第3章
新天地
父と母がいた。幸せだった。
母がいた。幸せだった。
菱木健太は幸せだった。父と母がいて、体が弱くて二人に迷惑ばかりかけていたけれど、それでも父と母はいつも笑っていて、家族はあたたかかった。
もう二人には会えないのだろうな、と思うといつもさみしく思う。エインフェルトとして転生してから何度も前世の父と母のことを思い出す。
そして、今の母のことも、エインフェルトの母のことも思い出す。直接触れ合った時間は短かったが、それでも足が不自由で病弱だった自分を疎まず、見捨てず、いつも優しく接してくれた母の姿を思い出すことがある。
一人の父と二人の母。失ってしまった三人のことを思うと心がきゅっとして、とても寂しい。
今は九月も後半。王都を出発してから約一か月が経過した。
そこはル・ルシール王国の北東側。そこには『ガダフト湖』という大きな湖がある。
エインはそのガダフト湖を見渡す。その広さはおそらく琵琶湖と同じかそれ以上はあるだろう、とエインは感じる。
ただし、エインは実際に琵琶湖を見たことがない。こちらの世界に転生する前、日本と言う国で菱木健太として生活していたエインだが、テレビなどでしか琵琶湖をみたことがないので想像でしかないのだが、琵琶湖と同じぐらいではないか、とそう思う。
「静かだな……」
広くて、大きくて、海を見たことがない人間に、「これが海だよ」と言ったら信じてしまいそうなほど湖は広い。
水もとても綺麗だ。とても二十年前に事件が起こったとは思えないほど湖は穏やかに、静かに波打っている。
「ホント、なんにもないな」
エインは湖の畔からあたりを見渡す。湖のはるか向こうにはクレベルジット山脈が見える。そして、その山脈の向こうには『レ・カ王国』という国がある。
ガダフト湖は本当に大きな湖で漁場としてもとても豊かな場所だった。
だが、今は何もない。
湖の近くには五つの村と一つの町があった。その村や町にはかつて漁師たちが暮らしていた。
だが、今は誰もいない。
湖の近くには小高い丘がある。その丘の上にはかつてこの地を治めていたロウ・ランベルト伯爵の屋敷があった。
屋敷が、あった。
全部、ない。すべて二十年前に吹き飛ばされてしまった。
本当に跡形もなくだ。かろうじて家のあった場所にはその形跡は残されていたが、柱や屋根などの残骸は全く残っていなかった。本当にチリになって消し飛んだか、溶けてなくなったとしか思えないほどに何も残っていない。
なにがあったのかは誰にもわからない。二十年前に何が起こったのかを知る者は誰も残っていない。
ただ、それを推察することはできる。二十年前、ガダフト湖で巨大な爆発が起きた、と証言する者たちがいた。
もちろん直接見たわけではない。ガダフト湖の方面から伝わってきた爆風や震動から、爆発が起きたのだろう、と考えられるだけだ。
本当に実際何が起こったのかはわかっていない。ただ、人や建物や湖周辺にあったすべての物が跡形もなく消え去ったということは確かだ。
本当にゴミ一つ、チリ一つ残さずに地上にある物は木や草の一本まで消え去り、湖の周辺にはむき出しの地面だけが残っていた。
事件があってから二十年。今ではむき出しだった地面には雑草が生え、事件の傷を覆い隠している。
「はあ……」
息が白い。寒い。湖の周りには遮るものが無く、遠くにあるクレベルジット山脈から風が直接吹き降ろしてくる。
エインは空を見上げる。空が高く青い。空気が乾燥しているおかげで、空がとてもきれいに見える。
前世で暮らしていた日本では、九月の後半と言ってもそれほど寒くはない。少なくとも前世で暮らしていた地域では早朝でもないのに息が白くなることはなかった。
太陽が高く昇り始めている。時計はないので正確な時間はわからないが、午前八時は過ぎているだろう。
広くて、寒くて、何もない場所。昔はガダフト湖で獲れる豊富な魚のおかげで、それなりに人がいたらしいが、今は誰もいない。
「ホント、静かで、いいところだ」
エインは実の父親に追い出されてここへ来た。何もないこんな場所に追放された。
普通、そんな状況に置かれれば絶望したり悲しんだり落ち込んだりするだろう。けれど、エインはそうではなかった。これから冬になると大変だろうな、という心配はあるが、不安と言えばそれだけで、どちらかと言えば楽観していた。
これからどうしよう、ではなく、これから何をしよう、とエインは考えていた。何もないこの場所をどうしていこうか、とそう考えていた。
エインは前向きだった。迷いもそれほどなかった。
自分の望みはわかっている。自分についてきてくれたみんなと平和に、幸せに暮らす。それがエインの唯一にして絶対の望みだ。
ゆっくりと絵を描きながら、平穏に暮らしたい。ただ、それだけだ。
しかし、今は平穏とは程遠い。やらなければいけないことがあり過ぎる。
なにせここには何もないのだ。家も、畑も、とにかくいろいろな物が足りない。
とりあえずしばらく食べて行けるだけの食料は確保している。ただ、これから冬が来る。ガダフト湖のある場所はル・ルシール王国の北東あたりで、標高も王都よりは高い。
つまりは王都よりも寒いのだ。しかし、今のところ寒さをしのぐための家も暖をとるだけの薪なども不足している。
とにかく生活の基盤を確保することが先決だ。
エインは膝の上に置いてある地図に目を落とす。そこにはサレナ達に調べてもらった周囲の状況が書き込まれている。
巨大なガダフト湖が中心に据えられた地図。その湖の東には一番大きな町があった。そして、その少し北にある丘の上には、かつてこの地を治めていたランベルト家の屋敷があった、はずだ。
湖の周りにあった町や村が消滅していることはすでに確認している。
人間が住んでいた町や村だけではない。湖の周辺には森があったはずなのだが、それも消えている。
昔、この場所に来たことがあるウォレスの話によると湖の周辺には森が広がっていたらしいのだが、ランベルト家の屋敷があった場所を中心に誇大な円を描くように森が消え去っている。ランベルト家の屋敷があったあたりが爆心地と言うことなのかもしれない。
その円に巨大なガダフト湖がすっぽり収まっている。そのため、湖の周りには木が生えておらず太ももの辺りまで伸びた雑草が生い茂っている。
かつて『白百合湖』と呼ばれるほどガダフト湖の周りには白いユリが群生していたのだが、今では影も形もない。本当に雑草だらけのただの荒れ地が広がっているだけだ。
「やること、いっぱいだな」
ガダフト湖に到着して数日。いつまでも馬車の中で寝泊まりしているわけにもいかない。家を建て、周辺の環境を整備し、農地を作る。湖があるのだからそれを利用するのもいいだろう。
とにかくやるらなければいけないことが山積みだ。そして、それは一人では不可能だ。
この不自由な、エインフェルトの不自由な体ではどうにもならない。
エインフェルトは膝の上にかけられたブランケットの上から自分の太ももをさする。
いろいろと方法は考えてある。この動かない脚を動かす方法を。
そうすれば、動くようになれば、みんなに迷惑をかけることもなくなる。
なくなるはずなのに。
エインは後ろを振り返る。そこにはサレナがいる。エインの後ろに立つサレナは無表情で湖の方を見ている。
そんなサレナを見てエインは思う。彼女は、きっといなくならない。
では、とエインは思う。
もし、脚が動くようになったのなら、ほかのみんなはどうするだろう。
今は体の不自由なエインのことを思って、同情して、哀れに思って、みんなはここにいる。
それだけではない、とエインは感じている。でも、それが自分の勘違いだとしたら。
けれど、本当に、本当にみんな、ただ哀れなエインが可哀想だから、不憫だから一緒にいるだけだとしたら。
(父親に見捨てられ、僻地に追いやられた、体の不自由な哀れな少年エインフェルト。今の僕は……)
そんな人間にどうしてついてきたのだろう、とエインは疑問に思っていた。なぜ、マリーナたちは自分と共にこんな辺鄙な場所に来たのか。
どうして、なぜ。とエインは考えてしまう。
好意や愛情を感じてはいる。マリーナたちが自分を慕ってくれている、とエインは感じている。
けれど、それだけで、と思ってしまう。仲間の裏を疑ってしまう。
違う、と否定しても不安が拭えない。そんな人たちじゃないとわかっていても怖くなってしまう。
自分についてきてくれた仲間のことをエインは心の底から信じられないでいた。
そんなことは、ないのに。
「エイン様!」
マリーナの呼ぶ声が聞こえる。
「……いこっか」
「はい」
サレナがエインの車椅子を押して声の方へと向かう。
一日がゆっくりと始まっていく。
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