第56話「今日から美月ちゃんはバタ足マイスターだ」


 バタバタバタバタッ!


「そうそう、その調子、その調子! いいぞ!」

 バタ足をする美月ちゃんの両手を軽く引いて後ろに下がりながら、俺は声援を送る。


 バタバタバタバタバタッ!


「美月、あと5メートルくらいだよ♪ ファイトー♪」

 美月ちゃんのすぐ横を並んで歩きながら、同じように声援を送っている優香。


 大人向けと比べて水深が少しだけ浅くなっている子供用プールで、練習を始めてから休憩を何度か挟みつつ、早1時間半。


 元々覚えがいいっていうのもあるんだろう。

 最初は使っていたビート板(レンタル)も今はまったく使わずに、俺も軽く添えるような感じで手を引くだけ。

 美月ちゃんは、もうすっかりバタ足のコツを掴んだようだった。


「ほい、端まで来たぞ。お疲れさん」

「ぷはぁ! どうでしたか?」


 泳ぎ終わった美月ちゃんは、顔を上げるとすぐに俺に出来栄えを尋ねてきた。


「バタ足はもう完璧だな」

「ほんとですか?」


「息継ぎも上手になったし、もう言うことなしだ。100点満点、今日から美月ちゃんはバタ足マイスターだ」


「やったぁ!」

 俺の言葉に、両手をグーにして可愛らしく突き上げた美月ちゃん。


「お疲れさま美月。よく頑張ったわね」

「えへへ、はいっ!」


「とりあえずこれで今日の目的はクリアかな?」

「蒼太おにーちゃん、教えてくれてありがとうございました! おねーちゃんもありがとう!」

「どういたしまして。じゃあここからは楽しく遊ぶか」


 せっかくだしクロールの手の動きなんかも教えてあげたい気持ちはなくもないんだけれど。

 まだまだ小さい美月ちゃんに、あんまり一気に詰め込むのはどうかと思うんだよな。


「美月、流れるプールに行きたいです!」

「いいぞー。流れるプールって妙に楽しいもんな」 

「教えてもらったバタバタで、流れに逆らおうと思います」

「あはは、他のお客さんの迷惑にならない程度にな」


 そうは言いつつも、その気持ちはよく分かるぞ美月ちゃん。

 俺も小さい頃によくやったよ。

 流れるプールに逆らって泳ぐのは、生物学的本能に訴えかけてくるなにかがあるよな。


「ねぇ美月。結構泳いだけど、美月はのどは渇いてない?」

 と、そこで優香がそんなことを尋ねてきた。


「あ、少しのどが渇いてるかもです」

「一生懸命頑張ったもんな」


 ならジュースでも買ってくるよ――と言いかけた俺よりも先に、


「じゃあ私が売店で3人分の飲み物を買ってくるわね。蒼太くんはそのまま美月と遊んでいてくれる? 飲んだら流れるプールに行きましょう」


「使いっぱしりくらい俺が行ってくるぞ」


「いいからいいから。蒼太くんもずっと付きっきりだったから、疲れてるでしょ? 私が買ってくるから、蒼太くんは美月と一緒にゆっくりしてて」


「そうまで言うなら優香に任せようかな。サンキューな優香」

「いえいえどういたしまして。2人とも飲み物はなんにする?」


「美月、オレンジジュースが飲みたいです! 炭酸じゃないのがいいです!」

「俺はスポドリ系なら何でもいいかな」


「炭酸の入っていないオレンジジュースとスポーツドリンクね。じゃあすぐに買って戻ってくるから。そこのベンチで水分補給もかねて休憩しましょう」


「了解」

「おねーちゃん、プールサイドは走っちゃダメですからね」

「はいはい、分かってます」


 苦笑する優香を送り出すと、俺は美月ちゃんと水の掛け合いをしたり、バタ足の復習をしたりと、優香が戻ってくるまで遊んでいたんだけど――。


 …………

 ……


 施設内に設置された大時計に視線を向けると、優香が飲み物を買いに行ってから既に20分が経過していた。


「優香、やけに戻ってくるのが遅いな?」

 更衣室にお金を取りに行く時間が必要だったにしても、ちょっと遅すぎる。


「お店が混んでいるんでしょうか?」

「人は増えてきたけど、そこまで混むほどとは思えないんだけどな」


 水着だけで十分なほどに温かい室内温水プールとはいえ、時期的にはまだまだ泳ぎたいって思うような時期ではない。

 多くの人でごった返す夏本番の混み混みなプールとは雲泥の差だ。


「おねーちゃんになにかあったんでしょうか……?」

 俺の言葉に、美月ちゃんが不安そうな顔を見せる。


 くそっ、しまった。

 馬鹿か俺は。

 美月ちゃんに余計な心配をさせてどうするんだ。


「ぜんぜん何もないと思うんだけど、念のために一応様子を見にいってみるか」


 俺は美月ちゃんを安心させるべく「何もない」をことさらに強調して言いつつプールから上がると、美月ちゃんと手を繋いで売店のあるエリアへと向かった。

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