ルームメイトは猫である。
ふつれ
第1話
吾輩は猫である。名前を、ミケという。先日一才になったばかりのメスの三毛猫だ。…… この口調やりづらいね。元に戻そう。私は、一人暮らしの男子高校生の家で暮らしている。まあ、この飼い主がなかなかに飼い主バカというか何というか、日頃ベタベタしてくるので、とても鬱陶しくてね…… え? 満更でもないんじゃないかって? 莫迦言わないでよ。私は、もっとマイペースに過ごしていたいのよ。……話が逸れたわね。あまり前置きが長くとも仕方ないものね。そろそろ本題に入りましょうか。そう、これから始まるのは、そんな、一人の猫好きと、一匹の猫の話――
四月も下旬。満開の桜の時期はとうに過ぎて、桜の木には花びらと生え替わるようにして、緑の葉が芽吹き始めている。何事にも何者にも活力を感じるこの季節であるが、俺、三神稔は、大きな疲労感を抱えて憂鬱の中にいた。俺は春があまり好きではない。
春は、始まりを予感させる。長かった冬の停滞が溶け、自然は命を得て一斉に目覚める。そして、人々の出会いが生まれる。
高校二年に上がった俺もその例外ではなく、新しいクラスで新しい同級生たちと巡り会うことになった。世間では、始まりは祝福され、出会いは歓迎される。それもあって、春にはポジティブな意味合いが付与されることも多い。しかし、俺はその風潮に異を唱えたい。
始まりは本当に善なのか。
出会いは本当に必要か。
現状で十分うまく機能している事象に、新たな変化を与える必然性は、本来はないはずだ。むしろ、慣れない環境を生み出し、様々な効率を落としてしまいかねない。俺は考える。現状を保つ停滞こそが、最も安全であると。現状維持を逸脱することが、新しい変化を加えることが、時として事態を悪い方向へと導くことを、俺はよく知っていた。
……
まあ、つまり何が言いたいかと言えば。
有り体に言ってしまうと、人見知りの俺は、クラスでの新たな人間関係構築に苦労しているのだった。いや、「苦労している」なんて言っては、本当に苦労している人たちに怒られてしまう。実際には、何の努力もせず、ただ居心地の悪さを感じているだけだ。
全く、せっかく一年かけて自分の居場所を築いてきたというのに、その努力を無に帰するというのもいかがなものなのか。やりこんでいたゲームをリセットされたような虚無感がある。もちろん、新しいクラスには去年同じクラスだった人もいるので、完全なリセットというわけではないのだけれど。
そんなわけで、居心地の悪い学校生活に疲労感を塗りつけられ、俺は黒ずんだ気持ちで下校路を歩いて行く。もちろん一人だ。これは去年から変わっていない。俺は帰宅部なので、六限が終わったらすぐの下校。冬の頃とは違って、うららかな陽はまだまだ高くに見える。俺の気も知らないで、まったく世界は陽気なものだ。
学校から二十分くらい歩いたところで家に着く。家は普通の一軒家だが、今家に暮らしている人間は俺一人しかいない。両親は、仕事の都合で、俺の高校入学とともに海外に移り住むことになった。
玄関の鍵を回して、勢いよくドアを開く。ここまできて、緊張状態にあった心のこわばりもほどける。一人暮らしに寂しさよりも快適さを抱く俺にとって、家はホームグラウンドに違いなかった。ホームなので当然なのだが。また明日になれば学校には行かなくてはならないわけだけれど、今はそれに目を瞑って、つかの間の休息を味わうとしよう。
そして、家に着くと気分が上向く理由、一人暮らしでも寂しさを感じない理由には、もっと具体的なものも一つあった。それは、飼い猫、ミケの存在だ。三毛猫だからミケ。我ながら安直なネーミングだとは思う。
何を隠そう、俺は無類の猫好きだ。猫はいい。何考えているか分からないことも多いけれど、そんな気分屋なところがいい。たまに気まぐれで甘えに来てくれたら最高だ。そんな俺に両親は、去年猫を飼うことを許してくれた。寂しい一人暮らしをさせてしまうことへの配慮があったのだろう。それから一年。俺は家に帰ると毎日のようにミケを愛でる生活を続けている。
今日も擦り切れた心を癒やしてもらおう。俺はいつものように玄関で声を張り上げた。
「ミケーーー!!ただいまーーー!!帰ったぞ!」
が、残念なことに、玄関から見える位置にミケの姿はない。まあ、仕方がない。これもいつものことだ。ミケはツンデレの気質がある。きっと、リビングのクッションの上ですましたように顔をこすりながら、飼い主の登場を今か今かと待ち構えているに違いない。
まずは、座ってミケを膝の上に載せて、逃げなかったらもふもふしてやろう、なんて呑気なことを考えてリビングの扉を開ける。
そこまできて、ようやっと様子がいつもと違うことに気がついた。カーテンが閉めっきりで電気は点けっぱなし、これはものぐさな俺はよくやる。しかし、いつもならそれなりには片付いているはずの部屋が、ひっちゃかめっちゃかに散らかっていた。ボックスティッシュの中身が全部出ていたり、クッションが破けていたりするだけならば、ミケのいたずらってことで話が済むだろう。しかし、さすがに猫の力じゃ、ラックを倒したり、本棚の本を軒並み落としたり、なんてことはできそうにない。そもそも、ミケはその手のいたずらをあまりしない質だ。それに、肝心のミケの姿が見当たらない。もしかしたら、泥棒が入って、抵抗するミケを連れ去ってしまったのだろうか。
もしそうなら大変だ。早く助け出さなくては。
突然の非常事態に俺の頭には混乱が駆け巡るが、ここで、リビングとその隣の和室を繋ぐ襖が半開きになっているのが視界に入る。襖の先に犯人がいるのかもしれない。
安易に立ち入るのは危ないだろうか。
だが、確認せずに放っておくわけにもいかない。
俺は和室のほうへ歩き始めるが、自然と息を殺して、足取りも慎重になってしまった。まあ、先ほど大声を出してしまっているので、今更といえば今更なのだが。
和室は暗く、よく覗かなければ中の様子は分からない。俺は決死の覚悟でドアの陰から顔を出した。すると暗闇の中に、人一人分くらいはありそうな、肌色の塊が転がっていた。
――!? あまりの驚愕に、一度顔を戻す。え……? 念の為もう一度覗きこんでみるが、俺が見たものはまだ変わらずそこにあった。
こ、これは……
人一人分というか、そこに転がっているものは正しく人だった。それも裸の女の子。一糸まとわぬ姿の、しかも中学生くらいの見た目の女の子が、畳の上で眠っていたのだ。
いったいどうしてこんなことに……? 知っている子ではなさそうだ……もしや裸で泥棒に入る変態なのか……というか結局ミケはどこに?
思考が空転し始めたところでミケのことを思い出し、何とか落ち着きを取り戻す。彼女が泥棒であれ変態であれ、ミケの失踪に何か関わりがあることは間違いないはずだ。このまま放置しておくわけにもいかないのだし、とりあえず起こすしかない。
洗面所からバスタオルを持ってきて、もう一度和室へと向かう。和室に入ると、なるべく彼女の体を見ないように注意しつつタオルを被せた。これで、うっかり女の子の裸を見てしまう危険性はなくなった。健全な男子高校生としての欲望を抑える、俺はまさに紳士といえるだろう。
そうして上半身を抱き起こし、俺は彼女を揺さぶる。力加減がうまくいかず、顔がぶつかりそうになった。
「起きろ!大丈夫か?」
揺すったことで首元まで覆っていたタオルが擦れ落ち、綺麗な鎖骨が露わになる。間近で見る女の子の肌。こんなに滑らかなのか……健全な男子高校生としてはもうどぎまぎするしかない。
ふと、彼女が首にチョーカーをしていたことに今更ながら気づく。さっきは一瞬しか見なかったから気づかなかったらしい。一糸まとわぬ、というわけではなかったようだ。
そして俺はそのチョーカーを見て、衝撃に喘ぐことになる。俺には見覚えがあった。というか、毎日目にしているし、今朝も見たばかりだ。この赤いチョーカー、ミケがいつもしている首輪じゃないか!
これは、つまり……
俺の思考が信じられない真実に行き着く直前、彼女の目が開いた。透明感のある瑠璃色の瞳。至近距離で見つめ合っていると、まるで吸い込まれてしまうかのようだ。そうして、彼女の桜色の唇が、震えとともに開かれる。
「みゃあああ!? アンタ何してるのよ!」
言葉とともに飛んできた彼女の拳が、俺の顎を捉え。
たまらず後ろに倒れこんだ僕は、直感的に悟った。
この女の子は、きっと、ミケに違いないと。
五分後。リビングには、ちゃぶ台に向かい合って座る俺と女の子の姿があった。幼ささえ感じさせるほど小柄な彼女は、俺のTシャツ一枚をワンピースのようにして着ている。ギリギリ太ももが半分隠れるくらいだ。本当は下も穿いてほしかったのだけれど、俺が穿いたパンツを穿くのが嫌ならしい。なかなか傷つくことを言ってくれるじゃないか。
そうは言っても俺は優しいので、未だ興奮冷めやらぬ彼女に温かいミルクをご馳走する。
「なるほど、ついパニックになってやってしまったというわけだな?」
彼女は大きめのマグカップを両手で持つと、一生懸命にふうふうした。
「仕方ないじゃない。誰だってビックリするでしょうよ、こんなことになったら」
言い終わるとカップに口を付けるが、あちっ、と言うと飲まずにまた離してしまった。猫舌なのか。
「とは言えなぁ。ここまでやらかされると、いくらミケでも許せないぞ」
部屋の惨状を指さすと、彼女は首をすくめる。
「ま、まあ申し訳ないとは思ってるのよ?」
俺が殴られた後、必死で彼女を宥めながら話を聞いたところ、次のようなことが分かった。
まず、やはり彼女はミケだった。さすがに俺も無条件では信じられなかったが、「アンタが昨日お風呂入ってるとき、それはそれは楽しそうに『しゅわドロ』のオープニング主題歌を歌ってたって、言っても信じない?」と、彼女にイタズラな顔で言われたときにはぐうの音も出なかった。
『しゅわドロ』とは、俺が最近ハマってるアニメのことだ。確かに、それは同棲してるミケじゃなければ分かりっこないのだ。
猫が人間になるとは、かなり現実離れした話だが、これは信じるしかないらしい。確かに、実際こうしてやり取りしていると、俺は人見知りなはずなのに怖じけず会話できていて、彼女には不思議な親しみ安さを感じていた。ミケなのだとしたら、そこはとても腑に落ちるところだ。
しかし、ミケがミケ本人だと示す証拠、もうちょっと他になかったのか…… 二人の馴れ初めを語るとか、心温まる思い出を取りあげるとか。いくらミケとはいえ、女の子に自分のアニメの趣味を指摘されるのは、かなり精神的なダメージがある。
次に、ミケは意図して人間になったわけではなく、また、戻り方も分からないらしい。突然人間になったものだから驚いて、そしてパニックになって暴れ回ってしまったようだ。部屋が荒れていたのはミケ本人の仕業ということになる。そして、そのまま疲れて眠りについてしまったようだ…… 全く、パニクって暴れて疲れて寝る、だなんて、子供みたいで可愛いやつだ。
「さて、これからどうしたもんかな」
ようやくミルクに口を付けたミケを見て、俺はぼやいた。
「え? この散らかったの、全部私一人に片付けさせるつもりなの……」
「あ、いや、それは俺も手伝うから安心して」
なんだかんだ、ミケには甘い俺である。
「そうじゃなくてだな、ミケはこのままでいいのか? 猫に戻らなくても?」
「なあに? アンタは私に猫に戻ってほしいんだ?」
……何か、少しミケの顔に陰が落ちた気がする。それは、ミケとしては普段味わえない人間の感覚を味わえて楽しいのだろうが、いつまでもこのままというわけにもいかないのだ。ちゃんと、収まるべきところには収まらなくてはいけない。ミケのことを考えたら、絶対に猫に戻ったほうがいい。
ミケをどう言いくるめようかと思考を巡らせていると、それを遮る音が鳴った。玄関のチャイムだ。この家に訪ねてくるような人間は、何かの勧誘か宅配便でなければ、一人しかいない。
インターフォンのモニターを覗くと、案の定、見慣れた黒髪ポニーテールの少女の姿があった。彼女は、名前を真宮円という。俺とは、良く言えば幼馴染み、悪く言えば腐れ縁といった感じの仲である。小さい頃からの、家族ぐるみの付き合いだ。
彼女はテニス部所属であり、健康的に焼けた肌にポニーテールがよく似合う。ふんわりとした性格も相まって、男子からの人気は相当だ。だが、まあ、相当な変わり者でもある。
「なんだ?」
俺がインターフォンを通して声をかけると、彼女は
「今日も、ボクの手料理を持ってきたよ~」
と、ゆるりと笑った。そう。彼女、一人称が『ボク』なのである。幼稚園からの付き合いである俺は、もう慣れてしまって気にならないのだが、初めて会う人には高確率でギョッとされているようだ。そんな周囲の反応にも、本人はどこ吹く風といった様子である。
円は、ときどき俺の家にやってきては家事を手伝ってくれる。どうやら、俺の両親が海外に行く際、俺の様子を見守るよう、円の家族に頼み込んだらしい。
だから、俺はいつものように、円を迎え入れようと玄関に足を運びかけた。
しかし、ここで気づいてしまったのだ、致命的な緊急事態に。急いでインターフォンまで戻ると、俺は努めて冷静に、円に呼びかけた。
「な、なあ、円さんや。今日はちょっとやることがあって忙しいから、家には上げられそうにないんだが、それでもいいよな?」
円は首を傾げる。
「どうしたのさ、ミノくん。急に改まって。やることがあるなら、ボクも手伝うよ」
因みに、『ミノくん』とは、幼い頃からの俺の渾名である。
いや、今、円を家に上げるわけにはいかない。何せ、今はリビングにミケ(女の子ver.)がいるのである。しかも、下に何も穿かず、Tシャツ一枚で。これはまずい、非常にまずい。いくら円といえど、こんなのを見てしまったら、どん引き確定だろう。まさか女の子がミケだなんて思うまい。下手したら通報案件だ。自宅に女の子を連れ込む男子高校生。ワイドショーを賑わせてしまう!
「いや、や、やることって、宿題のことなんだよ、ホントに。だから、円に手伝ってもらうわけにはいかないんだ」
俺の必死すぎる受け答えにも不自然さを感じないようで、円は朗らかに返す。
「宿題をやるなら、その間ボクもテキトーに掃除したりしてるから、気にしないでいいよ」
俺に鍵を開ける意思がないことを悟ったのか、円は鞄の中をゴソゴソし始める。そう、何故俺がこんなにも焦っているのかというと、円は合い鍵を持っているのだ。これも、両親が海外に行くときに渡していったらしい。真宮家を信用しすぎか。
非常にまずい事態に、二の句を継げずに詰まっていると、俺の隣に人の立つ気配。ミケだ。いつまでも俺がインターフォンの前でウダウダしているので、気になったのだろう。ミケはモニターを覗き込んで……
「あ! 円――むぐうぐむむ……」
「ごほごほ、ごほほ」
ちょ、ミケ、なに声出してるんだ。
俺はミケの口を慌てて手で塞ぎつつ、咳き込んで誤魔化す。
「? ミノくん、今女の人の声がしなかったかい?」
――が、どうやら誤魔化せていないらしい。
「気のせいだよ、気のせい。きっと、テレビ見てたから、その声が聞こえたんじゃないか?」
驚いてもがくミケを押さえつつの、苦しい言い訳。
「ダメだよ、宿題から逃避してテレビなんて見てちゃ」
円が鈍くて助かった。しかし、鞄の中から合い鍵を見つけたらしく、もう鍵穴に差し込もうとしている。一方、ミケの方も、一層力を込めて、俺の腕から抜けだそうと暴れ出す。
「あ、ちょっと待てって――」
焦った俺は、無理に動こうとして、ミケと足をもつれさせてしまった。
ドタバタン。
二人して倒れ込む。
「すごい音したけど大丈夫?」
玄関の中から円の声。リビングの扉を挟んで向こう側にいるということだ。
しかし、そのときの俺の頭はもう処理が追いついていなかった。
目の前には、仰向けに倒れるミケ。
一枚しか着ていないTシャツは、胸の下までまくり上がっている。
そして、ミケに覆い被さるように膝と手を着く俺。
一拍間があって、扉が開く音と、鞄が床に落ちる音が聞こえた。
おそるおそる、そちらを見ると。
震える手でポケットからスマホを取り出す円の姿。
お、おい、何する気だ!?
「ちがう! 誤解、誤解なんだぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
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