8月15日

 10時になっても点呼が始まらない。遅れて来た人も「おや?」と言う顔をしつつ他の人と同じように所在なさげに待つことになった。

 いつも布が山積みになっている一角には、昨日の残りがまとめてあった。新しい布も来ていないみたいだ。

 30分くらいしたら手持ち無沙汰が落ち着かないのか、一人がたらいや椅子をいつもの場所から準備し始め、それに倣う人たちがパラパラ出てきた。私も何かした方が良いんだろうか。

 その時、事務所の衝立がガタガタと揺れた。全員がそこに注目する。衝立の間から右城さんが千鳥足で現れた。酔っ払って正体をなくしてるように見える。誰が見ても正気じゃない。右城さんは苦しそうにうめき、自分の作業着を引っ張りだした。誰も動けないでいる中、右城さんはそのまま作業着を脱ぎ、脱ぐときに靴も脱げ、パンツもずり落ちた。

 そして自分の服を掴んで誰かが用意したプラスチックのたらいに作業着を突っ込み、バケツの塩を全部掛けると裸のままゴシゴシとこすり始めた。

「汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い」

 ブツブツとつぶやいている。

 これまで同僚のバイトの様子は気にしていたけど、作業服の人もおかしくなっている可能性に気付いていなかった。

「これ、ヤバイよね」

 と誰かが誰かに同意を求める声が聞こえた。誰も答えない。私も体が動かない。

 そこに他の作業服のおじさんたちがバタバタと作業所に入ってきた。右城さんを数人で取り押さえ、引きずるように事務所に戻っていく。

 残った作業服が私たちに言った。

「えーっと、今日は帰ってもらってかまいません。明日の朝に、また連絡しますので電話を取れるようにして待機してください」

 ゆっくりと私たちの顔を見渡しながら話、言い終えると事務所に入っていった。また衝立がガタガタと揺れ、止まった。

 しばらく私はその場を離れなかった。本当に帰って良いのか判らなかったからだ。見てしまったものを消化しきれないのもあるかもしれない。それでも一人、また一人と作業所を後にしていくので、私も重い足を引きずって外に出た。心臓がドキドキしている。

――これ、ヤバイよね――

 間違いなくヤバイ。震える手でスマホを持つと、ちょうどナツからメッセージが来た。

『今日のバイトなくなっちゃったから、どこかで会おう』

 私はすぐに中間地点の駅を指定した。ナツの作業所も同じだったんだろうか。早くナツに話を聞いてほしいし、ナツの方で何があったのか聞きたい。私は落ち着かない気持ちを抱きつつ、バスを乗り継いで駅に向かった。

 駅前のバス停で降車するとすぐにナツの声がした。これほどナツの声に安心したことはない。振り返り、ナツの姿を見た瞬間、安心感が吹き飛んだ。

「どうしたの?」

「えー! ハルもだよー! 疲れてるね? しんどそう。眠れてる?」

 いや、私は今、怒りのパワーで生きているから大丈夫。でもナツは絶対おかしい。まず隈がくっきりと目の下に出来ている。それなのにやたら目がギラギラと光っていて表情が無駄に明るい。髪からつやがなくなってボサボサだ。ナツは薄手だけど長袖のカーディガンを着ていた。

「風邪引いた?」

「私? ぜんっぜん! 呪われてるけど」

 きゃはははと人目も気にせず大声で笑う。

「それより見てみて、やっぱりあのバイト、ヤバイよね」

 カーディガンの袖をあげる。そこには掴むような指の形の痣がくっきりと、いくつも出来ていた。面接の時に足首に出来ていた痣に似ている。

「バイト行く度に増えていったんだよー。足も増えたよ。見る?」

 私はゆるゆると首を横に振った。

「絶対ヤバイよ」

 まだ日も高いのに、寒気と鳥肌が止まらなくなっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る