第3話 とどまる思い

 十七時になると仕事は終わりである。ナミは片付けを終わらせて店を後にした。


(好きな人、か……)


 ナミは丘の中腹にある店から、下の方へ降りていく階段で足を止め景色を眺めた。


 夕焼けの空が半分以上をめているが、視線を下へ移すと住宅地が広がり、ぽつりぽつりと家の明かりが見える。さらにその下に大きな黒い湖が見えた。


「……」


 ナミの家は店からそう遠くない場所にある。

 ここから上の階段を登っていけば十五分あれば着くが、今日は真っ直ぐ帰らず寄り道をすることにした。目の前に続く階段をゆっくりと二十分程かけて降りると、標高の一番低いところ辿り着く。


 そこから目の前の大きな道路を渡ると、短い階段を降り、すぐ目の前にある「セレ・ドヴァイエ・ミカラスカ」へ向かった。


 近づいてみると、まるで海のような湖の周りは浜辺のようになっており、船の仕事をしている人々のほかに若い男女のカップルが歩いている。


 これから暗くなって風が吹かなければ、この湖に星が映る。ロマンチックなその砂場で、彼らはお互いを思う気持ちを深めるのかもしれない。


 ナミは人の多いところをそそくさと通り過ぎ、人気のいないところに来ると腰を下ろした。

 少しずつ日が暮れていき、空気が冷たくなっていく。


「……」


 ナミはひざを抱え、しばらく湖の水面をじっと眺めていたが、おもむろに顔を腕の中に埋めて呟いた。


「ララさん。本当は私、好きな人はいるんです……」


 誰にも聞こえないほどの小さな声だった。


「どんな人って聞かれたら、とても美しい人って答えます。男の子なのに、女の子みたいに綺麗なんです。幼馴染で、私の大切な人……」


 ナミはゆっくりと顔を上げ、じっと遠くを見つめる。湖の向こうにあるルピアの街を見ようとしていた。


「でもその人はこの町にもいないし……、結婚もしているんです」


 ナミの瞳からは一粒の涙がこぼれ落ちた。


 冷えた頬にそれは温かかったが、ちょうどそのときルピア側からこちらに向かってふわりと風が吹いた。その風は湖の表面にさざ波を立たせた後、ナミのほほでて抜けていく。


 頬を伝った涙の温かさを奪い去り、その代わりに冷たいものが残った。


「……」


 今日は少し風があるようだ。もしかしたら夜になっても星は映らないかもしれない。

 そんなことをナミは思う。


「本当はあきらめなくちゃいけないんですけどね……。どうしてでしょう。できないんです」


 ナミは日が暮れるまでその場にいて、湖なのか、空なのか、はたまた虚空こくうなのかどこかをぼんやりと眺めていた。


 彼女は時折この地で記憶の中にダイブし、好きな人と起こった出来事を思い返していた。


 ナミにとって「セレ・ドヴァイエ・ミカラスカ」は思い出にひたれる場所である。

 こうすることで、「さびしい」という気持ちをごまかすことができた。好きな人と共に過ごす気持ちがよみがえるのである。


 だが、それは決して未来に進むことはない。彼女は好きな人との過去を、ここで虚しく思い出すだけなのである。


 ナミは十分な時間をそこで過ごすと、ゆっくり立ち上がった。すると遠くのほうにカップルの姿が見えた。暗かったが、シルエットの動きでキスをしているのが分かる。


 ナミはさっと視線をらすと、はあ、とため息をついた。


(いいわね……)


 両思いとは、なんて幸せなことなんだろう、とナミは思った。自分には得られないものである。


(片思いって、諦められなかったら、どうしたらいいのかしら……)


 ナミは再びため息をつくと、帰路きろについたのだった。

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