6_三秒前に戻りたい
無職の朝は早い。
昼の十二時には目を覚まし、カーテンのない窓から空を眺め、既にガンガンに温まった太陽に一礼する。
晴れ空には一本の飛行機雲が引かれていた。
四国にでも、行くのかな。
空はどこまでも続いている、が、どこかに連れて行ってはくれない。
「さて、今日もいっちょやりますか」
顔を洗い、髭を剃り、高校時代のジャージを脱ぎ捨て、英語の書かれたTシャツとジーパンに着替えたら準備完了。
鍵を閉めて、隣室の
ドアに鍵は掛かっていなかった。
□
「うっす。おはようございます」
「おじさん、おはよう」
彩は背中を向けたまま細い声で挨拶を返す。
今日も今日とて格闘ゲームをプレイしていた。
「今日、お姉さんは?」
「今日は帰ってきてない」
「そっか」
最初こそ、共通の話題は何だ、NGワードは何だ、敬語の方がいいのか、ため口でいいのか、間をとって丁寧語で行こうか等、気配りに余念がなかった。
しかし、お相手の彩は動物園のライオン並みに無警戒、というか緊張するそぶりさえ見せず、マイペースな自然体。その毒気のなさに、気を張るのがバカバカしくなった。 今では自室にいる感覚で過ごしている。なんならここはもう俺の部屋の一部と言っても過言ではない。
同じアパートなのに俺の部屋よりグレードが数段上なのが気になるが、余計なことは言わない。
大家には逆らわない。これが大人だ。
「昼飯食ったか?」
「うん。さっき水かけご飯食べた」
「いいなぁ。俺も食っていい?」
「今月のお米もうないから無理だあああああああああああ! てめぇそれハメだろ! 殺すぞ! ラグ使いが!」
ピンクのパジャマ幼女が吠える。
この部屋に殴り込んで以来、俺を悩ませていた罵詈雑言は収まった。だが、それは俺が自室にいるときだけで、こうして同室で過ごしている間は斬れ味そのままに復活する。
「彩、お前、一日中そのパジャマ着てるよな。たまには洗濯してるのか?」
「このにおいが好きだからいーの」
「そっか」
まぁ、自分の足の爪の臭いとかついつい嗅いじゃう時あるからな。正常だな。
「あーだめだ。あーこの時間まじラグ使い多すぎる。あーーーもうやってられねぇ。あーーーーあしょうもねぇ。働けゴミどもが!!」
俺の心は少し
彩は白いコントローラーをぽいと横に投げ捨てる。
「おじさん、マリオカートしよ?」
「あぁ、いいぞ。俺クッパな」
「えー昨日もだったじゃん。今日は譲ってよー」
「だーめ。大人しくワルイージでも使ってな」
よっこいしょ、っとスマートに彩の横に座る。こいつはカーブを曲がるとき体を傾ける癖があるから、少し間隔をあける。
万が一肩と肩とが触れようもんなら豚箱行きだ。
□
「キノコカップでいい?」
「いいぞ。ルールは150CCな」
「分かった! 負けた方は罰ゲームだからね」
彩が設定を進め、レースの準備が整う。画面では赤い配管工がポーズを決めている。俺が小さいころから現役のヒゲおやじ。
昔は暇さえあれば、いや、暇がなくてもゲームで遊んでいたのに、いつからか暇があってもゲームを起動することはなくなっていた。
―そんなにピコピコばっかりやって、いつか廃人になっちゃうよ!
お袋、それは杞憂だったよ。
―うるさいなぁ、今始めたばっかりだよ!
―いつもそればっかり。あんた。そんなんだと将来ロクな大人にならないよ!
お袋、あんた見る目あるよ。
「おじさん、一回腕上げて」
「こうか?」
「隙あり!」
言うが早いか、彩は俺の
「ちょっ、彩! どこ座ってんだよ!! 捕まるだろうが! どけ! 今すぐにどけ!! 冤罪発生装置!!
俺は腕を中途半端に上げながら立ち退きを要請する。
「おじさん、スタートしなくていいの?」
画面では俺以外のキャラクターが全員スタートしていた。
「あ、お前この」
「負けたら罰ゲームだからね。一日下着を前後ろ逆に着て生活してもらうからね」
なんて地味ながらしんどい罰ゲームを。
俺はコントローラーを頭上に持ち、遅れを取り戻さんとアクセルを踏む。
「俺が勝ったら外出だからな! 一緒にゴミ捨て場まで散歩しような!」
「勝ったらね」
よし。
Aボタンを強く押す。クッパが走る。なんか懐かしいな。
今よりかはマシだった時代を思い出すな。懐かしい匂いまでしてきたぞ。
すんすんと鼻から空気を吸う。甘く懐かしい匂いをたどる。
俺の鼻が彩のパジャマで止まる。
この匂い、確かに
実家の枕と同じ臭いだ。
赤甲羅を投げる。
□
愉快な音楽とともに俺のクッパがゴールを通過する。
「よっしゃー逆転勝ち!」
「あー負けたー。もう一回やって!」
彩がしかめっ面を引っ提げ、こちらを振り向く。
ふわぁっ、と懐かしい匂いが振り
「しょーがねーなぁ。まぁ、次も俺が勝つけどな」
「今度は負けないもん!」
彩が体勢を戻す。誰しもが何度も嗅いだ経験があるであろう実家の枕の臭いが、振り撒かれる。
スタートダッシュに成功する。
□
「よっし! また俺の勝ちぃぃぃぃぃ! あっぶねー」
「あぁ! ハナ差でさされたぁ。もう一回!」
「どんどんこいや。次の罰ゲームは、そうだな。裸踊りでもしてもらおっかな!」
「じゃあ、彩が勝ったら右手だけ深爪にしてもらおっと!」
なぜまた見た目以上にダメージのある罰を。
□
「いーーーーーヤッホーーーーーーーー!! 俺の三連勝!! いいのかな彩、どんどん罰ゲームがたまっていってるぞ? 裸踊りしながら夕焼け小焼けを歌いながら綱渡りしてもらうぞ? できんのか? やれんのか?」
「うぅ。次は絶対負けないもん! 彩が勝ったらこれまでの罰ゲーム免除&一日左を向いて過ごしてもらうもん!」
またしても現実味のある酷な罰を。彩、お前の心はどうなってるんだ?
「望むところよ! じゃあ、俺が勝ったら、そうだな。今度は学校にでも行ってもらおうかな!」
返事はない。
調子に乗りすぎた。
水を打ったような部屋に、ピノキオの声だけが聞こえた。
この状況を打開するため、俺はこのレース、わざと負けることを決意した。
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