第3話 しあわせの唄

 よわい87歳のその老婆は時折思い出したかのようにしあわせそうに唄を唄う。そして手をひらひらさせにこにこしながら舞い踊る。頭には転倒して頭をぶつけてもいいように、赤いヘッドギアをつけながら……


 脳梅毒である。何十年もかけ次第に精神に異常をきたし、年が進むと痴呆を発症する。


 いまは精神病院の閉鎖病棟に入れられている。息子たちの手に負えなくなったからだ。


 それでも実にしあわせそうに唄い、踊る。まるで桃源郷にいるかのように。



「うるせーんだよ、ババア!」


 食事の時間、躁鬱病の男が飯に味噌汁をまぜ汁かけ飯を作り、老婆に近づくと踊っている老婆にやおら頭から汁かけ飯をぶっかける。


 それに気づいた病棟の男性スタッフたちが男を押さえつけ、一人部屋の経過観察室、いわゆる「独房」に強制的にぶちこむ。


 汁をかけられた老婆は女性看護師に風呂場まで連れていかれ、こちらもまた強制的に入浴させられる。



 戦後の混乱期、千代は闇市のかたすみで乳飲み子を背負いながら同じように唄い、ゆるりゆるりと舞い踊り、なけなしの駄賃をザルに入れてもらって、生計を立てていた。


 もちろん夜には、その17歳の幼い体を男たちに高く売った。復員兵たちがこぞって逢い引き小屋に千代を連れていき、至福の時を味わった。常に数人待ちで千代は次第に財をなしていき、16歳の時親に言いつけられ結婚した夫をひたすら待っていた。


 商才などあろうはずがない千代はその身を売ることしか、生きるすべがなかった。


 数年たっても、夫は結局帰って来なかった。しかし千代は乳飲み子を育て上げるという喜びの日々をすごしたのだ。一生の輝く宝になった。


 今日も、千代は当時の流行り唄を唄いながらゆるりゆるりと舞い踊る。


「うるせーんじゃあ!」


 男に汁かけ飯を頭からぶちかけられても、にこにこしながら、舞い踊る。


 なぜなら千代は今、しあわせのただなかにいるのだから。

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