俄旅

太田肇

第1話

長旅であった。自宅の最寄りの駅から九回乗り換えをして、青森駅に着いた頃には日が暮れていた。宮城県から岩手県と秋田県を経由して青森県に来た。なぜそう思い立ったかというと、四月から私は京都の大学に通うことになる。その前に北の景色と食を堪能しようと思った次第である。


 電車を降りて駅の二階に上ると、窓から大きな橋と海が見えた。ちらほらと雪が降っていた。風が吹いているのだろうか、遠くに見える船灯が強く輝いたり、今にも消えそうになったり瞬いて見えた。


 そのまま通路を進み駅を出た。私の前に冷たい白亜の壁が現れた。私の身長の二倍はあった。歩道のほとんどが雪で覆われていた。積もっていないところも雪が溶けた後、水が再び寒さで凍り、よく滑った。薄氷を踏むとパキッと心地よい音を立てて割れた。街を歩いている人は、ほとんどいなかった。等間隔に並んだ街灯がただ寂しそうに頭を垂れていた。


 私は腹が減ったので何か食べるものがあるところを探した。駅から少し歩いたところにあった赤い暖簾が掛かった食堂に入った。中に入ると四つのテーブル席に掘り炬燵式のカウンター席があり、芸能人のサインが壁一面に貼ってあった。カウンター席の向こう側には白い調理帽子を被り、エプロンを腰に巻いた中年の男がいた。私以外に客はいなかった。


「らっしゃい。」

「こんばんは。どこに座れば良いですか」

「それじゃあね、カウンターの方にお願いします」

「わかりました」


 席に座りメニュー表を見た。ずらりとトンカツ定食だの、鮪定食だの、さまざまな定食が並んでいた。何にしようか、と悩んでいたら店主が話しかけてきた。


「うちはね、帆立が自慢なんですよ。陸奥湾で採れた帆立なんです。新鮮だからね、甘くて歯応えが良いんですよ」

「へぇ。美味しそうだ。それじゃあ、帆立を頂こうか」

「まいど」


 帆立定食を頼んだ。ふと店に置いてあったテレビを見た。どこかの国の艦隊が津軽海峡を通過したといった内容が報道されていた。


「最近なにかと物騒ですね」

「そうかい。昔からね、この辺ではよくあることなんですよ」

「そうなんですか。俺が住んでいたところだと報道も、そんなこともなかったので」

「そりゃそうでしょうよ。大っぴらにそんなこと言ったらみんな怖がる。それに何でもそうだが、全てを知っちゃ怖くていけねぇ」

「程度が大事ってことですか」

「いや、違うね。関係のない奴は知る必要がないってことさ。だってそうだろう。そういう奴に限って、余計なことを騒ぎ立てて事を大きくしやがる」

「なるほど」


 確かに。と私は思った。


「はい、お待ちどおさま。帆立定食ね」

「ありとうござます」


 帆立の刺身に殻付きの帆立バター、味噌汁と米が盆に載せられて出てきた。帆立はさっきまで生きていたようだ。貝ひもがまだヒクヒクと動いていた。私は刺身から食べることにした。


「これは……」

「どうですか。うちの帆立は」

「とても美味しいです」

「よかった。よかった」


 口の中に入れた途端、強い甘味が舌を唸らせた。程よい食感が食べるという行為に楽しさを付与した。


「何かを食べて楽しいと思ったのは初めてです」

「気に入って貰えたようで」


 店主はカッと笑った。その後は無言で食べた。話すことを忘れていた。それほどに美味しかった。


「ごちそうさまでした」

「お勘定ね。ありがとうございました」


 代金を払って店を出た。皮膚に突き刺さるような外気が私を襲った。やはり三月といえど東北は寒い。ましてや海辺だ。私は予約した時間よりも少しはやく旅館に行くことにした。


 旅館に着くと、ふくよかで、赤い着物をきた女将が出迎えてくれた。


「いらっしゃいませ。お客様のお名前をお伺い出来ますか」

「三島です。三島陽一」

「ありがとうございます。少々お待ちください」


 女将はそういうと懐から掌ほどのメモ帳を取り出して、ペラペラとページを捲り、何やら確認の作業をしていた。


「どちらからいらしたのですか」

「宮城から。電車できました」

「随分と遠くからいらしたのですね。さぞお疲れでしょう。お部屋にご案内しますね」


 女将の後ろに続いて行くと、三階の部屋を案内された。階段を上る度に床がきぃきぃと音を立てた。


「こちらのお部屋になります。そして鍵になります」

「ありがとうございます」


 女将から三〇六号室と書かれた鍵を受け取った。

畳まれて

「明日、出立する前に鍵を私の方までお返し下さい。六時頃から一階の厨房にいますので」

「わかりました」


 六畳くらいの和室だった。一日中座りっぱなしで疲れたので風呂に入ることにした。風呂は至って普通だった。狭いが肩まで浸かれる、古い日本家屋でよく見る風呂だ。深めの湯舟は体の芯から温まることができるので私は好きだ。


 一通りすませて風呂から上がった。着替えには紫陽花のような気品のある色の浴衣と紺の腰紐が綺麗に畳まれて棚に置いてあった。私は浴衣を着たことがなかったので、見様見真似で着てみた。存外上手くものであった。

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