第4話 ハルホルト港 【ペーティル視点】

 同日、昼下がり――

「……何だ、あれ?」

 屋根の上で顔を真っ黒にして煙突を掃除していたペーティルは、ハルホルト港の辺りで何やら煙が立ち上っていることに気づいた。

 マリーシャの幼馴染の彼は首都で学校シュクーラに通っているのだが、小遣い稼ぎに煙突掃除の仕事もしていた。狭い煙突の中に入り、煤塗れになって働くのは大体身寄りのない孤児だった。しかし、北部ノルディア出身で力仕事が苦手な彼にできる仕事などせいぜいこんなものしかなく、後はマッチ売りか、ドブ漁りがいいところだった。

 最初の爆発があったとき、屋内にいた彼はそもそも何かが起こったことにすら気づいていなかった。遠くからかすかに、ズン、という鈍い地響きのような音を聞いたものの、気のせいだろう、というぐらいにしか思わなかった。

 だが、とある教会の高い屋根の上に登ったとき――

「橋が崩れたのか……?」

 目を凝らして平和の橋の方を見た彼は、ようやく異変に気づいた。この距離からだとはっきりとは見えないが、たくさんの人々が壊れた橋の残骸の上で立ち往々しているようだった。、橋の上に汽車はないようではある。

 ――なんであんな危ないところに人がいるんだ?

 状況がつかめず、ペーティルは不審に思った。

「おい! 真面目に働け!」

 その場に立ち尽くしてぼうっとしている彼を見て、怠けていると思った管理人が下から怒鳴ってきた。

「はーい、すみません」

 ――いけない、集中しなきゃ。

 この時はまだ、まさかなどとはつゆも思わず、彼は手元の作業に戻った。一日に四、五件は回らないと金にならないので彼は急いでもいた。

 ――そういや、今日はマリーシャがここへ来る日だっけ。

 梯子を伝って家々を上ったり下りたりしながら、ようやくマリーシャのことを思い出した。

 ――これじゃ汽車は使えないし、どうやって迎えに行こうか。

 そこまで考えて、彼は直観的にをひらめいてしまった。

「まさか……」 

 彼はみるみる内に青ざめ、思わずそんな声を漏らした。

「大変だぁ……」

 彼は居ても立っても居られなくなって、仕事を放りだして海の方へ向かって走り出した。


 ●


なんてこったメイ・フェルン・テース……」

 海岸に辿りついた彼は遠くの惨状を目の当たりにして絶望した。

 初め、通りすがりの誰かが、「突然橋が爆発して、汽車が海に落ちたのを見た」という話を得意げに話しているのを耳にしたときは信じられなかった。しかし目の前で橋が崩れ落ちているのを見るともうこの現実を認めざるを得ない。

 野次馬の噂では、橋近くの砂浜は並べられたおびただしい数の遺体で死体安置所のようになってしまっているらしい。

 ――頼む……。無事でいてくれ……。

 マリーシャが首都に来る前によこした手紙では、昼頃にはハルホルトにつく予定になっている。

 そうした材料は心配症のペーティルの想像を掻き立てるには十分であった。

 ――落ち着け。アイツは人魚マルビアだし、海に落ちても溺れはしない。

 彼はなんとかして冷静になろうとした。

 ――だけど、あんな高さから客車ごと海に落っこちたんじゃ、そんなの関係なしに死ぬよな……?

 彼は物事をことさら悪い方へ考えてしまう癖があった。

 現場周辺では軍の検問が敷かれ、橋は愚か例の砂浜にすら近づけないようだった。

 気が急いて周囲を見回したペーティルの視界に、たまたま港に係留された船が目に入った。

 ――クッソ、こうなったら……。

 彼は人混みをかき分け、来た道を一旦引き返した。彼が桟橋を突破し、はしけに足を掛けたとき――

バッキャロードゥーブ! 危ねえから入って来んなっつってるだろ!」

 船から出てきた一人の獣人の男が大声で叫んだ。その角の生えた大男は老齢ではあったが、真っ黒く日に焼けた裸の上半身は筋肉隆々としてかなり体格が良かった。

 ペーティルは慌てて足をひっこめた。

「ベンさん、僕です。ペーティルですよ!」

 ベン、と呼ばれたその男ははしけに飛び移ると、「ペーティルだぁ?」と声を裏返らせた。

「このタマ無し野郎! どのツラ下げて戻ってきやがった! ここにゃお前みたいな小便垂れ小僧のやれるような仕事はねえぞ!」

 ベンは鼻息を荒げ、しかめっ面で罵声を浴びせた。

 ペーティルは落ち着いてもう一度、

「違います、って! なんか事故があったみたいですけど、何があったのかと思って心配になって……」

 必死で弁明すると、ようやくベンは彼の言葉に耳を傾けた。

「なんだ、そうだったか! ご覧のとおり、クソ売女の××ラ・フーダ・ラス・フェルン・シュカーレイって感じだぜ!」

 ベンは笑顔に戻って桟橋に降り立つと、今にも崩れ落ちそうなボロボロの橋を指さした。

「いやぁ、これにはさすがの俺もクソフェルン腰抜かしてな、小便チビりそうになっちまった」

 ベンはなぜか恥ずかしそうに鼻の下をさすりながらそうも付け加えた。

「も、もうちょっと丁寧な言葉遣いできませんか?」

「あー、すまんすまん。まさにお前の母ちゃんの××ラ・フーダ・タス・マーツェイだな」

 ペーティルが粗暴な言葉遣いを咎めるも、ベンは悪びれもしない。

 ――三語に一語ぐらいは卑語を挟まないと会話できないのかよ。

 以前からこうなので慣れているとは言え、あまりの卑語の連続にペーティルも呆れた。

「……どっちでも変わらないよチェイヴァ・シェイヴァ

 ペーティルはそう一言だけ突っ込むと、ため息をついた。


 ハルホルトに来たばかりの頃、金に余裕がなかったペーティルは一時期ベンの下で働いたこともあった。

 海に面した首都ハルホルトは「ザハラーヴニ(王の港)」という二つ名でも知られ、その名の通り王国最大の港がある。かつてヴァドリア同盟の中心地として栄えたこの港には現在でも毎日世界各地から船舶がやってきて、大量の荷物が運び込まれる。

 その積み下ろし作業に従事する港湾労働者は「スティヴァードゥル(沖仲仕おきなかし)」や「ハヴニーフ」などと呼ばれていて、その多くは北部ノルディア出身の貧しい獣人ズニョースであった。

 重たい荷物を担ぎ、船と港を何度も行き来するきつい肉体労働をこなすこの屈強な男たち――そんな気性の荒い荒くれものの溜まり場に、小柄でひ弱な本の虫ペーティルがやってきてしまったのだから場違いでしかない。


「……それで、今状況はどうなってるんですんか?」

 ペーティルが尋ねると、

「どうもこうも、あの有様じゃ乗客はほとんど死んだだろうな。俺もちょうど汽車が海に落ちるのを見てたけど、ありゃひどいもんだったよ」

 この時ばかりはベンも気の毒に、と心痛したように肩をすくめた。

「ま、ハルホルト行きの汽車じゃ乗ってたのはノルディア人が大半、ってとこか」

「ハルホルト行きの、汽車……」

 嫌な予感は的中する。

 不安が頂点に達し、ペーティルは激しくどもりながらこう言った。

「あ、あの、きょツィ今日ツィーズィ僕のマ・もとカル……」

「さっきから口にジャガイモカルティーシャを突っ込んだように話しやがって、何言ってるか分からんぞ」

「はい、すみません……」

 ペーティルは深呼吸をしてからもう一度話し出した。

ジャガイモカルティーシャじゃなくて、故郷の友達クラーヴァのマリーシャがハルホルトに遊びに来ることになってて……、ひょっとすると……」

 彼は口ごもると、橋の方をチラチラ見た。

「なんだって!? じゃ、まさかのあの汽車に?」

「いや、分からないです……。ひょっとしたら、あれには乗ってないかもしれないし」

 ペーティルはここまで来てやっと、自分の今までの焦りが全てによるものだということを改めて自覚した。

 しかし――

「こうしちゃおれん。今すぐ嬢ちゃんを探しに行こうじゃねえか!」

 ベンは熱くなりやすいタチだった。


 ●


 ペーティルはベンの船に乗せてもらい、海側から平和の橋の繋がっていた海岸に接近した。爆発の後、橋は最初に崩れた箇所から連鎖的に他の場所も壊れ出し、非常に危険な状態にあった。


「あぁ……、マリーシャ……、せめて君の亡骸だけでも回収して、故郷の土に葬ってあげるからね……」

 ペーティルは真っ青な顔で波打ち際を歩きながら、砂利の上に整然と並べられた遺体の顔を一々確認して回っていた。

「この子も違うし、この子も違う。どうしよう、マリーシャのご両親に申し訳が立たな――」

「おい、しっかりしろよ! まだ死んだって決まったワケじゃないんだから! 仮にもう死んでても、お前の顔見たら嬉しくなって生き返るって!」

 ベンが自分なりに冗談を言うも、ペーティルは魂の抜けたような顔でぼうっとしていた。

「……このままだと、コイツの方がショック死しちまうな」

 なんとかならないものか、とベンは辺りを見回した。

 すると少し離れたところに、何やらたくさんの人々が座り込んでいるのが見えた。どうやら避難してきた負傷者たちが治療を受けているようだ。

 事件から五時間ほど経過した現場には近隣の病院から医師や看護婦たちも駆けつけ、まるで野戦病院の様相を呈していた。

 何かをひらめいたのか、ベンは明るい表情でペーティルの肩を叩いた。

「おい、アイツらに聞いてみたら分かるんじゃないか?」

 彼はそう言ってペーティルをそこまで連れていくと、近くを通りかかった看護婦に声を掛けた。

「ちょっと聞きたいことがあるんですが、いいですか?」

 ベンはそう言って「ほら、自分で聞きな」とペーティルを小突いた。

すいませんプラージュ。こ、この辺で、人魚マルビアを見ませんでしたか? 二十歳ぐらいの若いブロンドの女の子なんですが……」

 とうの昔に覚悟を決めていたペーティルはそんなことしか言えない。

「お前はそんなに死ぬほどどうしても彼女を殺したいのかよ?」

 常に最悪の事態しか考えようとしないペーティルにはベンも頭を抱えた。

 しかし、ペーティルの話を聞いて思い当たる節があったのか、看護婦の女性は気になる話をした。

人魚マルビアなら、さっきまで溺れてる人を助けて回ってる女の子がいたわよ」

「ホントですか!?」

「ええ。ホントよ。彼女がいて助かったわ」

 その看護婦の話では、先ほど汽車が海に落ちたとき、敢えて自ら危険を冒して橋から海に飛び込み、たくさんの人を助けている人魚マルビアがいた、ということらしい。

「そう言えば、橋が崩れたときに海に飛び込んでたヤツがいたような……。遠くからだからあんまりはっきり見えなかったけど」

 ベンが一人合点している横で、ペーティルは食い気味に尋ねた。

「そっ、その子、どこに行ったか分かりますかっ?」

 すると看護婦は、

「それが、さっきどこかへ行ったきり戻ってこないのよね。どうしちゃったのかしら」

 そう言って首を傾げた。

「単にまた海に戻ったんじゃねえのか?」

「それならたまに戻ってくるはずでしょ?」

「うーん、確かに……」

 彼女の身に一体何が起こったのか分からず、三人は悩んだ。

 ――とりあえず、まだ死んではいないみたいだ。

 希望を取り戻してきたペーティルは、その辺にいた人々に手あたり次第に声をかけ出した。

 ほどなくして、一人の男の子に行き当たった。彼は先ほど海で溺れていたところを、マリーシャに助けてもらったのだという。

 彼は調子が悪そうだったが、ちゃんとお礼を言ってから、

人魚マルビアのお姉ちゃんは……、さっき……、憲兵のおじさんに連れてかれちゃったよ……」

 そんなことを口にした。

「憲兵に連れていかれただぁ? あの野郎、クソチェイヴァ目玉アイヒが飛び出すまでボコボコにしてやるぜ!」

 何か恨みでもあるのか、「憲兵」という言葉に反応してベンはいきなり感情的になった。

「それだ!! ありがとうターク坊やツィーヌ!」

 その子の言葉を聞くなり、ペーティルはベンと共に最寄りの憲兵隊屯所へ急いだ。

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