第19話

Ψ

 加藤和泉と友成水城が岡崎宏の自宅を訪れたのは、その週の日曜日の午後だった。

 美貴に頼んで、指導教授を通じてアポイントメントを取って貰ったのだ。突然の申し出にもかかわらず、岡崎は快諾してくれたということだった。

 小田急線沿いにある岡崎宅へ向かうために、新宿駅のホームで待ち合わせた。

 水城はいつもの白衣じみた姿ではなく、爽やかなアイボリーのパンツスーツだった。髪も奇麗に後ろでまとめてある。隙のない姿に、和泉はあらためて感心する。

 少し待って、各駅停車に乗り込んだ。対面式の座席に落ちる日差しは柔らかく、始発で座れたこともあって、なんだか小旅行でもしているような気分だった。

 ごとごとと小一時間ばかり揺られると、車窓はすっかり田園風景に変わる。思いがけず寛いだ雰囲気に、和泉は慌しい生活を忘れそうになる。

 駅からはタクシーを拾った。小さな街はたちまち後に消え、緑が目に飛び込んでくる。

 十五分ばかり走ると、数戸の家が固まった、小さな集落に行き当たった。平屋建ての農家風の建物は、小さな丘陵の麓にあった。玄関でおとないを入れる。見回してもインターホンの類はないらしい。

 もう一度声を掛けようとしたとき、足音がして、ガラスの嵌った引き戸が開いた。

「加藤さんでいらっしゃいますか?」

 はい、と和泉が肯くと、遠いところをようこそ、と出迎えた男は、にこやかな笑顔で言った。

 岡崎は年齢不詳で、笑うと細い目がいっそう見えなくなる。グレーのスラックスに白いシャツ姿、ループタイをしっかりしめた様は、田舎の学校の教頭先生といった印象だ。

 初めまして、と名刺を差し出した。隣りで、友成です、と水城が丁寧なお辞儀をする。

 狭いところですが、と岡崎は二人を中に通した。

 岡崎邸は古い木造家屋だった。古民家を改装したのかもしれない。廊下の板も柱も黒々と艶が出て、鈍い光を放っている。

 後ろから見ていて気がついた。岡崎は片脚が不自由なようだった。注意しないと気がつかない程度だが、右足を引き摺るようにしている。

 案内されたのは八畳ほどの応接間だった。古びたソファにローテーブルという応接セットのほか、設えつけの棚には、木彫りの置物や鉱物などの雑多な品物が、所狭しと並べられている。

 壁には奇妙なお面や弓矢などの武具の類が掛かっている。和泉が子どもだったら間違いなく飛びついているだろう、魅力的なガラクタたちだった。しかも、少しでも開いたスペースは無駄にしないとばかりに、そこここに大量の書物が無造作に積み重ねられている。

「散らかっていてすみません」

 コーヒーカップをお盆に載せてきた岡崎が、申し訳なさそうに銀髪を掻いた。家で飲んでいるインスタントとは違ったよい香りがする。わざわざ挽いた豆を煎れてくれたらしい。

 手作りと思しきクッキーを盛った菓子皿まである。鼻腔をくすぐる官能的な芳香を楽しみながら、和泉が誉めると、「道楽でして」と岡崎は嬉しそうに顔をほころばせた。

「柿本さんのご紹介でしたが、まさか警察の方だとは思いませんでした」対面のソファに腰を下ろしながら、穏やかな調子で口を開いた。「なにか事件の調査ですか?」

「いえ、仕事とは直接関係はないのですが……」

 和泉は言いよどんだ。勢いでやって来てはみたものの、自分でもどう説明してよいのか分からない。話しあぐねていると、水城が代わりに喋りだした。

 水城には自分の奇妙な「体質」については省き、少年に出会った話をしていた。和泉がそれを本部に報告していないことを知ると水城は眉を顰めたが、それ以上は何も言わなかった。

「実は詳しいことはお話できないのですが、とある事件に関係して岡崎さんの見解をお聞きしたくて参りました」

 ほう、と岡崎は細い目を丸くした。

「わたしみたいな者がお役に立てますかな」

 首を捻りながらも、で、どういったことをお聞きになりたいので、と水を向ける。気を取り直して、和泉は口火を切った。

「その前に、失礼ですが、岡崎さんは、その、どういったご研究をされていらっしゃるのでしょうか」

「私ですか」

 目をぱちくりさせて、岡崎が答える。よく動く目だ。

「そうですね。世間では博物学者などと呼ばれることもありますが、これはあまり正しくありませんね。しいて言えば博物学研究家といえるかもしれませんが。まあ要するに、興味のあることには何でも首を突っ込みたがる、在野の何でも屋ですな」

 博物学とは、明治期に英語の〈Natural history〉の訳語として作られた言葉で、自然界に存在するあらゆるものを収集し、分類する学問なのだという。現在の動物学や植物学、地質学や鉱物学などを広くカバーしている。東洋でいうところの、本草学がそれにあたるということだった。

「もっとも私は、自分でフィールドワークすることはめったにありませんで。もっぱら過去の研究者たちの残した書物などを漁っております」

 ただし岡崎氏がテレビなどに呼ばれる際は、本職の博物学研究よりも、オカルトだのホラーだのといった方面についてのコメントをもとめられてのことがほとんどらしい。

「昔から興味がわくと色々と調べて回る癖がありまして。それで諸々いろんな知識があると思われているんでしょうな」

 邪気のない顔で岡崎は言った。

「そう、そのテレビ番組に出演されたときのことですが、柿本教授とお話されましたよね」

「ええ、ええ。あの方は大変、魅力的な方ですな」

「そのときに、若者の間で流行っている、おまじないのお話をされたのを憶えておられますか」

「おまじない……ああ、ホロボ・トンバのことですね」

「ホロボ・トンバ?」

 まったく未知の言葉に、二人は同時に声を上げた。

 そう、ホロボ・トンバです、そう言って岡崎は立ち上がった

 棚の引出しから分厚い大冊を取り出す。ローテーブルの上で開いた。世界地図だった。

「南太平洋に、ホロボという小さな島がありましてね。ホロボ・トンバというのは、古くからその島のシャーマンが使っている特殊な言語のことです」

「はあ、シャーマンですか」

 すっかり面食らった和泉は、おうむ返しに答えるだけで精一杯だ。

「もっとも、今となっては喋れる人間もほとんどいないらしいですが。まだ祭りのときとか儀式では用いることもあるようですが、それも古老が細々と伝えているだけだそうです」

「お詳しいんですね。それも書物から?」

 水城が質問する。いえいえ、と岡崎は笑った。

「昭和十九年です。私、南方戦線へ送られまして」

 岡崎が少し遠い目になった。

 ということは、と水城は頭の中で計算した。今は九十三か四歳ということになるだろうか。かくしゃくとしていて、とてもそんな高齢には見えない。

 航行中、米軍の攻撃に遭い、乗っていた輸送艦は沈没した。気がついたとき、岡崎は砂浜に打ち上げられていたのだという。

「倒れているところを島の住人に助けられまして、何せほら、一人では動き回ることも出来なくなってしまっていまして」

 そう言って、脚を持ち上げて見せた。よく見ると、右足の膝から下には義足が嵌っているのだった。

「随分親切にしてもらいましたよ。お陰で、仲間の船がやってきたときには、不自由ながらも松葉杖で動けるまでには回復していました」

 最後には、一緒に島の一員にならないかと引き止められるほどであったという。しかし岡崎には帰らねばならない理由があった。国には年老いた母親が一人で待っていたのだ。

 若くして夫を亡くした母は、女手ひとつで苦労して岡崎を育ててくれた。思いを残しながらも岡崎は島を後にした。必ず戻ると約束して。

「で、行かれたのですか」

 岡崎は寂しげに首を振った。

「行けませんでした。島での生活よりも、本土に帰ってきてからのほうが大変で。一日一日を生き延びるのに精一杯で……。やっと落ち着いたと思ったら、母が病に臥せりまして。それからは母の看病と仕事に明け暮れました」

 おっと、と岡崎は素っ頓狂な声を上げた。

「つい、お若い方々につまらない繰り言をお聞かせしました。歳を取るといけませんな」

 苦笑を浮かべると、コーヒーのおかわりをお持ちします、と岡崎は腰を上げた。和泉は何とはなしに落ち着かない心持で、座り直した。

 岡崎の話は、それはそれで興味深いものではあったが、果たして自分の知りたいことの本筋に近づいているのか、判断がつかなかった。しかも、一番厄介なのは、何が本筋なのか、自分がまったく理解出来ていないというところだ。

 そんな和泉の胸のうちを知ってかしらずか、水城は頓着ない様子で、テーブルの皿のクッキーをぱくりと放り込んだ。

「旨い」

「また、そんな大きな口開けて」

 呆れて嗜める。こういうところが、せっかくの美貌を台無しにして、もったいないと思うのだ。

「そう、そう、その大口です」

 再び戸口に現れた岡崎が声を出したので、面食らった。

「先日、柿本さんとお話ししていて聞いたのが、その大口なのですよ」

「はあ」

 まったく話が見えない。ソファに座りながら、岡崎は歌うように唱えた。

「ホロボ・ロンゴ・カカ・ヌイ。オロゴ・ロンゴ・ンチャヌ・グイ」

「それは!」

 問題のおまじないの呪文。現場で聞いた謎の言葉。それを岡崎はこともなげに口にしたのだ。

「ホロボ・トンガに拠りますと、『カカ・ヌイ』は光ーーとりわけ月光ーーとなります。ホロボは島の名前であり、同時に『人』を意味します。もっともここでは『漁師』ほどのニュアンスではないかと考えられます。つまり最初の節は、『漁師よ、月の光て』です」

 岡崎はおかわりを二人に給仕すると、自分も美味そうにコーヒーを啜った。

 和泉の脳裡にあのとき見た影が浮かんだ。長い棒を持ったほっそりとした影。直感がーー核心に近いと告げていた。

「そして後がこう続きます。『〈大口〉を刺し貫け』」

「その〈大口〉というのは何なのですか」

 水城が当然の疑問を口にする。

「魚です」

 あっさりとした答えに、拍子抜けした。

「魚って言うと、あの魚……ですか」

 どう言ってよいか分からず、和泉は間の抜けた反応をした。

 悪戯を企む子どものような表情で岡崎が頷く。

「ええ、ですが非常に恐ろしい魚です。なにせ世界を丸ごと呑みこんでしまうんですから」

「はあ……」

 頭の中に疑問符が飛び交う。何のことやらさっぱり分からない。

「それはつまり……神話ということですか」

 水城が言った。おっしゃる通りです、と笑顔で岡崎は答えた。

「ホロボの子どもたちは寝物語に〈大口〉の話を聞かされます。ホロボ独特の神話ですわな」

「具体的には、どんなお話なのですか」

 うーん、わたしもうろ覚えなのですが、と岡崎は首を捻った。

「たしかこんな話です。遠い遠い昔、ホロボは今よりもずっと大きくて豊かな島だったということです。立派な都市。緑なす田園。穏やかで優れた人々。その繁栄を極めた世界を突然の災厄が襲うわけです」岡崎はコーヒーで口を湿らせた。「〈外の世界〉から来た〈魚〉がーー正確には『魚に似たもの』という表現だったと記憶していますがーー世界を食べ始めたのです」

「食べ始めた……?」

 文字通りむしゃむしゃとね、岡崎は言った。

「人を喰い、動物を喰い、果ては草木や建物、石ころまで喰らい尽くしても〈大口〉は食べることを止めない。いわば、仏教で言う餓鬼みたいなものです。満たされるということがないわけです。放って置けば〈大口〉は無限に巨大化していき、ついには世界そのものを飲み込んでしまうだろうと」

 ごくり、と和泉は喉を鳴らした。他愛のないおとぎ話にもかかわらず、どういうわけか和泉は不気味なリアリティを覚えた。

「もちろんホロボの人々も抵抗はしましたが、まったく歯が立ちません。なにせ相手は、影のように、目には見えても、触ることが出来ないそうなので。もはや神に祈るしかないホロボの人々に奇跡がもたらされます。〈外の世界〉から、〈石〉がやってきたのです」

「石……」

「これも、正確には〈石のようなもの〉、ということになるのですが……」

 ホロボはその〈石〉を使って〈月の光〉を生み出した。〈月の光〉の正体が何かはっきりしないが、おそらくはホロボ・トンバで似た音で表現される〈剣〉ないし〈銛〉なのではないかーー。

 自信のなさそうな素振りの割には、たいした記憶力だった。身振り手振りを織り交ぜた語りはなかなかの迫力だ。

 やがて〈月の光〉を使い、ひとりの勇者が〈大口〉を仕留めることに成功する。かくて世界は破滅から免れ、生き残った人々の手によって、現在の世界が造られたのだという。

「なんだか不思議なお話ですね。それは、その地域ではポピュラーな神話なのですか」

「いえ、それがそうでもないのですよ。南太平洋の中でもホロボにしか伝わっていないんじゃないかと思われます」

 世界が破滅する(あるいは一度した)という神話は原古から人類にあるようだ。

 そのもっともポピュラーなのが洪水神話で、世界中いたるところに(海から離れた中央アジアや、もちろん太平洋全域にも)広く分布している。それは、かつて世界は水で覆われていて、その後、陸ができ、人類の生活が始まったという「原初海洋」の観念が、人類の持つもっとも古い神話イメージのひとつだからだという。

「ですがこれは洪水神話ではありませんね」

 水城が言った。

「確かに。洪水そのものが出てくるわけではありません。ですが、魚が世界を飲み込むというところ以外は、洪水神話との共通点も多いようですよ」

 洪水神話の多くは世界の破滅を描いてはいるが、その後の新しい、現在につながる人類の歴史の開始を語っているという点で創世神話の一種とも言える。ホロボの場合も然り。つまり、〈大口〉神話は洪水神話の変形バージョンではないか。

「あるいは、こんな解釈はどうでしょう。例えば世界を丸ごと飲み込める魚は……まあ、いませんわな。とするとーー津波などはどうですかな」

 神話の起源を自然現象のみに求める視点は、現在の神話研究ではほとんど採用されていないと岡崎は言う。だが、自然現象という要素が、何かしら神話に含まれている可能性があるのもまた事実だ。

 過去のある時点で、ホロボを巨大な津波が襲った。家や家畜や人が飲み込まれる。わずかに生き延びた人々はその経験を、世界を飲み込む魚に託した。

 言葉にされ、解釈されてしまうと、やけに呆気ない気もするが、そんなものかもしれなかった。だが、和泉の直感は、また別の答えを感じ取っていた。

 ーー違う。この話はそんなもんじゃない。

 あのときの少年。あれは幻などではなく、紛れもない実体だった。その彼が、〈大口〉に気をつけろといったのだ。

 和泉には確信があった。あれは幻でも、変質者のたわ言などではない。おそらく少年は〈大口〉を狩っているのだ。

 現実に。

 それもーーこの東京で。

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