなく、畢竟行方しれずとなったのでございます。

 その臣がこの男でございました。偶然同じ山に入ったため、当時の記憶が脳裏に浮かんで、先のような問いを女にしたのでありました。

 少女は驚きました。己の境遇がそのような珍事であったことはもとより、母が偽りであったことに心底仰天いたしました。穴の先にいる者すべてが嘘のように感じられました。

「そうか、お主が。」と男が擦れ声で言うと、

「貴方様には仁というものがなかったのでございますか。」

 女は手元から刃物を繰り出して男の喉元に突き付けました。男は慌てて猟銃を掴みましたが、為す術はありませんでした。次の瞬間には男の首は切り裂かれ、血が床に滴りました。男はひゅうという音を発して、どさりと横たわりました。

 それから女は痙攣した男の脚を掴んで、小屋の外へと非情に放りだしました。見る間に雪が積もって、男の肌からは血の気が失せてしまいました。また吹雪いてきたようで、鈍い白に滲む赤が妙に鮮やかでありました。

 若い男は腰を抜かしておりましたが、その赤を見ると目前の光景が本物であることをしかと認識しました。恐ろしさが男の背を冷たく伝って、まるで己が雪の中に放り出されたような気分でありました。女が振り返ろうとすると尚更恐ろしさが募りましたので、男は気が狂ったように銃を向けて引き鉄を引きました。穴は相変わらず男の背で黒うございましたので、少女の眼には何も見えません。

 どん、という音の後、雪が冷たくしーんと鳴ったようでありました。

 男は雪の中に飛び出し逃げました。

 辺りが静かになったので、少女は恐る恐る戸を開けました。眼前に倒れた母はまだ温かかったですが、吹き込む風が周囲を底冷えにしていきます。少女は悲しみにくれました。

 おもむろに少女を旋風つむじが取り囲みました。すると立ち所に雪が舞いました。それからはあっという間でございます。気づけば少女は、自らの創り上げた八寒の地獄に立っておりました。


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