[3]
〈半年前〉
ビショップは《軍師》の暗殺を命じた上官を基地の入口まで送り出した。しばらく前から隣の桜がただならぬ音を立てていた。庭に出たネイサンが桜の木を竹竿で殴りつけているらしい。上官は隣のブロック塀にちらりと眼をやる。
「変わった人がいるな」
ビショップはそれには答えなかった。上官もそれ以上は何も言わなかった。上官を乗せた車が走り去った後、ビショップはあらためて基地を出て駐在所に向かった。
ビショップは無意識にうめいた。いい加減にしてくれ。
ネイサンは竹竿を1本振りかざして、桜の枝を殴り続けていた。若葉で埋まった枝がバサバサ音を立てて鳴った。この近くに住んでいる人間が少ないからいいものの、誰かに見られたら大騒ぎになるだろう。異様な光景だった。黒々と広がった樹影がネイサンの頭上に覆いかぶさり、振り回された竹が虚しく黒い闇を切っていた。叩き落とされた葉が降ってくる。何か追い払おうとしているのだろう。
「ネイサン」
ビショップは声をかけた。ネイサンの背後に近づいて竹竿を掴んだ。
「ネイサン、止めなさい・・・!」
「コウモリがいる・・・!」
肩で息をついている。瞳孔の開いた碧眼を震わせてネイサンは叫んだ。開いた口の端から涎が滴った。
「コウモリの群れが・・・」
桜の黒い樹影はビショップと静まっている。風も無かった。コウモリはもちろんスズメの姿も無かった。月が皓々と照っているだけだ。
「コウモリなんかいやしません」ビショップは怒鳴った。
「空が砕けていく。ほら・・・空が・・・」
ネイサンは何か口走っていた。だが、声は小さくよく聞き取れなかった。ビショップは竹竿をその場に捨てる。地べたに屈み込もうとする男を抱き起して激しく揺すった。
「しっかりしなさい!ぼくはアンタに告白を聞いてもらいたいんだ。ぼくには告解が必要なんだ。これじゃ話なんかできないじゃないか」
自分の頭に火が付いている。ビショップはそう思った。
「しっかりしてくれ!何とかしてくれ!」
告白しなければならないことが山ほどある。この十数年、黙りに黙ってきたことがもう爆発しそうになっている。何も言い残さずに逝った大勢の戦友たち。長い間疎遠にしていた兄に慕い、どこかに連れ去られた妹。まだある。殺された両親のこと。レイラのこと。自分は教会に通っても改心も反省も更生もしなかった。そのツケが回ってきている。助けてくれ。聞いてくれ。
ビショップは呻きながら、ネイサンを引きずった。ネイサンの脚に平衡感覚が無かった。手を放すと、頭が自然に下を向いた。足が止まり、そのまま転倒するのを待っているだけだった。ビショップはネイサンを駐在所の居間に運び、とりあえずソファに座らせた。虚しく息が切れた。
「どうにかしてくれ・・・」
自分が身体を引きずったり揺すったりしたせいで、ネイサンのパジャマはボタンがちぎれて乱れていた。ビショップは泣きたい気分だった。残っているボタンをかけ直し、服の乱れを直してやった。
「どうにかしてくれ・・・」
ネイサンの眼は開いたままだった。その眼に正常な生気はなかった。深い眼窩に窓から漏れる月光が差す。その眼がギラリと光って笑い出した。喉の奥からくつくつと湧き出す笑い声が不意に意味不明の音韻を連ねた歌になり、叫び声が誰もいない家に響いた。
ビショップは重い頭を抱えてしばらく立ち尽くした。気の触れた男を気遣う余裕は今の自分には無かったが、迷った末にとりあえずどこかに報せなければと思った。居間にあるデスクの上や抽斗を開ける。ビショップはしばらく部屋を探し回った。ようやく見つけた住所録から通信社の電話番号を探し出して電話をかけた。
ネイサンはじっと窓の外にたれかかる藤棚の花を見つめていた。清々とした顔の片隅に藤の紫色がかすかな影を落としている。その顔は人間を離れた1人の男の物だった。年齢の割に厳しく老けた口許に皺が1本あった。
午前0時近い時刻に、年配の白人が車でやって来た。白人はペリエと名乗った。ペリエが何度か名前を呼びかけたが、ネイサンは何も聞こえない様子だった。石のようにソファに座って窓の外を眺め続けている。ペリエはそばで付き添っていたビショップに繰り返し礼を言った後、車にネイサンを乗せてどこかに去っていった。
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