事は五年前──犬飼が地元を離れ、池袋や新宿で根無草生活を送っていた時期までさかのぼる。

 金が、常に足りてなかった。日雇いの力仕事やヤクザの取立て代行、他の不良からカツアゲした金だけで、住所も持たず、ただ自堕落に放浪するだけの日々を送っていた。

 どこにも、自分の居場所はない。自分にできる事といえば、暴力で誰かを傷つけるぐらいだ。

 岸風に出会ったのは、そんな妄想を拗らせた頃だった。




 歌舞伎町の脇道で、年齢の近い少年が、二人の大人に袋叩きにされていた。

 殴る音の合間で「ガキが調子に乗りやがって」「ヤクザに喧嘩売るとどうなるかわかっただろ?」と言った煽りが聞こえる。

 それで大体の事情は察せた。自分と同じような衝動を持て余したチンピラが、度胸試しの悪ノリでヤクザの事務所に悪戯いたずらでもしたのだろう。犬飼も、よくやっていた。ただ違うのは、自分は一度もヤクザに負けた事がない。


「ああ……? オイ、テメェなにガン飛ばしてんだ」


 何を考えるでもなくぼーっと観戦していたら、急に一人が振り向き、咎められた。まるで見られたらまずいものでも見られたように、罰の悪そうな顔をしている。犬飼も殊更興味はない。自分は勝手にしてるからどうぞご自由にやればいいと思った。

 なので、無言で同じように見つめていた。するともう片方の男も振り返り、「テメェコイツの友達ダチか? だったらテメェもケジメつけろや、男だろ」と、何かを早合点して犬飼に詰め寄っていく。

 蹴られた少年は、荒い呼吸を繰り返すだけで、動かない。助けてくれと、そう懇願こんがんする充血した瞳だけが、こちらに向けられていた。

 厄介ごとに巻き込まれた。少年に義理はないし、このヤクザ二人に怨恨もない。

 それでも、自分が何か行動しなければ収拾がつかないらしいので──ひとまず目の前にいる二人のヤクザを、殴り倒した。

 大の大人二人がみるみる顔を赤く染めていき、犬飼のシャツも二人分ので真っ赤になる。血を目にする度に、心臓が焼けつくぐらいに興奮するのを覚えながら、男達が降参しても暴力は止まらない。

 興奮が醒めた頃には、男二人の顔は原型を留めていなかった。歯が何本も飛び、殴りすぎたせいで頬の肉は裂け、中の白い歯が見え隠れしている。もう片方の男は眼球が真っ赤になっていて、鼻の穴が変な方に向いていた。


「……ッハハ、鼻おもろ」


 曲がった鼻を指で弄り、それに飽きると犬飼は少年の方を振り向いた。少年は目を白黒させながら、倒れた男達と犬飼。交互に視線を反復横跳びさせる。

 犬飼も、特に少年に関心はない。とっとと帰ろうと思ったが──上げようとした腰にしがみついた少年が、泣き崩れながら何かを喋っていた。


「……れひゅは」


「ああ?」


 犬飼は苛立ち、しがみつく少年の胸ぐらを掴み、立ち上がらせる。少年は怯えをにじませながらも、顔だけはしっかりと正面を向かせる。その視線が、犬飼を捉えて離さなかった。


「……ひはあ、れひゅは?」


「わかんねぇよ。ハッキリ喋れ、ほれ」


 犬飼は顎を掴み、関節の外れたそれを力任せに戻す。骨の擦れる痛みに、少年は声にならない叫びを上げるが、それでも逃げなかった。

 息を荒げて、少年は喋った。今度は明瞭な言葉として。


「教えてください。どうして俺を……助けてくれたんですか?」


「……あァ?」


 瞬間、犬飼の脳内を、無限の疑問符が埋め尽くした。

 そもそも犬飼は、無関係な自分に飛び火したのが気に食わず、それでヤクザの二人を半殺しにしただけであって、この少年の救助など考えていない。恩を打った覚えもないし、期待に応えたつもりもない。

 ただでさえ返り血塗れで洗濯が面倒だというのに、これ以上は面倒事を増やしたくない。犬飼は掴んだ胸倉を突き放し、ここからとっとと去るという選択をした。


「俺も……! アンタみたいに強くなりたいです!」


 無邪気な声が、今は耳障りだった。他人との縁は仕事だけでいい。誰かと友達になったり、誰かを好きになったりなんてしたくはない。これ以上、他人を傷つけて自分を孤立させるのはうんざりだ。


「俺には……アンタが必要なんです!!」


 なのに、不意に告げられたその一言が、犬飼の脚を止めた。

 少年はこれを好機と見たのか、それとも無二無三に喋り続けるしか能がないのか、更に続ける。


「俺のダチが何人もやられて、それなのに俺はなんもできなくて……今日こそは復讐してやろうって思ったのに、このザマで……!」


「知らねーよカス。テメェの問題だろうが」


「アンタしか、いないんです。頼んます、お願いします……お願いします」


 少年はそれ以上の誠意の示し方を知らないのか、地面に頭を擦り付けて願った。

 犬飼はそれを憐れとも思わなかった。どうせ喧嘩がしたくて道をはぐれたような悪ガキだ。自業自得。それ以上の言葉はいらない。

 それなのに、何故か『必要』という一言が、犬飼の心のささくれに触れた。

 誰かから、必要とされた経験なんてあっただろうか。強いて言えば用心棒や取立ての仕事だが、あんなものは誰がやっても代わりが務まる。

 自分という個人が、他人に必要とされる。

 何かを壊し、誰かをおとしめるだけの自分の暴力性。

 それが、本当に誰かの役に立つのか、考えようとして打ち切った。何かを考える為の脳は、荒んだ生活の中でとっくに腐り果ててる。


「俺にはテメェが必要ねぇ。わかったら失せろ」


 それだけを言い残し、犬飼は今度こそ街に消えようとして──


「……でしたら、その服は俺ん家で洗います」


 思わず舌打ちした。次に、色々な感情がごちゃ混ぜになった溜息がこぼれた。

 何もかも頭にくる。何度も何度も執拗に食い下がってくるこの少年にも、それを無碍むげにしようとしてもできない自分にも。しかし苛立ちの矛先をぶつけるべきものは何処にもなく、ただ舌打ちだけが無性に止まらない。


「血塗れじゃ、アレですから……それ、コッチで洗わせてください」


「裸で帰れってか」


「俺のジャケット……貸します。それで今晩は」


 少年は、自分が着ていた青いスカジャンを脱いで犬飼に渡した。背中に虎の刺繍ししゅうが縫われた、明らかに何処どこぞのディスカウントショップで投げ売りされてそうな安物。それでもきっと、この少年にとっては自分の矜持プライドを示す象徴なのだろう。裏にマジックペンで書かれた『臥龍独尊、最強!!』の文字と、その下に羅列された仲間達の名前が、それを示していた。

 それで、苛立ちは風船のようにしぼんでいき、犬飼は鼻で笑いながら、シャツを脱いで渡す。


「明日の、この時間だ。来なかったら殺す」


 犬飼はそれだけ言い放って、後は少年に目もくれず歌舞伎町の大通りへと紛れた。

 それが、少年──岸風誦と犬飼氷実の出会いだった。

 

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