第17話

Ψ

「お姉ちゃんてさあ、どうして刑事になったの?」

 胸焼けするほどたっぷりとチーズの乗ったピザをぱくつきながら美貴がいう。何気ない妹のひと言に、和泉は虚を突かれた。

 都内の大学に通う美貴は、普段は千葉の実家にいるため顔を合わせる機会が少ないのだが、時折、思い出したように和泉のアパートに泊まりに来る。膠着状態に陥った連続傷害事件の捜査の、一日だけの中休みだった。

 和泉は官舎でなく、大田区鵜の木の1Kに住んでいた。女性の一人住まいにしてはいささか素っ気無い。テレビやソファ、クローゼットなどが整然と置かれているほかは、小物や写真の類いはなく、壁に掛けられた一輪挿しの造花と、小さな額入りの絵が申し訳程度に彩りを添えているだけだ。

「うーん、どうしてかなあ……」

 「ピザには絶対コレ!」と押し切られた末の、普段は飲まないビールをちびりとやりながら、和泉は額の中のスケッチ画に目を移した。

 スケッチは和泉の祖父が遺した物で、葉書大の黄ばんだ紙に、鉛筆でどこかの海岸線が描きつけてある。祖父は絵心のある人で、小さい頃はせがむ和泉によく絵を描いてくれた。

 南の島と思しきその絵は、祖父の遺品を整理していたときに貰った物だった。すると美貴が和泉の頭の中を覗いたようにつけ足した。

「ひょっとして、おじいちゃんの影響?」

「それはーーそうかもしれない」

 なるほど、と和泉は妙に納得した。特に意識したことはなかったが、言われてみればそうなのかもしれなかった。定年まで千葉県警に奉職していた祖父は、強面で知られた鬼刑事で、いつもしゃんと背筋を伸ばした、厳しい顔つきの老人だったが、和泉は不思議と怖いと感じたことはなかった。

 美貴が産まれた頃、和泉は、祖父母の家に預けられていた。当時の和泉は体が弱く、何かというとすぐに熱を出す子供だったのだ。

 朝、農家特有の天井の高い部屋で目を覚ますと、すでにリタイアし畑を耕して暮らしていた祖父は、和泉を長い散歩に連れ出す。まだ緑の多く残る房総の里や山々を散策した。

 和泉が疲れると、祖父は水筒を出して路傍に座り込んだ。休憩がてらに広げられたスケッチブックを眺めるのが、和泉は好きだった。

 やがて毎日の散歩が楽しみになるほど元気になると、今度は近所の寺に連れて行かれた。

 そこで祖父は堂内の板の間を借りて、和泉に古武術の手ほどきをした。祖父は署内で逮捕術の教官を勤めるような人物だった。身体は丈夫になったのはよいけれど、おかげで、すっかりおてんばになった、と母が嘆いたのはその後だ。

「どうしたの、急にそんなこと言い出して」

 ピザに辟易して、自分だけでもおソバにすればよかった、と後悔しながら和泉は訊いた。

「うん……」

 ピザを置いて、美貴が始めたのは将来の進路についての相談だった。大学で勉強しているうちに、研究者の道も悪くないと考えるようになったということだった。

 始めこそまじめに耳を傾けていたが、よくよく聞いてみれば、担当の教授が若くてハンサムだというのが話のホネで、貴重な休日の夜に、眠い目をして聞いているのがだんだん馬鹿らしくなってきた。

 チーズと炭酸でお腹も膨れ、瞼も重くなり始めたとき、その言葉が和泉の耳を捉えた。

「ちょっとまって、今なんて言ったの」

 話は、教授に対する賛美から、美貴が専攻している社会学のゼミで、数人の学生が共同で行ったアンケート調査へと移っていた。主に十代の若者を対象に行われたその調査の中で、高校生・中学生の女子の間で最近流行っているトピックに、ある〈おまじない〉があることがわかったのだという。

 問題はその〈おまじない〉で使われている呪文だ。

 

《ホロボ・ロンゴ・カカ・ヌイ。オロゴ・ロンゴ・ンチャヌ・グイ。……。》


《ンチャヌ・グイ》


 それはーー。

 それはあの時、少年の口から聞いた言葉だ。脳裡に刻みつけられた、鮮烈な記憶。忌わしい響きを持つ呪文。

「でね、面白いのが、この呪文てね、どこかの南の島の言葉らしいのよ」

「……どういうこと?」

 美貴の言う「頭が良くて超カッコイイ」教授は、(和泉は知らなかったのだが)テレビの討論番組等にも顔を出す有名人らしく、その縁で出来た幅広い人脈を持っているということだった。

 何かの番組を通じて顔見知りになった在野の学者にその話をしたところ、ほう、それはホロボ語ですな、と言われたのだという。

「ホロボ語?」

 うん、と美貴は頷く。

「よくは知らないんだけど、そんな名前の島があるんだって」

 彼女にとってその部分は、ポイントではないのだろう、早く教授の話題に戻りたいとばかりに話しを継ごうとするのを遮って、和泉は身を乗り出した。

 もはや完全に目は覚めていた。

「ねえ、その話、詳しく聞かせてもらえない」


Ω

 〈それ〉は餌場を離れることにした。苦痛を回避しようとする生命の本能ーー〈それ〉を生命と呼べるとしてだがーーその本能を凌駕するだけの力は、残念ながらまだ蓄えられてはいなかった。

 今の餌場は獲物も豊富だし、快適この上ない。なのに、この場所を離れなければならないことに、それは憤怒の声を洩らした。

 とはいえ、断続的にもたらされる攻撃はもはや、耐えがたいものになってきていた。もっと成長して、より強大な力を身につけていたなら、歯牙にもかけないものを。だが。

 今はまだ駄目だ。まだ充分ではない。攻撃を受ければ受けるほど、〈それ〉の成長は留まり、悪くすれば元のサイズへと縮んでしまうだろう。もっと、獲物を喰らわねば。おくびが出るくらい、たらふく。

 幸い攻撃は餌の群れから遠ざかるにつれ、効力を弱めることを〈それ〉は前回で学習していた。体力の回復を待ち、ひたすら雌伏することしばし。攻撃も止み、ようやく動けるだけの力は回復した。

 新たなる餌場を探そう。

 〈それ〉はそろり、と動き出した。最初はたどたどしく、やがては力強く。

 加速がついていくにつれ、〈それ〉は歓喜に包まれた。思う存分、〈界面下〉を滑っていく快感。新しい餌場を見つけたなら、今度こそは。これまでに倍して、むさぼり喰らうのだ。

 何しろ、〈それ〉が腹を壊すことなどないのだから。

 がーー。

 突然、〈それ〉の前が白熱した。

 全身をバラバラにされたような衝撃。見えない障壁にぶち当たり、〈それ〉は弾かれたのだった。

 前回の攻撃に似ているが、神経的なダメージに喩えられたそれとは違い、今度のは、物理的な衝撃に比せよう。全速力で潜行していたため、反発も激しかった。


 ごおおおおおおおおおおおおおおおおん。


 堪らず身悶える。

 

 これはーー。

 これは何だ。

 

 沈降し、周辺を右往左往した挙句、慎重にも〈それ〉は、この場を迂回することにした。

 距離をとって回り込んでいくつもりなのだ。横へ横へと移動し、充分に離れたのを見計らって、〈それ〉は再び前進した。

 ーー!

 驚愕と混乱と憤怒で、〈それ〉はぶるぶると打ち震えた。此処にもまた、不可視の遮蔽物が立ち塞がっている! 

 次の行動は素早かった。あっさり方向転換すると、〈それ〉は進んできたのと真反対の方向へ飛び出した。本気になった〈それ〉の速度は、この星の生物の領域ではない。瞬く間に餌場を縦断すると、〈それ〉は餌場の端まで辿り着いた。しかし。

 

 ぎいん!!

 

 再び衝撃。

 なんということだ。

 こちら側にもまた壁は屹立している。

 転進した〈それ〉は、ビリヤードの球のように角度をつけて、また泳ぐ。またもや壁。ここに至って〈それ〉は、自分が餌場を囲む、半円形の檻に閉じ込められたことを悟った。理性とは異なる、直観力に基づく叡智。人類とはまったく別の経路を辿った知性は、一瞬にして敵の意図を理解したのだった。

 

 やられた。

 餌場に閉じ込められたのだ。

 

 これからどう動くか。ぱちぱち、と〈それ〉の中で思考に似た火花が散った。道は二つあった。

 ひとつはこのままここで獲物を漁りつづけ、大きくなって檻を内側から食い破る。

 いまひとつは、唯一、壁のない方向へ脱出すること。勿論、その隙間が罠であることを、〈それ〉は知っていた。しかし、さほどの猶予がないこともまた事実だ。いまは止んでいても、いつなんどき呪文の攻撃が再開されるかわからない。ダメージを受けつづけるのと、〈それ〉が成長するスピードとどちらが早いのか。

 疑心暗鬼になった〈それ〉は、決断を下した。円陣が欠けた箇所へ向けて、〈それ〉はいっさんに滑り出した。

 

α

 冷たい水の底の底で、時枝隆文二等海佐は我知らずうめいた。常にはない不安な心持がそうさせたのだ。

 薄暗く小狭い発令所はつれいしょには、副艦長である南原三等海佐以下数名の部下が、ひとつの器械であるかのように黙々と作業をこなしている。

 居並ぶ兵装管制用/艦制御用のコンソール。

 低く響くディーゼル機関の振動は、いつもならば母の心音のように、時枝を包み込んでくれているはずであった。しかし、今は。

 心中に沸き起こる灰色の群雲を御しかねて、ため息をひとつつく。

 海上自衛隊第四潜水隊所属「ゆきしろ」が突然の訓練命令を受けたのは、十三時間前のことだった。唐突な命令も異例なら、その内容もまた異例だった。

 ーー東京湾入り口の指定ポイントで待機。以後伝令を待て。

 およそ演習とは思えない不可解な内容。不審を抱きつつも、艦長である時枝は「ゆきしろ」を横須賀から出航させた。だがーー。

 ポイントで待つこと六時間。次の指令はいっこうに来なかった。

(ーーおれは何をやらされているんだ)

 言いようのない薄気味悪さが、影のように時枝の背中にべったりと貼りついている。

 任務とあればどんな困難でもこなす覚悟はある。だが今回ばかりは、どうにも据わりが悪くて仕方がなかった。

(ーーそれにあれの件がある)

 時枝は瞼の上から目を揉んだ。

 出航直前、急遽、艦に新たな魚雷が積み込まれた。外見上は通常のものと何ら変わらない。ではどうして、特別にその魚雷を積み込まなければならないのかーー理由は一切、明かされはしなかった。

(ーーまさか……核弾頭でも積んでいるわけではあるまい)

 時枝の思考を遮って声が掛けられたのはその時だった。

「艦長、司令部より無電が入りました」

 南原が告げた。

「何と言っている?」

「回頭後、指示に従い、指定魚雷を発射せよ、です」

「は? 何だって?」

「いや…」

 普段は冷静沈着な南原が困惑しきった表情を浮かべている。無理もない。

 潜水艦の艦長はいわば一国一城の主だ。それに対して指令部が直接、雷撃を命ずるなど聞いたことがない。しかも。時枝は通信装置を取ると、インターコムで問いただす。

「ソナー、何かとらえたのか」

「いえ、一切、反応ありません」

 水測室から岡部の答えが聞こえてきた。

 信頼するソナー長の言葉が一層、時枝を混乱させた。一体ーー何を雷撃しろというのだ。

「艦長、また無電です。針方位三五四、距離二六〇〇、射角水平。早急に発射しろとのことです。敵速……一三〇ノット」

「一三〇だと? ありえん!」

 最新鋭の原潜ですら六〇ノットがせいぜいだというのに!? 

「艦長!」

 南原が悲鳴のような声を上げた。

 軍人として下すべき判断は一つしかなかった。

(ーーええい、ままよ!)

「発令所から魚雷班へ。魚雷装填一番。発射管注水!」

 にわかに発令所が慌しくなった。信頼する部下たちは、日ごろの訓練の成果を遺憾なく発揮して、迅速に雷撃の準備を整えた。一呼吸挟み、時枝は力強く言い放った。

「一番、てっ!」

 ごとり、という音とともに、艦首一番発射管に装填された魚雷が射出された。圧縮空気によって押し出された魚雷は、二つのプロペラを反転させながら目標めがけて前進していった。

「目標まで距離五十、三十、十、三、二、一…」

(ーー何も起こるはずなどない。目標など何もないのだから。いや。何が。何が起こるというのだ)

 言い聞かせながらも、時枝は固唾を飲んで見守った。

 何もない空間に魚雷が飲み込まれた。

(やはりーー何も起こらないではないか)

 時枝が息をついた瞬間、艦全体を震わせて衝撃が走った。爆風の直撃を受けたようだった。時枝は吹っ飛んだ。

 これほどの衝撃を受けたのは初めてだった。もちろん、撃沈の際の波とは明らかに異なっている。目の前が真っ赤に染まり、全身の血が逆流する。大波に呑まれて揉みくちゃにされたように、自分が真っ直ぐ立っているのか逆さまになっているのかさっぱり分からない。

 凄まじい耳鳴りと暗転の後、時枝は床に這いつくばっている自分に気がついた。

 目の前で床が回転していた。眩暈。それと強烈な吐き気。目を瞑った。頭がガンガンと割れるように痛んだ。顔中の穴という穴から水を垂らしている。

 しばらくそのまま動けなかった。

 奔流のように荒れ狂った頭の中が凪いできた頃、時枝は恐る恐る瞼を抉じ開けた。

 発令所は惨憺たるありさまだった。乗組員たちは一様に床にうずくまり、動く者はいなかった。どこかから、ひい、ひい、という嗚咽が漏れている。

 艦が静止しているーー。

 ぼんやりとした頭で時枝は考えた。おそらく発令所だけでなく、艦内のあらゆる部署で同様の光景が繰り広げられているに違いない。何故か時枝にはそう確信できた。

 さっきのはただの衝撃波ではない。あれほどの衝撃を受けたにも係わらず、物理的な損害が出ている気配がないことがそれを裏付けているようだった。

 ふと、いままで感じたことがないくらい海がよそよそしく思え、時枝は背筋を震わせた。


Ω

 〈それ〉は憤怒の咆哮をあげた。全身に、おりのようにこびりついたモノを掃おうと、必死になった。

 人間の感覚に喩えるなら、強烈な臭気とも言えようか。拭っても拭い去れない悪臭が、〈それ〉にまとわりついているのだった。〈それ〉にしてみれば、糞尿などの汚物を頭から被せ掛けられたのと変わらない、屈辱的で腹に据えかねる攻撃だった。

 だけでなく、物理的なダメージも相当深い。

 先般から立て続けに繰り出される攻撃に晒されて、〈それ〉はいまや満身創痍になっていることに気づいた。しかも時間が経つにつれ「悪臭」は徐々に〈それ〉の身体を冒し始めているのだった。自分の身体に異物が浸透し、混ざっていくおぞましい感触。

 その感覚は、苦痛を伴うものではなかったが、不愉快極まりなかった。

 〈巣〉へ還らねば。

 〈それ〉は、最後の手段を浮かべた。最近、抜け出したばかりの檻であると同時に、温かい揺籃器でもある〈巣〉を。

 いったん封印を破ってしまったからには、〈巣〉への出入りは自由だった。一度〈巣〉に身を隠し、ほとぼりが冷めたころにまた出てきて、餌を漁ろう。

 再び幼生段階に戻らなければならないのは噴飯ものだが、致し方あるまい。

 軽々しく動くのにためらいがないではない。この選択もまた、罠なのかもしれなかったからだ。だがしかし。

 〈それ〉は〈巣〉を目指し、そろそろと泳ぎだした。

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