第16話

 新宿歌舞伎町、午前三時。

 日本有数の不夜城も人通りが少なくなり始めた中に、八咫坊の姿があった。

 居酒屋や風俗店の入った雑居ビルがひしめく一画に立ち、八咫坊は正面のホテルを見つめていた。

 ホテルは、道路から玄関に向かって細長いアプローチが伸びていた。そのアプローチの片側に白いコンクリート製の花壇があって、申し訳程度に草花が植えられている。

 八咫坊のすぐそばをカップルが通り過ぎ、アプローチに消えていった。この時間では断わられるだろうが聞くだけは聞いてみよう、という感じで。

 カップルが八咫坊に気づかなかったのは、二人が思いつめていたからではない。

 〈摩利支天隠形法まりしてんおんぎょうほう〉。

 憤怒形の本尊・摩利支天を観想し、秘印である隠形印を結べば、己の存在を隠し、人の眼や災いを素通りさせることができる。カップルには、そもそも八咫坊が見えていないのだった。

 再び、人通りが絶えた。

 八咫坊は花壇に近づくと、黒い土に両手を突っ込んだ。

 探るまでもなく、指先に固いモノが当たる。それをぐいっと力任せに引っ張った。

 土がめくれ、植物が倒れてもお構いなしだ。

 ひとつ。

 ふたつ。

 みっつ。

 土まみれのブツを、ボウリングの玉のように両手でぶら下げ、ゆうゆうと持ち去った。

 歌舞伎町のはずれの公園で、掘り出したモノを洗った。

 蛇口をひねって水を出し、布を浸す。それでこびりついた泥や埃を、丁寧に拭っていった。

 現れたのは、異様な物体だった。

 焦げ茶色で、皺の寄ったそれは、鼻の長い動物の頭部、それも、あきらかに一つはヒトの頭部だった。干からびた皮膚は骨に貼りつき、眼窩は虚ろに空いている。不気味で、おぞましい物体だった。

外法頭げほうがしらか……」

 八咫坊はゆっくりと振り返った。

 公園に、黒々とした小さな影があった。

「玄海……」

「毒をもって毒を制す。妖物には妖物であたるというわけか……」

「ああ、そうだーー」

 外法とは、邪悪な呪法ないしその本尊・祭神を指す。幸田露伴は著作で、外法を「仏法でない法の義」と推測し「外法は魔法たること分明」と述べた。

 いわゆる才槌頭と呼ばれる類いの、普通の人間とは明らかに異なる、異常に大きかったり長かったりする〈異相〉の人物の生首を外法頭と呼ぶ。それを手に入れて往来の激しい場所に埋め、一定期間ののち掘り出す。髑髏にこびりついた土をこねて仏像を作ると呪物になり、あるいは、その荒ぶる魂魄を使役すれば恐るべき力の呪霊となる。

 そう。

 そしてーー。

「なあ。俺もそうなんだろ……」

 何度も何度も胸の内で繰り返した言葉は、自分でも思いがけないほどの、柔らかな問いかけになった。

 まるで、明日の天気をたずねるみたいに。

 八咫坊の言葉に、玄海の顔が、くしゃり、と歪んだ。笑っているような、泣いているような、奇妙な顔だった。

 鎌倉時代の仏教説話集『撰集抄せんしゅうしょう』に「西行於高野奥造人事」という話が載っている。歌人として名高い西行がまだ修行中の頃、高野山の山中で人恋しさのあまり人骨を集め、真言密教の秘術により人間を造った。しかし復活したのは、顔色も悪く、意味不明のことを言うだけの出来そこないだったという。

 八咫坊に過去の記憶がないのは、逆行性健忘のためではない。そもそも三年前に造られたからなのだ。山中の、あの原初の記憶は、まさに八咫坊が生まれた瞬間の記憶だった。

 八咫坊も外法頭と同じ、一定の目的のために造られた、かりそめの存在に過ぎないのだ。

「……いつから気づいておった」

「さてね……。俺にもよく分からん。だが何となく、自分がここにいるべきじゃないような、よそよそしい違和感がずっと、あった。上手くは言えねえが……。かくれんぼで、取り残されたオニみたいなもんだ」

「……」

「そう、オニさ。髑髏どくろおに、ってんだろ、俺みたいのをよ」

 八咫坊は自嘲の笑みを浮かべる。

 術によって造られたモノは髑髏鬼と呼ばれ、見た見た目は人間そっくりだが、ヒトではなく、鬼とされている。伏見中納言・源師仲みなもとのもろなかは、西行の術の誤りを指摘し、自分は何体もの人間を造ったと成功を自慢した。その中には大臣になっている者もいるが名は明かせない、と語ったという。

 自分はヒトではない。

 それを知った時の絶望は、八咫坊の心に生々しい傷をつけた。

 心?

 俺に心なんてあるのか?

 奔流が堰を切るように、心の中の何かが崩れ、溢れ出した。

「なんで、俺みてえなのが造られた? 道具にするためか?」

「……」

「どうした。なぜ黙る。俺が化け物だからか?」

 玄海がようやく口を開いた。

「お主、じゃから『不空羂索ふくうけんじゃく神咒秘経しんじゅひきょう』を……」

「そうだ。あれはカミを降ろす最強の呪だ。あらゆる願がかなう。俺に本当の〈せい〉を与えることも……」

 玄海がうつむき首を振った。今まで一度も目にしたことがないような、力のない動きだった。

「お主はーー六道ろくどう輪廻りんねから外れた存在。仏法の届かぬ魔境のモノじゃ」

 玄海の言葉で、たったひとつの希望の糸が断ち切られたことを、八咫坊は悟った。力が抜け、その場に膝をついた。

天狗てんぐどう……か」

 苦渋に満ちた玄海の表情が、八咫坊の呟きを、無言で肯定していた。

 天狗道は、仏教では、六道からも浄土からも完全に切り離された、最も憐れむべき世界とされる。六道の最下層、地獄にすら六観音や六地蔵がいて、仏の慈悲がある。しかし、天狗道に一切の救いはない。死ぬと再びどこか別の世界に生まれ変わる、という輪廻から外れた天魔てんまどもの世界だ。

「他にもいるのか、俺みたいのは?」

「おそらく。しかし明かされることはあるまい」

「…………」

 最後の八咫坊の問いかけは、玄海の耳にも届かなかった。

 俺は、ひとりぼっちなのか、と。

 

Ω

 二十一時きっかりにバスは出発した。

 眠気覚ましのガムをくちゃくちゃやりながら、並木隆継は、ステアリング・ホイールを首都高の入り口へと向けた。あくびが漏れた。

 新宿西口を出て、京都、大阪経由で、翌朝の八時に神戸に着く夜行バス。帰省シーズンではないが、席は八割方埋まっている。

 早くもアイマスクをして就寝の態勢に入っている男。目を閉じてヘッドホンに聞き入っている学生。OL風の若い女はじっと窓の外に視線を向けたままだ。

 おままごとでもしているみたいな若いカップルが、内緒話のように顔をつき合わせて囁きあっている。

 照明は白々と変に明るく、どこか気だるい雰囲気の車内に、薄っぺらい陰影をつけている。

「おっと」

 並木の口から呼気が漏れると同時に、車体がぐんと減速した。短い擦過音。乗客は残らず前のめりになった。すぐにアナウンスが入った。

「えー、前方に停止車両があったため、止むを得ず緊急停止致しました。大変失礼致しました」

 何事もなかったかのように、バスは再び加速し始めた。不満げな声は上がったものの、疑問を抱いた乗客はいないようだった。ふう。並木は額を拭った。前髪のすっかり後退した額に、冷や汗が浮いていた。

 今のはーーやばかった。

 車間距離を完全に見失っていた。赤やオレンジのテールランプの波が次々に押し寄せ、気づいたときには、前方のセダンがすぐそばに迫っていた。

 動悸を抑える並木の鼻に、ぷん、と汗が臭った。さっきの冷や汗だ。ひっきりなしにアルコールを摂取しているために、全身の毛穴からアルコールが噴き出しているかのように酒くさい。

 バスは料金所を過ぎて、首都高速に乗った。平日の夜の道行きは、空いてもいないが混んでもいない。ただ鉄で出来た河のようによどみなく、かつ緩慢に流れている。

 近頃、並木は、小さな事故を頻繁に起こすようになっていた。運転に集中できなくなり、時には視覚がおかしくなる。幸い大事にはなっていないが、いずれそれも時間の問題だろう。

 いつからか酒が手放せなくなった。業務中に飲酒するドライバーなど言語道断で、悲惨な事故を引き起こした過去の事件のことも知っている。なのに、自分はそんなヘマはしない、と根拠のない自信だけがある。

 だが自分の酒癖の悪さが度を越していることに、並木自身は気づいていない。今も運転席の横に、ウィスキーの瓶とワンカップの日本酒が二本隠してある。夜の暗さに紛れてはいるが、明るい陽の下なら、肝臓をやられた並木の顔が黄色く濁っているのが分かるだろう。

 …………横合いから強引にベンツが車線変更してきた。瞬間的にかっと頭に血が昇った。

 アクセルを思い切り踏み込みそうになる。ハンドルを指が白くなるほど握り締める。身体が前傾する……。

「……ふうっ」

 危うくーー思い止まった。

 自分の発火点が日ごとに低くなっているのを感じる。ちょっとしたことでも怒鳴り散らし、暴れる。女房も子供もとうに愛想をつかせて家を出てしまった。二人の顔ももう、ぼんやりと曖昧になってしまった……。

 道路がカーブを描いて後方右上から合流してくる。せわしなく二本の車の筋が重なっていく。苛立ちが沸き起こる。流れが滞ってしまった。スピードを落とす。バスは順番待ちで徐行する。

 突然それは起こった。身体が、にわかにブルブルと震えだした。心臓がすっと冷たくなったような感じ。

 よりによって。

 よりによってこんなときに。

 痙攣する右手を、何とか膝に押さえつける。左手だけでンドルをコントロールする。二度三度、手を下に伸ばしかける。

 一、二、三。

 それ、一、二、三! 

 思い切っておろした指先が、運良くウィスキーのボトルに引っ掛かった。つまんで持ち上げる。指で器用にキャップを外し、一口、流し込んだ。たちまち身体の芯に火が点った。

 四肢に力が漲る。震えが止まり、動きがスムーズになった。

 滑らかなハンドル操作。並木は難なく合流を乗り切った。

 これだ、これ。この魔力がある限り酒の力に抗うことは出来ない。

(ーー俺にもガソリンが要るって事だ)

 どんよりと酒毒に濁った目が、笑いに歪む。バスは快調に飛ばして行く。周囲の車も疎らだ。どういうわけだか物凄く気分がいい。日常的に嘔吐感に悩まされていたのが嘘みたいだ。並木は調子に乗ってアクセルを踏む。

 すごいすごい、どんどん加速していく。

 周りを見ると、このバスのほかに走っている車は一台もない。そこで初めて異変に気づいた。

 こんなところにーートンネルなんてあっただろうか? 

 気づけば上下左右は、すっぽりと半円状の壁に包まれているのだった。壁面は見慣れたコンクリートのそれではなく、ピンク色の無数の襞が波打っている。いつもの黄色照明ではなく、オレンジがかった、ぼんやりとした光が当たりに満ちている。

 しかも目の錯覚か、壁はうねうねと蠕動しているようだった。

(な、なんだこりゃあ)

 並木は目を擦った。

 一瞬にして、いつもと変わらぬ、首都高速のアスファルトが眼前に開けた。道路は大きく左にカーブし、並木は身体が覚えている動作でアクセルを緩め、ハンドルを切った。

 カーブを抜け、直線に入った途端、またもや前方が同じ光景に差し換った。

 どこまでも続くトンネル。まるで巨大なはらわたの中に迷い込んだようだった。遥かな昔、子供に読んで聞かせたピノキオみたく。

 アルコール依存症の幻覚ーーそんな言葉が頭をかすめる。だがそれにしては、ぬらぬらと光るピンク色の臓物めいた壁はいかにも生々しい。いや幻覚だからこそ生々しいのか。

 混乱しかけた並木の後で短い悲鳴が上がった。女の声だった。続いて、ざわざわと客たちが騒ぎ出した。何だ、何だ、一体どこを走ってるんだ! 戸惑う男の怒鳴り声が響く。

 幻覚じゃない。

 そう思った瞬間、今まで感じたことのない恐怖が、並木の心臓を鷲掴みにした。

「運転手さん、どうなって……」

 数人が詰め寄ったのと、並木が思い切りブレーキを踏んだのが同時だった。

 急激に減速したバスは、ガガガガ、と車体を震わせた。あちこちから叫喚が噴出した。

 サラリーマン風の男が運転席の脇の床に転がった。女の細く長い悲鳴が、車内をつんざく。後輪が滑って、テールが左右に振られた。

 何かにつんのめり、車体が前傾した。どたどた、とさらに数人が床に倒れる。もんどりうったような動きの後ーーバスはようやく停止した。

 きいん、と耳鳴りがしたようだった。気のせいだった。車内は不気味に静まり返っている。

 何処かから、しくしくとすすり泣く声がする。世界はどうなってしまったのか。あ、あ、あ、という呻き声が聞こえる。足元から漏れてくるそれを聞いて、どうやら俺は生きているらしいと並木は思った。

 今のはーー一体なんだったんだろう。そうだ夢だ、夢に違いない。ハンドルに伏せていた顔を恐る恐る上げた。すみやかに絶望が降りてきた。

 フロントガラス越しに広がる、厭らしい粘膜の世界。

 夢じゃなかった。

 並木は、感情の失せた顔でのろのろと足元を見遣る。

 呻き声の主は勤め人風の男で、上着のポケットからアイマスクがはみ出していた。額から眉にかけて、赤い血がひと筋垂れている。倒れた拍子にどこかを切ったのだろう。

 はやく手当てをしなければならないかもしれない。それで思いついて、並木はポケットを探った。シートベルトが邪魔をする。もどかしい思いで外した。やった。スマホを取り出した。

 これで助かる。

 飲み友達の番号に掛ける。繋がらない。もう一度。やはりすぐに切れてしまう。

 メッセージすら流れないのだ。恐慌にかられて、メモリーに入っている番号に片っ端からかけまくった。最後には、一一〇番や一一九番にまで。二十回目で諦めた。どれも無駄だった。

 シートを抜け出して、座席の様子を見る。

 通路には、三人ほど折り重なるように倒れていた。生きているのか死んでいるのかぴくりとも動かない。それ以外のほとんどの客は、シートについたままぐったりしている。

 我に返った。乗客たちに声を掛けて回った。業務に目覚めたからではない。一人では不安だったからだ。床の上の客を起こそうとしたとき、ぷん、と刺激臭が鼻を掠めた。

 ーーガソリンだ。

 とっさに客を放り出す。唖然とする人々を置き去りにして、前部の乗降口へ向かった。

 男を跨ぎタラップを降りる。アコーディオン状の扉を引っ張った。外に足を踏み出して、慌ててすぐに引っ込めた。

 そこにあったのはーー見慣れた地面ではなかった。

 見渡す限り、ぶよぶよと柔らかそうな、半透明の肉塊じみた海。薄くピンクがかった表面はひくひくと脈打ち、明らかに「生きて」いた。思わず後ずさりして車内に逃げ込もうとしたときーー地面が動いた。

 ーー地震? 

 ステップ脇の手摺にしがみついた。

 ず・ず・ず。

 バスが地面ごと前に動いた。堪らず、その場にしゃがみ込んだ。どこか痛むのか、床のサラリーマンが呻き声を洩らす。

 揺れはーーすぐにおさまった。

(な、なんだったんだ)

 そろそろと起き上がろうとした並木を、第二波が襲った。地震は断続的で一瞬揺れては止み、またすぐに始まった。

 何回か続くうちに気づいた。この奇妙な地震は、普通の地震とは異なり、揺れるというよりずれるに近い感じで、しかも一定方向に徐々に移動しているのだ。

 まるで丸呑みした卵を嚥下する蛇のように。

 並木はまたもや、読み聞かせたピノキオのお話を思い出した。クジラに飲み込まれたおじいさんとピノキオはどうなったんだっけ。

 ごくり、と喉を鳴らす。一体ーーバスの向かう先には何があるのだろう。地面の揺れとは別に、自分がおこりのように震えていることに、並木は気づいていない。

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