生物群、噴出ス

onyx

忍び寄る恐怖1

 福島県警伊達署に1件の電話が掛かって来たのは、まだ午前9時を回ったばかりの時だった。電話の相手は管内にある小学校で、そこの教頭からによるものだ。

 曰く、2人の児童が登校して来ず、家にも連絡が取れないため、不審に思った学級担任の報告で警察に相談の電話をしたらしい。2人の児童は兄弟なのでどちらか一方が来ていれば事情を聞き出す事も出来ただろうが、両方ともに登校していない事からそれは叶わない状況だそうだ。

 家の様子を探るため、警邏中のパトカーへと要請が飛んだ。場所は新興住宅地から更に山へと入った所にある一軒家だ。この山は手付かずの原生林が広がっているも、複数の切り開かれた場所に同じような家が幾つか存在している。


 署からの要請を受けたパトカーは予定していたパトロールを取り止め、行き先を件の新興住宅地方面に向けて走り出していた。

 住宅地は元々、草木が生い茂った休耕地とそれに連なる山々だった。今から5年ほど前にこの一帯を管理していた地主が孤独死した事で宙に浮いた土地で、遠縁の親戚が諸々の手続きを終えて自治体に売却。これによって立ち上がった再開発計画で土地に手が入り、規則正しく整備された区画に真新しい家々が立ち並ぶ新興住宅地となったのだ。

 1台のパトカーが、その新興住宅地の入り口に差し掛かる。車内には2人の警察官が乗っていた。

「羨ましいですね、広くて新しい家で子供時代を過ごせるなんて。自分は団地の狭い空間で兄弟がひしめき合って育ちましたよ。とにかく鬱陶しかった記憶しかないです」

 パトカーを運転する島田しまだ巡査部長が車内でボヤく。幼少期から成人するまでを団地で過ごした彼にとって、一戸建てに住む事は永遠の憧れだった。

「俺なんかは長屋だったぞ。まぁ、もう残っちゃいないだろうな。何十年も前の話だ」

 助手席には彼の上司である大西おおにし警部が乗っていた。2人とも地域課の警察官だ。この辺は時折り警邏に訪れる程度で、詳しい地図が頭の中に出来ている訳ではなかった。

「次の角を……右だ。そこを直進した先が目的地らしい」

「はい」

 島田は、大西が指示した角でハンドルを切った。道が住宅地を抜けて森の中へと伸びている。そのまま道に沿ってパトカーを走らせて林道に入って行くと、更に右の方へ別の道があるのが見て取れた。

「これはどっちですかね」

 道幅的にUターンが厳しそうなため、島田はアクセルを緩める。もしこの右に目的地の家があった場合、何所で引き返せるか分からなかった。

「ちょっと確認しよう」

 大西が署へ車載無線機で家の住所を問い合わせた。その返答をカーナビに入力すると、島田の疑問が正解だった事が分かる。世帯主の名前は古川将一ふるかわしょういちだと言うのも判明した。

 パトカーはゆっくりと右の道へ入っていき、車1台が通れる広さの空間を進み続けた。その先に見えて来たのは、真新しい一軒家だった。敷地の広さはそこそこと言った感じでパトカーを駐車出来るスペースも十分である。

 外見上、家に怪しい所は見受けられない。だが島田も大西も、屋根付きの駐車場に車が停まっている事と、恐らく家族全員分と思われる大小の自転車がある事に対して何か違和感を覚えていた。

 大西は島田に停車を指示。車内から家の様子を窺った。

「このご時世に一家総出で夜逃げ……まぁ有り得ない事でもないですか」

「押し込み強盗の可能性もあるぞ。全員拘束されているのかも知れん」

「だとすると厄介ですね、応援を呼びます」

「頼むぞ。俺は少し様子を見て来る。応援の到着に備えてPCは出入り口を塞がない場所に停車しろ」

 今度は島田が車載無線機に手を伸ばして署に応援を要請するのを尻目に、大西はパトカーより下車。なるべく足音を立てないように歩き、可能な限り窓の無い方から家へと近付いた。念のため警棒のストッパーを外していつでも抜き放てるようにすると共に、更新が翌年に迫った使い古しのニューナンブが収まるホルスターのボタンをこっそり開ける。

 昨今は物騒な連中や何を考えているか分からない凶悪犯も多い。発砲事件はそうそう起きないが、銃器の押収量は意外にも東北地方でワースト1位を記録した事がある。そんな側面もあり、油断は出来なかった。


 足を進めるに連れて、妙な静けさに包まれているこの家が気に掛かった。カーテンは締め切られており、中に人が居る気配を感じられない。駐車場にはシルバーのソリオが物言わずに鎮座している。

「……暫く動いてはいないようだな」

 ボンネットに手を置くが、冷たいままだった。そして微かに家の中から電話の鳴る音が聴こえる。どうやら世帯主の勤務先も不審に思ったらしく、連絡を取ろうとしているようだ。もし中に強盗が居座っているとしたら、取りあえずでも出させて欠勤するだの何だのと言わせようとするだろう。だが電話はそのまま鳴り続け、途切れる事はなかった。

 意を決した大西は玄関の手前まで踏み込んだ。近付くに連れて電話の音も大きくなっていく。

 まず呼び鈴を1回だけ鳴らす。続いてノックを数回。暫く反応を待ったが、何も起きなかった。

「古川さん、副会長から広報を預かって来ました。古川さん、ご在宅ですか」

 もし中に居るのが凶悪犯だった場合に備え、念のため自分が警官である事を隠した。だが返事は無い。またノックをしても呼び鈴を押しても、やはり反応は無かった。電話だけが不気味に鳴り続けている。

 比較的新し目の一戸建てによく見受けられるプッシュプルハンドルをゆっくり手前に引くも、当然だが開かない。ポストは右側の壁に設置されているため、郵便受けから中の様子を伺う事も出来なかった。

「署に要請を出しました。近場に居るもう1台が急行中です」

 パトカーをゆっくり敷地内に入れ終わり、大西を追い掛けて来た島田がそう報告した。大西は更に指示を出す。

「分かった。ちょっとそっちの窓が開くか試してくれ」

 玄関の左側にはリビングと思しき窓があった。島田巡査部長は大西に言われた通り、その窓に手を掛ける。慎重に開けようとするがこちらもやはり開かなかった。

「警部」

「どうした」

 島田は、窓に付着した小さな汚れを指差す。それは赤い飛沫だった。カーテンの隙間から窓に飛び散ったらしい。あれがもし、誰かの血痕だったとしたら、中で何が起きたのか是が非でも探る必要がある。

「…………裏に回ってみよう」

 2人は可能な限り足音を消して家の裏側へと回った。まず目に飛び込んで来たのは、無数の割れた窓ガラスだった。鬱蒼とした木々が生い茂る家の背後側にもリビングが面しているのだろう。サッシもグシャグシャに破壊されて無残にも横たわっていた。血で汚れる引き裂かれたカーテンが風に揺れ、異様な雰囲気を作り出している。

「……これは一体」

「待って下さい、応援を待つべきじゃ」

「いや、中の様子だけでも探るぞ」

 恐る恐る足を進め、右手でニューナンブのグリップをしっかりと握った。撃鉄を起こすのは中の様子を確認してからでも遅くない。左手では既に展開された警棒を掴み、不測の事態に備える。

 そして2人は、室内を静かに覗き込んだ。内部は家具が散乱して食器棚が横倒しになっている。画面が割れたテレビは床に転がされ、壁紙も引き千切られていた。そして何より、床と壁中に飛び散る無数の血痕が2人の視線を釘付けにした。

 言葉を失ったまま、数十秒程の時間が流れる。大西はようやく絞り出した言葉を発した。

「……何が起きたんだ」

「下がりましょう、マル被が中に居る可能性もあります」

 あまりの衝撃で体が硬直して動かない大西を揺さぶっていた島田は、後ろからガサガサと音がしている事に気が付いた。咄嗟に振り返って森の中を注視するが、特に怪しいものは確認出来ない。

 しかし、音が止む事はなかった。こちらへ少しずつだが近付いているように思える。小枝か何かを「パキッ」と折るような音がその証拠だった。

「……警部、向こうに何か居ます」

「一応、警告を忘れるな。万一の場合はお前の判断で撃っていいぞ。俺も撃つ」

 ホルスターからついにニューナンブを引き抜いた。静かに撃鉄を起こし、トリガーガードの中にそっと人差し指を入れた。下がり切った引き金に指先が当たるのを感じつつ、警棒をケースへ戻した事で自由になった左手を右手に沿え、遠慮気味に射撃姿勢を作る。

 音はさっきよりも近付いていた。僅かだが、音のたびに草が揺れているのも確認出来る。2人は受傷事故防止のため、ゆっくりと距離を空けた。

「警察だ。武器を持っているならそれを捨てて、両手を上げて出て来なさい」

 島田が森の中に警告を発する。だが音はこちらへ近付くのを止めなかった。

「武器を持っているならそれを捨てて両手を上げ、外に出て来なさい。さもなければ発砲する」

 大西は両腕を前に突き出し、草が揺れている所に照準を合わせた。もし刃物を持ったマル被が飛び出して来たら、これで即座に一発目を送り込める。

 背丈の高い草の揺れが更に大きくなり、緊張感が最高潮に達したその瞬間、2人は目を疑った。何故なら、草の中から出て来たのは、人間の手だったからだ。しかし様子がおかしい事に気付く。その手は、どうもに指が何本か無くなっているように見えたのだ。

 銃を構えたまま様子を窺っていると、呻くような声を発しているのが分かった。それをいち早く耳にした大西が銃を仕舞って駆け寄る。

「……うっ」

 手のある所で膝を付いた大西は、自分が見ている光景が信じられなかった。手は右手で、持ち主は紛れもない人間で男性だったが、親指から中指が失われているだけでなく、腕は傷だらけでしかも左腕は肘の所までしかない。それだけに留まらず、両足までもなかった。着ているのは寝間着のようだがあちこち破れている。おまけに破れている所からは、出血も見受けられた。

「聴こえますか! 何があったんですか!」

 大西の声で異常な雰囲気を感じ取った島田も銃をホルスターに戻して近付いて来た。2人で男性を運び出そうと草むらに分け入る。

 姿勢を低くして男性の体を持ち上げようとした瞬間、大西が急に倒れ込んだ。島田が何が起きたのかを理解するよりも早いスピードで大西は森の中へと引き摺り込まれていった。

 体が完全に見えなくなるその直前、大西は「逃げろ!」と叫んだ。同時に響き渡る銃声が森に木霊する。次々に降り掛かる出来事に島田は半ばパニックに陥り掛けたが、今はこの男性を助ける事が先決だと思い直し、その場から離れてパトカーまで一気に走った。

 後部座席のドアを開けて男性を寝かせると、運転席に移って無線機を掴んだ。救急車を要請すると共に応援の1台が何所まで来ているか問い合わせようとした直前、フロントガラスに液体の当たる音がした。

「え?」

 疑問に思うのも束の間、液体がフロントガラスを溶かし始めた。慌てて車外に飛び出した島田の視界に映り込んだのは、正しく身の毛がよだつ光景であった。

 一旦は収めた拳銃を再び手に取って構える。最早この状況が緊急避難に該当する事は間違いない。

 そして、シリンダーに入っていた5発の銃弾は瞬く間に底を尽いた。だが相手は依然として近付いて来ている。島田はもう、恐怖で動きたくても動けなくなっていた。


 約10分後、島田が要請した応援のパトカーが駆け付けた。狭い林道を抜けた先にある一軒家の敷地に入った所で停車し、乗っていた2人の警官がパトカーから降りる。

「変だな、誰も居ないぞ」

 辺りは静寂に満ちていた。恐らく先に現着し、応援を要請したであろうパトカーが停まっているのに、人の気配を感じられなかった。

「……あれとあれ、何ですかね」

 運転していた警官が気付いた。地面に溜まる謎の液溜まりと、何かを引き摺ったような複数の跡が見えたのだ。その跡は森の方へと続いている。液体の所へ近付くに連れて鼻を突く異臭が警戒心を煽った。

「近付かない方が良さそうだ。少し離れよう」

「待って下さい。PCの後部座席に誰か居ます」

 後部座席からは、人の腕が力なく垂れ下がっていた。全周囲に気を配りつつ停車していたパトカーに近付く。

「…………まだ息があるみたいです」

「救急車を呼ぼう。こっちのPCに乗せ換えるぞ」

 2人で後部座席から、ほぼ虫の息になっている人間を運び出し、自分たちのパトカーに運んで救急車を要請した。何もかもがおかしいと感じていた2人はその場から離れ、林道の入口部分まで後退。そこで可能な限りの延命処置を施しながら救急車を待つ事にした。

 更に10分程が経過した頃、サイレンを鳴らした救急車がやって来た。救急隊員に状況を説明しながらストレッチャーへの移送を手伝う。

 車内で男性の様子を見た救急隊員は、心電図や血圧計の用意をしながらも諦めの表情を浮かべていた。それを見ていた2人の警官もまた、やはりあの容体では助からないらしい事を悟った。

 こうして救急車は走り去ったが、2人にはまだ仕事が残っていた。この状況を署に伝え、適切な措置をしなければならない。更に奥の敷地に住んでいる人々の安否確認も必要だが、それをたった2人では出来ればやりたくなかった。まず応援を要請し、数が整った上で行う方が良さそうだとの結論に至るのは、自然な事だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る