貧民街編
第一話:はじまりはいつも曇り空
夜が明けた。
昨夜の雨は上がったが、空は依然として鉛色の雲に覆われていて、アスファルトに落ちる影も曖昧に溶けてしまうばかりだ。
中でも。紅港の貧民街は灰色に染まり切っている。油の浮いた運河も、その上にひしめく無数のバラックも、船上生活者が寝転がっている小型船も、あるいは這いずるように吹き抜ける潮風すら、どんよりとしたモノトーンに支配されていた。
そんな貧民街を、銀色の髪を曖昧な薄日に舐められながら、少女が歩いていた。
海色をした、丈の短い
素足にサンダルを履いているが、見栄えよりは丈夫さと価格の安さを重視した簡素なものだ。
少女の名はマータ。マータ・カルカーサという。
彼女は現在、貧民街で渡し屋をして生計を立てている。
昨夜はひどい雨に降られた上に、仕事で少々のトラブルに見舞われていた。そのせいで、ひどく疲れてもいた。なのでつい眠りすぎて、今この時間まで起床することができなかった。
当然。朝の客は取り逃してしまっている。
ついてない日だ。
「むむむ……」
おもむろに財布を取り出し、中をあらためるマータ。
財布の中身は
「むう……」
マータは立ち止まり、桟橋を見下ろす。
桟橋の下では既にいくつものボートが集まり、水上マーケットが開かれていた。
売られている物は合成食品や雑貨のみならず、実に様々。怪しげなコピー商品や海賊版
きっと。なんでも手に入るだろう。質や値段は定かではないが。
灰色の貧民街でも、いくらかの『色彩』を感じることのできる数少ない場所である。
だが、その中でもマータの目当ては一つしかない。
マーケットから少々外れた位置にとまっているボート。そのボートの上では、三角笠を被った店主が鍋と蒸籠を使って料理をしていた。
その場で調理し、桟橋の客に食べさせる水上屋台だ。
出している料理は、魚介スープとエビを使ったワンタンメン。
マータの今の財布ならば、ギリギリ一杯分くらいのお金は出せるだろう。
「よし!」
意を決して、マータは財布を握りしめ、水上屋台の元へ向かった。
財布の中身を全て店主に渡して、船のとまっている桟橋の端に座り、両足を垂らす。
これで、今日も財布の中身はカラになった。
けれど、昨夜の仕事はなんとか成功している。その報酬が入ってくれば、いくらかまとまったお金が手元に来る見込みだ。ならば今はあたたかいワンタンメンを食べて、気持ちを落ち着かせよう。
そんな風に、ややのんきに、マータは考えていた。
「わあ! ワンタンが四つ!
マータがふと隣を見ると、屋台の先客がワンタンメンに感嘆の声を上げていた。
この水上屋台のワンタンは、合成ではなく本物のエビを使っている。しかもそんなワンタンを、豪胆にも一杯に四つも入れてくれるのだ。だから、マータはこの屋台を気に入っていた。
やがて自分にも訪れる感動におなかをときめかせ、そわそわと店主の手際を眺めるマータ。
「よお。マータじゃねえか。渡し屋のマータだ。ようやく会えたぜ」
だが、そんなマータの背後から、唐突に声がかかる。
「今日の商売は順調かい? ああ、気にするなこいつはただの挨拶だ。俺達は、集金係の者だ」
そこにいたのは、四人の
いずれも一様に作業服に身を包み、慇懃にネクタイなど締めている。だが鱗に覆われた顔を並べ、威圧的にエラを張っている様は『友好的』な態度とは言い難い。
「実はな。今月から組合費が値上げになったって話があってな。お前は先月分の組合費も払っていないようだが……平気かい?」
桟橋に座っているマータを、集金係の男達は左右から囲い込む。
顔を斜めに傾け、無遠慮にマータの顔を覗き込んでいる。
マータは、ゆっくりと振り返る。
だが、男達とは視線を合わせない。
桟橋から半分だけ振り返り、体を男たちに正対しないようにしつつ、手を胸に置く。
背中を丸めて、身を縮こませ、おなかをかばおうとする。
「値上げしたって話は、聞いてない……値上げなら、先月したばかりじゃないの?」
「組合にも事情があるらしくてなあ。全く困っちゃうよなあ? けれど。払うものは払っておいた方がいいと思うぜ?」
大げさに、身振り手振りを交えて話す集金係の男達。
だがそれは、あくまでマータを逃がさないためのものだ。
「そうそう。払わないと困るんじゃあねえのか?」
「お前のようなチビのガキが怖いチンピラに襲われても、組合が助けてくれなくなっちゃうぜ?」
ぎゃはは。
四人が笑う。マータから視線は外さない。動きに気を配り、取り囲み、逃げ道を塞ぐ。
「お金は……今は、無い……使っちゃったから……」
何とか。それだけ。
絞り出すように、マータは答える。
今やすっかりうつむいて、肩を震わせていた。
「無い? 使っちまった? ああ、ワンタン屋か」
「じゃあしょうがない。俺達が少し建て替えてやるよ」
「代わりにワンタンメンは貰うけどな!」
「だが……ワンタンメン一杯くらいじゃ先月分の会費にも足りないぜ?」
「それは、その……昨日のお仕事のお金が入れば、なんとか……」
「それじゃあ、そのカネが入ってくるまで今日は一緒にいようぜ」
「困ったときはお互い様だからな!」
「それとも、新しいバイトでも紹介してやろうか? ボロ船でやる渡し屋なんかよりもっとカネが良くて、手っ取り早い方法さ」
「ほら。うつむいていてもイイコトは無いぜ。上を向いて立ち上がりなあ……」
さらには、男の一人がマータに手を伸ばす。脇の下から手を入れ、二の腕を掴む。
マータは無理矢理立ち上がらされ、取り囲まれる。
「や、やだ……離して……」
「遠慮するな。お前の問題を俺達が解決してやろうって言うのさ。お前がちょっとガンバってみれば、みんながハッピーになれる方法さ。ほら、マーケットの裏の方へ……」
マータを何処かへ連れて行こうとする男達。
その一人の腕を、背後から伸びた箸が掴んだ。そのまま手首をネジって、逆さにひねり上げる。
男は悲鳴を上げ、マータから手を放してしまう。たかが一膳の箸で挟まれただけだというのに、腕には耐えがたい激痛が走っていた。
そして、箸はさらに男の腕をよじって、そのまま桟橋の上にひっくり返してしまった。
もちろん。ただの箸がひとりでに動いて、男の腕を掴んだわけではない。
箸にはそれを持つ手と、持ち主が存在した。
「わっさー。集金係? の方々……」
白い羽根付きのミニハット。ツインテイルに結んだ赤い髪。白いコートに、太腿まで届く長い乗馬用ブーツ。
曇り空の下で、尚鮮やかな色彩。
貧民街に満ち満ちている灰色に染まらない、清浄な白と鮮烈な赤。
そして少々タレ目気味だが、らんらんと輝く金色の瞳を持つ、少女だった。
「不躾に」
ずるずる。
「女の子の二の腕に」
ずるる。
「触っちゃダメだよ」
ずずー。
「しかも大勢で囲って、背後からだなんて」
ずるずる。
「それに、注文していたワンタンメンまで奪うだなんて」
ずるる。
「そもそも彼女はボクが先に声をかけようとしてたんだ。横取りしてんじゃないよ」
ずるん。
ワンタンメンを抱えたまま、合間に麺をすすりつつ喋るコートの少女。
集金係の男たちは当然にいきり立ち、少女に迫っていく。
「なんだコラ!」
「関係ねえ奴が口を挟むなコラ!」
「ワンタンメン一杯くらいなんじゃコラ!」
「食うか喋るかどっちかにしろコラ!」
コートの少女は、ちゅるん。と麺を飲み込み、とくとくと口を開いた。
「これは……『騎士たるもの、出されたご飯は残さず食べるべし』って先生が言ってたから……早く食べないと麺が伸びちゃうし……」
「知らねえよそんなこと!」
「キミ達は。組合っていうのは。労働者を護るための組織じゃないのかい? 会費については事情もあるだろうけど、いくらなんでもやり方が強引すぎる。これじゃまるで人さらいだ」
首を傾げる少女。
これに対し、集金係の男達は互いの顔を見合わせ、軽く笑い飛ばした。
「あっれー? そんなこと言ったか? 確かにオレらは『集金係』とは名乗ったが『労働組合の』とは言ってないぜ?」
「このマータが組合費を払わなかったばかりに『チンピラ』にさらわれて『どこか』に売り飛ばされたとしても、組合は関係ないさ」
「……なるほど。わかったよ」
コートの少女は、つかつかと歩いて立ち位置を変える。
集金係とマータの間。男たちから、マータと屋台の店主を護れる位置に。
「ではボクが、ここでキミたちを『説得』しても、組合には関係ないってわけだね」
「やるのか手前!」
言うが早いか。男たちの一人がコートの少女に殴りかかる。
だがその拳は、少女には届かない。
拳は少女に届く直前で不可視の障壁に阻まれ、それ以上進むことは無かった。異層次元の『境界』が、男の拳を阻んでいるのだ。
「フォースフィールド!? こいつ、
男達は一旦拳を引いて、後ずさる。
コートの少女と一時、距離を取る。
「
ワンタンメンの器を左に。箸を右手に持ったまま離すことなく、コートの少女は集金係を名乗る四人の
「申し遅れたね。ボクはコッコ。コッコ=サニーライト」
白いコートを翻し、少女は名を名乗る。
「トラブルシューターで……アナトリアの、巡礼騎士だよ」
マータは見ていた。少女の白いコートの背中に、真っ赤な太陽が描かれているのを。
『右回りの太陽』。巡礼者を見守る、
それが、コッコとマータの出会いで。
この都市を巡る『大げさな』騒乱の、幕開けだった。
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