8月14日

 大きな水音に驚いて振り返ると、同じ年くらいの男の子がたらいの上に倒れ込んでいた。

 水があふれて飛び散っている。それなのに隣に座っている女性はぼんやりと眺めているだけで助けようとするそぶりすらない。作業着の人たちが小走りで駆け寄り事務所に男の子を運び込んでいった。

 配られる布は、毎日私たちが出勤する前に軽トラックで運んできているみたいだけど、今日はそれが全部終わらなかった。作業人数も減って、さらに一人一人の作業量も減っている。それでも急かされたり、怒られたりすることはない。これは本当に「洗濯のバイト」なんだろうか。

 疲れや疑念で気もそぞろになっていた。だから帰りのバスに幹人が乗っていることに、降車するまで気付かなかった。

「おい、ブス」

 幹人は猿のような顔でニタニタ笑っている。

「図書館で勉強、とか嘘じゃねぇか」

「話しかけんなよ猿」

 反射的に言い返してしまった。幹人のこめかみに青筋が立つ。

「そんな態度で良いのか? 母さんに言いつけるぞ」

 腹立つことに、この子供じみた脅しが今の私には一番効く。例えどんな言い訳をしても、「図書館に勉強に行ってくる」という嘘の外出理由を両親に言ったことで、私はまた部屋に監禁されるだろう。

「2万で良いぜ」

 やっぱりそう来たか。でも金が目的なら逆に扱いやすいかもしれない。

「お金欲しいの?」

「そうだよ、払うの? 払わないの?」

 手を広げて催促してくる。私はあえて幹人のしゃくに障るように笑って見せた。

「2万でいいんだ? 欲がないね」

 幹人の顔色が変わる。

「もっと出せるのか?」

「8月いっぱい黙っていてくれたら10万出せるよ」

「う、嘘だ」

 判りやすい反応だ。

「嘘だと思うなら、チクれば?」

 この手の駆け引きが、幹人は苦手だ。私が家族のカーストで一番底辺で、舐めているから、何も考えずに喧嘩を売ってくる。案の定、幹人は固まった。馬鹿だから単純にすぐ手に入る2万円と待てば手には入るかもしれない10万円を天秤に掛けているんだろう。

「・・・・・・わかった、黙っていてやる。8月いっぱい」

 たぶん、9月になったら母に言うつもりだろう。その時にはもう家出してるからかまわない。

「OK。じゃあ、9月1日に10万あげる」

 幹人は一瞬ニヤっと笑い、走って家に帰っていった。私と一緒に帰宅したくないのだ。そこだけは気が合う。

 私はのんびり歩きながら、ナツに電話した。

『お疲れさぁん! 元気~』

 なんで日に日にテンションが上がっていくんだろう。ナツの事務所だけメイド・イン反社会勢力の「白い粉」で洗濯してるんじゃあるまいな。と、言うとケタケタと声を上げてナツが笑った。

『違うよぉ。たぶん私だけだね。皆辞めちゃうか、白い顔して洗濯してるから、エライ人に変な目で見られるんだよね。でもハルのことが心配だよ、体調大丈夫?』

「うん、体調は大丈夫。でも弟にばれちゃったんだよ。図書館行ってないこと」

『それヤバイ?』

「金で釣って黙らせたから平気。でも一応言っとこうと思って」

『りょーかい!」

 ナツのハイテンションは違和感しかない。

「そっちこそ大丈夫なの? 無理してるなら辞めなよ?」

 そもそもナツは私に付き合ってくれているだけだ。

『ヘヘヘ。ありがと。バイトは大丈夫なんだけど、盛り塩が効きにくくなったみたいで、夜起きたまま金縛りになるから寝付けないんだよね』

 それはむしろめちゃくちゃ疲れているということじゃないだろうか。ナツは呪いのせいだと思っているようだけど。

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