第14話

Δ

 あれ? これって、ふられたのか?

 急に立ち上がって、去ってしまった彼女を、颯太は呆然と見送った。

 なんかマズイこと言っちゃったのかな???

 頭の中で、これまでの会話をプレイバックしかけて、そんな場合じゃないことに気づいた。

 ここまできて諦めるわけにはいかない。

 慌てて立ち上がって、入口に向かいかけた颯太は、急に襟首をひっつかまれた。

「げふっ!?」

 見事に決まった襟締めのまま、強制的にイスに戻された。

「げほっ、げふっ、いったい? んん!?」

 猫の子みたいに、颯太の襟をつまんで物凄い形相で睨みつけているのは、あのとき見たもう一人の女の子だった。

「話は聞いた」

「き、聞いてた?」

「あたいはバラバ。マリアの……双子の姉みたいなもんだ」

 なるほど、双子なら彼女たちの顔が同じなのもうなずける。それにしても、マリアとは対照的に、相変わらずセクシーな格好をしている。はっきりと形をなしたビキニの膨らみに、目のやり場に困る。

 でも〈みたいなもの〉ってなんだろ?

「少年よ。お前さん、本気でマリアに惚れたのかね?」

 そんなに歳は変わりませんけど、という突っ込みはともかく、ここは正直に言っておくべきと判断した。

「はい。惚れました」

「そうか……」

 アイラインのきついバラバの目が一瞬なごんで、マリアと同じ瞳になった。

「よっしゃ。じゃあ、あとで連絡する」

 勝手にそう切り上げると、颯太とSNSのアカウントを交換してバラバは、あっという間に消え去ったのだった。


 上機嫌で迷子のマリアを探すバラバの温かい気分は、通話ですぐに破られた。

「増援がないって、どういうこと?」

 スマホに喋りかける口調に、怒気がにじむ。

 ナンパしようとバラバの肩に手をかけた男が、その気配で方向転換した。

「なんで十%のヨーロッパが十四人で、こっちが二人のままなの!」

 言いながら虚しさがこみ上げる。硬直化した頭の枢機卿たちの、〈事態の矮小化〉と〈アジア蔑視〉は今に始まったことではない。

 口ごもるオペレーターを無視して、通話を終了させる。

 結局のところ、バラバたちのような〈戦乙女〉は、都合のいい捨て駒にすぎない。だからこそ異教の女戦士の名が与えられているともいえるだろう。

 それならそれでいい。しかし、あの石頭たちには、これが地球規模の災厄であることにどうして気づかないんだろう。

(ーー二人だけじゃ、キツイ。)

 唇をかみしめる。

 それに。

 ようやくマリアを幸せにできるかもしれない光明が見つかったところなのに。

(ーー何とかしなきゃ。)

 少し考えてからバラバは、スマホに追加で、『形成の書セーファー・イェツイラー』と『光輝の書ゾーハル』をダウンロードした。


「ひどくーーやられたようじゃな」

 椅子に腰掛けた玄海が軽やかに言った。

木乃伊ミイラ男かと思ったぞい」

「うるせえ」

 ベッドの上で、ウンザリした口調の八咫坊が答えた。

 部屋の中は柔らかい光で満ちていた。

 オフホワイトと木目で統一された調度たちが間接照明で浮かび上がり、落ち着いた、心地よい空間を作り出している。

 都内某所。ヤマが運営する病院の、特別療養室だった。高級ホテル並みの設備の、一泊十万円はくだらないスウィートルームは、時折、逮捕間近の政治家が逃げ込むほかはあまり使われることはない。〈敵〉との死闘で満身創痍になった八咫坊は、気力を振り絞って病院まで辿り着いたのだった。

 ベッドの脇には村上が、急な呼び出しにもかかわらず、いつもの無表情で直立不動の姿勢を保っている。

「それだけ元気なら大丈夫じゃろう。無事なのは何よりじゃが……逃がしてしまったのはなんとも痛いのう」

 真剣な面持ちに戻って嘆息した。

「次は仕留める」

 八咫坊は、ベージュ色の絨毯を睨みつけながら吐き出した。

「さてーーどうやらその必要もなくなりそうじゃて」

 八咫坊は顔を上げた。

「ヤマから下知げちがくだっての。此度こたびの件は、これまでということで決定が降りた」

「どういうことだ」

 つまりーーと村上が口を挟んだ。

「〈車〉と〈鏡〉を返し、あなたはお役御免というわけです」

「馬鹿な。まだ奴を仕留めちゃいないぜ」

「どうしたのです。急に仕事熱心になりましたか」

 皮肉めかして村上が言った。

「てめえーー」

 怒気が滲み出た。

「まてまて、そうガミガミ言わんと」

 玄海が割って入った。

「確かにーー今回の話はいかにも唐突、解せないところではある。どうやらわしらの知らんところで、何がしかの力が動いたようじゃ」

「力、と申しますと」

 村上が訊ねた。

「晋念殿の話によると、別当べっとう様へ、さる筋から申し入れがあったということじゃ。〈車〉を貸し出せというな」

 晋念は、玄海の古くからの知己で、執行しゅぎょうという事務や法要を仕切る役に就いている。ヤマの内情を知る事情通でもあった。

「〈車〉を?」

「ですが、あれはそもそも、外に出すべきものではないのではないですか」

 村上の疑問は当然だった。うむ、と玄海は頷いた。

「じゃが、ヤマは例の座標システムごと、〈車〉を外へ出すつもりらしい」

「へっ、レンタルってわけかい」

「一体どこの誰が……」

「はっきり申してはくれなんだが……裏の人間にまで影響力があるとなると、余程の実力者ということになるじゃろう」

 しかし奇妙だった。その人物は、ヤマの外の人間にもかかわらず、〈車〉の使い道を知っているというのだろうか。あるいは別当ーー寺を統括する長官ーーに影響力があるくらいだから、元々ヤマの人間となんらかの繋がりのある人物なのかもしれない。

 そう、そいつは〈敵〉の存在を知っているのだ。だがーー知っていたからといってどうなる。アレは、調伏の熟達者である八咫坊ですら歯が立たない化け物だ。そんな相手に素人がどう戦おうというのだろう……。

 八咫坊の中でぱちぱちと火花が散った。

「ーーそうか」

 思わず口に出していた。その何者かは、おそらくアレをほふすべを持っているのだ。

 〈車〉は、謂わば〈敵〉に特化した〈レーダー〉だ。位置をつかめたとしても、それを狙い撃ちする〈ミサイル〉がいることになる。

「ひょっとして……」

 八咫坊の説に対し、村上が慎重に述べた。

「それこそが、〈漏斗〉なのではないですか」

 『餓鬼魂縁起』に記されていた、彼奴を屠ることの出来る唯一の神器。八咫坊の頭に、〈敵〉との遭遇のときに出会った少年の姿が過ぎった。

 ーーあいつが鍵だ。

 八咫坊の後をつけ回し、アレと渡り合った少年。根拠のない直感だったが、八咫坊には確信があった。

「何者ーーでしょう」村上が呟くように言う。「その〈車〉を借り受けたという、実力者の手下てかでしょうか」

「だが訓練されているようには見えなかった」

 言葉に出すと、それが確信に変わった。少年の身ごなしは、専門的な戦闘訓練の成果というより、野生動物のしなやかさに近かった。でたらめだが、とてつもなく強靭な力を秘めたーー。

 村上は肩を竦めた。相手を見ていないので、判断出来ないという風に。

 沈黙が降りた。

「いずれにしてもーー我らの出番は終わったということじゃ」

 玄海が幕を下ろすかのように、宣言した。

 まだだーー。

 まだ終わっちゃいない。

 八咫坊は胸の内でひとりごちた。

 

Ω

「まったくもって、馬鹿馬鹿しい!」

 そう言って、所轄の高田刑事課長は、大げさに憤慨してみせたが、会議の場には、しらけきった空気が流れていた。

 普段は、講堂として利用されているこの部屋は、人数が入るというだけの理由で会議室に当てられているのだが、空調が古くてガタがきているため、捜査員たちからは評判が悪かった。ことに、飛島のような非喫煙者には、地獄のようだといっても過言ではない。建前上、禁煙にはなっているものの、なぜか臭いがある。こもった熱と人いきれで、スチームの充満するサウナのように息苦しく感じる。

 ただでさえ気管支の弱い飛島は、出来れば会議の度にマスクが欲しいと思っているし、過労よりも何よりも先に、自分が肺がんで死ぬのではないか、と常日頃から疑っている。

 どこか白っぽい空気を掻き回して、高田が吠える。甲高い声に反応する者はいない。本庁からきた安本管理官向けに気張っている姿をアピールしているのが丸分かりだからだが、それにもまして、「馬鹿馬鹿しい」という感慨が、「まったくもって」その通りだからだ。

 警視庁四谷警察署に設置された特別捜査本部には、所轄、本部を合わせて五十人程度の捜査員が投入されている。しかし、マスコミにも取り上げられるような大きな事件にもかかわらず、いやそうだからこそ、停滞した局面に倦み疲れたムードが充満しているのだった。

 新宿区内で起こった本事案は、発見当初から不可解な要素を孕んでいた。

 白昼、鍵のかかった部屋の中から上半身のない死体が発見されたのだ。

 殺されたのは、小谷幸弘、四十八歳。中央区の某メーカーに勤める会社員だ。十日前の日曜日、家族と昼食を摂った小谷は、リヴィングでくつろぐ母の富子と妻の久恵に「しばらく入ってこないように」と言い残してから、地下のオーディオルームに引きこもった。

 小谷氏自慢のこの部屋は、基礎の段階から設計に口を挟んで作らせたもので、防音や音響はもとより、ホームシアターまで完備した立派なものだった。

 平素、小谷氏が地下室を使う際は最低二時間は出てこない。また途中で声をかけると不機嫌になるので、家族も本人が出てくるまで放っておくのが常だった。

 ところがこの日は事情が違った。小谷氏が地下へ降りてからほんの十五分ほどでーーこれは電話を取った久恵が確認しているーー会社の部下、宮木忠明(二十八歳)から連絡が入ったのだ。取引先とのトラブルで、至急に小谷氏と話がしたいのだという。

 いくら邪魔するなと言われているとはいえ、仕事となると話は別だ。というわけで、久恵が地下室のドアをノックしたのが、午後一時二十分ほどである。しかし反応はなかった。

 ノブを捻ると鍵が閉まっている。再度、ドアを叩くが、完璧な防音が災いしてか、中からは、うんともすんとも言って来ない。業を煮やした夫人は、二階の寝室へ行き合鍵を持ち出した。夫にひと言文句をいってやろうと憤慨しながら。

 しかし、それはすぐに絶叫に変わることとなった。

(ーーまるで古典的なミステリーだ)

 窓一つない地下室。唯一の出入り口であるドアは施錠されている。

 それだけではない。地下室へ向かう階段にたどり着くには、家の構造上、常時二人ないし一人が居座っていたリヴィングを通らなければならないのだ。

 つまり本事案は、物理的な鍵に加え、衆人環視という、二重の意味での密室なのだ。

 家族の証言を信じるとして、わずか十五分足らずの間に、犯人はどうやってオーディオルームに忍び込み、逃げたのか。そしてどうして、どんな方法を使って、上半身を切断したのか。

 不可解といえば、凶器の問題もある。司法解剖の結果、体幹部に残った切断面には、のこぎりや鉈といった成傷器(凶器)ではなく、何者かに食いちぎられたような痕が残されていたというのだ。しかし、肝心の上半身はいまだ発見されず、確かなことは何一つわかってはいない……。

 会議は、敷き鑑捜査の補充強化をするという捜査方針の話に移っていた。

 身体切断という残虐性に加え、現場を熟知していると思しき状況は、通り魔的犯行とは考えにくい。怨恨など、よほどの動機と、家の構造を知る機会。つまり、顔見知りが怪しいと考えられるのだ。

 となれば、遺留品がまったくない現状では、被害者の家族や友人、知人、あるいは近隣の住民や親類縁者といった、人間関係を徹底的に洗うしか道はあるまい。

 いや、と飛島は胸のうちで呟く。

 この事件は、そういったセオリー通りの方法では解決できまい。同僚には馬鹿にされるので黙っていたが実は、飛島は無類のミステリー好きなのだ。それも警察小説やハードボイルドよりも、ガチガチのパズラーが好みだった。本庁の一課に配属されて二年。下っ端の飛島は、未だこれといった手柄を立ててはいない。

 俺が謎を解いてやる。

 飛島は得意のクロスワードにでも取り掛かるように、意気込んだ。

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