標本
猫の飼い主はすぐに現れなかった。こんな高級そうな猫を飼っているくらいだから、連絡もつかないほど忙しい人に違いない。警察からの連絡がつかないほどっていうのは、ちょっと引っかかるけれど。
わたしは飼い主が現れるまでの間、猫と一緒に住むことにした。それに、一人でこの街にいるのは寂しかった。
窓辺がお気に入りになった黒猫と、夜の街を眺めるのが毎日の楽しみだった。
夜闇の中の灯りはぽつぽつ、街の中心はほのかに輝きが見えるけれど、昼間よりも遠く思えた。街には街を維持できるだけの人数が住んでいる。だけれど、あまりに人恋しくなる。人の気配がしない街だね、夜墨。
黒猫は温かく、鼓動を感じているとほっとした。真夏に長毛の猫を抱えて、手が汗で毛だらけになることにさえ、わたしは生きているのだと感じた。
黒猫を抱いて眠ったある夜、聞いたことのない甲高い音を聞いた。飛び起きてみて、目の前の暗さに身体が固まる。音は続いている。手探りでバイザーを身につけると、ブザーだったことがわかった。
停電だ。
そうわかると、窓を打つ雨音が重たく、鋭く、大きく感じる。
窓の向こうは真っ黒だ。これは窓じゃなくてくろい壁なんじゃないかって位に。
この中に、行くの?
まだ腕の中にいた黒猫を抱き寄せる。あたたかい。どっ、どっ、どっ。これはわたしの鼓動だ。
バイザーには緊急の連絡が表示されている。研修生までも借り出すほど急を要するということ。それほどの停電。
でも、行かなきゃ。
バイザーの灯りを頼りにして外に出た。進んでも進んでも暗いばかりでなにも見えない。でも、暗いのは前だけで、通ってきた道はわかるはず。振り返ると、前と同じ暗闇だった。思わず肩が縮む。
すると、胸がもじゃもじゃした。黒猫を抱きかかえたままだった。
あったかい。
バイザーの横ボタンを押す。カチカチカチ。指がかじかんでうまく押せない。バイザーの画面が全然切り替わらなかった。雨のせいで指が滑っているんだ。雨粒が冷たい。風も強く唸っている。どこかでなにかがばたばたはためく音がする。どんどん大きくなる。飛んできたらやだな。はやくはやく。カチカチカチカチカチカチカチカチ。
やっとバイザーの表示が変わった。位置情報が出る地図を表示する。ナビモードは今はどうしても繋がらなかった。こんなことある?
目前いっぱいに地図を表示して、バイザーの向こうの暗闇は無視した。こんなのは背景。画面が見やすくなってラッキー。怖くない、怖くない。
地図をたどって研修所へ着いたときには、他の研修生たちは出発した後だった。わたしを待っていてくれた教官と一緒に、割り振られたエリアを回る。停電の被害を把握するためと、あわよくば原因を探るためだ。
その最後と言って立ち寄ったのが、緑地の中に設置された配電設備だった。他の配電設備よりも大がかりで、太いケーブルが何本も延びていた。どこへ配電しているんだろう。隣には、四角い建物が繋がって並んでいた。
教官、なんの施設ですか。
聞いたんだけど、わたしの視界はばったり傾いて倒れていた。びりりともしなかった。教官は見るからに飛び跳ねてけいれんして、泡を吹いているのに。
感電した。
……。
……。
顔が冷たい。濡れている。べちゃべちゃに。生臭い。視界に陰がさした。雨の緑地の向こう。肌に当たる雨粒の感触が消えた。暑くて、じめじめしていて、磯のにおい。
バイザーがずれる。雨の緑地が遠のいて、ぬっ、視界いっぱいにくろい毛、きいろい眼がくるくるする。
「やっちゃん」
声が掠れる。あれは、今まで見ていたのは、バイザーが再生していた? あんなにリアルで、あんなに、似通った出来事を?
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