【第2章開始】クラウドブレイカー

七国山

Vol.1:太陽の騎士と嵐の王

プロローグ

プロローグ:やれやれ、俺は爆死した。

 俺はこの都市まちの匂いが嫌いだった。

 人の心の澱みが、腐った感情が、あるいは本当に路上で死に腐った肉とか臓物が。都市を迷走する運河を巡り、海の底にヘドロとなって堆積する。

 そんなヘドロの、その残り香だけは。逆巻く潮風に乗って都市に戻ってくる。この都市が、どこにも開いていないのだと思い知らせるかのように。

 

 特に雨の日は最悪だ。路面のゴミが、油が、あるいはもっと言語道断な何かしらが、逆流してあちこちに溢れ出す。

 そんな最低な雨の中、俺は片腹を抱えながら走っていた。傘も差さず、靴の中もびしょ濡れなまま。

 腹には血が滲んでいる。あいつら、逃げる背中を容赦なく攻撃しやがった。


「イィナバァ……イナバイナバイナバぁ……イナバぁ!」


 雨の音にも負けない地獄のような声量と低音が、逃げる俺を呼んでいる。

 そう。俺の名はイナバ。とある大きな問題を抱えた男。

 俺を追ってきているのは、港湾労働者組合の局長。と言っても実際は、港湾地区と貧民街を支配しているギャングどものボスだ。

 名を、トニー・ジャオという。


「今ならまだ許してやるぞぉイィナバぁ……お前の事は友達だと思っていたからなあ……!」


 この雨の中でも、べっとりとこびりつくタールのような粘り気のある声。

 友達だなんて嘘だ。こいつが他人に気を許した所なんて見たことがない。こんな奴に友達なんかいるわけがない。

 まあ、それは俺も同じだが。俺も友達はいないし、他人なんか信じていないが。


 俺は振り返りもせず走り続ける。ビルとビルの隙間を抜け、路地裏を進み続ける。

 が、運悪く空き缶を踏みつけ、足を滑らせ、ゴミ箱をひっくり返しながら盛大に転んでしまった。

 しかもゴミの中身は生ゴミだった。エビの殻とか腐った麺だとか合成野菜やらを、頭からひっかぶる。

 なんてことだ。ゴミの中で死ぬのか。俺は。


 トニー局長が、俺にゆっくり歩み寄る。

 路地裏に入っていくには窮屈すぎる、巨大な体躯。広すぎる肩を器用に作業服に納め、律儀に紫色のネクタイまで締めている。

 そして。白い頬。その頬まで裂けた口。背中から突き出た鋭角的な黒い背ビレ。腰からは尾ビレも伸びている。


 彼は海精人ネプチューン鮫族シャークだった。この都市では珍しくも無いが、追いかけっこを楽しめるような相手ではない。


「局長ぉ……そんな事より聞いてくださいよ……昨日吉野家行ったんですよ吉野家……」

「お前が大盛りネギだくに玉子をつけるのが好きだって話は聞いたよ」

「じゃあこの話はしました? 俺が取引先のデブな男とその家族のバーベキューに誘われて……」

「ダディがクールだったんだろ。お前がデブと年下の女は好きじゃないって話も聞いたよ」

「いやそれは体型とか年齢の話じゃないっすよ。困りますよ。確かに俺はスレンダーな年上が好きですが、最近はポリコレとかいろいろ気を使わなきゃいけないんで……」

「そんなことより」


 トニー局長は鋭い歯を、列を成す牙を揃えて俺に見せつけ、隙間からシィと息を吐いて見せる。


「返せよ。アレを」


 アレ。

 トニー局長が俺を追っている理由。

 俺が、港湾労働者組合を出し抜いて、かすめ取った、アレ。

 さてどうしようか。ここまで追い込まれてしまった。素直に返せば、命だけは助けてもらえるだろうか? 可能性は低いとは思うが、さりとてここで返すと言わなければ、余計ひどい目に遭わされるだろうことは想像に難くない。


「へへ。嫌です」


 でも。俺は拒否した。

 そのまま身体をひっくり返して、トニー局長に見えるように『ピン』を抜いた。

 腹にダクトテープで巻きつけた、手榴弾。二個セット。

 それらを二つともピンを抜いて、レバーを飛ばして、トニー局長の至近距離で炸裂させたのだ。


 当然そこで俺は死ぬ。当たり前だが木っ端みじんだ。そして並の人間だったら、トニー局長も無事では済まなかったろう。

 並の。人間。ならば。


「……自爆だなんて、味なマネをしてくれたな」


 トニー局長の声。 


「しかし。フォースフィールドを持つ異能者イレギュラーが。手榴弾二個でやれるわけねーだろ。ナメてんのか……」


 無傷。無傷だった。

 怪我の一つ、どころか。吹き飛んだ俺の肉片や生ごみが服に跳ね返った様子もない。

 トニー局長は、異能者イレギュラーだった。

 異能者イレギュラーに、通常の兵器は通用しない。その身に宿した霊力フォースによって異層次元を作り出し、あらゆる物理的干渉を防ぐことができる。

 当然。手榴弾程度のエネルギーではどうにもならない。


「結局、何も聞けなかったか。一体どこに隠したんだこいつは……」


 路地裏を赤黒く染めた俺の『なれの果て』は、トニー局長の手前で円形の空白を作って弾かれ、その靴を汚すことすらない。

 それでもトニー局長は忌々し気に視線を切って、路地裏から引き返す。


「ストームルーラー……奴らより先に見つけなければ……」


 雨は一晩中止むことはなく、路地裏の穢れを排水溝へ押し流していく。やはり俺は、この都市のヘドロとなって堆積する末路となったようだ。

 因果応報。

 というわけで残念。俺のくだらなくも愛しい冒険と青春の日々は、ここで終わってしまった。

 

 あとは『後任者』が上手くやってくれることでしょう。

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