第38話 何の変哲もない昼休み。俺は葛谷詩織に声をかけられた。(2)

「あの、えっと……紺野くんは私のこと、怒ってるよね?」


「別に?」

 上目づかいでおずおずと聞いてくる葛谷に、俺はそっけない言葉を返す。


「ごめんなさい。怒って当然だよね。私は紺野くんのこと傷つけちゃったんだから……ラインも電話も拒否されちゃってるし……」


 そんな俺に対して、葛谷はなんていうか平身低頭だった。


 あの一件があるまで丸1年間付き合ってきたけど、こんなしおらしい葛谷を見るのは初めてだ。

 葛谷はどっちかっていうと、俺に尽くさせるタイプだったから。


「今さら謝られてもな。もう後の祭りっていうか。そもそもあんなことしといてさ」

「うん……」


「それで話ってまさかこれのこと? だったらもう行っていいか? 怒ってはいないけど、それでもイチイチ蒸し返されたらやっぱり気分は良くないから」


 こうやって蒸し返されるとあの日――よりにもよって付き合って1年の記念日に――葛谷がイケメン医大生とラブホから腕を組んで出てくる姿を、どうしても思い出さずにはいられないから。


 既に葛谷に恋人としての未練はない。

 だがそれでも。

 こうやって面と向かって話していると、あの時感じた絶望感とか虚無感、屈辱感といった様々な感情が、俺の胸の中に再びうっすらとこみ上げてくるのだった。


 その言いようのない不快感に、俺は思わず舌打ちしそうになってしまう。

 でもさすがにそれは男としてダサいと思ってなんとかこらえた。

 堪えた自分を自分で褒めてあげたい。


 俺は葛谷に背を向けると、舌打ち代わりに心の中でため息をつきながら歩き出した。


 別に怒っちゃいない。

 これは本当。

 そりゃ完全にゼロになったわけじゃないけど、それでも俺にとっては葛谷はもう過去の存在だから。


 あの思い返すのも最悪な日。

 だけど俺は、帰りに溺れる美月ちゃんを無我夢中で助けに行ったことで吹っ切れて、幸運にも過去の存在にすることができたから。


 だから怒ってはいないんだけど。

 それでも元カノがNTR浮気していた話を、こうやって元カノ本人から蒸し返されて気分が良くなる男なんて、いてたまるかっての。


 こんな中途半端な謝罪ならそもそも必要ないから、そっとしておいてくれよな。

 俺たちはもう他人のはずだろ?


 だけどま、これで今度こそ綺麗さっぱり縁は切った。

 金輪際、俺と葛谷が会話をすることはないだろう。


 俺はその一点においてのみだけ、この会話に意義のようなものを見出して、半ば清々していたんだけど。

 そこで葛谷が驚くような行動をとったのだ。


「待って――!」

 大きな声で言った葛谷が、俺の背中に向かって勢いよく抱き着いてきたのだ。


 そのままスッと腰のあたりに手を回されたことで、俺の背中と葛谷の身体がギュッと密着してしまう。

 図らずも俺が葛谷にバックハグされたような体勢になってしまった。


 付き合っていた頃に何度か体験した女の子特有の柔らかい感触が、背中を通してじんわりと伝わってくる。


「いきなりなんのつもりだよ? 意味が分からないんだけど」

「ごめんなさい……」


 俺の背中に顔をうずめながら、くぐもった声で呟くように謝罪の言葉を紡ぐ葛谷。


「ごめんじゃなくて、そういうのは例のイケメン医大生のカレシにやればいいだろ? 一緒にラブホに行ってたさ」


 さすがにイラっとしてしまう。

 本当に意味が分からない。

 俺たちもう恋人でもなんでもなくて赤の他人なんだぞ。

 これは「絶対になし」だろ。


 もちろん振りほどこうと思えば簡単に振りほどくことはできる。

 葛谷は華奢な女の子で、俺は平凡だけど男だから。

 だけど女の子相手に力づくでどうのっていうのは、イラついていてもさすがに気が引けた。


 暴力は嫌いだ。

 できうることなら話し合いで解決したい。


「そのことなんだけど……」

「なに?」


「紺野くんさえ良かったらよりを戻したいなって」


 俺はたっぷり5秒ほどかけて、その言葉の意味を頭の中で噛み砕いてから、


「…………は?」


 思わず間抜けな声を上げてしまった。

 よりをもどしたい――だって?

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