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 はっきり言って全員から嫌われているといってもいい中年の英語教師ニコラス・シルヴェストルの陰険なブルーグレーの目が、生贄いけにえを求めてハゲタカみたいに教室を眺め回す。

 ホワイトボードには俺が読んだことも聞いたこともないセリフがいくつか書かれている。

 やつのお気に入りはそれこそカビが生えたみたいなシェイクスピアの『ハムレット』で、文学だけじゃなくて人生の――ええと、なんだっけ、叡知えいち、だったか、そんなものが全部含まれていると言ってはばからなかった。クリスに言わせれば、それは彼の“聖典バイブル”だよ、ってことになるんだろうが。

警句アフォリズムを学ぶ意義はなんだと思う、ミス・エーデルスタイン?」

 選ばれたかわいそうな仔羊は、俺の隣に座っていた女子だった。

 誰かが――“イケてる”女子のグループがくすくす笑うのが聞こえた。べつに俺の耳じゃなくても聞こえる大きさで。

 類は友を呼ぶ同じ羽の鳥は集まるじゃないが、学校には大体四つのグループがある。

 ひとつはいわゆるリア充ジョックスで、体育会系のトップクラスの選手プレイヤー集団だったり、ミスコンで優勝するレベルの女子がそれ。ふたつ目はそいつらの取り巻きサイドキックス。三つ目がオタクギークコミュ障ナードで、最後が不良バッドボーイズ/ガールズ。この四集団は、生息地は同じでも活動時間が違うせいでめったに出くわさない動物みたいに、お互いに交わることがほとんどない。

 ――俺? 俺はどこにも所属していない。

 イケてるかどうかはともかく、家柄もいいジョックスと俺とは世界が違うし、かといわれたら、根本的な意味で人間じゃない。スター・ウォーズとかマーベルとかハッキングとか、オタクといえるほど熱中してるものもない。一匹狼だねってうらやましそうに言うやつがいたけど……狼の世界じゃ一匹狼ってのは誉め言葉じゃない。群れに相手にしてもらえないやつなんだから。

 ただ、俺はオタクギークの連中からはなぜか四つ目のグループの仲間だと思われることが多くて、たまに話しかけるたびに毎回ビビられていた。目つきと態度のせいか?

 メル(フルネームはメリンだかメリルなんとかっていうらしいんだが、長ったらしいので縮めてこう呼ばれていた)・エーデルスタインは彼女たちとは真逆の女の子だった。

 茶色い癖っ毛をいつもふたつに分けて結び、メガネは輪郭からちょっとはみ出している。小柄で、おとなしい服装をしているせいか、リスみたいに見える。自分から手を上げることはまったくと言っていいほどなかったし、当てられたら最後、顔を赤くしてうつむいて、教師がしびれをきらして解放するまで黙っているか、ほとんど聞き取れないくらいの声でひと言ふた言答えるだけだったからだ。

 今回もそうなるんだろうと俺は思ったが、

「じっ……人生を……豊かにする、ためだと思います」

 つっかえながらも彼女はまあ聞き取れる声で答えた。

「ふむ」

 教師はその答えに満足したみたいだった。

「人生だってェ」くすくす笑いの中に馬鹿にするような響きが混じった。

「……違うね、無知な男子高校生をからかって遊ぶためだよ」

 メルが俺の顔を見て目を丸くした。

「いるんだよ、俺の知り合いに、そういうジジイが」

「ミスター・ラッセル」冷やかな声が飛んだ。

「立って」

 しかたなく、俺は立ち上がった。

「前年度の君のテストの点数はまさに刮目すべきものだったよ。この調子では次の進級は……“幸いなるかな、期待を抱かぬ者、その人は失望することなし”――この原典となったのは?」

 メルがおびえたように教師と俺を交互に見上げた。自分としゃべっていたから俺が立たされたと思ったんだろう。

 答えの見当もつかないし俺の成績が悪いのも事実だから早めに降参ギブアップしようと思ったとき、小さな紙切れが差し出された。

「山上の垂訓……『マタイ伝』です」

「……そうだ」シェイクスピア信奉者の英語教師はいまいましそうにつぶやいた。

「……ああそうか、君はマクファーソン神父のところにいるんだったね?」

 俺はうなずいた。こいつ、俺の授業態度についてクリスにネチネチ文句を垂れるつもりじゃないだろうな。

 それから授業が終わるまでのあいだ、俺は借りてきた猫みたいにおとなしくしていた。

「さっきはありがとな。助かったよ」

 次のクラスが一緒とわかって、俺はメルに声をかけた。彼女はノートをちぎって答えを教えてくれたのだ。

「そんな……たいしたことじゃ……」

 やっぱり蚊の鳴くような声だった。

「俺なんて、クリス――マクファーソン神父が教会で説教するときに寝てるんだもん。答えられなくてマジ焦ったよ」

「……ほんとに?」

 クリスの名前を出したとたん、メルはメガネの奥の紅茶色の眼をきらきらさせて笑った。……なあんだ、ビンゴかよ。

「信じられない。神父さんはわたしの名前を、古代ギリシャの女神からとったんですねって言ってくれたくらい教養があるのに、もったいない」

「へえ、そうなの? なんて名前?」

「メ……メリンディア」

「聞いたことないなあ。あ、いや、俺が知らないだけだと思うけど」

「ううん、いいの。みんなそう言うから。両親が古代史の研究者で、そこからとったの」

 一対一で話してみると、メルは全然ふつうにしゃべれる女の子だった。しかも俺の二コ下で、英語と歴史と科学のクラスで飛び級してるってことも。

 うーん、道理でクリスと話が合うはずだぜ。

 と俺が言うと、メルは真っ赤になって首をふった。

「は、話が合うなんて、わたしそんな……。神父さんとお話したのだって、たまたま……図書室で本をひっくり返しちゃったのを拾うのを手伝ったときだけで……」

「クリスがひっくり返したの? あんたじゃなくて?」

「うん。一番上の棚に本を戻そうとして、反対側の本を全部落としちゃったの。誰かが機関銃でも撃ったんじゃないかってくらい大きな音がして、神父さんすごくあわてて、みんなに謝ってたから……」

 いい子だなあ。

「あのさ」俺は思いきって聞いてみた。

「迷惑じゃなかったら、勉強教えてもらえないかな。俺、最近まで休みがちだったから、全然追いつけてないんだよね。だから、シルヴェストルの野郎に目のかたきにされてんだよ。クリスに教えてもらうってのも……ああみえて教会の仕事も忙しいからさ。――あ、もちろん、ダメならダメでいいんだけど」

 メルは黙ってうつむいてしまった。

 やっべえ、ほとんど話したこともないのに強引すぎたかと思いはじめたとき、

「……わ、わたしにできることなら……」

「すっげえ有難いよ、マジで! 明日からといわず今日からでもよろしくな!」

 俺は思わずメルの両手を取って上下に振ってしまい、彼女をコチコチに固めてしまった。

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