春爛漫
立ちはだかるのはいつも白い壁だ。
ソファーだと分かりながら、
「痛い……」
天井は白く、それを見上げる。いつの間にかソファーで眠っていたらしい。無意識に消したのだろうテレビだけが静かだった。
起き上がってぼんやりしていると、ひび割れた音のチャイムが鳴った。少し顔を顰めて優夜はインターホンを見る。しかしそこにモニターは無く、子機を取ろうとしないので、見るだけとなった。
やがて、玄関の鍵がガチャリと開く音。
「……いるなら、出てくださいよ」
玄関から続く廊下とリビングを隔てる扉は開いており、現れた姿がすぐに見えた。
近所の高校の制服を纏った
「居なくても入っただろ」
「
「え、気付かなかった」
ザっと無情にもカーテンが開けられる。二人して目を細めて外の光を浴びる。さすが東向きの部屋だ。朝臣はカーテンを束ねて、窓も開けた。ふわりと春の香りが入り込んだ。
近くで咲いている桜の花びらが舞ってベランダにいくつか落ちている。昨夜の雨で排水の溝へと溜まっているのもある。花びらが落ちているだけなのに、綺麗だ。
一方、優夜は未だ光に慣れない目を細めながら立ち上がり、リビングよりは暗いキッチンへと逃げ込んだ。同時に鳴ったバイブ音に驚き、食器棚に放置された携帯を見る。液晶画面に表示された名前は、鎌崎。取るかどうか考えあぐねたが、どうせ取るまでかかってくるのだと思い直した。
「はい」
『ちょっと優夜! 生きてるの?』
「生きてる、さっき起きた」
一部始終を見ていた朝臣はキッチンから出た優夜と入れ違いに入り、ケトルに水を入れてスイッチを押し、食器棚からマグカップを二つ用意した。それから殆ど何も入っていない冷蔵庫からインスタントコーヒーを取り出す。勝手知ったる優夜のキッチン。
「わかった、ああ、うん……」
リビングにて通話は切れた。振り向けば、朝臣がコーヒーを淹れている。
「どうぞ」
「ありがとう」
優夜がブラックコーヒーを好むのは、コーヒーに入れるものを買い足しておくのが面倒だからだ。また、それが無いことによるストレスを回避する為。
家主に倣って、朝臣も黒い液体に口をつけた。
「これから学校?」
制服に目をやる。この前までは春休みだったので、制服姿を見るのは二週間ぶりだった。
「はい、今日は健康診断だけなんで」
健康診断だけの日があるのか、と優夜は眉間に皺を寄せて頷いた。寝起きの頭にコーヒーが染み渡る。
今年、朝臣は高校三年に進級した。始業式の翌日は健康診断だけで、それも番号順なので中途半端な時間に登校になる。時間を持て余していると、鎌崎から『優夜と連絡がつかない。時間があったら顔を見に行ってほしい』というメッセージを受け取り、そのまま優夜の部屋へ訪れたのだった。
「朝臣、何年になったんだっけ」
マグカップを置いて優夜は尋ねる。
「三年になりました」
「クラスとか、変わったの」
「はい。担任も」
少し憂鬱な気持ちでいるのを見破られたような気がして、朝臣は苦笑しながら答えた。
「どんな?」
朝臣は顎を指で触れる。どんな、と言われると。
「……熱血、ですかね」
は、と優夜は声を漏らす。失笑したのだ。
「熱血担任、それはまた。去年の美術担任は?」
「隣のクラス担任になりました。熱血担任は世界史担当です」
「世界史……文系だっけ」
尋ねられ、朝臣は頷いた。文系国公立大志望で去年から進路調査の用紙は提出している。へえ、と優夜は理解した顔を見せて、窓の外を見た。
「進級、おめでとう」
桜の花びらが舞っている。
春が迎えにきていた。
蜂永優夜は画家である。
いや、画家だった。それを過去形にするかどうかは、他人任せになるのかもしれない。しかし、鎌崎の中で優夜は画家だ。
では、画家の定義とは何か。
鎌崎は繋がらない電話を切り、ひび割れた音のチャイムを鳴らした。返事はなく、鍵を挿し込んだ。
優夜は現在、画を描いていない。現在だけでなく、ここ二年描いていない。それを他人は何と呼ぶのか。鋭意制作中、活動休止、スランプ。
玄関の扉を開き、暗い廊下の先を見た。明るいリビングにテレビの音。それをずかずかと進み、リビングの扉を開けた。
びくり、とその音に起き上がった優夜がソファーから落ちそうになる。ギリギリのところで止まり、鎌崎を見上げる。目が合い、数秒。
「なんで電話に出ないのよ!」
ヒステリックに怒鳴る。
「え、なに、いきてるよ」
寝起きで呂律の回らない口調。
「あんたの生存確認なんてどうでも良いのよ。今日、何の日か言ったでしょう!?」
「なんだよ、何かの記念日?」
「
上体を起こし、壁にかかったカレンダーを見た。鎌崎の緩慢な動きを待ってはいられず、寝室のクローゼットを開け放ち、一枚のドレスをピックアップする。リビングに戻れば漸く優夜が立ったところだった。
「これ着て! これ持って! あと五分で家出るからね。光より速く着替えて」
ドレスを押し付け、鎌崎がリビングを出ていく。光より速く優夜が動けるはずもなく、約五分後に部屋を出た。
下で鎌崎の運転する車の助手席に乗り込む。微かに油絵の匂いがした。搬入を終えた後なのだろう。
「会場近くのサロンに予約取っておいて良かった……。そこでメイクとヘアセットして、開場には間に合う」
「あ、携帯忘れた」
思い出したような声に鎌崎が目を細めてちらりと優夜を見た。信号が赤になったところだった。
両手を挙げてみせる。
「わざとじゃない」
「持ってきたわよ、ベッドの上に置きっぱなしだった」
「さすが鎌崎」
スーツのポケットからそれを出して優夜に渡す。手にしたからといって操作する必要もないのだが。受け取り、一緒に持たされたパーティーバッグへとしまう。
「鎌崎もドレス着れば良いのに」
「あたしは着たい時に着るから良いの」
優夜は肩を竦めてそれを横目に、前の信号が変わるのを見た。
会場に着くと、その明るさに優夜は目を細めた。この前、朝臣が来てカーテンを開けた日を思い出す。煌めくシャンデリア。会場の奥に本日の主役、火霜が居り、その周りに人だかりが出来ているのが見えた。
鎌崎はそれから目を逸らした優夜の腕を掴み、その人だかりへと進む。皆、挨拶に列を作っているのだ。
そして、ここは狩場。
参加する体をとり、交友関係を広げる。あわよくば次に売れそうな人間の連絡先を掴み取る。鎌崎はそれを狙っている。
腕を掴まれ、嫌そうに面倒くさそうに明後日の方向へと顔を向けて遠い目をしている優夜はそんな気持ちは毛頭ない。出来るのならば人混みを避けて生きていきたいし、そうでなければあんな長閑な場所には住まない。
しかし、これでも昔は借りてきた猫のように静かで愛想の良い笑顔を浮かべていた時期もあったのだ。鎌崎はそれを知っているので、出来ないとは言わせないが、したくないと言えばそれは、覆すことは出来ない。
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