招かれざる客
吾妻栄子
招かれざる客
“配達時間は指定してないから、今日はちゃんと家にいて受け取ってよ。届いたら電話して”
電話で耳にする母の声は何だか時限爆弾か違法な薬物でも扱うかのように張り詰めている。
「大丈夫だよ、今日は出掛けないし」
何の予定もない日曜日で、窓の外は大雨だ。
テレビでは地域全体に洪水警報が出ているが、このマンションは高台にあるから、多分避難する必要は出ないだろう。
「でも、この雨だから配達は遅れるかもね」
“駄目だよ”
電話の向こうは禁止より懇願の口調だ。
“届かなかったら夜の九時に電話して”
「分かった」
こちらもつられるように沈んだ声になる。
本当なら
“思い詰めちゃ駄目だからね”
「大丈夫だよ」
今日は、私が高校卒業から十年付き合った同級生の元カレ、
相手は彼の職場の後輩で、二十一、二の女の子だ。
「私にはもう関係ない話だし」
達央とは二か月前の別れ話以来、会ってもいなければ、こちらからも連絡していない。
“あんたも悪いんだよ。長すぎた春は良くないって言ったでしょ”
電話の向こうの声が急に嘆息と共に説教の口調になった。
“早く結婚すれば良かったのにダラダラ付き合って、横から出てきた若い女に取られて”
「関係ないと言ってるでしょ」
電話を切ってスマホの電源ごとオフにする。
母には夜の九時に電話すれば良いのだから、それまでは繋がなくて良い。
*****
“引き続き、警戒が必要です”
“警報の出た地域の方は、不要な外出は控えて下さい”
今日は大安吉日の日曜日だから結婚式に出る人も多いはずだけれど、それは「必要な外出」として許容されるのだろうか。
そんなことを思いながら、リモコンでリアルタイムのニュースから録画した一覧に画面を切り換える。
録り溜めた映画でも観よう。
ブランチ代わりに昨日、スーパーの特売で大量に買ったハーゲンダッツを食べながら。
*****
「あーったま痛い!」
まだ序盤の映画を一時停止してソファに寝っ転がる。
冷蔵庫でコチコチに固まった抹茶味のアイスクリームは舌触りは優しいのに数口も食べると頭にキーンとした痛みが走った。
もう少し柔らかくなってから食べれば良かったかなと思いつつ、まだ半分以上残っているモスグリーンの塊を眺めていると、また思い出したくないことが頭に蘇ってきた。
あの時も、抹茶味のジェラートを食べていた。
去年の今頃、達央と映画を観た帰りだった。
彼の好きな俳優が出ているシリーズの続編で、いわば相伴する形のデートだった。
率直に言って、二、三年前にやはり一緒に観た前作ほど面白くなかった。
達央も同じように感じていたようだ。
――ヒロインは前の女優さんの方が良かったなあ。何で別の人になっちゃったんだろ。可愛くないし、大根なのに。
そんなことをぼやきながら、ピスタチオ味(それが二人で良く行った映画館近くのジェラート屋での彼の定番だった)のジェラートをスプーンで掬っていた。
――でも、前より映像は綺麗だったよ。
何となく対象が他の女性でも目の前にいる恋人の口から容姿を貶される言葉を耳にするのは嫌だったので、敢えて話題を逸らそうとしたその時だった。
――
ちょうど店に入ってきたやや地味な女子学生じみた二人連れの内、やや縮れた真っ黒な髪に肌が浅黒く小柄で小肥りな体つきの、丸く太った顔に細い垂れ気味の目をした――端的に言って不器量な――方が達央を姓で呼び掛けた。
――サヨちゃん。
達央も驚いた風に目を丸くすると、自分に向き直って告げる。
――職場に新しく入った子なんだ。
一転して和らいだ顔付きから、彼が存外この垢抜けない女の子を気に入っていると知れた。
――こんにちは。
どこか恐れる風にこちらを見詰めている相手に「大丈夫だよ」という意味を込めて笑顔で頷く。
――彼女さんですか?
まだ二十歳そこそこらしい相手の目はもう自分ではなく隣の達央に移動している。
――そうだよ。
達央は曇りのない笑顔で迷いなく頷いた。
本来なら喜ぶべきなのに何故か後ろめたくなったのは、“サヨちゃん”が笑顔のまま目を虚ろにした表情の変化を見て取ったからだろうか。
後ろに立つ友達も気まずそうに笑っている。
このサヨちゃんは達央を好きなのだ。一緒の友達にもきっとそんな話をしていたのだ。
そう思うと、この年下の同性に対する不快感や優越感より自分こそが邪魔者であるかのような感慨に襲われた。
――綺麗な方ですね。
サヨちゃんは相変わらず恐れを潜めた調子でこちらに告げてから後ろの友人に上擦った声で続けた。
――モデルさんみたいだよね!
――うん。凄く綺麗。
サヨちゃんに似ていて幾分ほっそりして垢抜けて見える友達は苦笑いしたまま頷いた。
やめて。私はそこまで綺麗じゃない。
社交辞令と分かっていても居心地が悪くなる。
同時に身長百七十一センチ、体重五十四キロ、長身細身の体型で肌が白く真っ直ぐな栗色の髪、吊り気味の大きなアーモンド形の目をした、特別ではないにせよ一般には「美人」と評価されやすい自分の姿が白々しいハリボテめいて感じられた。
百八十二センチ、小麦色の肌に太い一の字眉をした彫り深い顔立ちの達央と自分が連れ立って歩くと、それだけで自ずと周囲の視線が集まる。
普段は多少なりとも誇らしいそれが、その時、いかにも空々しく感じた。
――あの子、この近くにある短大出てうちに入ったんだけど、ヘマばっかりやるから大変なんだ。
――新人は皆、そうでしょ。
その後、達央と並んで街を歩きながら、ショーウィンドウに映る自分たちの姿がお似合いのようでどうにも虚しいものに思えたのだった。
*****
バラバラッと窓ガラスを雨の
食べ終えた抹茶アイスの容器を水道水で濯いでゴミ箱に捨て、先週ネットの定期便で箱買いしたペットボトルの胡麻麦茶の一本を玄関に置いた段ボール箱から取ってきて開ける。
冷蔵庫に既に冷やしたものもあるが、抹茶アイスを食べ終えて冷えた体にはむしろ常温の
冷え切った口の中をほんのり温かくすら感じる液体が洗い流すように広がって、胡麻と麦の香ばしい味が口から鼻に抜けるように浮かび上がった。
これは一度ネットで割り引きされているのを買っておいしかったのでその後、定期便でリピートしているものだ。
朝、職場に出る時も休みの日に出かける時も冷蔵庫で冷やした一本をバッグに入れていく。
ニヶ月余り前、達央と最後に会った土曜日の朝もそうだった。
ああ、これは別れ話だ。
初夏の強い陽射しに晒された、目の下に隈を作り、どこか憔悴した達央の表情からそう察した。
やはり怒りは湧いてこなかった。
むしろ、悩んでいる相手の様子に痛々しさを覚えた。
この人は曲がりなりにも私を切ることに苦しんでいるんだ。
これ以上責めて追い込むことはない。
“高校の頃も含めれば長い付き合いだったし、これからは良い友達でいましょう”
そんな風に穏やかに告げて別れようと思った。
初めて入った店だし、多分もう二度と来ないだろうけど、せめて美味しい物を食べて和やかに話そう。
そんな風に考えてクリームソーダを注文したのだった。
運ばれてきたのはどこか瓢箪じみたチューリップグラスに恐らくはメロン味の透き通った深緑のソーダ、丸いバニラアイスに
――おいしそうだね。
まんざら空世辞でもなくそう評してまだシャリシャリしたバニラアイスをスプーンで掬って口に運ぶと、ひやりとした中にうっすら乳を含んだ甘い味がした。
アイスクリームが溶けてソーダ全体が甘ったるくなる前に食べなくちゃ。
そう思ったところでこちらは四角い氷を四半分まで詰めるように浮かべたアイスコーヒーのグラスを前にした達央が押し殺した声で切り出した。
――君も前に会ったサヨちゃんなんだけど。
サヨちゃん、とまるで親戚の小さな女の子にでもするような呼び方が逆に飛び出て聞こえた。
――今、お腹に子供がいるんだ。
ああ、やっぱりこうなった。
そう思うと同時に、
「お腹にいるのはあなたの子でしょ。何故省略するの?」
という微かな苛立ちを覚える。
――今度、そちらのご両親にも会うから……。
そこまで話しておきながら、達央はまるで恐れるかのように目を伏せた。
――分かりました。
出来るだけ穏やかな言い方になるように声を調節する。
しかし、再び目を上げた相手の面持ちは茫然としていた。
大丈夫だよ、責めたり後々報復したりなんてしないから。
それが伝わるように笑ってゆっくりと頷いた。
――あなたはそっちの人と縁があったんだよ。
どこかほっとしている自分に後ろめたさを覚えつつ、傍らのバッグから財布を取り出す。
せっかくクリームソーダを食べ始めたのに、もうここには居られない。
こっちがもう少し一息ついてから言い出せばいいのに、こいつはいつもタイミングが悪い。
本来の値段からすればもう少し安いが小銭入れには殆ど入っていないので、千円札一枚を取り出す。
野口英世の微笑む紙幣を伝票近くに置こうとした瞬間、向かい側から小さいが刺すような声が飛んだ。
――君は、俺を好きじゃなかったよね。
達央は太い一文字眉の下の大きな目を再び伏せたまま、ゾッとするような苦いものを含んだ声で続ける。
――本当は……。
握り締めて震えた拳の上に涙が溢れる。
それを目にすると、得体の知れない恐怖に襲われて思わず立ち上がった。
相手は両の目から涙を流しながら見上げる。
――あなたは私が不満で、他の人が良くなって、子供まで出来たからそちらと一緒になるんですよね。それが、どうして私を恨むようなことを言うんですか?
店内――といっても人影も疎らだし、近くのテーブルに他の客はいないが――に響かないように抑えた声を出すことで多少気持ちが落ち着くと、今度は何だかおかしくもないのに笑いが顔に浮かんだ。
――向こうの子は若いけど、あなた、もうすぐ三十でしょ?
自分たちも昔なら「オジサン」「オバサン」と思っていた年齢だ。
目の前の達央は特に太ったり禿げたりしてはいないから、二十歳ちょっと過ぎの女の子から見れば、「大人の男性」なのかもしれないが。
まあ、こいつは一般に背は高くて見た目は良い部類だし。
どこか冷静な頭で眺める自分を相手は虚ろな眼差しで見上げている。
――私が向こうの女の子でも、お腹に赤ちゃんがいるのに裏で他の女にこんな話されていたら嫌だよ。
十年付き合って鼻についた女とは切れて、新たに出会った若い女の子と一緒になるんだから、もっと晴れやかに笑っていろ。
――俺は……。
自分より大きな体をして尚も涙を流す相手の姿に何かが切れた。
――いい加減にしろよ。
耳の中にざらついた、醒めた苛立ちを含んだ自分の声が低く響く。
――他の女とやることやっといて被害者面するな。
達央は大きな目をいっそう剥いてこちらを見上げている。
今の私はきっと「怖い女」と冷やかされる顔をしているに違いない。
――それとも何か。向こうとは遊びで、妊娠しなければそのまま捨てて、何も無かったフリして、私の所に戻る気ででもいたの? 随分とバカにしてくれるね。
自分の顔が自ずと半眼の嫌悪の表情になるのを感じた。
――そういう自分が一番かわいそうになる所がずっと嫌だったんだよ。
とうとう言ってしまった。
相手にとってはもちろん、自分にとっても完全に終わった気がした。
その後は早足で店を出て、白く焼け付くような陽射しの中を振り向かずに帰ったのだ。
*****
口の中で
頬にやはり生温いものが伝うのを感じた。
何故、今になって涙が出てくるのだろう。
自分はやはり達央を失ったことが悲しいのだろうか。
彼に戻ってきて欲しいのだろうか。
――タン、トゥーン。
こちらの感傷を吹き飛ばすようにインターホンの鳴る音が響く。
一瞬、ドキリとしてから思い直す。
きっと、実家からの桜桃の宅配だ。受け取ったらお母さんに電話しないと。
そう思いつつ、モニターの画面を確かめる。
え……?
そこに映っていた長身の礼服を纏った面影を目にした瞬間、心臓が早鐘を打ち始めた。
*****
「
出迎えた私にずぶ濡れの黒いスーツに白いネクタイを締めた相手は象牙色の肌をした丸い顔の切れ長い目を三日月形に細めた。
その目尻には少し前にはなかったカラスの足跡めいた皺がうっすら刻まれていたが、そこにむしろ安堵を覚える。
というより、この人においてはそれが老化よりも心のふくよかさを増したように映るのだ。
「この豪雨で電車止まっちゃった」
片手にはスーツと同じ様にずぶ濡れになった白い紙袋を持っている。
*****
「結婚式、行ったんだね」
潤の好きな紅茶の茶葉が何とか残っていて良かったと思いつつ、ガラスのポットに入ったアールグレイニューヨークの茶葉にお湯を注いだ。
細かい茶葉はワーッと湯の中で赤く尾を引きながら舞い上がる。
「タツから式やるって電話が来たし、招待状も来たからね」
こちらが渡したフェイスタオルで髪や顔を拭きながら、ソファに腰掛けた相手は「タツ」という幼馴染への呼び名に温かさが滲む以外はごく事務的な表情と口調で答えた。
「どのくらい、人来てた?」
共通の友達には達央が私と別れて妊娠したサヨちゃんと急遽できちゃった結婚する事情は知れ渡っている。
本来は来客用の二つの白いカップに濃さが当分になるように順番に注ぐ。
レモンじみたしっとりした匂いが立ち上る中で、並んだカップの中は競うように赤く染まっていく。
「いや、本当に少ないよ」
潤は切れ長い目をどこか虚ろにして乾いた声で続ける。
「両方の親族と、後は奥さんの方の友達がちょっと。俺の知らない人ばっかりだった」
トレイに二つの湯気立つ白いカップを載せて歩み寄ってきた私に相手はどこか挑むような、哀しいような笑いを浮かべた。
「写真、撮ったけど、見る?」
*****
「ああ」
自分のくぐもった声が口から漏れ出るのを感じた。
何だろう、この三人の葬式じみた表情は。
潤のスマートフォンの液晶画面には、新郎新婦と彼本人が並んで映っている。
全員ともどこか強いられたような固さを秘めた笑顔だ。
白いタキシード姿の達央は鬢に二か月前には無かった白いものが混ざり、花婿というより花嫁の父にこそ相応しい年配に見える。大きな鋭い目には疲れが漂っていた。
膨らんだお腹を包むようなベビーピンクのドレスを着て縮れた髪を結い上げたサヨちゃんは
これが好きな人と結婚できた喜びとかあるいは他の女から略奪した勝利感といった表情でないのは、二人の結婚を喜べない自分の目にも良く分かる。
「子供は十一月の初めに生まれる予定だってさ」
この二人の子供ならきっと地黒だろうな。
頭のどこか冷静な部分で想像する。
こちらの思いをよそに写真と同じ寂しい笑いを丸い象牙色の顔に浮かべた潤は底に酷く苦いものを沈めた声で語る。
「
「もう終わったことだよ」
潤の言葉に被せるようにして言い放った。
「達央のことも結婚した相手の子のことも別に恨んでないよ」
自分で聞いてすら嫌になる恨みがましい声だ。
「でも、十年前、潤が付き合えって言わなれば……」
視野の中でこちらを見詰めている潤の顔が熱く滲んだ。
――タツはお前が好きなんだよ。
――いい奴だし、お似合いだから付き合ってやれ。
その時、夕陽を背にして逆光になっていた潤の顔は思い出せない。
でも、告げられた言葉だけは今も胸を深く突き刺してくる。
「どうしてあの時……」
今更泣いてもどうにもならないのだ。
そうとは知っていても涙が勝手に溢れてくる。
――タン、トゥーン。
まだ口をつけられていないレモンを含んだ紅茶の香りと私たちの沈黙の上にまたもインターホンの電子音が鳴り響いた。
涙を拭って立ち上がる。
「はい」
モニターの画面に映る制服とカートに載った荷物で答えは察せられたが、防犯上確認する。
“ゆうパックです”
相手の答えと共に解錠のボタンを押す。
「うちの母が桜桃を送ってよこしたの」
表情の消えた面持ちの潤にそれだけ告げて玄関に向かう。
箱の大きさからして私一人には多過ぎるから潤にも上げよう。
それから夕飯も、それから……。
「今日がお前とあいつの結婚式じゃなくて良かったよ」
玄関に向かう私の耳に潤の呟く声が微かに届いた。(了)
招かれざる客 吾妻栄子 @gaoqiao412
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