第17話 不和

 鼻をくすぐる湯気は白く、同時に仄かな果実の匂いに染まっていた。一口、香りと豊かな甘みが舌を撫でる。ホッと、雨で濡れ冷たくなった体を温めた。


 「君のために注いだ一杯だ、遠慮はいらないよ?」

 満面の笑顔で座る彼はずっと龍馬だけを見詰めていた。名乗ることは無く、彼はただ管理人だと言った。

 「んんっ!」

 咳払いをしたレティシアは彼の興味を移そうとするが、以前龍馬以外には見向きもしない。彼女のこめかみに青筋が動く。どうにか必死の説得の末中に入れてもらった三人は注がれた飲み物を手で覆った。 


 「得体の知れない、会ったばかりのあんたが出した飲み物を口にすると?」

 そう言った龍馬の言葉に他三人が凍り付く。毒は入っていないのは分かった、しかしそれは結果に過ぎない。護衛であるベルフィーナまでもが今気が付いたのだ、油断と安心という悪魔に憑りつかれていたことに。


 「はは…やはり、君だ。君しかいない!気に入ったよリョウマ君。」

 卓に手を付いた彼が立ち上がる。興奮と歓喜を惜しげもなく貼り付けた彼が指を鳴らした。

 「お客様のお帰りだ、レド。」

 その呼びかけに答え扉を開いたのは建物に案内した男。レド、というのだろう、彼が扉前で手を招く。


 「そうはいきません!私たちは国の、世界の平和のために【聖姫巫女見聞録】という本をどうしても手に入れなければならないのです…っ!」

 彼女の叫びが食堂に響き渡る。その言葉に管理人は僅かに反応したが、レティシアに顔を向けることは無い。笑みと共に言葉をかけたのは龍馬にだった。


 「何故?」

 「今は私が会話をしているのですっ!!」

 激昂したレティシアが卓を思い切り叩きつけた。

 「リョウマ君、私は君以外とは話さないと決めたんだ。こうなったら頑固でね、尊敬する親も親愛なる姉も手を焼いていたよ。くく、すまないが分かってくれ。面倒な性格に育ってしまったんだ、治す気はないがね…」

 心底楽しそうに、手を後ろで組んだ彼が近づいてくる。


 「この本だろう。」

 彼が掲げたのは一冊の分厚い本だった。題名は言わずもがな探し求めたもの。見せつけるように龍馬の眼前へと持ってくる。


 「っ!それをどうか、」

 「条件がある。」

 眼の前にいるというのに龍馬を介して会話する奇妙な二人。挟まれた龍馬は辟易しながらも話を聞く。

 「少しの間、君を此処で預からせてくれ。」



 

 「頼みましたよ…」

 苛立ちを必死に抑えながらフードを被る彼女が龍馬を見詰める。

 「大丈夫かな、何か難しそうな人だったけど。」

 心配そうに桜が呟いた。龍馬と三人は別行動をとることとなった。【聖姫巫女見聞録】を手に入れるための条件を飲み、一人書殿へと残る龍馬が見送る。


 「私たちは先に皇帝への挨拶を済ませます。期間がどれほどかは分かりませんがお互い無事で。」

 門を出た三人に手を上げる。

 挨拶というのも、もう一つの目的である混沌についての話をしに行くのだ。まさか別行動をすることになるとは思わなかったが、四人ともたじろいではいられない。

 中へ戻るとレドに案内されたのは先ほどとは反対側の扉。


 「本館にてお待ちです。」

 「ありがとうレドさん。」

 「私はレオナルド。レドというのはあまりに…」

 龍馬が中へと入る。扉を閉じるときレドさんが何かを言っていたような気もするが、眼の前の光景にそんな事どうでもよくなっていた。


 【ミドの書殿】本館、それは本に埋もれた紙の世界だった。本棚が道をつくり、まるで迷路のように入り組んだそこは文字の匂いが充満する。

 管理人の気配を辿って歩く。棚に並んだ本の表紙を撫でると、心地の良い革の触りが指に伝わっては消えていく。どれも古い、しかしとても綺麗な状態で保管された本達。


 「リョウマ君、僕はね運命というものを信じているんだ。」

 本で顔を隠し、目だけを覗かせた管理人が壁にもたれて囁いた。小さな声だ、しかし音の無い空間にはよく響く。

 「現実主義者だと、勝手に思っていたが。」

 「間違いじゃあないよ。しかし、この巡り合わせを他にどう形容するか。僕は非現実を恐れる無知者では無いのさ。」

 五分の一ほどページの捲られた【聖姫巫女見聞録】を見せる。彼が言うには、二人の出会いは定められた必然だと、偶然の産物ではないらしい。


 「蔵書の整理をしていたんだ、その時に見つけたこの本を僕は知らなかった。」

 手招きした彼の隣にもたれかかる。

 「興味深い本だ。聖女アリアの生涯、旅の目的、聖女について……混沌を探しに来たんだろう?」

 突如確信に触れた彼の言葉に驚いた。極秘の任務故肯定の意は返さないが、龍馬の固まった表情を見て笑う。


 「当たりだ。混沌を追い求め、それに対抗する力を探すためやって来た君たちはこの本がどうしても欲しいというわけか。しかし、残念なことにこれは今読みかけでねえ。まさか、読み止しにとは言うまいね。」

 「読み終わるまで待てと、それが条件の真の意か?」

 彼が出した条件、それは龍馬がここへ滞在すること。しかしそれの意味が読み終わるまで待つなどというわけはあるまいと、暗に告げる。


 「何故僕が運命という言葉を使ったのか、教えてあげるよ。君。」

 君、と。読んだのは龍馬のことでは無かった。数秒の静寂、それを破ったのは第三の気配だった。奇妙なことにたった一つの入り口からでは無い。上の方から、幅の広い螺旋階段を降りる人影が一つ。

 それは、その気配は全くの無から湧き出した。元々ここにいたとでも言うように、自然に段差で足音を鳴らす。


 「ははは。」

 どこかで似た気配。感じる底気味の悪さにゾワゾワと背中走る寒気。それを理解しようとする思考を勝手に、無意識に止めてしまいたいという感情。だが既に、龍馬は知っていた。


 「紹介するよ、黒の君だ。彼は…」

 混沌だ。



 濃厚に絡みつき逃れられない。蛇に睨まれた蛙なんて自分を貶めても恥ずかしくない程にその視線が身を絞め殺す。螺旋階段を回り下りる彼から目が離せない。

 外は雨、身体は冷えているというのに嫌な汗が伝う。


 「はじめまして、私は黒の君。はは、マクベルにそう呼ばれることにも慣れてしまった。」

 人間の言葉がやけにうまいじゃあないか。何の感情も乗っていない単語の連続、笑い声もただの繋ぎでしかない。出された手に握手を返せるほどに愚かな人間では無かった。

 何故混沌が人間の言葉を話し、服を身にまとい、笑みを貼り付けながら握手を求めているのか。知らないことが多すぎるということに今更気が付いた。


 「混沌を探しに来たのだろう?」

 彼がそうだよ、と笑った管理人マクベル。

 簡単に、そして突然言ってくれるじゃあないか。彼が混沌?人類の敵ではないのか?

 この異様な状況に思考が完全停止した。ゴクリと生唾飲み込むにも喉が痛んだ。感情が首を絞めている。


 「混沌…当たりだったなあ。」

 乾いた笑いが漏れる。虚勢だ、しかし同時に抑えきれない本能でもあった。探し求めた二つが揃ったことを塗り潰す、混沌という強者に出会えたという嬉しさ。どこまで行っても戦闘に飢えていたのだ。

 歯を剥いた、龍馬の顔は凶暴過ぎた。向けられた鋭い喜びにマクベルと、黒の君でさえたじろいだ。


 「教えて欲しい。黒の君、マクベルさん。混沌を、」

 純粋な興味だった。龍馬の言葉にマクベルが頷いた。黒の君は適当に本を摘まんで棚に腰掛ける。


 「混沌、それは闇の住人だ。」

 夜の森、路地裏の陰、光りの差さない暗き場所に現れる。それは人ならざる者。闇あるところに存在し、闇湧くところに潜む影。

 「夜を怯えて過ごすようになったのはいつからだろう、闇を避けて歩くのはいつからだろう。暗い場所、それは決して外に限った話じゃあない。内側、心の闇からも這い出て来る。」

 心の闇と聞いて思い出したのはロドムのこと。夜の闇が覆う前だったあの時何故、彼が混沌の欠片に侵食されてしまったのか、あれはどす黒く育った彼の心から湧いて出たのだ。


 「混沌を恐れるのには理由がある。彼らは皆一つだけ、人知を超えて力を持つ。南に滅んだ小国、西で起きた大量虐殺も混沌の能力によってのもの。」

 ある混沌は人を触れずに捩じり殺し、またある混沌は地面や壁から幾百もの武器を錬成する。神の御業かという力が理不尽に降り注ぐのだ。非力な人間に逃げる事は敵わない。


 「もう分かっているようだね、彼もまた一つ力を持っている。」

 二人が視線を向けた黒の君は夢中で文字を追っていた。


 「君に残ってもらった理由だったね、リョウマ君。」

 コツコツと靴を鳴らして歩き回る。本を手にとっては棚に戻すを繰り返し、数分の静寂が流れた。パタンと黒の君が本を閉じた。それを合図としてか、龍馬の後ろにマクベルが静かに立つ。


 「死ぬんだ、僕。彼の能力、それは人の死を予感するというもの。彼はね、僕に死を告げに来たんだ。」

 数か月前現れた、僕にとっての死神。すっかり本好きの友人となってしまった彼が笑う。

 「君に、僕の最後を看取って欲しい。」

 優しい声だった。それは本を渡す、哀しい条件だった。

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