第1話(先発:上坂涼)

 マッコウクジラが哺乳類だと知ったのは、田賀村が高校一年生の頃だった。

 これまで魚だと思っていたものが、まさかの哺乳類だと知ったその時。ぎゅっと絞った雑巾のように性格がねじれている田賀村は思った。

 マッコウクジラは誰がどう見たって魚だろ。哺乳類なわけがねえんだ。

 彼はマッコウクジラが魚類であることを証明するために海洋生物学者を志すことにした。

 苦学の末、栄海大学の生物学部海洋生物学科に入学して早二年。学べば学ぶほど、マッコウクジラが哺乳類であることを思い知らされる日々にすっかり参ってしまい、不登校になりかけていた。

 田賀村は今日も今日とて万年床の上で仰向けになっていて、両目をぎゅっとつむりつつ両腕を組んでいた。うんうんとうなり、退学するか否かを自問自答しているのだ。

 と、そこでアラームが鳴る。三分が経過した合図である。

 田賀村、パチリと開眼。がばりと上半身を起こして、向かいの座卓の上に置かれたカップラーメンの蓋を持ち上げた。かぐわしい湯気が鼻孔へ侵入してきて、思わず「うーん」と顔を左右に振ってしまう。

「おっと。たまごたまご」

 いざ台所脇の冷蔵庫へ向かわんとして、膝を立てようとした瞬間。

「うおっ!?」

 座卓の下部に勢い余った膝が振り子の如く直撃! 哀れ、万全な状態に仕上がっていたカップラーメンがバナナでつるんと滑ったかのように頭から卓上に倒れ込んでいく。五感が研ぎ澄まされ、スローモーションになっていく視界の中、田賀村は早々に諦めて額に片手を向かわせた。

 俺の人生、マッコウクジラのせいでドン底だ。

 などと脳内で人生の失敗をマッコウクジラに責任転嫁し始めたところで、仰向けに倒れこんでいくカップラーメンがピタリと動きを止めた。

 ぽかんとする田賀村。そんな田賀村を無感情な面持ちで見上げる着物姿の子供が一人。カップラーメンが間一髪のところで倒れずにいるのは、この子供が縁の部分を片手でつまんで支えているからであった。

「き、奇跡だ」

 田賀村は奇跡の状態を保っているカップラーメンを写真に収めるべく、スマホを掲げた。ほんのコンマ数秒の間に結局踏ん張りきれず、今にも倒れて中身をぶちまけてしまうかもしれないというのに。田賀村はそういう男だった。未来の結果など眼中になく、目先の栄光しか興味がない。

「おおっと!?」

 興奮のあまり手元が狂ってしまい、手の上からスマホが滑り落ちる。到着駅はカップラーメンの蓋の上。

「ノオオオオオオッ!」

 着物姿の少年も驚きを露わにして、口をあんぐりと開ける。

 液体が弾ける音が鳴るのと同時に、カップラーメンが仰向けに倒れ込んで中身が飛び散った。容器の中から半分顔を出しているスマホの照明が、息を引き取るかのようにプツリと落ちる。飛び散った具材とつゆがスマホから流れ出ているように見えるこの光景は、まるで凄惨な殺人現場のようだった。


 大型ショッピングセンターの通路中央を征くプラチナブロンドのオールバック。真夏にも関わらず、素肌が一切見えない全身黒ずくめの服をまとったこの男は、映画館に向かっていた。

「うわ、あれ魔法使いのおじさんじゃない?」

「え? ……ほんとだ。今日は何をしてるのかしら」

 主婦の二人が男の方を見ながら、ひそひそと会話を繰り広げる。男はその風変わりな装いから町の人達に魔法使いのおじさんと呼ばれていた。

 厳めしい顔で通路中央を闊歩する黒ずくめの前方は、まるでモーセが海を割ったよう。人々は男の姿を見るやいなや、左右どちらかへ退散していく。

 一般的なファミリー層で賑わうショッピングモールでは、彼のファッションは異質。何も知らない人がこの光景を見たら、映画の撮影をしているのではと思うことだろう。

「わっ!」

 と、黒ずくめの目の前で少女が盛大に転んだ。顔面をビターンと床に打ち付けた後、いそいそと上半身だけ起こす。無言で。

 あ、これは泣くやつだ。と、周囲が思ったのも束の間。

「アーユーオーケー?」

 あろうことか黒ずくめの男が少女の前にしゃがみ込み、その小さな頭の上に片手をぽんぽんと乗せた。その表情も厳めしい顔から打って変わって、マシュマロのように柔らかい天使のような笑みに。

「イタカッタネ。ブラッドハデテナイ?」

 周囲もぎょっとしたが、誰よりもぎょっとしたのは転んだ少女本人だった。この少女も黒ずくめの男のことは知っていた。通っている学校に伝わっている都市伝説で、黒ずくめの男の話が出てくるからだ。怪しい男だと思っていたのに、それがいざ遭遇してみれば、悶絶級の王子スマイルを決めつつ優しい声を浴びせてくるのだから、ギャップ萌えもいいところである。

 少女はなんとか声を絞り出そうと、唇を動かした。

「ぎ」

 黒ずくめの男が首を傾げる。

「ギ?」

「ぎゃああああ!!」

 一目散に逃げ出す少女。瞬く間に小さくなっていく少女の背中を見ながら、黒ずくめの男は苦笑いを浮かべるしかなかった。

「……エェー」

 黒ずくめの男は何も悪くない。少女の小さな純情ハートでは耐えきれるはずもないシチュエーションだったというだけである。黒ずくめの優しさは、しっかりと少女の心にぶっ刺さっている。しかし周囲の人間はそうはいかない。

「あんな一目散に逃げ出すなんて……!」

「な、なにをされるか分からないぞ。早くここから離れよう」

 傍から見れば、少女が脱兎の如く逃げ出したようにしか見えなかったのだから。黒ずくめの男にまつわる都市伝説が一つ増えた瞬間であった。

「ハァ」

 短くため息を吐いて、立ち上がる。黒ずくめの男は気を取り直して映画館へ向かう。バーに逃げ込んで酒を一杯引っかけたいところだが、友達との約束を破るわけにはいかない。

 再びモーセの海割り現象を引き起こしつつ、映画館へ辿り着く。

 黒ずくめの男は待ち人の姿を探して、キョロキョロと館内に視線を巡らした。これから見る映画ポスターの前に立つ一人の女性をみとめて、ふっと笑う黒ずくめ。

 白を基調として、アクセントに青と黒をちりばめたゴシックな服装の女性にゆったりと歩み寄り、片手を差し出す。

「ヤア。マッタカイ?」

「ここに住んでるんだから、待つもなにもないよ。分かってるくせに」

「ハハ」

 女性は男の手を取って横に並ぶと、男の腕に自身の腕を絡めた。

「主演のデップ様が超カッコイイんだってさ。しがない清掃員の役なんだけど、後半で繰り広げられるモップを使ったカンフーアクションがすごいみたいで」

「ヘエー」

 はしゃぐ女性に笑顔を向けつつ、チケット売り場へ歩いて行く。

 ぎこちない笑みを浮かべた女性店員の前に辿り着き、黒ずくめの男は言った。

「オトナイチマイ」

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