第10話 ユイカ・イルクラナス

 ナミは少年を部屋の中に入れると、冷蔵庫から缶に入ったオレンジジュースを取り出し、コップに移し替えて彼に渡した。少年は帽子だけ脱いでナミに勧められたテーブルのある席に着く。


 オレンジジュースをもらうと、お礼を言ってから一気に飲み干してしまった。


(水筒すいとうは持ってたけど、中身空っぽだったのかな。よっぽどのどかわいてたみたいね……)


「おいしい?」


 ナミが尋ねると、少年はにこっと笑ってうなずいた。


「おいしいです」

「もう少しいる?」

「はい! あ……、でも、お水がいいです」

「オレンジジュースじゃなくていいの?」


 すると、少年は自分が言ってはいけないことを言ってしまった、というような表情になり、言いにくそうにしながら答えた。


「お母さんに、甘いものばかり飲んじゃダメって言われているから……」


 ナミは、少年の口から「お母さん」という言葉出てどきりとする。

 ユイルが父親なら、母親もいるに決まっている。その二人が愛し合って、この子が生まれたのだ。それなのに、ナミは彼に母親のことを言われるまで失念していたのである。


(認めたくないのかもね……)


 ナミは自分の気持ちに素直になった。この子は可愛い。

 しかしいまだに、ユイルが結婚したことを信じたくないのだ。


「そっか。それなら仕方ないね」


 ナミは心の声を隠しながら、少年が望んだとおりに、コップに水を入れてあげた。


「ありがとうございます」

「どういたしまして」


 ナミは水を飲む彼の向かい側に座り、思わずまじまじと様子を見る。


(まるで、ユイルが小さくなったかのよう……。本当に似ている)


 見られていることに気が付いた少年が、ナミを見て首を傾げた。


「どうかしたんですか?」

「あ、ううん。あなたお父さんによく似ているなって……」


 ナミは不思議となつかしくながめていたが、彼はどことなく寂しい表情を浮かべる。


「ぼく、お父さんに似てますか?」

「うん、似てる。そういえば、名前を聞いていなかったね」

「あ、ごめんなさい。えっと……、ぼくの名前は、ユイカ・イルクラナスです」


 ナミは微笑ほほえんだ。


「ユイカ君か。名前もそっくりなのね」


 ユイカはコップを強く握りしめた。


「……お母さんが、お父さんに似た名前にしたい……、と言って付けたそうです」

「そうなの」


(ユイルと結婚した女性か……。きっとその人は幸せだったんだろうな)


 自分がそうなりたかった。でも、自分はユイルに選ばれなかったのだから仕方ない。


(ユイルが十九歳のときに、カンナさんに手紙で伝えたときの子よね。だとすると、今は六歳くらいかな。だとしたら――……)


 一体、どうやってここまで来たのだろうか。そして、どうしてここへ来たのか。ナミはその答えが知りたかった。


 ユイルとはずっと疎遠だったので、ナミが実家を離れてここに住んでいることは知らないはずである。それに彼は実家との折り合いも悪いため、家族からナミのことを聞くことはできない。


 友人に聞くという手もあるが、ルピアに行く前のユイルは素行が悪かったので、友達がいるか疑問であるし、ナミとの共通の友人はいなかったはずなので、多分聞いたところで分からないだろう。


 つい最近教えたクレリックはユイルを探していたはずだし、ナミに「助けるな」とくぎしたくらいなので、仮に二人が会っていたとしても教えていないと思われた。


「どうして私のところに来たの? お父さんとお母さんは心配していないの?」


 ユイルはルピアで生活していた。彼の子であれば一緒にその街で生活していたはずである。


 それならば、ユイカはどうやってシュキラに来たのだろうか。もし、クレリックが言っていたようにユイルがこちらに来ているのだとすれば、はぐれてしまったのか……などとナミの頭のなかでは様々な想像が飛びった。


「お母さんは、ぼくのことを心配していないと思います」


 ユイカは悲しげな表情を浮かべる。ナミは「お母さんは」というのが気にかかった。


「どうして?」

「……」


 ユイカは答えたくないようで、そっぽを向いた。


「じゃあ、どうして私のところに来てくれたのか教えてくれる?」


 何も話さなくなってしまうのは困ると思い、優しく尋ねる。ユイカは少し悩んだあとに、ぽつりと「……お父さんが言ったから」と言った。


「そっか」


 ナミはユイカに笑みを見せながら、大きくうなずいた。一つ確かなのは、ユイルが誰に聞いたのかは知らないが、ナミの住んでいる場所を知っているということだ。


 しかし、ユイルがどうして自分のところへ行けと言ったのか、そしてどうして安全な場所にユイカを行かせなければいけないのか全く分からない。


 また、肝心かんじんのユイカはナミにそっぽを向けてしまっている。話したくないということだろう。


「……」


 悩んだ末に、ナミはそれ以上聞かないことにした。

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