御上の花嫁

高村 芳

 それは、激しい雨が降り続いているが、それすらどうでもよくなる朝のことだった。晴れだろうが雨だろうが、なにも変わらない。須原すわらは今日、御上おかみのもとへ嫁にいく。


「母さま、急がないと」

「ちょっと待って、月裳つくも。須原ちゃんには綺麗になってほしいんだよ」


 母さまは花嫁の羽織につける花飾りを編んでいた。金糸と紅糸がり込まれた、見たこともない高級な色紐いろひもをつかっている。自分の娘のように可愛がっていた須原への贈り物だ、まだ少し時間がかかるだろう。俺は家の外に視線をやった。村を囲む山々のきわはかすみがかってぼやけている。空気もしっとりと重く、夜が明けたのに家の中はうす暗い。




 隣家に住む幼なじみの須原が御上に見初められたと聞いたのは、木々から葉がほとんど落ち、冬支度をしている季節だった。この村の木工細工を、須原と須原のおじさんで都に売りに出ていたとき、偶然、須原が御上の目にとまったのだという。


「驚いたさ。いつもの卸問屋の門を出たら、みんな道の端で頭を下げててね。わしらもあわててならったんだが、目の前で豪奢な牛車が止まった。うわあ、偉いさんが通るところに運悪く出くわしてしまった、何を言われるだろう、と肝を冷やしていたら、音も立てずに御簾みすが半分あがったんだ。

 なんて言やあいいんだろうな、御簾みすのきわから御上の目が見えてね。須原をまっすぐに、朝焼けのように燃える目で見つめてなさるんだよ。なぜかとてもまぶしく感じたなぁ」


 須原とおじさんが村に戻ってきた夜。男衆が集う集会で、おじさんは酒に酔いながら楽しそうに事の顛末を話した。囲炉裏にくべられた薪が、パチパチと爆ぜる音がする。囲炉裏を囲み、村長や村の衆の代表者たちが円陣を組んで座りながら口々に話している。一番下っ端の俺は円陣の最も外側の輪に座し、話に耳を傾けながら苦い酒を喉奥に追いやっていた。


「知ってるかい? なんでも都からのお迎えの日は激しい雨になるのが多いんだそうだ。天神さまも喜んでくだすってるんかねえ」


 都のことに詳しい葉友はゆおじいが、ガハハと豪快に笑った。その言葉に、村長むらおさがへぇ、と相槌をうった。


「そうなんですかい。じゃあもし雨だったら、牛車までの道に木の板を敷かねえとせっかくの花嫁衣装が汚れちまうなぁ。あの家は通りからちょっと離れてるから。おい、月瓦つくがと月裳で準備してくれるか?」


 村長にそう言われ、中央の円陣に座っていた父さまは「もちろん。親友の娘の嫁入りだ。これほど喜ばしいことはない」と応えた。須原のおじさんは「ありがとうな、月瓦」と父さまの手を握りしめた。俺は酒の水面に映る自分の顔を見つめながら、聞こえないふりをした。




 須原のことを美しいと思ったことは、今まで一度もない。

 背丈が低く、鈴が転がるように野山をかける須原。

 草むらから飛び出してきた蛇に驚いて、転んでべそをかく須原。

 俺の家の庭になった金柑をうれしそうに食べる須原。

 いつのまにか髪がのびた須原。

 夕暮れ時、ふたりで手をつないで家に帰る途中、くしゃっと鼻に皺を寄せて笑う須原。

 思い出すたびに、須原がどこか遠くに感じた。


 御上に見初められると、須原は家から出られなくなった。嫁に行くまでけがれを避けるため、外仕事は禁じられている。男衆は、会うことすらできない。須原も決まりを守り、家から出ることはなくなった。


 嫁入りが決まった後、一度だけ須原と話をしたことがある。俺が庭で薪を割っているときだ。


「月裳。月裳!」


 俺を呼ぶ小さな声が聞こえた。だが、肝心の姿が見当たらない。薪割り場のそばの垣根越しに須原がいるのだと気づき、俺は慌てて叱った。


「ばか。おまえ、ばれたらただじゃすまないぞ」

「そうなんだけど。月裳と全然話せないうちにこうなっちゃったから」


 須原はそれきり黙ってしまった。俺も薪割り斧をいったん起き、垣根に背中を向けて地面に座った。


「話を聞いてびっくりしたよ。それにしても、おまえが御上の花嫁なんてなぁ。田んぼにつっこんで泥まみれでべそをかいてたあの須原が」

「いつの話よ。忘れてって言ってるでしょう」


 声色だけで、みるみる赤くなっていく須原の顔が思い浮かぶ。


「なあ、須原……」

「なに? 月裳」


 次の言葉がなかなか出てこなかった。なぜだろう。言いたいことは山ほどあるはずなのに。須原が御上のもとへ嫁にいくと聞いて、これほどうれしいことはないと、俺も思っているはずなのに。俺は着物の袖をぐっと握りしめた。


「結婚、おめでとう。よかったな、御上の花嫁なんて。うちの金柑より良いものも食える。畑仕事もしなくていい。俺は本当にうれしいよ。なんてったって……」


 なんてったって、おまえは、俺の。


「……おまえは俺の、妹みたいなもんだからな」


 目をつむって、大きく息をはいた。首のあたりから、どくどくと心の臓の音が響いてくる。垣根のそばの枯れ葉が、さささ、と風に吹かれた。遠くで山鳥の声がする。どんな須原の言葉も聞き漏らすまいと、全身が耳になった気がした。


「あ……」


 須原の声が弱々しく漏れた、そのとき。おばさんの、須原を呼ぶ声がした。須原を探しているようだった。俺が目を開くと、いつもと変わらない薪割り場の光景が目に入った。変わってしまったのは、俺のほうだ。


「早く戻れ。嫁入り前におばさんを困らせるんじゃないぞ」


 俺は須原の返事を待たず、足早に家に戻った。それ以来、須原と話すことはなかった。




「月裳、行くぞ。牛車が着いた。道に板を敷かないと」


 雨はふり続いている。父さまと同じようにみのを羽織りかさをかぶったあと、木の板を数枚かかえて家を出た。

 須原の家のまえの土はぬかるんで、牛車がすすめない。牛車までの道のぬかるみに木板を敷いて、花嫁の着物が汚れないようにしなければならなかった。須原の家の土間から牛車の乗り込み口までまっすぐに板を置いていく。安定させようと板に触れると、ずるり、とぬかるみの表面を滑っていった。


「父さま、だめだ。すぐ板がずれる」

「仕方ねえ。須原が歩くときは板を押さえとくしかねえな」


 若い衆呼んでくるわ、と父は村の中心へ走って行った。須原の家の方では、村中の女衆がせわしく動いているのが遠目に見えた。包みを抱えた母さまや都から使者たちが、須原の家へ入れかわり立ちかわり出入りしている。


 手足の指先が冷たい。笠からは雨しずくが絶え間なくしたたっていた。しずくの隙間から、俺は須原の家をじっと見つめていた。


 降りしきる雨の中、しゃらん、しゃららんと鐘の音が響いた。

 須原が牛車に乗り込む合図だ。俺や父さまは板のそばにしゃがみこみ、板を押さえた。村の衆も、背後で今か今かと須原を待っている。


「ほら、須原だぞ。立派だ、御上の花嫁だ」


 父さまが俺の隣でそう言ったのが聞こえた。

 都からの使者が歩く、すぐ後ろ。家の土間から、おばさんに手を引かれ、おじさんに朱の傘をさされる須原が出てきた。


 化粧をほどこし、白い着物に身を包んだ須原は、よりいっそう小柄に見えた。結い上げられた髪に、今朝まで母さまが編んでいた花飾りが咲いていた。

 ゆっくり、ゆっくり、須原は板の上を歩いてくる。背後にならぶ村の衆がざわめいている。俺のすぐ後ろから「綺麗だねえ」というだれかの声がした。須原が近づいてくるにつれ、俺の笠の陰からは須原の足下しか見えなくなった。


 須原が履く花嫁草履が板にさしかかったとき、俺は、ぐ、と泥まみれの両手に力をいれた。お転婆でよく転ぶ須原が、履き慣れない花嫁草履でも歩きやすいように。白い花嫁草履に、一滴の泥も飛ばないように。

 須原はゆっくりと俺の目の前を横切ろうとする。俺はしずかに須原の顔を見上げた。


 須原の白い頬には、一筋の跡があった。

 べにに彩られた小さな唇がうごいた気がしたが、雨音で須原の声はかき消された。


 無事に牛車まで歩いた須原は、おばさんの手をはなし、両親に頭を下げ、使者に支えられながら乗り込んだ。御簾みすは下ろされたまま、車輪がぎしっと軋んだのち、ゆっくりと動きだした。人の歩く速さですすむ牛車を見送りながら、雨に負けない声で、村の衆は「御上万歳!」「御上万歳!」と叫び続けた。御簾みすが開くことも、牛車が止まることもなかった。



 最後方の牛車が見えなくなると、須原のおじさんとおばさんは人目もはばからず、肩を抱きあって泣いていた。それを囲むようにして、村の衆がよかったなあ、綺麗だったなあ、とかわるがわる声をかけた。今日の夜は村総出で、祝いの会が開かれることになっていた。


 俺は須原の花嫁草履の跡がついた、ぬかるみに埋まっている板にそっと触れた。


 それは、激しい雨が降り続いているが、それすらどうでもよくなる朝のことだった。

 須原は今日、御上のもとへ嫁にいった。




   了

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