悪役令嬢はヒロインを攻略したい

曖昧も子

序章

 死ぬ瞬間は、意外と冷静だった。

 案外こんなものかと思う反面、心残りもいくつかある。追っていたアニメや漫画の続き、発売予定のゲームの新作、それに今週末の同人イベント。命に換えても欲しいと願った神絵師の新刊も、本当に死んでしまったら流石に諦めざるを得ない。あの新刊、サンプルを読んだだけでも素晴らしかったのに……私の推しの夢漫画を描いてくれる人なんてそういないのに……。そう思うと、死を実感してから初めて涙が出てきた。もっと他に嘆くことがあれよと自分でも思う。

お父さんお母さん、仲良くしてくれたリア友や相互フォロワー達、そして誰より愛しい推し、さようなら。ちゃんとお別れを言えなくてごめんね。

 緩やかに薄れていく意識に身を任せ、私——相生冬子は26年の生涯を終えた。







 鳥の鳴き声と窓から差し込む心地よい朝日に、優しく覚醒を促される。少しずつ浮上する意識と共に瞼を開いた。

「ああ、もう朝か……」

 まだ眠気を残した体を緩慢な動作で起き上がらせる。両腕を上げて体を伸ばすついでに、大きな欠伸を一つ。窓から見える風景をぼんやりと眺めているうちに、少しずつ意識が覚醒しはじめた。が、覚醒する意識と同時に、違和感も膨れ上がる。何かがおかしい。違和感の正体をぐるぐると考え、次第に直前の記憶を思い出した。

「私……死んだ……よね?」

 混乱した頭でどうにか状況を整理しようと周りを見回すと、もう一つの違和感に気づいた。

「この部屋も……私の部屋じゃない」

 住み慣れた六畳一間のワンルーム……よりも3倍はありそうな部屋は、アニメやゲームの世界でしか見たこともない煌びやかな内装に一目で金がかかっていると分かる無駄に豪華な家具に囲まれていた。そして今自分がいるのはいつも寝ている慣れ親しんだシングルベッド……ではなくキングサイズのベッドの上だ。

 混乱している上に覚醒しきっていない寝起きの頭で、必死に思考を巡らせる。

「もしかしてこれ、走馬灯? いや走馬灯って今までの人生を振り返るやつじゃん。私こんなお嬢様みたいな生活したことないし」

 ならばこの状況は一体なんなのか。寝ぼけた脳を一生懸命働かせ、私は一つの答えを導き出した。

「夢か」

考えられるのはそれしかない。そうだ、夢に決まっている。

「いやいや、夢じゃないよ?」

 突如聞こえた声にびくりと肩を震わす。今まで人の気配なんてしなかったし、人が入ってくる音すらしなかったのだ。完全に一人だと思っていた状況で突如聞こえた自分以外の声に戸惑いながら、声が聞こえた方を見た。

 見知らぬ少女が、そこに立っていた。

 ゴスロリファッションに身を包んだ少女は、見た目からして十代後半くらいだろうか。艶のある銀髪はハーフツインに纏められており、肌は病人のように青白い。全体的に色素の薄い容貌だが、真っ赤な瞳だけは炎を連想させるほど力強い生気に満ちていて、アンバランスな印象を与える。

 状況を把握できず混乱する私に向かって、少女が口を開いた。

「ドモ」

 少女は短い挨拶と共に、見た目から連想されるミステリアスな雰囲気とははかけ離れた、人懐っこそうな笑顔を見せる。

「あ、あの……どちら様……?」

「おっと失礼。初対面の相手に話しかける時はまずこっちの身分を明かすべきだよね。でも困ったなあ、ボクにはそもそも名乗れるような名前が無い」

 少女は眉を下げ、わざとらしく大げさに肩を竦めた。

「名前が無い?」

「ボクのご主人様ってそういうとこ無頓着なんだよねえ。人間でさえペットにも名前をつけるのに」

 何を言っているのかさっぱり分からない。混乱する私の心境を知ってか知らずか、少女は変わらぬ調子で言葉を続ける。

「うーん……じゃあとりあえず、ボクのことはナビィって呼んでよ」

「とりあえずって……」

「君とはこれから長い付き合いになるだろうし、呼び名がないと色々不便だからね」

「長い付き合い?」

「そ! というわけだからさ、これからヨロシク!」

 ナビィと名乗る少女は星でも飛んできそうなウィンクをして、私に手を差し出す。

「あ、はい……よろしく」

私は勢いよく差し出された彼女の手を条件反射で握り返した。どういうわけだと追求するタイミングは、完全に失ってしまった。

「そういえば私、まだ名乗ってないよね。私は——」

「ん? ああ、キミの名前は知っているよ。相生冬子ちゃん」

「え、なんで名前……」

 ナビィの口から出てきたのは、間違いなく自分の名前だ。彼女とは当然初対面だし、私は一度だって名乗っていないはずなのに。

「ふふふ、どうして知っているのかって顔をしているね。まあ確かに、キミは一度もボクに名乗っていないし、ボクとキミは初対面だから名前なんて知っているわけないもんね。疑問に思うのも無理はない」

 困惑する私を笑みを崩さぬまま見つめ、ナビィは続けた。

「キミの名前はね、神様に教えてもらったんだ」

「……神様?」

「そう、神様。……兼ボクのご主人様。ここに来る前に、キミの情報は大体教えてもらってる」

「からかってるわけ?」

「まさか、ボクは大真面目だよ」

 言葉の通りナビィの表情は至って大真面目……には見えないニヤケ顔だが、彼女は出会ってからずっと笑顔を張り付けているから、いまいち本心が分からない。

「……でもまあいいか。どうせ夢だし」

 そう、これは夢なのだ。訳の分からないこの状況も、訳の分からない目の前の彼女のことも、夢から醒めれば全部無かったことになる。考える必要なんてないのだ。

「いやだから、これ夢じゃないってば」

「あーはいはい。分かった分かった」

 適当に受け流されたことが気に食わないのか、ナビィが初めて笑顔を消して眉を顰めた。

「信じてないの?」

「当たり前でしょ。こんな状況、現実なわけない」

「現実だよ」

 その瞬間、ナビィの顔から表情が消えた。

 胡散臭い笑顔や軽い口調に意識を向けてしまいがちだが、ナビィの顔は非常に美しかった。目も眉も鼻も唇も、どのパーツを切り取っても不自然なくらい完璧で、作り物かと思ってしまうほどに。非の打ちどころがなさ過ぎて、逆に不気味さすら感じてしまう。

 ナビィはその不気味なほどに美しい唇を、表情を変えないまま動かした。

「本当だよ。悪いけど、キミが昨日までの日常に戻ることはない。現実世界のキミは死んだんだ」

「そ、そんなの……」

 嘘だと反論しようとしたが、上手く声を出すことができない。そんな訳がないと思っているはずなのに、ナビィが口にした「死んだ」という言葉と、事故に遭った瞬間の記憶がぐるぐると頭の中を巡る。

「キミも本当は分かっているんだろう?」



 そうだ。

 私は死んだんだ。

 歩道に突っ込んできた車に轢かれて。

 夢なんかじゃない。

 私はあの時、確かに死んだ。

 でも——



「でも……待ってよ……」

 それなら、また別の疑問が浮かび上がる。

「じゃあ、今ここにいる私は何? 幽霊ってこと? じゃあここはあの世?」

「違うよ。今のキミは幽霊じゃないし、ここはあの世じゃない」

「どういうこと?」

「それはねえ……」

 無表情だったナビィが、再び先程まで見せていた笑顔に戻る。

「君は事故で死んだあと、乙女ゲーム『天使のゆりかご』の世界に転生したんだよ!」

 口調も先程までの陽気なものに戻っていた。コロコロと変わるナビィの様子に戸惑いながらも、どうにか状況を理解しようと必死に頭を動かす。

「てん……せい……?」

そうだよと頷き、ナビィは言葉を続けた。

「悪役令嬢、イザイラ・バートンとしてね」




 乙女ゲーム『天使のゆりかご』。

 身寄りがなく孤児院で暮らしていたアンジェは、ある日自分が名門貴族であるクラーク公爵家の当主と、その愛人との間に生まれた子だと知らされる。クラーク家に養女として迎え入れられたアンジェは、貴族の子息や令嬢が通うローレンス学園に編入することになり、そこで出会う貴族のイケメン達と恋をする——という、所謂乙女ゲームである。

 『天使のゆりかご』は私が生前プレイしていたゲームであり、恐らく私のオタク人生の中でも一番深い沼だった。

 ナビィ曰く、私はその『天使のゆりかご』の世界に転生したらしい。

 悪役令嬢、イザイラ・バートンとして。

「いやいやいや」

 思わず苦笑いを浮かべた。

転生ってだけでも非現実的なのに、転生先がゲームの世界だなんて、いくらなんでも突拍子が無さ過ぎる。とはいえ、死んだはずの私がここにいる時点で突拍子もないことは既に起きているのも確かだ。

 私は部屋を見渡し、鏡台に目を止めた。少し考えて、意を決した私はベッドから降りる。

無駄に豪華な装飾が施された鏡台に真っすぐに向かって、鏡に映る自分の姿を見た。

「これは……」

 射貫くような鋭い眼光を放つ緑色の瞳、その瞳を縁取る切れ長の目の形、筋の通った高い鼻に、枝毛ひとつない絹のような金色の髪。美人だが、パーツ全てがとにかく主張が強く、近寄りがたい雰囲気を纏っている。

 鏡に映る姿は、紛れもなく『天使のゆりかご』に登場するイザイラ・バートンそのものだった。

 イザイラはアンジェが通うことになるローレンス学園の生徒であり、学園内でも屈指の財力と権力を持つ名門貴族、バートン公爵家の一人娘だ。イザイラは平民であるアンジェがこの学園にいる事をよく思っておらず、度々アンジェに嫌がらせをする。更にイザイラは攻略対象の一人であるレイシスの婚約者でもあるため、レイシスルートでは嫉妬に狂ったイザイラの嫌がらせより過激なものになり、命まで奪おうとする。最後はその目論見が白日の下に晒され、イザイラは国外追放となるのだ。

 私は、そのイザイラ・バートンに転生してしまったらしい。

「サイアク……」

「ドンマイ」

 絶望する私の肩にナビィの手が置かれる。

「何がドンマイだよ。なんで私、イザイラなんかに……」

「まあ文句を言いたくなる気持ちも分かるよ。せっかく好きなゲームの世界に転生できたのに、よりによって悪役令嬢のイザイラ・バートンだもんねえ。同情するよ」

 言葉とは正反対に笑みを浮かべるナビィを睨みつけるが、あまり効果はないらしい。ナビィは張り付けた笑顔を崩さない。

「でもさ、嘆くのはまだ早いんじゃないかな」

「……え?」

 完全に詰んでいるこの状況で、嘆くのは早いとはどういうことだろう。ぽかんと口を半開きにしままナビィを見つめる。

「確かに、原作でのイザイラの立ち位置は悪役令嬢。ヒロインからも攻略対象キャラからも嫌われる存在だ」

 ナビィの言葉がグサグサと突き刺さる。だってこれは、自分が実際にこれから経験することなのだ。推しから嫌われるなんて絶望しかない。もういっそこの場で舌でも噛み切ろうかと半ば本気で考えていると、ナビィが私の肩に手を置いた。

「そんな絶望的みたいな顔しないで? 言ったでしょ? 嘆くのはまだ早いって」

「それってどういうこと?」

「さっきも言った通り原作でのイザイラは悪役令嬢だけど、今は事情が違うでしょう?」

「事情……?」

「今、『天使のゆりかご』のイザイラ・バートンはキミなんだよ。つまり、これからこの物語はキミの行動次第でストーリーが変わってくる」

「えっと……つまり、私が原作と違う行動を取れば、原作とは違うストーリー展開になるってこと?」

「そのとーり! キミの行動次第では、もしかしたら推しと結ばれるルートにだって行けるかもね」

「推しと……結ばれる……?」

「お、ちょっと元気になってきたねえ。ちなみに冬子ちゃんは誰押しなの? やっぱ王道熱血キャラのアイン? 弟のツヴァイもクールだけどピュアで可愛いよねえ。一番人気はレイシスだけど……ああでもシリウスもカルト的な人気があるよね。万人受けはしないけど一定の層には確実刺さるタイプってカンジ?」

 ナビィつらつらと攻略キャラ達の名前をあげる。しかし、私は首を横に振った。私の推しは——私が『天使のゆりかご』の沼に落ちた理由は彼らではない。

「アンジェ」

「……え?」

「アンジェ」

「……アンジェ? ヒロインの?」

「うん」

 私が頷くと、ナビィはぽかんと口を開けたまま沈黙した。

 乙女ゲーム「天使のアリア」のヒロインであるアンジェ・クラーク。緩やかなウェーブのかかった淡い桃色の髪、透き通るような白い肌、空のようにどこまでも澄んだ青い瞳は、あどけない顔立ちや華奢な体格と相まって守ってあげたいという庇護欲を搔き立てられる。 性格はとても温厚で優しいが、それでいて意志の強さも併せ持つ、芯の強い女性でもある。

一目惚れだった。運命の出会いだと思った。アンジェを初めて見たとき、「体に電流が走る」という感覚を初めて体験した。

 私はアンジェ・クラークに恋をしたのだ。

 だからこそ、私はイザイラに転生したことに絶望した。自分が愛するアンジェに危害を加える存在だなんて、とてもではないが耐えられない。

 しかし、それはあくまで〝原作〟の話だ。

 今イザイラ・バートンとしてこの世界で生きているのは私なのだ。

 ナビィが言った通り私の行動次第でストーリーが変わるというのなら、私がアンジェを苛めなければ、この世界のイザイラは悪役令嬢にはならないし、アンジェも平穏な学園生活が送れる。

 それにもう一つ、私の中にある願望が生まれいた。

「ナビィ、アンジェってもう学園に編入してきてるの?」

「いや、今はまだ本編開始前の時間軸だからね。アンジェが編入してくるのは確か、今日から一週間後だよ」

 ナビィの答えに、私は強く拳を握り締めた。

 それならば、まだ希望はある。

「よし、決めた!」

 決意を固めた私は、ナビィに向かって宣言した。

「私、この世界でアンジェを攻略する!」

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