永久の蒼い風

ただの柑橘類

第1話 蒼い風

 教室からオーボエの音が聞こえる。穏やかで心地よい音に惹かれ、僕は立ち止まる。心做しか懐かしい気持ちに包まれていた。


 どうしてだろうか。あの子の音を聞くと、どうしても小さい頃の感覚が蘇る。


 やがて僕に気づいたその子は、オーボエを吹くのを辞めて僕の方を向いた。


 彼女がいる周りには、いつも、蒼い風が吹いている。カーテンが勢いよく揺れ、僕は目を細める。


 蒼い風の中で、彼女は笑っていた。


 ***


「ほの、おはよう。朝ごはん出来てるから、冷めないうちに食べちゃいな」

 四月の朝。六つ上の姉、箕輪はるかがソファに座り髪を整えながら、起きてきた妹に目線だけを送る。こくりと頷いた妹……箕輪ほのかは椅子に座り、手を合わせて朝食を食べ始めた。欠伸をしたその口にウインナーを放り込み、時々目を擦り、また食べる。まるでナマケモノのようだ。

「ほの、お姉ちゃん今日からほののこと起こさないからね? もう高校生なんだから、自分で起きてよ〜」

 ガーンッ、と効果音がつきそうな勢いで顔面蒼白になるほのか。彼女は果てしなく寝起きが悪く、はるかによく起こされることがある。遅刻も何度かしかけた経験があり、自分自身の短所であるとは自覚しているもののなかなか治すことが出来ないのが現状である。

 なんで、と言いたげにテーブルをバンバン叩くほのかに「いやだって、姉様も今年から社会人ですしぃ……いい歳こいた大人が、いつまでも妹を起こしに毎朝フライパンを叩くと思うなよ?」と悪戯そうに笑った。

 今年二十三歳になった姉のはるかは、大学を卒業してアニメーターの仕事に就いている。それと兼業でカメラマンの仕事もしており、どちらも楽しいとよくほのかに話していた。

「てか、箸落ちるよ? 行儀よく食べなさいな」

「……」

 抗議を諦めたのか、ほのかは再び朝食を食べ始める。チュンチュン、と雀が鳴いている庭先に目をやる。

 この前まで冬だったはずなのに、いつの間にか春の催しだ。

 朝食を食べ終え、ほのかはカバンに物を詰める。財布、携帯、筆記用具、入学前に渡されていた宿題、弁当、上履き。

 そして、少し大きなタブレット。

 彼女の会話の手段は、このタブレットに字を打ち込んで相手に見せる「筆談」である。中学時代、事故により失語症を発症して以来、はるかから貰ったタブレットを毎日肌身離さず持っている。はるかや家族に対しては、手話で話すことが多いという。

「ほの、タブレット持った?」

 隣の部屋から聞こえる姉の声に、トントントン、と床を三回叩く。お互い別の部屋にいる時に使う会話手段で、箕輪家では至って普通の光景だ。

「よしよし。私も仕事という名の戦に行かねば……」

 部屋から出てきたはるかに、ほのかは彼女の袖を引っ張ってタブレットを見せる。

『今日は、早く帰ってくる?』

 それを見たはるかは妹の頭を撫で「今日はカメラマンの仕事だから、早く帰ってくるよ。もし、ほのが早く帰ってきたら、夕飯の用意しておいてくれる?」とニコッと笑う。

『分かった』

「うん、偉い。ほら、早く行かないと、友達きちゃうよ?」

 ピンポン、とチャイムが鳴る。はーいとはるかが玄関に行ったのを見送って、ほのかは忘れ物がないかもう一度確認していた。

「ほの、菫ちゃん!」

 トントントン、と今度は壁を三回叩き、玄関へと歩き出すほのか。扉の前には、ほのかの中学時代の親友である安城菫あんじょうすみれが立っていた。

「おはようデス、ほのか! 一緒に行きましょ!」

 こくりと頷き『おはよう、迎えに来てくれてありがとう』とタブレットに打って見せながら靴を履く。

「いつもありがとうね、菫ちゃん。ほの、方向音痴だからすぐ迷って……」

「いえ、ほのかはワタシがちゃんと連れて行きマスから!」

『お母さんみたいなこと言わないでよ……』

「時が経つのは早いデスね〜!」

「ま、当のお母さんは、夜勤明けで寝てるけどね」

 玄関から両親の部屋を見つめるはるか。ほのかは『仕方ない』と呆れた顔をしていた。

「ほれほれ、JKは学校行った行った! 社会人は八時からお仕事なのです!」

「はぁい、行ってきマス、お姉さん!」

 はるかに手を振り、ほのかは家を出る。

「ほのかは、入る部活とかもう決めてマスか?」

 ふるふると首を振り、『何も。菫は?』と首を傾げた。

「ワタシは吹奏楽部に入りマス!」

『中学の時は美術部だったのに?』

「お母さんがたまたまクラリネットを持っていたんデスよ。興味本位で吹かせて貰ったら、案外簡単だったので!」

『興味本位で吹いて音が出るのがすごいよ……』

 ほのかがよく思っているが、菫は才能の塊だ。勉強は苦手だが、副教科の音楽や美術、体育は一際成績がいい。高校も美術関連の高校で推薦を貰っていたが、それをあえて断ってほのかと同じ高校を受験したのだと聞いている。

「そういえばほのかは、中学の時は吹奏楽部でしたよね? 中学では色々あったみたいデスけど、高校ではやらないんデスか?」

『今のところ、やる気はないかも。帰宅部でいいかなぁって』

「もったいない!」

『もう二年も吹いてないし、感覚も忘れたよ……』

 チリ、とカバンにつけているキーホルダーが音を鳴らす。それは、ケースに入った小さなオーボエを模したガチャガチャのキーホルダーであり、ほのかがかつて中学生の時に吹いていた楽器でもある。

「あ、着きましたよ!」

 やがて見えてきた学校に、ほのかは立ち止まって全体を見渡す。四階建ての大きな高校だ。グラウンドは裏にあるのか見えないが、きっと大きい規模のグラウンドなのだろう。辺りを見ると、ほのか達と同じ新入生が緊張した顔で歩いていた。

「ほんとに高校生になっちゃったんデスねぇ、ワタシたち」

 小さく頷いたほのかは、校門の前にいる教員の前に向かい、筆談で何か話しているようだ。最初は驚いた顔をしていた教員だったが、事前に失語症の生徒が入学してくることを思い出したのか、すぐに明るい顔をして学校の方を指さしていた。ぺこりと頭を下げたほのかはやがて菫の元へと戻ってきて、『一年生のクラス分けが貼られてるの、玄関の前だって』と、先程の教員と同じく学校を指さした。

「……ほのかってあれデスよね、なんか……変わってますよね」

『ハーフの菫には言われたくないかなぁ』

「ハーフは仕方ないじゃないデスかぁ、これは元々なんデス!」

 菫はルーマニア人の父と日本人の母をもつハーフである。日本語、英語、ルーマニア語を話すトライリンガルであり、五教科の中でも英語の成績は特に良かった。ただしそれとは逆に、国語の成績は悲惨であり、英語は苦手で国語は得意なほのかが、英語を教えてもらう代わりに国語を菫に教えるということをよくしていた。

「自己紹介で、ハーフって言ったらみんな驚きマスかね?」

『驚くと思う。私の家系もちょっとだけスウェーデンの血が混ざってるけど、それ話しただけでも驚かれたもん』

「なるほど、だからほのかの家族はみんな目が蒼いんデスね? クォーターってやつデスか?」

『そういうこと』

 玄関前は、クラスを見ようと生徒達が多く集まっている。同じクラスだ、と喜んでいる生徒や、離れちゃったね、と落胆している生徒もいる。新学期ならではの風物詩とも言えるだろう。

「あ、クラス同じデスよ!」

 菫が指をさした一年四組の上から二番目に菫、少し下の方にほのかの名前が書いてある。ほんとだ、と口だけ動かすと『また一緒だね』と笑った。

「これで中学生の時から合わせて、四年連続!」

『こんなことってあるんだね……』

 中に入って靴を脱ぎ、自分の下駄箱を探す。『四組』と書かれたプレートの下駄箱を一つ一つ見ていき、自分の下駄箱にそれを入れる。持ってきていた上履きを履いてキョロキョロと辺りを見渡す。

「ほのか、一年生は二階らしいデスよ!」

 菫が先に歩いていき、慌てて追いかけるほのか。廊下には部活の勧誘が立っており、その中には吹奏楽部もいた。

「吹奏楽部、今部員が非常に少ないです! 初心者の方でも、先輩が丁寧に教えまーす!」

「俺が部長だ! 君、吹奏楽部に入らないか!」

 部員が、少ない。

 その言葉を聞いて、ほのかは立ち止まる。気づいた菫が「どうしましタ?」とほのかの後ろから覗き込む。長い髪を束ねた女性部員と、その隣にいる「我部長なり」と書かれたタスキを提げた青メガネの男性が、歩いている新入生に勧誘をしていた。

「あ、吹奏楽部! ワタシ入ります!」

「え、ほんと! いやぁ嬉しいなぁ、俺らの先輩が卒業しちゃって、C編組むのがやっとでさぁ!」

 おそらく部長であろう男性は、頭をかいて笑っていた。

「しーへん?」

 首を傾げた菫に、ほのかがトントン、と肩を叩く。

『C編成の事。A、B、BⅡ、Cがあって、コンクールの中でも一番人数が少ない、最大二十名の部門なの。一番多いのは最大五十五名でA編成』

「へぇ、編成ごとに人数が決められているんデスね」

「おぉ、詳しいねえ! 君、もしかして元吹部? 吹奏楽部入る気ない?」

 ほのかはふるふると首を振り『今のところは、無いです。ごめんなさい』とペコリと頭を下げた。

「えぇー入ろうよォ! 君がいてくれたら絶対心強いよォ!」

 ほのかの手を取ってブンブンと上下に振る男性。隣にいた赤髪の女性が「こら、無理に勧誘したら可哀想でしょ!?」と彼の腕に手刀を勢いよく落とした。

「ごめんね、こいつちょっと強引でさ。でも部員がいないのは本当なんだよ。今いる二年生と三年生合わせて、部員が十五名しかいなくてね。C編はなんとか組めるんだけど、如何せんうちらよりも楽器の方が数が多いから、実質廃部に近いというか……」

「廃部とか言うなよォ鬼塚おにづかァ!」

「そ、そんなに少ないんデスね……」

「そうなの。あ、私は副部長の鬼塚やよい。ファゴットやってる。こっちは部長の遠藤弘樹えんどうひろき。こいつはチューバ担当。えーっと……箕輪、っていうの? 入らなくてもいいから、一度部活動の見学には来てみてよ。今日からやってるからさ。もちろん、安城もね」

 鬼塚、と呼ばれた女性は、二人にチラシを渡す。吹奏楽部の部活動見学の時間帯などが書いており、一番上の見出しには「青春の続き、しませんか?」と書かれている。

 ───青春の、続き。

 頭を下げ、その場を去っていくほのか。菫が慌てて追いかけ、弘樹とやよいがそれを見送る。

「箕輪、一言も喋らなかったね」

「ああ、俺一年の先生から聞いてるよ。失語症で話せない新入生が入学してくるって」

「じゃあ、あの子が失語症の子? タブレット持って筆談してたし」

「かもね。俺はあの子を入部させたいなぁ〜」

「なんで? あまり乗り気じゃなさそうだったけど」

 話しかけられた新入生にチラシを渡しつつ、やよいは弘樹を見る。

「あの子、カバンにキーホルダーつけてたんだ」

「キーホルダー? なんの?」

「楽器のだよ。ケースの形的に、俺のような金管楽器じゃない。細かく分解できるタイプの、言うならクラリネットとかフルートとか、そんな感じの小さい楽器だと思う」

「ああ、ガチャガチャであるやつ。でも今出てるあのシリーズって、木管だよね? だったら木管楽器のどれかなんじゃない?」

「部室にあるけど、楽器がただただ老化していっている木管楽器! 頼もしい! やっぱりあの子入部させる!」

 隣で燃えている部長に、やれやれと呆れた顔をするやよい。

「入部させるの、結構時間かかりそうだけどなぁ」

 そう呟いた彼女の声は、廊下のざわめきによってかき消されたのであった。

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