恩人達

そうざ

The Benefactors

「本当にお世話になりまして。私にとっても母にとっても貴方は恩人です」

 そう言うと、娘さんはサキさんの位牌に虚ろな目を移した。

 サキさんは私が勤めるデイサービスセンターの常連だった。亡くなる数週間前にはもうかなり認知症が進行していた。徘徊は日常茶飯事になっていたらしい。年老いた母親との二人暮しで、娘さんの苦労は相当なものだったろう。

「あの日も、ちょっと目を離した隙に……」

 娘さんが不意に涙ぐむ。

 それは、母子の自宅から一キロ程の交差点で起きた。落ち度があったのは、信号無視をしたサキさんの方だ。ハンドルを切り損なった軽トラックは、電柱に激突して大破。運転手は全治六ヶ月の大怪我を負った。一方、サキさんは脚の骨折だけで済んだが、寝た切りになると老いは加速するものだ。それから先は長くなかった。

 運転手は不起訴になった。娘さんも民事訴訟を起こさなかったので、一件は速やかに収束した。地方紙の片隅に小さく載っただけの、殊更に他人の関心を引く事もない事故に過ぎなかった。

 玄関の呼び鈴が鳴った。

 娘さんがはっと顔を上げる。来客の約束があったらしい。娘さんは慌てて涙を拭き、すっかり白いものが目立つようになった髪を軽く撫で付けると、今日はわざわざありがとうございました、と頻りに玄関の方を気にし始めた。私は自然と御暇をする運びになった。

 来訪者は、すらりとした青年だった。私は軽く会釈をして擦れ違い、裏手に停めたサービスセンターの送迎車へ向かった。

 が、その面差しに覚えがあるような気がした。

 失礼とは思いつつ生垣の隙間から屋内を覗いた。青年が仏壇の前で神妙に手を合わせている。

 通夜の光景が甦った。

 人目も憚らず男泣きで土下座をしていたその人物。終始、俯き加減だったその姿と重なった。

 警察は当初、青年と娘さんとの間柄に関心を寄せていたようだったが、あの事故が起きるまで二人は全く赤の他人で、犯罪性はないと結論付けたようだ。

 娘さんが私に言った恩人という言葉。娘さんが一番の恩人と感じているのは誰だろう。

 二人が睦まじく談笑している。娘さんの笑顔を見るのは初めてだった。

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恩人達 そうざ @so-za

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