死人は報われず 〜殺人探偵の事件簿〜

鹿茸

Prologue

犯人は現場に戻る

 見えるもの全てが、茫漠ぼうばくとしていた。

 耳は塞がれ、呼吸もままならない。

 ──否、違う。

 呼吸は生きているものにしかできない。そのさかいにある今の僕には、必要ない。

 だから僕は、遠くをただ眺めてる。ここは死海のようなものだ。どこにも行けない。ただそこに浮かんでるしかない。

 そのまま、僕は記憶の中を駆け巡る。

 辿たどり着いたのは、あの記憶。

 今の僕に至るきっかけとなった、あの瞬間。

 


 



 豪雨が窓を打ちつける。真昼だというのに、厚い雲が太陽を覆い隠したせいで、都内は湿った灰色に染まっていた。

 ワイパーが水をける。雨足がぞろぞろと鳴り、言いようのない不安に襲われる。

 その不安を振り切るように、僕は青になった信号に合わせてアクセルを踏む。


「この混み具合だと、裁判所まで少し時間がかかりそうですね」


「いいよ、別に」


 車の運転は、いつも秘書に任せてた。けどこの日はどうにも自分で運転したくなったみたいで、僕がハンドルを握ってる。

 今日は代わりに秘書が裁判の資料をチェックしている。といっても、証拠が揃った現実の刑事裁判には、ドラマみたいな怒涛の急展開は、まずない。

 この事件もそうだった。とある製薬会社の社員が、仕事上の関係のもつれから上司を刺殺したという、なんの変哲もない殺人事件。

 被告は無実を主張していたが、嘘をついているかどうかは目付きでわかる。それに全ての証拠が、彼女が犯人と示しているのだから、疑う余地はない。

 無意味に騒ぐばかりで反省の色もない。どうやって減刑させたものか──

 そう、ぼんやり考えているタイミングで、それは起きた。


「……!?」


 ぐらりと、視界が揺れた。

 何が起きたのか分からなかった。否、理解の範囲を超えていた。自分の中から、何かが抜け落ちたかのように、僕はいきなり放心してしまった。

 理性が、『さっさと減速して停めろ』と命令する。

 しかし、ハンドルを握る指も、ペダルを踏む脚の実感もない。顎が痙攣けいれんして、唇がパクパク動く。景色に光が散らつく。


「遠野さん? 遠野さん!? しっかりしてください!!」


 そうヒステリックに騒ぐ彼女の声も、意味不明に聞こえた。

 世界が回る。

 世界が壊れる。

 五感が混ざり合い、全てがぼやけて、ついぞ何も認識できなくなった僕は、どうしてか、確かに感じ取っていた。

 ──ああ、死ぬんだな。

 兆候じみたものだけを実感しながら、

 衝撃と共に、僕の意識は深く沈んだ。



   ──────────◇◇◇──────────



 苦しい。

 腹から口までを、自分のものではない何かが駆け巡っている。

 息苦しいという事は、今は生きているという意味なのか。

 僕は己の生存を、まるで他人事のように俯瞰していた。

 視界が開き、薄汚れた天井が現れる。蛍光灯の無機質な光が、死の淵から生還した僕をささやかに祝福していた。


「んぐっ」


 ぼんやりとしていた意識に追い討ちをかけるのは、胃から競り出す不快感だった。僕は患者用ベットから転がり落ち、千鳥足でカーテンを開け、すぐそばにある流しに口内のモノをぶち撒けた。


「あーもう、出すなら言ってよー。それ掃除するの大変なんだよー?」


 背後で爪をいじってる女医のお叱りも無視して、僕は塩辛く、大凡おおよそ人間には耐え難い物体を吐き出す。

 底無しの闇のような赤黒いヘドロ状のものがシンクを満たし、えた臭いに鼻をつまみたくなる。こんなものが自分の腹の中に入っていたかと思うと末恐ろしい。

 御察しの通り、このグロデスクな物体は僕の体液ではない。『水面』から帰ってくると、その時飲み込んだ『死の世界』の物質をこちら側に持ってきてしまう場合がある。

 生きているものは、『死の世界』にある物質を拒絶する。だから身体はそれを異物と認識し、全力でそれを追い出そうとする。その結果がこれである。

 全部出し切ったのか、僕の喉はようやく息が通るようになった。

 肩で激しく呼吸をする。生きている。しかし、実感があるだけだ。そこに対する歓喜はこれっぽっちもない。

 今僕がすべきなのは、感傷に浸ることではない。


「橘さん、犬飼は外?」


 たちばな糸世いとよ──このビルの一角に佇む診療所を経営してる女医に、僕は訊ねた。すると彼女は呆れたように溜息を吐く。


「その前に、十成くんさー。私の能力はそんなご都合主義じゃないよ? 私のDEATHデスは、ほぼ死んでいる人間の身体に、無理やり魂をねじ込んで、因果を狂わせてるだけなの。確かに十成くんのお腹の刺し傷は消えたし、失血も無かったことになったけどさー、十成くんは一回死んでるの。。それがどういう意味なのかわかる?」


「一度死んだ人間がこの『生の世界』に受け入れられるまでには時間がかかる。つまりこの世が僕を異物と認知しているから大人しくしろ。そういう意味?」


「わかってんじゃん。そんな急いだって意味ないよー。急がば回れ、今はベッドに安静にしてなさいな」


 彼女はそう言いながら、華奢な腕で僕を強引にベッドに押し込もうとする。身長は僕より一回り小さいが、ピンク色のラインが走ったキュートなナース服はその体格とあどけない顔に似合う。見た目の印象だけなら高校生〜大学生辺りに見えるが、年齢不詳だ。

 僕は彼女の腕を擦り抜けて、診療所の出口へと足を運ぶ。恐らく事前にお金は払ってるから、もうここに長居する意味はない。

 今は一刻も早く、アイツを捕まえなければ。


「あっ!? ちょっとー、探偵の身のこなしで逃げるの反則だから!」


「助かったよ。それじゃ」


 最低限の謝辞だけを述べて、僕はコートを羽織り診療所を後にした。

 外に出ると、肌を刺すような冷たい風が頬を撫でた。真夜中の池袋を吹き荒ぶ寒気が、また、死にぞこなった僕を手招いていた。

 池袋駅北口からチャイナタウンを通って徒歩十分の場所にある雑居ビル。その三階にあるこのタチバナ診療所は、普段は近隣住民の憩いの場を装っているが、それは世を偲ぶ仮の姿。実態は僕みたいなワケアリの患者が通う闇医者である。


「お、マジか、また生き返ったのかよオメエ、凄えなぁ」


 階段を急いで駆け降りると、路肩のバンに背中を預けた少年が待っていた。痩せ気味だが。身長は僕よりも少し高く、目付きは常にナイフのように鋭い。おまけに頭は下品な銀色に染めたオールバック。曰くこの髪型が一番のお気に入りらしく、本気で仕事をする時は絶対このヘアースタイルらしい。

 少年──犬飼いぬかい氷実ひさねは、僕の事務所の唯一の同僚である。それと同時に、ここまで僕を運んできてくれた命の恩人でもある。


「お陰様で」


「俺は死ぬ方に賭けたんだけどな、ったく。ま、オメエが生きてても死んでてもどうでもいいけどさ」


「……前科持ちの分際でそんな贅沢言っちゃう? 僕の事務所ここ以外に食い扶持ないだろ」


「前科持ちぃ〜? オメエも犯罪歴まみれじゃねえか。不法侵入、暴行、脅迫……」


「バレなきゃ犯罪じゃないよ。それよりも連中は?」


 雑談に脱線してきので軌道修正すると、犬飼は眉間にしわを寄せた。


「オメエがバカみてえに脇腹ブッ刺されてる隙にどっか行ったぞ。もう本拠地に戻ったんじゃね?」


 聞こえよがしに僕の失敗を詰り、ニヤニヤと睨んでくる。僕が背後から脇腹を刺されて死にかけたせいでターゲットを取り逃したのが悔しいらしい。表情は笑ってはいるが、瞳には殺意すら宿っている。

 記憶を遡る。僕は探偵の仕事として、ドラッグの運び屋の四、五人のグループを尾行していた。そして僕は不用意に前に出た結果、背後から近づいてきたもう一人に不意打ちで脇腹を刺され──かくかくしかじかで、今に至る訳だ。


「んで、どうすんだよこれ。今日の依頼、ドラッグとその運び屋の確保だろ? 『どっちもありませーん、すみませんでしたー!』で納得するような依頼人じゃねえだろ」


 バンから身を起こし、犬飼は僕に詰め寄る。今の僕の冷めきった心境とは違って血気盛んだな、と思った。

 僕は近づいてくる犬飼の肩を避けて、そのままバンの助手席へと移動した。


「オイオイ十成く〜ん? ……テメ人の話聞けよオラァ!!」


 深夜の閑静な街に似つかわしくない怒声が響き、犬飼がバンを蹴る。お陰で車内が軽く揺れた。僕は流石に辟易として、窓を開け、犬飼をなだめた。


「さっきから聞いてるよ。とっくに逃げたんでしょ? だから僕が刺された現場に戻る」


「だーからよォ、なんで運び屋の連中がノコノコ現場に戻ってくるん……だ、え?」


 犬飼はもう一発怒りをかまそうとしたが、それは不発に終わった。

 僕がコートのポケットからひらりとチラつかせたのは、その運び屋が運んでいた『AWAKEアウェイク』とラベリングのされた危険ドラッグの袋だったからだ。

 つまり、依頼内容の一つはとっくに達成している


「え……!? ちょっタンマタンマ、は? なんでお前これ持って……」


「普通に尾行するんじゃ捕まえるのもドラッグを押収するのも無理だと思ってさ。だから思い切って懐に潜り込めばいいんじゃないかって思っただけだよ。さっき刺された時に、ソイツのポケットからくすねたんだ」


 最悪でもドラッグさえ押収できれば、運び屋チームは紛失したドラッグを回収する為に来た道を戻る羽目になるだろう。そこで一網打尽にできれば、これで『運び屋の確保』も達成される。一石二鳥だ。


「運び屋も今頃焦ってるだろうし、さっさと現場に戻るよ。運転よろしく」


「っしゃあ任せろ! 全速力でぶっちぎってやるよ!」


「急ぐのはいいけど、法定速度守ってよ。無免許だから言い訳できないよ」


 僕がそう忠告するも、大喜びで運転席に座った犬飼は全く話を聞いてない。さっきまで怒っていたのが嘘のようだが、この感情ジェットコースターぶりにもいい加減慣れてきた。

 犬飼はバンを急発進させる。案の定、法定速度はガン無視である。


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