第3話

「おはよ……」


「あ、蓮早かったじゃない。おはよう」


 太陽が山から顔を出す前の時間に僕は起きた。眠い目を擦りながらお母さんに挨拶をして洗面所で顔を洗う。

 

 昨日は帰ってからすぐ勉強に取り掛かった。

 どうせ病院で自分の事を話されるのは分かりきっている事だし、たとえ一週間で記憶がなくなるとしてもいつか治ると信じて今は目の前にあるテストに集中したい。

 

 僕はそこまで勉強が苦手というわけではないので配られた試験範囲を見ながら問題集を解けば内容は理解出来た。

 後は応用問題を復習すれば平均点くらいは取れるだろう。


「やっぱり雰囲気違うよなー」


 顔を洗ってタオルで拭いた後、改めて鏡で顔を見てみると中学の頃より接しやすい感じがすると思う。

 決してイメチェンをした訳ではないと思うし自分でいうのもなんだが、人当たりの良さそうな爽やかな好青年って感じだ。

 風呂場にも知らない男用の美容液などが増えていたので今の僕はそれなりに肌に気を使っているのだろうか。

 

 それを想像すると自分でも笑えてしまうのだが、今の僕もきっとやるべきなのだろう。


「でねー……え、そうなの? 相変わらずで何だか嬉しいわ。うふふ」


 洗面所を出た所で母親の声が聞こえてきた。


「お母さん? もしかして誰かと話し中? 」


「あら蓮……ええそうよ。今大事なお友達とお話中よ」


 不敵な笑みを浮かべた母は「ごめんねぇ。これから病院だから……また後でね」と言って耳からスマホを離した。


 恐らく通話が終了したのだろう。


「なんかごめん。僕が来たから……」


「違うから大丈夫よ。あの人とお話するとどうしても長話になっちゃうから助かったわ……それに朝食の準備もしたかったから丁度良いわ。蓮は着替えでもしてきなさい」


「う、うん。分かった」


 なんだか気を使われている感じがしたが今はお母さんの言葉に甘えておこう。

 

 それに、電話してた時に僕と目があったお母さんの笑みは今まで見た事がなくおぞましかった。



 

 着替えを済ませて一階に降りてくれば、廊下までトーストのこんがり焼けるいい匂いが立ち込めてくる。


「あ、蓮。もう朝食出来てるから先に食べちゃいなさい」


 「ん、分かった。いただきます」


 「はい。どうぞ召し上がれ」


 テーブルに並んだのはトーストとコーンポタージュ。ヨーグルトにはブルベリーのジャムが入っていた。

 これぞ朝という感じがして僕はこの時間が堪らなく好きだ。


 「はー落ち着く」


 「ふふ、それならよかった。蓮は相変わらず朝に飲むコーンポタージュが好きね」


 「まあねやっぱり朝はパンとコーンポタージュだよ」


 僕はこんがり焼けたトーストをコーンポタージュに絡めて食べる。

 これは昔から好きでそれは今でも変わってないらしくお母さんの気遣いがとても有り難い。

 



 病院から帰ってきてからしばらくソファで横になりながらテレビを見ながら、考え事をする。

 

 残念ながら、何の傾向も見られず脳にも異常はなく記憶だけが失われている。もう何ヶ月もこの状態が続いているらしく医療関係者の人達はひどく落胆していたが母はそっと僕の背中を摩(さす)ってくれた。

 事情を知っている人は皆、よくしてくれて僕は改めてそのやさしさに触れ、こうして僕のために一生懸命になってくれる人がいるんだ、と思うと胸の辺りが暖かくなった。


「……ん。誰だろ」


 色んな事を考えながら、ぼーっとテレビを見ている時チャイムの音が鳴った。


「蓮ー! お母さん手が話せないから代わりに出てくれなーい!? 」


 二階から遠くで母の声がした。おそらく洗濯物でも畳んでいるのだろう。

 僕はソファからひょいっと起き上がって小走りで玄関に向かい「はーい」と返事をしドアを開け――


「やっほー蓮くん、遊びに来ちゃったー」


 思わぬ来客に開いた口が塞がらなかった。

 唖然としていた僕に彼女は微笑むと敷居を跨る。


 僕は何も出来ず、呆気にとられていた。

 扉が閉まった瞬間その子との距離と家の中という空間で頭が真っ白になりかけていた時、階段の軋む音が聞こえてきて母が降りてくると「いらっしゃいゆっくりして行ってねー」と声をかけてくる。


 ……そのニヤニヤはどういう事なんだ母上よ。絶対、業とやってるでしょ、てか降りてこれるなら手空いてたじゃん。


 お母さんのおかげで素に戻れたからよかったけど……まああの人が仕組んだ事だと思うからお母さんのせいでもあるんだろうけど。

 ちょっと起こったように睨みつけるとお母さんは頬を赤くしながら二階へ逃げていった。


「な、なんかごめん。急に女の子が来て勘違いしちゃったみたいで」


「あーあの人、蓮くんに私が来ること伝えてなかったんだ……ほんとに相変わらずだなー」


「……え? 君って僕の母と面識あったの? 」


「そりゃそうだよー。じゃなかったら遊ぶ約束もしてないのに来るわけないじゃん……あ、朝の電話! 蓮くんのお母さん朝電話してたでしょ! あれ相手私だよー」


 彼女がそう言ってやっと気づいた。確かに母は朝食を準備する前、誰かと電話をしていたけど母の相手は大事な友達って言っていた。

 それがこの子だったのか……。

 なんか人間関係全然わからないな。

 

「とりあえず上がってよ。せっかく来てくれたんだし……それに、お礼もしたいしね」


 喋り終えてから何だかこそばゆくて頬をかきながら目を逸らしてしまう。

 最初はポカンとしていた彼女だったが次第に顔を綻ばせると後ろで手を組んで覗き込むように僕を見てきて――

 

「君も相変わらずだね」


 彼女は僕の耳元で囁くと先にロングスカートを揺らしながら階段をかけあがってしまった。

 妙に大人っぽい行動とどこまでも見透かしてきそうな妖艶な瞳に僕は頬が暑くなるのを感じながらその場で悶えるしかなかった。



 飲み物が乗ったお盆を持って自室に戻ると彼女はベッドに腰掛けて何かをバッグから取り出しているところでテーブルに飲み物を置くと、彼女は「お構いなくー」と手を横に振る。

 

「遊びに来たって言ってたけど何して遊ぶの? 」


 円形のテーブルを二人で囲うように座る。

 僕は緊張して自分の部屋を見渡したりチラッと彼女を見てみるものの、目の前の彼女は全くそれらしい様子を見せず机に何かを広めている。

 

「今日は、蓮くんに勉強を教えてあげようと思って来たんだ。これは私なりに分かりやすくまとめたテスト勉強用ノート? みたいなものだよ」


 机に広げられた数冊のノートは各教科ごとに分けてあって所々付箋が貼ってあった。


「これ見てもいい? 」


「どうぞ、参考になればいいんだどねー。私も完璧な訳じゃないし」


 えへへ、と笑う彼女にドキリとしながらも、それを隠すように数学と小さく端の方に表紙に書かれたノートを開く。


「す、すご……! 」


 中には色鮮やかにペンで手入れされていて問題の解き方や公式の使い方が書かれていて見ただけで分かりやすいと判断出来るくらいだ。

 凄すぎて無意識にページを捲ってしまうほどに綺麗で付箋が貼ってあるところには僕が苦戦していた問題も解説されておりすっかり見入ってしまった。


「どう? 役に立ちそう? 」


 彼女も覗くように僕の読んでいる所を見ていてその距離は頭と頭に拳一つ分くらいの間隔しかない。

 緊張と恥ずかしさと期待がごちゃごちゃになって息も出来ずただ心臓の鼓動がうるさくて仕方がなかった。


「う、うん! 助かった……けど本当に見てよかったの? 」


 必死に頭から甘い考えを振り払って声を出すと彼女は嬉しそうに目を細めて前のめりになっていた体を戻す。

 安堵したのと同時にどこかで寂しいとも思った自分がいて、不思議な感覚に陥る。


「全然いいよ! なんならそれ蓮くんのた……待って! 今のなし! 聞かなかったことにして! 」


 顔を真っ赤にしながら掌で自分の顔を覆い隠す彼女に僕は笑いを堪えきれずに吹き出してしまった。「笑わないでよ……」とハリセンボンのように頬を膨らませ涙目になっていた彼女に僕は頭を下げることしか出来なかった。


「今のは聞かなかったことにするよ――でも、僕だけこんなに助けてもらってばっかりでいいのかな。僕だって君の助けになる事をしたいのに……」


「た、助けになること? 」


「うん。僕は君に助けられてばっかりだよ。それこそ昨日、今日だけじゃない。もっとずっと前から」


 そうだ。僕はきっと記憶が無くなる度にこの子に助けられている。証拠とか根拠とかそういう具体的なものはないけど、そう思えた。クラスの皆は事情を知っているし気にかけてくれる。だけど直接手を差し伸べてはくれない。一番気にかけてくれたのは今、目の前にいる彼女だけだった。

 記憶のない人間に関わった所でメリットなんてないし、どうせ時間が経ったら僕はまた記憶を失う。


「助けられてばっかり、か」

 

 さっきとは打って変わって真剣な表情をする彼女は姿勢を崩して頬杖をつく。

 

「助けてもらっている……とは違うかなー。蓮くんは何も覚えていないだろうけど」


「そ、そうなの? 」


 彼女は嫌な顔ひとつせずじっと見つめてくるので、僕のお母さんに嫌々言われたりしている訳ではなさそうだった。


「そうだよー? 蓮くんは昨日記憶がリセット……っていうのかな? されてまた全部忘れちゃったからね」


 「あーうん、そうだね。何も覚えてないよ。記憶が無いってのは奇妙なことでさ、知らないまま日常が過ぎていくっていうのはすごい怖い。そのせいで僕は未だに目の前にいる子の名前も知らないし……」


 そういって彼女の顔を恐る恐る見れば「あ、」と小さな声をもらして口を隠す動作が見えた。

 名前を聞かなかった僕にも非があるのだが、教えてくれなかった彼女も少し抜けている感じがして自然と頬が緩んでしまう。


 「すごい今更感あるけど名前聞いてなかった、ごめんなさい。君は僕の事知ってたからお互い自己紹介とかしなかったけど、やっぱり名前は気になっちゃうんだ。呼ぶときとか正直……その、すごい困ったからさ」


 そうだ、僕からすれば彼女は初対面で気軽に接してくれるクラスメイト。

 だけど僕の記憶は一週間しか持たないから僕だけがそう思ってるだけで、彼女からしたら仲の良い友人かもしれない。

 だとしたら、名前を知らないのは失礼じゃないだろうか。

 

 「――もし、私が名前を教えて……君は記憶を忘れても私の事、覚えていてくれる? 」


 でも予想していた返答とは全く違い、コップに伸ばした手が寸前で止まり思わず顔をあげる。

 彼女は僕を見据えておりその真剣な眼差しには言い逃れ出来ないような気迫さがあった。


 僕はその問にすぐ答えが出ず、その場で固まってしまう。

 現に僕は何も覚えていないのだ。高校の事も今の時事問題も、彼女の名前も。

 思い出せないのではなく覚えていないのだ。

 だから彼女が初めて僕と会った時、もし名前を教えてくれていたなら彼女の願いを叶えられるのか?

 だって僕はもう既に忘れているのだ。15歳までの記憶しか持たず何もかもを置き去りにしたまま。


 「それは……」


 覚えていられる、とは言えず口籠ってしまい視線を落とすしかなかった。

 そんな事も約束できない自分の状況に嫌気が差して自然と腕に力が入った事で熱を帯びたと、その時は思ってた。


 ――自分の右手が小さくて華奢な両腕に包まれるのを見るまでは。

 

 「あなたは絶対に私のことを覚えていられる。ううん、忘れてもきっと思い出す。私が思い出させるから! だから……」

 

 そういう彼女の表情は泣いているのか笑っているのかそれすら判別できないほど僕の視界は何かによって滲んでいた。


 「あ、あれ。なんで涙が」

 

 目から出たそれは頬を伝い地面へと落ちる。

 気づいた時に一度溢れ出した涙はもう止まることを知らない。


 「なんで蓮くん泣いてるんだよぉ」


 左手で必死に目を擦れば視界が開けてきて彼女の顔も分かるようになってきた。

 彼女もこころなしか泣いているように見える。

 

 ……これは何回目だ。

 彼女に悲しい思いをさせたのはこれで何回目なんだ。

 手を握られた瞬間、抑圧された記憶が僕の中に流れ込んできた気がした。

 

 彼女が僕に涙を見せた回数は。

 彼女が僕に忘れられた回数は。


 僕は、記憶の無い今の僕は、彼女の事を何も知らない。

 

 だからせめて――


 「今は、まだ覚えられていられないかもしれないけど」

 

 「え? 」


 「もし、この症状が治った時。僕は一番最初に君に会いに行くから。だからその……それまでは傍で僕の事を見ていてほしい」


 そう言って僕は彼女の手を左手で包む。

 彼女の手は暖かくて、でも力を込めてしまえば折れてしまうんじゃないかと思うくらい細くて、守りたくもなるような手だった。

 でも今の僕じゃ守れないんだよな、なんて思ったり。

 顔を上げれば彼女が気まずそうに目を逸らすので、こちらも恥ずかしくなってくる。

 僕はまずいことを言ってしまったかもと焦りを感じていると――

 

 「――――。絶対思い出してよ」


 彼女が頬を赤らめながらはにかむ。

 それは名前だ。

 優しくて笑顔の似合うその子にぴったりな名前だった。


 「うん! 絶対記憶から消えないようにするから。約束だ」

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