第20話
卍
忍び込むのはたやすかった。
深更、世田谷区の住宅街にひっそりと紛れるようにある寺の境内に、八咫坊は屈み込んでいる。
二メートルほどのコンクリート塀を乗り越え降り立った場所は、ちょうど大きな楠の下だった。家々の明りと街灯で夜空は存外に明るかったが、
塀の上には侵入者用のセンサが備え付けられているが、この場所だけは、張り出した楠の枝葉を伝って壁の内側へ侵入することが出来るのだ。
息を殺す八咫坊の先に、二つの建物がうずくまっている。正面に見えるのは寺の本堂で、欄干越しに窓から光が漏れていた。右手奥に、本堂よりもやや小ぶりな土倉が鎮座している。八咫坊から取り上げた〈車〉と〈鏡〉の両方の神器がそこにあるのだ。
理由は定かでないが、それらはまだヤマの手元にあった。ヤマが貸し渋っているのは、宗門に有利になるように条件を釣り上げて交渉しているからだろう、と八咫坊は推測した。
だがそれも、時間の問題だった。夜が明けたら、〈車〉と〈鏡〉が貸し出し相手に引き渡されることは確認済みだった。
奪うなら今夜しかない。
充分に気配を窺ってから八咫坊は動き出した。ここの警備は熟知していた。まだ彼がヤマを離れる前、何度か警備要員として狩り出されたことがあったからだ。
蔵を左に見ながら、裏手へと回っていく。時折、立ち止まり、じっと闇に目を凝らす。
土倉の周りをゆっくりと歩く男たちが見て取れた。男たちは各々、金剛杖を握り、油断なく辺りに目を光らせている。中に収められているものを考えると、いささか手薄な守りといえるかもしれない。
もっとも倉の中にあるものを盗み出したところで、正しく活用できる者など、ほとんどおるまい。普通の人間にとっては単なるガラクタにすぎない。
さらに歩を進める。
土倉の裏側には、格子のついた窓が二階の位置に貼り付いている。その下をやはり、警備が行ったり来たりしていた。
ち、と八咫坊は舌打ちした。記憶よりも守りが厳重になっていた。当初の腹づもりでは、二階の窓から侵入し、〈車〉を持ち出せるように用意した後、正面の二人を土倉の中に誘い入れて眠らせる計画だった。
だが今現在、土倉はそれぞれ四方にひとりずつ、四人からなる警備に守られている。警備の者たちは相応の手錬だ。いかな八咫坊といえども、同時に相手をするわけにはいかない。全員を倒した頃には、新手の警備に囲まれているだろう。
さて、どうするかーー。
八咫坊が思案を始めたとき、正面のほうから話し声が聞こえてきた。建物を回り、聞き耳を立てた。
「玄海様と言えども、正式な下命がなくては、ここにお通しするわけには参りません」
「まあまあ、そう固いこと言いなさんな。大方、何かの手違い、おっつけやってくるじゃろ」
声の主たちの見える位置に戻った。三人の人影があった。牡牛のような二人の警備を前に、小柄な玄海がのんびりと佇んでいる。八咫坊は眉根を寄せた。
「ですがーー」
困惑しきった様子で返しながらも、上野の西郷さんに似た警備は、ぎょろりと目を剥いて一歩も譲らない態度を示した。
「仕方ないのう」
玄海は小さくため息をつくと、つい、と一歩踏み出した。散歩にでも出かけるような気安い動作だった。
伸ばした腕の先、刃のように突き出した人差し指と中指の二本が、警備の胸へと刺さった。二つの影は、重なってみると大人と子供ほどの体格差がある。
あ、ともう一人の警備が間の抜けた声をあげた時には、玄海はそいつの懐へと移動していた。またも胸に指が突き立てられる。警備たちは同時にくず折れた。
中国武術には
異変を察して、建物の裏手から警備の者が駆けつけた。
八咫坊の動きは素早かった。全身をバネにして殺到した。
一人目は、わけも分からずとりあえず玄海に突っかかった。老体がふわり、と浮かび上がり、回転しながらそいつの後ろに降り立った。少し遅れてきた二人目へと目掛けて、八咫坊は襲い掛かった。渾身の力を込めて、相手の脇腹に
ぐふう。そいつはもんどりうって倒れた。隣りでは、玄海の手によってもう一人が静かにさせられていた。
「てめえ、何でここにーー」
詰め寄る八咫坊の前に、涼しい顔の老人は、懐から大きな鍵を取り出した。
「さっき、あっちから失敬してきての」
玄海が、にやり、と悪戯を見つかった子どものような笑みを返した。
老人が鍵を突き刺して捻ると、大ぶりな南京錠はすぐに外れた。
「ほれ、あけんかいな」重い両開きの扉を指して言う。「か弱い年寄りにしんどい仕事さすなや」
ーーどこがか弱いってんだ。
ぶつくさ文句をいいながらも八咫坊はやはり温かいものを感じずにはいられなかった。たとえ、自分が化け物だとしても、この気持ちに偽りはない。
八咫坊は重厚な観音開きの扉を引いた。呆気にとられた。扉の内部には、鈍い光を放つ金属製の扉がもうひとつ立ち塞がっていた。二枚の扉それぞれに取っ手がついている。
ためしに引っ張ってみたが、びくともしない。右の扉の、八咫坊の腹くらいの位置にナンバーの振られたキーボード、その上には小さなモニタがついている。どうやら電子キーのようだった。
「物騒なモンがしまわれとるんじゃ、こんな古ぼけた土壁だけのわけはないわな」
玄海はウィンクをしながら、銀色のカードを取り出した。表面にナンバーが刻印されているだけの、素っ気無いカードだった。それをキーボード下のスリットに差し込むと、玄海は三十六桁のパスワードを打ち込んだ。ピッという金属音とともに、モニタがグリーンに点滅した。ゆっくりと扉が横に滑っていく。
「さあ、行こうかの」
玄海が、存外に厳しい表情で足を踏み出した。
土倉の中は真っ直ぐ廊下が伸び、左右には扉が二つずつ並んでいた。玄海はためらいなく手前の扉に近づくと、カードを使った。扉が内側に開いた。ガラン、とした室内の真ん中には〈車〉が置かれていた。手前に簡素な角卓があり、奥に部屋の一辺を覆う棚があった。棚には木の箱や、経典や、金属製の法具が並べられている。
玄海は棚の右端から、茶色い木箱を引っ張り出した。箱を開けると、くすんだ紫色の布の上に〈鏡〉が鎮座していた。
「さてさて、早速運び出してもらわんと、な」
当たり前のことのように玄海が八咫坊に〈鏡〉を放った。もはや逆らう気も起きない。
八咫坊はぼやきながらも、入り口へ〈車〉を押していった。
自分の口元に笑みが浮かんでいることには、気づかなかった。
α
くるくるまわる。紫青赤オレンジ黄色。巨大な光の
〈観覧車〉というその機械が、人を乗せて回るためだけに作られたものだと聞いて、少年は驚嘆したのだった。
まったくの無駄だ。少年に機械の名前を教えた老人ーー惣一郎氏ーーは、侮蔑の表情で言った。
あるいはその無駄こそが人間の文化なのかも知れぬが。
老人は、しばらくしてつけ加えた。
そうなのかも知れない。そうでないのかも知れない。
いずれにしても少年には判断がつかないことだった。ただ、この島に来て異様だったことのひとつは、この島には夜がないということだ。
太陽が落ちても、空は薄ぼんやりといつまでも明るかった。少年の島では考えられないことだ。島で一番大きな村長の家には電気が通っているが、自家発電機で作っているのでおいそれとは無駄に出来ない。邸全部の電灯をともすのは客が来たときくらいで、それ以外の時は、必要最低限しか使っていないはずだった。それがこの島には潤沢にあるようだ。
それは素晴らしいことなのかもしれない。そうでないかも知れない。
風が流れ、廃棄物の混じった潮の香りを運んできた。
海沿いに建つ、背の高いビルの天辺。屋上の給水塔の上に、少年は腰掛けている。光の輻から目を転じると、少年の前方の遠景に幅広のビルがそびえている。全面がガラス張りのそのビルもまたライトアップされ、虹色に輝いていた。
老人がテレビ局だと言っていたそのビルの中で、〈大口〉の〈
これまでの攻撃で〈大口〉はかなり疲弊しているはずだった。
〈大口〉が外に出てからひと月あまり。いまならばまだ戦える大きさだ。だからこそ、老人の手を借りて、間断ない攻撃を仕掛けてきたのだった。少女たちの呪歌しかり、〈大口〉を取り囲む壁しかり、〈
本来ならば、老人の言う〈大口〉を捕捉する機械を使い、彼奴の棲み処に攻めいるつもりだった。だがどうやらその機械は、昨晩、何者かに奪われてしまったらしい。
ならばーーと繰り出した次善の策がこれだった。
回収していた〈
せめて今でよかった。タイミングが、あとひと月遅れていたら。
少年は有り得たかもしれない事態を想像して、ぞっとなった。胸が苦しくなる。とても自分の、いや人間の手には負えなかっただろう。間に合ってよかった。少年はひとつ息を吐き出した。
間もなく〈大口〉は、ここへやってくるだろう。
ただーー。
彼奴は恐ろしくずる賢い。これが罠である可能性を当然、考慮しているだろう。どのような手を使うかは分からないが、何らかの方途で危険を排除し、それから悠々と〈巣〉の元に行こうとするだろう。彼奴を阻める人間など存在しないのだからーー。
少年は腰に捲いた布を外す。特別な模様で織られた
祖父に教わった呪文を口の中で唱えながら、三角形の布を頭に捲く。
ちょうどバンダナを頭に捲いたときのようだが、布は額でなく両の目も覆ってしまっている。
たちまち周りの音が遠のき、少年は自分が暗く閉じた世界の中にいることに気づく。
集中しなければならない。
〈大口〉が〈巣〉へ戻ろうと姿を顕すのを捕捉せねばならぬ。失敗は許されない。少年は暗闇にじっと意識を凝らした。
Δ
運命のその日、バラバという女の子から通知が入ったのは、五時限目の授業中だった。
昼過ぎから空が急激に暗くなり、どんよりと空気が重くなった。予報にない、不気味な急変だった。颯太だけでなく同級生みなが、あのお調子者のヒトシですら暗鬱な表情になっていた。
休み時間に通知を確認した颯太は、即決した。
気分が悪いという主張が担任に認められ、あっさり早退の許可がおりた。もっとも迫真の演技が効を奏したわけじゃないだろう。颯太は本当に気分が悪かったのだ。
《マリアに危機が迫っている。お台場へ来い。》
通知の文章はそれだけだった。それで充分だった。颯太は校門を抜け、低く垂れ込めた空の下を全速力で走りだした。
Ψ
同日の夕刻、所用を済ませて本所警察署を出ると、和泉は真っ直ぐに都営浅草線の押上駅へと足を向けた。茜色に染まるはずの町並みは、美しい時間をすっ飛ばして、すでに
和泉の足どりはどこか夢遊病者めいて頼りない。実際、ほとんど意識して身体を動かしていない。一心に進む姿はどこか、狂気にも似た確信がある。
新橋で、ゆりかもめに乗り換えてベイエリアへ向かうつもりだった。
朝から高まりつづけていた、胸が締めつけられるような不安な心持ちは、頂点に達していた。磁石が自ずと南を指すように、和泉は海を目指していた。
ーーすべてが終わる場所へ。
終わる? 何が終わるというのだろう? 事件が?
和泉は我知らず自問自答する。
それともーー世界が?
虚ろな和泉の目にやがて、巨大な観覧車が映るだろう。
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