春遠からじ


 息を吐く音に驚き、優夜は顔を上げた。自分の呼吸音に驚くほど集中し、夢中だった。息を吸う。息を吐く。

 首を回す最中に見えた時計が十二時を示していた。同じ場所で作業していた和泉の姿は見えず、休憩に行ったのだろうと推測する。優夜の腹の虫も騒ぎ始めており、集中力が切れたのもその所為だ。近くに置いていたコンビニの袋からメロンパンを取り出した。


 アトリエを出て、中二階へ続く階段に座る。パンにかぶりつく。


「オウちゃん、またパン食べてるのかい」


 メディア関連の仕事があったのかこれからあるのか、スーツを着た火霜が杖をつきながら通りかかった。優夜は顔を上げる。口をもぐもぐさせながら。


「牛丼食べたいんだけど、金なくて」

「また財布忘れた?」

「ううん、貯金が底をつきそうです」


 何とも言えない表情をする火霜に、優夜は楽しそうに笑った。


「冗談ですよ。やだなあ、本気にしないで」

「それ、カマちゃんに言ったらビンタされるよ。やめときなね」

「金がないから絵を描くって、芸術家っぽいですけどね。確かに、言ったらはっ倒されそう」


 想像して笑う優夜が片膝を抱く。


「そういえば先生のアレ、すごかったです。あの展覧会の最後の」

「ああ、それはありがとう」

「嫉妬して、その後知り合いの高校生に八つ当たりしました。最低だったな」

「その子とは疎遠になったの?」


 火霜の質問に、首を振る。当たり前のように。


「じゃあ良い関係なんだね。君が八つ当たりできて、八つ当たりを受けてくれる優しい子だ」

「まあ、確かにそうかも。鎌崎と同じくらい」


 納得しかけていると、コツコツと太いヒールの音が聞こえた。その足音だけで誰だか分かるので、付き合いは長いなと感じる。

 火霜は足音のする方向を見て、小さく手を挙げた。階段に座る優夜からはその姿は見えない。

 噂をすればなんとやら。


「火霜先生、ご無沙汰してます。優夜知りません?」

「久しぶり、カマちゃん」

「久しぶり、鎌崎正悟しょうご


 ひょこ、と階段の方から顔を見せる優夜に鎌崎は鬼の形相。何をしたというのか、と優夜は顔を引っ込める。


「なんでフルネーム……電話したんだけど!」

「あー、携帯どこだっけ」

「もう。引越し先の審査おりたのと、朝臣くん、合格したって」

「それは良かった。おめでとう」


 両方に対する賞賛。食べ終えたメロンパンの袋を器用に畳み、優夜は立ち上がる。


「って伝えといて」

「自分で言いなさいよ」

「携帯どっか行った」

「優夜、もう朝臣くんに会わないつもりなの?」


 答えない。沈黙は、肯定だ。


「逃げるんだ」


 あ?

 優夜が振り向けば、鎌崎は目を細めていた。くしゃりと手の中の袋が握り潰される。


「このまま何も言わずに引っ越すつもりでしょう」

「だとしたら何だよ」

「そんなことしたら、傷つくわよ」

「知らない」

「優夜が傷つくの」


 断言され、優夜の頬がぴくりと痙攣する。鎌崎はそれを見て少し怯んだ。

 吠えようとした優夜を止めたのは、杖だった。目の前に現れた火霜の杖に、ぐっと言葉を飲み込む。


「そこで終了。喧嘩は禁止。あと大きい声も」

「……すみません」

「鎌崎が売ってきた喧嘩だ。わたしには買う権利がある」

「買ったらオウちゃんを追い出すよ、ここから」


 それを言われたらぐうの音も出ない。優夜は口を噤み、小さく息を吐いた。


「賞取れたら行く」

「……分かったわ。さっき、途中の見たけど」


 鎌崎が作業場の方を示して言う。自然と優夜の視線もそちらに向かい、脳裏に描きかけの絵が浮かぶ。

 スケッチブックの模写を見たときはあんなに腹が立ったのに、今はそうでもない。きっと優夜を探しに入ったが、誰も居なかったのだろう。


「ねえ、あれは誰?」


 尋ねられ、考える。


「鎌崎」

「え?」

「朝臣でもある」

「……あたしは優夜だと思ってた」

「そう見えたなら幸い」


 呆けた顔の鎌崎を置いて、優夜は肩を竦めて歩き出す。エネルギーを摂取して、吉報も入ったので再開しよう。


「賞取れなかったら格好悪いからね!」

「なんでそう水差すようなことを言うんだよ」

「あとわざと取らないも無しだから!」

「賞金狙うに決まってるだろ」


 背中から聞こえる声に返した。鎌崎は追っては来ず、優夜は作業場へと戻った。

 腕を大きく回す。描きかけの龍と対面する。


「……お前は、誰なんだ」


 一人で問うた。

 鎌崎で、朝臣で、優夜で。死んでしまった誰かで、これから生まれてくる誰かで。

 会いたいと思った。

 描き終えたら、会いにいこう。




 合格発表が出てからあっという間に季節は変わり、卒業式へ。あの寒かった日々から解き放たれたように桜の蕾は膨らみ、綻んだ。八分咲きの桜の木の下で、卒業生の女子たちが並んで写真を撮っている。

 昇降口の影からそれを眩しく見ていた。


「今、付き合ってる人とか……」

「いや、いないけど」

「じゃあ、お試しとかでも良いので!」


 全然話したこともない二年の女子に呼び止められてここまで来た朝臣は、卒業式にお誂向きである告白をされた。

 栽培委員で花壇に水をやっている姿を見ていたというバレー部の女子。挨拶のひとつも交わしたことが無いので、朝臣の記憶にはやはり無かった。

 ふわりと桜の花びらが舞い込む。


「好きな人がいるんだ。ごめん」

「そうですか……ありがとうございました。卒業、おめでとうございます」


 笑ってから、彼女は泣いていた。

 朝臣は昇降口から出てぼんやりしていると、後ろから首に腕がかかる。今回はつんのめることは無かった。


「染川確保ー!」

「何だ急に」

「向こうで他クラスの女子たちが一緒に写真撮ろうってさ!」


 白木が言うまま、連れて行かれる。待つ方に高梨が居り、苦笑していた。

 そのまま他クラスの女子や男子と写真を撮った。


「モテ男、どうですか今の気持ちは」

「白木、ボタン残ってるけど」

「これはブレザーだから! 学ランだったら取り合いが起きてるから!」

「冗談抜きにして、結構可愛かったけど。ふった?」

「まあ受けてたら今一人じゃない」


 乾いた朝臣の笑いに、白木が手を胸に当てる。


「俺より先にリア充になろうなんて百年早い。高梨も!」

「よし、染川そっちの袖持て。白木の袖を引きちぎって売ろう」

「金になるのか……?」

「やめろよ! 金にはならねーよ!」


 ぐるぐると高梨と白木が朝臣の周りを追いかけまわった。


「そこの男子! 集合写真撮るから!」


 香波が目を細めてこちらに声をかける。クラスの集合場所を見ると、殆ど集まっていた。慌てて三人でそこへ向かう。

 輪の中心の熱血担任は泣いていた。漢泣きじゃん、と誰かが笑い、それが広まる。朝臣はきょとんとそれを見ていた。

 大人も泣くのだ。

 優夜も泣いていた。今は何をしているのだろう。絵を描いているのだろうか。いつの間にか引っ越し作業は終わっており、部屋に荷物は無かった。



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