第16話 どんな手段でも

 ふと開きっぱなしだった教室のドア向こう――廊下に視線を向けた時、そこに誰かがいた。どうやらトト先生との話を聞いていたようだ。


「誰かいるっ」


 ミューは席を立ち、教室を飛び出す。相手もすぐ逃げ出していたが、学校の制服である白シャツの背中に銀髪という後ろ姿で誰かはわかった。廊下を駆け抜け、階段手前で減速した時を狙い――。


「リム! 何してるんだよ!」


 リムの腕を捕まえた。リムは一瞬こちらを睨んで手を振り払うと、すぐにまた逃げようとした。


「待って、リム! お願いだから話をしようよ!」


 離れかけたその背に向かって言葉をかけると。銀髪は軽く揺れただけで、その場にとどまった。

 また逃げてしまいそうな友人を怯えさせないようにゆっくり歩み寄り、その手首を今度は優しくつかむ。

 何も言わないリムは拳を握りしめ、前髪で自らの視界を隠している。


「リム、お願いだから何も言わずにいなくならないで。昨日から変だよ、どうしたっていうんだよ……」


 たかだか魔物の召喚ぐらいで。それだけで自分達の関係にヒビが入るとは思いたくない。  


「それに、リムに教えてほしいことがあるんだ。ふと思い出したんだけど、わからないんだよ。僕達が小さい頃、あの黒い魔物を見た時のこと……リムは僕と一緒にいて、黒い魔物を見て逃げようとしてくれた、手を引っ張ってくれた。そこは覚えてるんだけど、そこから先がわからないんだ」


 あの黒い魔物タナトスは死神とも言われる強力な魔物だ。そんなヤツからなぜ逃げられたのか。


「あの時、何があったのか、リムはわかる?」


「し、知らない」


 リムはこちらを見ないまま答えた。


「……知らないの?」


「あぁ、知らないっ」


 小刻みに横に振られる銀髪。それを見てわかるのは、リムが隠し事をしていること。

 でも顔色が悪く、震える唇を見たらそれ以上の追求はできない。

 リムは震える声で続ける。


「お、俺もわからない……そこから先のこと。お前と逃げようとしたのは覚えてる、けど……どうなったのかは……わ、わからない」


 手の平に指先がくい込むぐらい、リムは手に力を込める――何かを我慢しているように。


「だけどあの時、俺はお前を助けられなかった……助けようとしたけど、できなかった。俺は気づいたら一人で外にいた。お前の家から離れた場所に立っていて、お前の手をなんでつかんでいないんだと思って、自分を呪った」


 それはつまり。リムは一人で逃げ出せたということか。それとも“逃げ出した”のか。いや、それならそれでいい。自分がどうなったのかは、わからないけど。リムが無事でいられたんだろうから。

 でもリムは小さい声で「クソッ」とつぶやいていた。


「だから……だからあの時から俺は決めたんだ。もう俺は逃げない。俺はお前より強くなってお前を今度こそ守るって決めたんだ。なのによ――」


 銀の前髪の隙間から彼の瞳がのぞき、自分と目が合う。銀の瞳はその決意を表すかのように熱く溶けた銀のようにゆらめく。


 今の言葉に自分の心は苦しくなる。リムはいつも成績優秀。いつも必死に努力して優位に立っていた。

 そしてずっとそばにいてくれた……それはリムの決意によるもの、だったから。


「それなのに、それなのに……クソッ。俺の召喚した魔物は天魔の中でも最弱と言われるちっぽけな魔物だった。あんなんじゃお前を守れない。ずっと守ると決めていたのに。俺はお前を守る力が欲しい。どんな手段でもいい、強くなりたい。他の誰でもない、俺がお前を守りたいんだよ」


 その強い決意に言葉が出ない。それがスピカを嫌う理由。小さくて、か弱い魔物だと守ることができないから。


「でもリム……スピカだって生きてるんだ。そんなこと言わないで、大事にしてあげてよ」


 セラが言っていた。スピカは天魔の中では最弱だが本当に心優しい人間の元にしか現れないのだと。スピカはリムの心に反応して現れたのだ。


「僕を守ってくれるのは嬉しいよ。でもそんなに思い悩まないで……」


 訴えたが、リムはうなずきも言葉を返すこともなかった。黙ってうつ向いたまま、駆け出してしまった。

 今度はその背中を捕らえることはできず、ミューはその場に立ち尽くす。


 自分のためを思ってくれる行動、それは正直に嬉しい。

 けどそこまで思いつめないでほしい。たとえ過去にリムが自分を置いていったのだとしても。今こうして無事にいるのだし、リムも無事だったのだ。


「……僕は大丈夫だから」


 つぶやいたが、もうその言葉は届いていない。赤い夕焼け色の廊下に消えていくだけだ。


 あの日、タナトスに出会った時。見つかり、逃げ出そうとして。けれど何かの手違いで、リムだけが逃げ出せた。

 残された自分は、そこからどうしたのだろう。なぜ何も覚えていないのだろう。

 首筋が痛む。古傷がズキッと痛むような感じだ。でも首には古傷などないのだ。

 ない、ハズだ。

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