契リキナ

椹木 游

上話 めぐりあひて

    零、序歌



 「本当のが見てみたいなあ」

 ヨコハマの高いビルの屋上のフェンスの外側で、足をぷらぷらとさせながら街を見下ろす影があった。艶やかな髪の毛が夜の光を反射していた。

 胸部に届くほど長い髪の毛から垣間見える、堪えることのできないといった風の笑みが、彼女の不気味な雰囲気を助長しているのだ。

 その笑みの、口の端の隙間から漏れ出るかすかな歌声は静かにセイレンのような、卑しい響きを孕んで、かくも美しく街に降り注いだ。


――まもなく 突然の静けさが訪れる 想像の中で彼女らは追いかける

            夢の子らが無邪気に導くのさ 不思議の国へと 不思議の国へと



    一、午后ごごの探偵社



 「天の川……今年は見えるでしょうか」

 梅雨はまだまだ居残っており、昼下がりの湿った空気は武装探偵社のあるビルはもちろんこの七月七日のヨコハマの地をあまねくじっとりと濡らしていた。外には浴衣を着た青年や乙女が往来している。四方八方あらゆるところから笹の葉の触れ合う音がしており、風鈴や下駄のカラコロという音が季節を奏でている。

 雨こそ降らないものの今にも落ちてきそうな曇天を不安そうに宮沢 賢治みやざわ けんじは窓から見上げていた。

 「さあどうだろうねえ、予報だと晴れるらしいけれど。そんなことより賢治、そんなところに居座ってないでちょいと手伝っておくれよ」

 気休め程度の回答をするのは与謝野 晶子よさの あきこだった。白い三角巾とマスクにエプロンと言った形で掃除を行っており、換気中の開け放たれた窓にいる賢治に苦言を呈した。


 ところでこの探偵社には現在二名しかいなかった。

 他の皆はというと連日発生している事件の調査で出払っていたのだった。やれ爆破だの、やれ殺人だのと警察では抱えきれないような謎めいた事件がここヨコハマで起きているのだという。

 とはいえそんなことは武装探偵社にとって日常茶飯事いつものことのため、呑気にも掃除をしながら留守番をしているのであった。なお本社のおさであるところの福沢 諭吉ふくざわ ゆきちも出払っている。毎度のことながら用件はあまり知らされてはいなかった。


 「ちょいとこのゴミを下まで運んでくれないかい? エレベーターが壊れていて動かないからアタシじゃあどうにもむつかしくってねぇ……すぐ外に積んで置いておいてくれたらいいからさ。そしたら随分と助かるんだけれどねえ」

 その声に賢治の視線は空からオフィス内へと移った。そしてひょいと立ち上がるとスタスタと与謝野 晶子の運んで欲しそうな荷物の前でしゃがんだ。

 「このみんなで『数年間読まれず仕舞いの本』『とっくに期限の過ぎた書類』『壊れたままの椅子』『使い物にならないマット』やらを外に運んでおくれ」

 「これ全部ぜーんぶ要らないんですか?」

 「こういう時でないと何かにつけてとっておこうとするからねェ。アタシが居なきゃ五回は床が抜けて落ちているよ」

 短く返事をすると先ほどの賢治とは打って変わってキビキビと動き始める。重そうな荷物を軽々と持ち上げ、ふらつくことなく階段をスタスタと降りて行った。

 「この辺でいいかな」


――ワンワン!! ワンワン!!


 散歩中の婦人が連れている犬が一点に吠えると、かまわず夫人は引っ張っていってしまった。

 賢治はドスンと持っていた荷物を適当に置いてその方へと近寄ると、どうやら中学生くらいの子供が寄りかかって眠っていたようだった。

 「きみー、こんなところでなにしてるの?」

 生垣で影が作られておりよく見えなかったが体を揺する時にそれがなんとなくあらわになった。れた手足にボロの白い布切れのような服。顔を覆うように均等に伸びた金髪がさらりと垂れ、青白い肌に乗った涙腫れた目とせた頬に乾いている唇が露わになった。

 「んん……」

 身体を震わせて少年は顔を上げた。空を写したような灰色の目が賢治を見つめ返した。そしてそのまま小さめの手が賢治の首に回る。ぎょっと警戒をするもののその少年は力なく気絶した。抱き着くような形でスースーと寝息を立てている。

 「あ、あのー……こういう時ってどうするのがいいんだろう。与謝野さんに聞いてみよっと」

 そういうと少年を抱きかかえて、いや担いで階段をスタスタと駆けあがった。


 「お帰……ってなんでったって子供なんか抱えているんだい?」

 休憩用の珈琲を淹れて待っていた与謝野 晶子はほうけた顔で二度見して聞いた。さじに乗せた角砂糖を危うくいくつか落としてしまうところであった。

 「そこで気絶してたんです。だから持って帰ってきました」

 与謝野 晶子はいろいろ言いたいことがあったが、それらが喉で詰まってむせそうになる。

 「まあ無害だろうけど、子供だからって油断しないでおくれよ? なんでもかんでも助けりゃいいってわけじゃないんだから。特に最近はヘンな事件が……」

 「わかっていますよ、最近が大変なことくらい。でもだからと云って死にかけの人を見殺しにはできませんよ。与謝野さんだって、環境で人の救うか救わないかを決めないでしょう?」

 「いや、んまあそうだけど……はあ、ま賢治が大丈夫ってんならいいだろう。わかってるならいいって話さ。一先ずそこのソファにでも寝かせておくれ。診るから」

 「ありがとうございます♪」

 「はいはい……どれどれ? あー外傷は見当たらない、乾燥した肌、金髪ながらに薄い髪色。栄養失調ってやつだねェ……家出か、捨てられたか。どちらにせよ腹に何か流し込んだ方がいいだろう。しょうがない、アタシが何か食べられるものを作ってやろう!」

 そういって意気揚々と備え付けられた冷蔵庫を開けた。見事なまでにすっからかんだった中身を見てそっと扉を閉じた。

 「よし賢治。お小遣いをやるから何か適当に買ってきておくれ」

 「はーい! いつものでもいいですか?」

 「ああ任せるよ。この子は、ちょいと……自然ワイルドな匂いがするからお風呂にでも入らせて……服はアタシのお古でも着せるさ。でもこの子がある程度回復したら警察に引き渡すからね」

 「わかってますよー!」

 そういって幾らかのお札と小銭を握った賢治は行きつけのパン屋に向かって走っていった。

 時間は午後十四時を指していた。



    二、太陽の小箱



 不思議と町をゆく人々とは逆の方向へと走るように錯覚してしまうような昼間の大通りを抜けて、賢治はここ数ヶ月間で行きつけとなっていたパン屋「けんたうるす」へと足を運んでいた。

 オープンと書かれた木板が掛けられた扉を開けると鈴の音が心地よく店内に響き渡っている。香ばしい焼きたての匂いが腹の上を強く刺激する。賢治は口をぎゅっと閉じてお店に入った。

 「いらっしゃいま……あら、賢ちゃん!」

 店の奥側にいる恰幅かっぷくの良い壮年女性の店主は賢治に向かって軽快に笑いかけた。

 「いつもの?」

 「おばさん、こんにちは! はい、いつものください!」

 「はいよ、おまちね!」

 賢治以外の客は一組だけで、店内にある様々なパンを自由に見ることができた。

 その中で目に留まったのは「織姫パン」と「彦星パン」だった。天の川というていの仕切りが大きなバスケットに入っており、その二つのパンが左右にいくつか置かれている。

 それを子供が無邪気にパンを右から左に移しているのをお母さんらしき人が注意している。

 「おばさん、これもいいですか?」

 「ん? いいけど、珍しいね」

 「ええ……お土産みたいなものです」

 賢治は子供が移した彦星パンと、ちょうどそれに隣り合っていた織姫パンをトングで挟む。

 移していたパンをそばから取られた子供は「ああ織姫様と彦星様があ」などと言っていたが、再びお母さんにたしなめられていた。

 「なんて元気なお子さんだこと! そんな優しい坊やにはそのパンあげちゃおうかな!」

 奥からニコニコと様子を見ていた店主は賢治の買う焼きたてのパンを抱えてそう言った。

 「スミマセン」というお母さんは他のパンをいくつか買って行った。終始申し訳なさそうに、感謝を述べていた。子供の方はというと二つのパンを抱えてはしゃいでいた。

 「じゃあ……賢ちゃんのも、負けとくよ」

 「わあ、ありがとうござ……僕はもう坊やじゃないですよ」

 「あっはっは! 賢ちゃんのは、ご贔屓ひいきにしていただいてるからってやつさ」

 そういうと女性は賢治の持っていた織姫パンと彦星パンを預かり袋の中に入れた。

 「えーと……角砂糖の袋が一つと、焼きたてパンが一斤いっきん、牛乳瓶も二つ。それとこの織姫と彦星のパンが一つずつね。合わせて二千五百円だよ」

 「これで足りますか?」

 「うん、十分足りるよ。じゃあこれレシートとお釣りね。与謝野さんによろしく伝えてちょうだいね。あ、あと賢ちゃんそそっかしいから袋は二重にしておいたからね」

 「ありがとうございます! また近いうちに来ますね」

 「ああ待ってるよ。気を付けてね!」

 片手で手を振りながら扉を開けてニコニコしながら武装探偵社に帰る。カランという鈴の音が再度響き渡って、賢治の足取りは軽かった。


 パン屋「けんたうるす」の看板を背後にして、ご機嫌な賢治はふと横を見るとパン屋に張り付いていた子供を見かけたのである。子供は口に指をくわえてふっくらしたパンを眺めていた。

 賢治はこの子供をよく来ている近所の子供であることを知っていた。その子に近寄って二重に被さった袋の中にあるほんのり熱を帯びた彦星パンを取り出した。

 「パン、食べますか?」

 「あ、賢治兄ちゃん! ……いいの?」

 「いいですよ」

 手渡したパンを両手で持ってぱあと明るくなった顔をした子供は「ありがとう!」と言って、すぐに頬張り始めた。

 口角を上げながら膝を曲げて同じ目線で楽しんでそれを見守っていると、ふと視界の端の方に猛スピードで何かが突っ込んでくるのを目の端に捉えた。


 「危ない!」


――キュルキュル……ドガーン!!


 咄嗟に、曲げた膝をバネにして子供ごと道線から外れた。身体を捻りながら飛んだ賢治は子供を上にして地面と擦れた。どうやらミルク二瓶も割れずに済んだようだ。

 けたたましい破壊音と共にタイヤがコロコロと転がり標識にぶつかった。どうやらトラックが突っ込んできたようで、周囲には少しの好奇心と多くの悲鳴が満ちていた。

 「大丈夫?」

 震えながらにうんと頷くのを確認してそっと立たせた。そしてパンやミルクの袋を持たせる。

 「あっちでちょっと待っててね」

そうして子供が両手に袋を抱えて走り出したのを確認した賢治は、トラックが三分の一ほどまで刺さった「けんたうるす」の僅かにできた瓦礫の隙間から内部へと侵入した。

 埃をかぶったパンとバスケットが散乱しており、なにがなんだかわからない。一般人なら。

 宮沢賢治の野性的とも言うべき五感が、僅かなばかりの吐息でさえ確かに捉えた。

 無我夢中で瓦礫を退けるとそこに女性を見つけ出した。血だらけではあるものの息をしており命に別状はなさそうだと勘が言う。丁寧におんぶすると、子供が待つ離れたところへと走った。

 周囲の安全を確認すると野次馬の視線が一点に集まっているのが見えた。その視線の先には怪しい黒服が大きなトランクを重そうに乗用車の後部座席に積み込んでいるのが見えた。パン屋に突っ込んだトラックの荷台は開け放たれていた。

 その黒服は周囲の固まったまま動くことのできない一般人とは違う賢治を見ると、急いで運転席に乗り込んだ。おおよそ距離としては二、三十メートルといった所だろう。

 賢治は近場のひしゃげた標識の鉄棒を引っこ抜きやり投げのように投擲した。それは車の前方の地面に突き刺さり、突如現れた障害物に突っ込む形になった乗用車はエアバックが作動した。

 車の速度が0になる。投げてから追いかけていた賢治は車が止まった直後くらいに到着した。

 半壊した車の扉をこじ開けて中の様子を確認する。犯人はのびていた。

 「(トランクは……触れないほうがよさそうですね)」

 直後、そのトランクが僅かに動いたような気がした。異常に大きいトランクだから中に生物がいるのかもしれないと思った賢治はトランクを引っ張り出し鍵を開けた。

 「うわあぁ!!」

 明らかに動揺している痩せ細った壮年男性が小さく詰め込まれており、転がるようにそのトランクから飛び出した。小鹿のように両足両手が震えるその老人は賢治の姿を見て、周囲の状況を確認してからなんとか立って賢治に話しかけた。

 「き、君が助けてくれたのかい?」

 「えーっと、そうみたいです」

 「そうかそうか! いやぁありがとう! 詳しくは言えないんだが実は狙われていてねぇ……このお礼は必ずする。ああするとも! だがしかし、大変すまないが私はこれで失礼するよ! 警察に見つかると面倒だからね」

 白髪がかった少し長めの髪をなびかせながら、ぱんぱんと服を漁ると懐から何かを慌ただしく取り出した。そしてそれを賢治に押し付けるようにして、その場を去る。

 「大丈夫。誓って私は悪者ではないよ! ただのしがない貿易商だ。君にその名刺を預ける。誰にも渡すんじゃないぞー! 絶対だ!」

 声をかける間もなくその老人が路地裏へと消えた後、入れ替わるようにして別方向から警察が駆けてきた。辺りを見回しながら賢治の元へ一直線に走ってくる。

 「お怪我はありませんかー! 私服ですがこれでも警官です! 名刺は持ち合わせていないのですが信じてください……と、あなたは武装探偵社の宮沢 賢治さんですね!」

 「私はなんともありません。ただ怪我人出ています。この伸びてるやつが犯人です」

 「なんと! それは一刻を争いますね。すぐに救急車を呼ばなければ……あーもしもし、救急です、事件ですよ。場所は……ってどこにいくんですか! 賢治さん!? 待って、あーも、もしもし! す、すみません。賢治さん、後で事情聴取しますからね! あ、はい……」

 非番(?)の警官は救急車に連絡したものの去ろうとする賢治を止めることができなかった。

 賢治はニッコリしながら「あとはよろしくおねがいしますねー」と言い残しその場を去った。パンの入った袋を回収する時、店主の容態を確認する。

 「おばさん、お身体は痛みますか?」

 「ああ、賢ちゃん、助け出してくれてありがとうね。アタシは大丈夫さ。あの突っ込んできた犯人から修理費から慰謝料までもうたんまりふんだくってやるのさ。だから心配ないよ。んま、しばらく店は休みになっちまうけどね」

 「おばさんの美味しいパン、待ってます!」

 「ああ、待っておきな! あと、警察にはうまいこと言っておくからね」

 少し寂しい表情をしていた女性はニッコリと笑い、ウインクしてから賢治の背中を押した。

 賢治は事なきを得て武装探偵社へ向かうことができるのであった。



    三、馳せる想い



 「ああ、お帰り賢治。って大丈夫かい!? なんでそんなに服がボロボロなんだい!?」

 階段を駆け上がり元気な「ただいまかえりましたー」の声とは違い、土埃にまみれたボロボロの見た目の賢治を見て与謝野 晶子は素っ頓狂すっとんきょうな声が出た。

 「ええ!? どうしたんだい? その格好はあ」

 「いやあ、トラックが突っ込んできました。あははっ!」

 「あははってアンタね……」

 「でも死人はいませんし、犯人も警察に捕まっていることでしょうし、万事解決です」

 「そ、そうかい? まあ無事なら何よりだけれど……」

 「それより与謝野さん、あの子は?」

 「ああ、賢治がなかなか帰ってこないから今は夢の中さ」

 「そうですか、じゃあ与謝野さん! いつもの作ってください!」

 「あいよ。って袋も穴だらけじゃないか……でも中のパンは無事だね」

 与謝野 晶子は袋の中からパンを一斤取り出すと給湯室に向かった。器に水を入れそれに火をかけた。そして牛乳瓶にひびが入っていないことを確認したあと二瓶とも蓋を開けて湯煎ゆせんする。一方でパン切包丁を使い一斤を目で三等分してから狙いを定めて、それを四枚に切った。三枚はトースターで焼く。湯煎していた牛乳一瓶に角砂糖を二つずつ入れてから小さなマグカップを三つ取り出してそれぞれに注いだ。もう一瓶は湯煎に使った水を空になった瓶に注いでからその器に牛乳を入れた。角砂糖を四つ入れて溶かしてから残りの一枚をその牛乳に浸した。フライパンに火をかけてサッと表面を焦がしたら「ミルク・フレンチトースト」の完成だ。それと同時にトースターから子気味の良いチンという音が鳴って、こんがりと焼けたパンができた。

 それぞれをトレイに乗せてからここまで手際よく、オフィスへと運んだ。 

 「あいよ、おまたせ」

 「ん~いい匂い!」

 賢治はその香ばしい匂いによって濁流のように口からよだれが分泌されていた。

 「じゃあアタシは切り分けて持っていくから、あー、あの子を起こしてくれるかい?」

 「まだ名前を聞いてないんですか?」

 「逆さ、話さないんだよ」

 そのまま包丁を探しに行ってしまった。賢治は与謝野 晶子の医務室兼自室へと向かっていく。

 夕方も近い。まだ外は明るいが、曇った世界にあまり変わりはなかった。



 温めた瓶とミルクの香りが、フレンチトーストのお盆に乗って香る。医務室に座った少年は鼻をぴくつかせながら溢れんばかりの唾をごくりと飲んでいた。

 「こんにちは! 体調は良くなりましたか?」

 開け放たれた扉からひょこりと現れた賢治は溌剌としてそう言った。

 少年はすぐ顔を逸らしたが、小さくこくりと頷いた。

 「ねえねえ、君の名前を教えていただけませんか?」

 そう言いながら賢治は、口をつぐむ少年のひざ元にまでやって来た。そして織姫パンを渡そうと手に持った。それを少年は、物珍しそうにまじまじと見ている。

 「これはねえ、織姫っていうお姫様をモチーフにしたパンなんだ。かわいいでしょ」

 「……うん…………織姫様はどこの国にいるの? 不思議の国?」

 「ううん、どこの国にもいません。天の川って言うところにいるんです」

 そう言うと賢治は窓から空を見上げた。続いて少年も見上げる。少年の大きな目には曇っていたはずの空に確かに存在する無数の星々が煌々と映っていた。賢治は思わず見惚れてしまった。

 「でも一年に一回だけしか会うことが許されないんです」

 「一回……だけ?」

 「そう。彦星と織姫は互いに恋に落ちるんだけれどね、少ししまいます。見かねた一番偉い王様……天帝てんていという神様は二人の仲を引き裂きました。ただ、この方法は極端過ぎたみたいで、誰も幸せになりませんでした。それで天帝は二人を一年に一回だけなら会っても良いという約束を取り付けたんです。そしたらその一日の為に二人は頑張ることができたんです。みんな幸せになりました」

 「お姫様……」

 「その一日が七月七日の七夕たなばたという日で、今日の事です」

 「え、じゃあ今二人は会ってるの?」

 「かもしれません」

 金平糖のような光が目にちらちらと映り、ぱあっと口を開けて空を見上げていた。

 「おや、お嬢様はお目覚めかい?」

 「お嬢様?」

 「ん、なんだい賢治……この子は女の子だよ」

 驚いて手からパンを少年、いや少女の膝に落とした。そして膝に置いていた手に丁度乗った。

 それを後目しりめに与謝野晶子が器いっぱいにミルク・フレンチトーストを持ってやってきた。

 「そうだったんですか。あはは、次はもうちょっと優しく担がなくちゃいけませんね」

 「はいはい、これはお昼というかまあほとんどおやつだね」

 そうして与謝野晶子は少女の近くに座り食べるよう促している。賢治は食べる前に静かに手を合わせていた。それを少女はじっと見ていた。

 「これは賢治がよくやる『いただきます』の前準備ってやつだよ。賢治は信心深いからねぇ」

 しばらくするといただきますと呟いて大きな口を開けて頬張っていた。

 「さて、と。じゃあアタシはちょいと調べ物があるから後は賢治に任せるよ」

 その時には少女も賢治を真似て口いっぱいに頬張っていた。

 微笑む与謝野晶子はその場を後にした。扉を通ったその表情は少し影がかかっていた。



 器をすっかり空にした二人は一息ついていた。空にはまた雲が横たわり、夏前の長い昼はこの度だけは短く感じる。

 「そういえば名前は……言いたくないならいいんです。無いわけじゃ……ないですよね?」

 「うん……」

 「帰る場所はありますか?」

 「わからない」

 「そうですか。でも、しばらくしたら君を警察に引き渡さないといけません」

 捨てられた小動物のような眼差しで賢治を見つめる少女は、ただ静かにしていた。

 しばしの静寂が二人の間に訪れている。それを割いたのは小さな笹の音だった。

 「気になる? 今日は七夕ですから、近くでお祭りがあるんですよ」

 「お祭り? ……パーティ?」

 「ああ、まあそうですね。そんなところです。笹の葉を飾って神様を祝うんです。『ハレルヤハレルヤ』ってね」

 「ハレルヤ……」

 「あ、そうだ! ここで出会ったのも何かの縁。お願い事を書いてみましょうか」

 そう言って賢治は部屋を出ようとした時、少女はその裾を引っ張った。

 「なんですか?」

 「……ネルラ」

 「ん? どうしました?」

 「……か、カムパネルラ」

 「それが君の名前ですか?」

 「……うん」

 「そうですか、良い名前ですね。素敵な響き……カムパネラ、ちょっと待っててくださいね」 

 そう言って行ってしまった。少女の手はふるふると揺れていた。

 窓の下には町行く人が輝く笑顔を携えていた。

 「お待たせしました」

 背中に隠した笹の葉を「ジャン!」という声と共に見せるとさらさらと揺らした。

 「この短冊に叶えたいことを天に送るんですよ」

 「これに……」

 筆記用具を渡されたカムパネルラと名乗る少女は賢治が何を書くのかじっと見ていた。

 「は、恥ずかしいですね。でも私が書くことは決まってますから」

 そう言って迷うことなく『みんなに幸いが訪れますように 宮沢 賢治』と書いた。

 それを見てカムパネルラはたどたどしくも何かを書き始めた。

 「もっと恥ずかしいじゃあないですか」

 そこには『宮沢賢治が幸いになりますように カムパネルラ』と書いてあったのだ。

 頬を赤らめるカムパネルラはそれを差し出した。そして賢治は照れながらも飾る。短冊の重みで少し枝垂れる笹で、ちょうど二人の願い事が隣り合った。

 「与謝野さんには内緒ということで、七夕祭りに行きませんか? 会場はこの近くですし……時間もまだまだあります。きっといい思い出になりますよ」

 「行き……たい」

 「じゃあ行きましょう!」

 与謝野晶子の持ついくつかの私服のひとつを着たカムパネルラは席を立った。

 「おっと、大丈夫ですか?」

 華奢な腕を掴んで立ち眩んだカムパネルラを支えた。

 「ありがとう……」

 「どういたしまして。静かに行きますからね」

 そうして二人は手を繋いで先導する賢治に連れられて階段をゆっくり降りて行くのであった。

 

 「(宮沢賢治……私の……)」



    四、先生



――ゆきちゃん起きて、ゆきちゃん!


 可愛らしい声が福沢諭吉の耳元にうるさく響いた。

 「ゆきちゃん!」

 「なんだ―――。ここからが正念場というのに。だいたい『ゆきちゃん』と呼ぶなと言っているだろう。先生と呼べとあれほど……」

 「いいじゃないですか、呼び慣れているんですもの。正念場だって言いますけど、私にはゆきちゃ……先生が居るんですもの。何か心配することがあって?」

 「お前な……」

 

――……ちょう! 社長ってば!


 「……ああすまん」

 「もー、最近働き詰めで疲れてるんじゃないの?」

 江戸川乱歩は頬を膨らませながら隣にいる武装探偵社社長、福沢諭吉に話しかけていた。

 「少し考え事をしていた……すまない。何だったか」

 「だから、この事件についてだってば!」

 二人は数ヶ月前から発生している連続事件について追っていた。事件についてはざっくりと知っていたものの正式に呼び寄せられるのは今回が初めて出会った。

 それは一見するとただの殺人事件であった。しかし、警察の手には余っていた。何故ならこの事件に犯人は居ないからであった。ではなぜ警察の手には余るのか。

 「まさか、すでに死んだ人間の犯行だとはねえ、警察も……司法でさえ手出しはできないね」

 しかし事件は断続的に起きており、データ改ざんなどというちゃちなものではなかったのだ。

目の前の事件資料と、写っている監視カメラの事象、そしてなにより乱歩の頭脳がそう物語っているのであった。

 「それで、乱歩。この事件……お前はどう見た」

 「それはどっち? この一連の殺人事件のこと? ……それとも真犯人の事?」

 「両方だ」

 「ははっ、じゃあ教えてあげよう。まずは一連のこういった事件は死んだ人間が動いている。そこに意志は存在してるし操られている様子もない。ただの本当に死んだ人間が自分を殺した、或いは殺されるに至った原因だから復讐しているに過ぎない。本当は一連性なんかなくて、共通しているのはただ「死んでいる人間」っていうことだけ。みーんな自発的に動いてるだけなのさ」

 「つまり生き返らせている人物が居る、と?」

 「そそ。僕たちが見つけるべきは死者じゃなくて、そいつただ一人だけだよ」

 「だいぶと絞れたな。愚問だが複製の線は無いのか?」

 「もちろん無いよ。僕の脳みそがただ一つの解を導き出しているから安心してよ」

 すると神妙な顔つきになり江戸川乱歩は福沢諭吉に向き直る。

 「でも僕が気になるのはたった一人の犯人よりも目の前の事件だよ……こと、この殺人の犯人は複数いるんだけど、その中のある一人は社長……あなたに関係がある」

 「!!」

 「その人物は社長のことを先生と呼ぶみたいだね。心当たりは? もちろん死んでる人間で」

 「……知らん」

 「んまあいいけど。その人、社長を血眼になって探しているみたいだよ。そしてこの目の前の事件は僕たちを呼び寄せた。つまり僕たちに関りコネがあるということだね」

 「……探偵社に帰るぞ」

 福沢諭吉は早足で駐車場へと向かった。江戸川乱歩は慌てて追いかける。

 「ね、ねえねえ……その人の名前もわかったけど聞かないの?」

 「殺人犯の名前など、知りたくもない」


 乱歩にはその声色に少し冷たく、怒りが含まれている様にも思えた。また柄にもなく焦る様子の福沢諭吉の背中を不思議そうに追いかける。

 当人の頭の中ではただ『ゆきちゃん』という声が静かに響いていた。

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