-2- ユイルの子

第8話 扉の前に

 ユイルという人物の存在は、ナミの人生の大半をめていた。


 彼がいることによって、つまらないシュキラでの生活も彩豊いろどりゆたかかなものとなった。


 だがユイルがいなくなり、結婚をし子どもができたと聞いてから、彼女は彼を失ったような喪失感に襲われた。胸にはぽっかりと穴ができ、彼女はそこに埋めるものを探していた。彼に代わる何かを。


(早くこの穴を埋めてしまいたい。いつまでも彼に執着しゅうちゃくするなんて馬鹿げてる。馬鹿げているのに……。またこんなことしてるなんて、私って本当にダメな人間ね)


 ナミは自嘲気味じちょうぎみに笑い顔を上げると、すでに日はしずみ、辺りは暗くなっていた。


「帰ろう……」


 ナミは立ち上がり服についた砂を払い落とすと、ユイルを探すために使った自転車を引きながら、重い足取りで家に戻るのだった。


 ナミは現在、スイピーの近くにあるアパートで生活している。


 実家もそう遠くないところにあるが、一緒にいると色々うるさく言われるので、二十二歳のときに移り住んだ。あまりお金がないので、立派な場所には住めないが、アパートの住人は皆いい人たちなので気に入っている。


 屋根と壁がパステルグリーンに染められたアパート「グリーン・ルーフ」の二階にある一部屋が、ナミの今の家だ。


 彼女はやっとのことでアパートまで辿たどり着くと、自転車は大家が用意してくれている駐輪所に置き、部屋までの階段を上り始める。


 あちこち歩き回ったせいで、一段一段がきつい。

 それでもやっとのことで上まで上り、部屋のとびらに目を向けたときだった。


(え……?)


 ナミは自分の目を疑った。

 自分の部屋の前に小さい子どもが、ドアに背を預けて座っているのである。紺色こんいとのつばのある帽子を深々と被ってリュックを背負い、肩には水筒すいとうをかけていた。


「誰……?」


 ナミは驚き呟くと、そっとその子どもに近づき様子を見る。だがこちらに気が付かないので、今度は腕をつんつんを突いてみるがぴくりともしない。

 どうやら眠っているようだった。


「おーい……君、起きてー」


 ナミはその子の肩を優しくつかんで軽くする。


 子どもは「んん……」と言いながら目を覚ましたようで、目をこする。彼はしばしぼうっとしていたが、顔を上げ半分開いたまぶたからきらきらと光るブルーの瞳でナミを捉えた。


「あれ……、あの……このお家の人ですか?」


 高い声だが男の子だろう。まだ半分寝ているような状態で、目がとろんとして尋ねる。ナミは、彼が誰なのか聞きたい気持ちを飲み込んでうないた。


「そうだけど……」

「それじゃあ、お姉さんがナミさん?」


 彼はナミの名を知っていた。


「そうだけど……、どうして知ってるの?」


 少年はふわあぁ、と欠伸あくびをしながら答えた。


「お父さんがそう言っていたから」


 ナミが「お父さん?」と小首を傾げたとき、ある予感が頭をよぎった。


(まさか……)


「ねえ、君。お父さんって誰? 名前を教えてもらえる?」


 ナミの胸が高鳴るのを感じる。すると、少年はナミが求める回答を口にした。


「はい。えっと……、お父さんの名前は、ユイル・イルクラナスです」

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