行ってみたいと思いませんか
小石原淳
それはまるで吸い込まれるかのように
「危ねぇ!」
横断歩道では中学生ぐらいの女の子が、左車線中程で立ち止まり、こちらを向いてぽかんとした表情を見せている。怒声が聞こえたのか、左から右へとことこと渡り切ってどこかに行ってしまった。
「どうなってるんだ、まったく」
大型トラックの運転手である彼は、荷を積んで倉庫を出発。高速道路に向かうにはしばらく住宅街の間を抜けねばならない。普段から安全運転を心掛けているが、住宅街の道を行くときは特に注意を怠らない。
今も、信号のない横断歩道のだいぶ手前で、女の子が一人立っていると気付き、速度を落とした。のろのろ運転になっても渡る気配が一向になく、これは友達を待っているんだなと判断し、アクセルを踏んだ。その刹那、女の子が横断歩道へ一歩、二歩と踏み出したのである。
「俺が悪いの? 完全に停止すべきだったのか。でも、あの子、こっちがアクセル踏んだのを見て動き出したような……」
跳ね上がった心拍数が落ち着くのを待ちつつ、今し方の事態を考える。
「まさか自殺志願……いや」
あの子の表情は、自殺を考えている風には見えなかった。
と、背後からぶぁーっと遠慮がちなクラクションの音。
「はいはい、すみませんでした。やっと心臓が落ち着いたところですよっと」
聞こえない言い訳を呟き、トラックを再び走らせに掛かる。安全運転、安全運転と唱えながら、徐々にスピードを上げた。
(それにしても……)
少し前からの気懸かりが、頭の片隅で膨らんでいた。
(ここ二ヶ月で、何度目だ?)
同じ日の夜。広い駐車場で、別所の車体に手を当てながら、
「なりはいかしているし、ナンバーもご当地の伊勢志摩でいい感じなのに、名前の表示だけがだせえ」
トラック運転手仲間の池崎と道の駅休憩でたまたま出くわし、一緒に食事を摂ることにした。店に入る前にお互いのトラックを見て、冗談交じりに些細な難癖を付けるのが彼ら二人のいつものパターンだ。
「仕方ないだろ。今契約している会社の規則だ」
トラックの前後、見やすい位置に、白地に黒で“別所育蔵”と刻んだ横長のプレートを貼ること。しかも、汚れて読めないようでは無意味なので、常にきれいにしておくよう言われている。
「別所はイケメンなのに、名前で損してるんじゃねえ? “いくぞう”って、中年のおじさんが捻り鉢巻きしてる絵が浮かぶ」
「それは言うな。親に付けてもらった名前だ。文句はない」
知らない奴にこんなこと言われたら、いきり立つ。相手が池崎だからこそ許せる。ちなみに容姿に関しては、若い女性に見られていると意識したことは数知れず、トラックから降りたところを写真に撮られた経験すらある。なので別所自身、イケメンなのかなと自覚が芽生えつつあった。
「早く行こうぜ」
「お? 今日は言い返してこないのか。俺の
「そういうことにしておいてやってもいいよ。それよか、今日は相談というか、聞いてもらいたいことがあって」
「珍しいな。悩みを抱え込むのはよくないぞ。走りに影響が出かねん」
そういうことならと、池崎は別所を押すようにして施設内のレストランへと急いだ。
窓際かつ隅っこのテーブルに収まり、注文を済ませる。別所はすぐに話し始めた。
「ここのところ、やたらとヒヤリハットが多くて」
「おまえが? あ、運転以外のことか? 荷の積み降ろしのときとか」
「いや、違う。運転中の話。実は今日もあった」
別所は倉庫を出てしばらくしてから起きたあの出来事を、なるべく詳しく語った。
「子供の飛び出しなら、俺にだって何度かある。いかに注意を払ってもしすぎることはないだろうが、とにかく子供を見たら飛び出すものだと思っておくくらいでいいんじゃねえの」
「うん、だが、やたらと多い気がするんだよ」
「どの程度?」
「だいたい二ヶ月間で十五回はあったと思う。ひょっとしたらもっとかもな」
「それは多いな!」
叫び気味に反応したところで、料理が届いた。口をつぐんで、愛想笑いで受け取る池崎。別所も苦笑いを浮かべつつ、料理を前に置いてもらった。ともに定食で、生姜焼きとニラレバだ。
いただきますをしてからも、話題は変わらぬまま続く。
「どれも事故には至ってないんだよな。子供ばっかりか?」
「ん? ああ、飛び出してきた人の年齢か。そうだな、小中高校生辺りが多いのは確かだけど、中には大学生や若い会社員風の奴とかもいた。あくまでも見た目のみでの判断だが」
レバーを箸先でカットする別所。対する池崎はかき込んだばかりの白飯をもぐもぐと嚥下してから、次の言葉を発した。
「一人くらい、ひっつかまえて、問い質さなかったのか。『どういうつもりなんだよ!』とか何とか」
「そんなことに時間を割く余裕がないのは、池崎だって分かってるだろうに」
別所が指摘すると、池崎は黙ってうなずく。昨今のネットショッピングの隆盛や巣ごもり需要ほか、色々な要素が重なって、物流業界の業務は苛烈の一途を辿ってきた。配達指定のできる時間帯をやや緩くしたことで多少は緩和されたかもしれないが、全体からみれば微々たるもの。別所や池崎のような長距離ドライバーにとって、時間厳守が己の評価や稼ぎに直結する。
「理解した。では逆はどうだ? 『あんたのところのトラックに轢かれかけたぞ』ってなクレームは、来てないのか」
「聞かされていないな。だいたい、逆ギレってやつだぜ、それ。天地神明に誓って、歩行者の方が急に飛び出してきたんだ。トラックは図体がでかい分、圧迫感、威圧感があって、歩行者からすれば怖く感じるのかもしれないけどさ」
「ま、クレームが来てないのならいい。俺が思い浮かべたのは、当たり屋なんだから」
「当たり屋の可能なら、自分もちょっと脳裏をかすめたよ。だけど、日本てそこまで民度は低くないと信じてるし、さっき言ったようにクレームは来てないし、その場で揉め事にも発展していない。当たり屋は金目的だろ?」
「うむ。俺がぱっと思い付いたのは、目的が違うんだ」
「当たり屋に、金以外の目的なんかあるか?」
茶に息を吹きかけ冷まそうとしていた別所は、首を傾げた。池崎は「そこなんだがな」と、箸で差し示す仕種をした。
「普通、当たり屋は一人でやるもんだと思うんだ。だが、別所の話を聞いて、仮に当たり屋説を採用すると、複数人が関わっている。大勢でやって金を取れたとしても、割に合うまい。だったら他の目的があるんじゃないかと考え、閃いたのが、おまえ個人の評判を落とすため」
「評判……もしかして、ある時期が来たら、一斉にクレームが入るってか? 『おたくのトラックに轢かれそうになった、名前は別所だ』って」
「ま、そんな感じだな。けれども、一斉にクレームと言っても限度があるわな。やはり、クレームはぽつぽつと入る方がリアルだろう。だから結論としては、おまえさんの評判を落とすための当たり屋説ってのも多分ない」
「脅かさないでくれ。恨みを買う覚え自体、全然ないんだ」
飲み頃になったお茶を呷る。すると池崎はここに来て、普段のおふざけモードに入った。
「何言ってんの、別所ちゃん。その男前ぶりで女を泣かしたこと、あるだろ、この」
「ばか言え。忙しくて恋人どころか、遊び仲間ですらなかなか作れない有様だってーの」
「そうかな。その気になりゃあ、チャンスはいくらでも転がってるぜ。たとえば――ほれ」
肩越しに後ろをちらと見たかと思うと、すぐに視線を戻した池崎。それから箸を使って、あっちを見てみろとのジェスチャーをする。
別所は指し示された方角のテーブルを、ちらと見やった。道の駅目当てで訪れたのか、若い女性の四人組がいた。年齢層は二十歳に届くかどうか。
「あれがどうした?」
声を潜めて聞く。問われた池崎は眉根を寄せ、怪訝がる表情をなした。
「写真、撮ってなかったか」
「いや」
「そうかあ? 俺が気付いた範囲では、あそこの横を通るときに一度、席に着いてから一度、そのあとあの中の一人が通りすがりに一度、それぞれ写真を撮るか、少なくとも携帯端末越しに覗いていたようなんだが」
「妄想じゃないのか」
「いや、俺のことじゃないって。おまえ目当てに感じたぞ」
「どっちでもいいけど、妄想だよ」
そう決め付けると、別所は食事の残りを片付けに掛かった。
池崎とはしばらく方角が同じということで、相前後して専用道に入った。別所の方が後続となる位置付けだ。が、程なくして、何台か乗用車が入って来て、徐々に間隔が開いていく。別所は無理に着いていこうとはせず、流れに合わせた走りを続けた。
「当たり屋は考えたが、評判を落とすためっていう可能性までは思い至らなかったな」
レストランでのやり取りを思い起こし、独りごちる。次いで脳内での思考に入った。
(明日になったらクレーム殺到、なんてことはないと思うが、念のため、気に懸けておこう。ドライブレコーダーの記録はあるはずだし、こっちの不利になることはないと思う)
少し落ち込みがちだった気持ちを切り替える。運転に集中集中と、己に言い聞かせた。
闇を行く車の流れは、少しずつスムーズに、早くなっていった。夜が更けるにつれ、台数が減っていくのがその主な原因だろう。スペースに余裕があると、車を転がすのは楽になる。反面、スピードを上げる者も増えるため、要注意だ。
若干きつめのカーブに差し掛かると、さすがに皆、速度が若干落ちる。季節にもよるが、この辺りは明るいときに走ると、見事な山景色が広がっていて、自然とゆっくり走りたくなるのだが。
(そういやカーブを抜けた先に橋が架かってたな。何年前の紅葉の季節だったか、あの橋にも人が鈴なりになっていて、少し危ない印象を受けたが)
そんな記憶を掘り起こしながら、今夜もまたカーブをゆるゆると抜ける。出口で一気に加速する車が多いので、周囲に気を配らねばならない。
(――えっ)
車や道路の方に向いていた意識が、ふっと、斜め上に。専用道を跨ぐ橋に、何かが張り付いているように見えたからだ。
正体を確かめる間もなく、そいつはふわりと宙に飛んだ。身を投げたと表現する方が正確だが、別所にとってそんな余裕はどこにもなかった。
「落ちて、来るっ!」
叫んだのは、すでに落ちたあとだったかもしれない。トラックの大きなフロントガラスに何かがへばりつき、赤っぽい液体で染まると同時に、ガラスにひびが走って途端に視界が効かなくなった。
別所は自分がどのレーンを走行中で、周囲にどれだけの車がいたかを必死に脳裏に描きながら、最善の選択を採ろうと試みた。
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