蟹飯屋

太田肇

第1話

駅を出ると遠くに海が見えた。歩道にはまだ雪が残っていた。雪が溶けてできた水溜りには太陽が映っていた。


 私は十九歳、真新しいシャツの上に茶色いコートを着て、黒のズボンを穿き、大きなリュックを背負って旅をしていた。


駅を出て右手に案内所があった。中へ入ると禿頭で、背の低い皮膚の垂れた男が新聞を読んでいた。私は男に声をかけた。


 「すみません」

 「なんでしょう」と男は読んでいた新聞をたたんで答えた。

 「この辺にお食事処はありませんか」

 「それでしたら蟹飯屋がありますよ。弁当もあります」

 「へえ。蟹飯」

 「昔はね、この辺でよく蟹が取れたんです。この街に住んでた人たちが全員で食べても余るくらいに。蟹が余って余って勿体ないってことで、旅人さんにも食べてもらうために弁当を売り始めたんです」


 男はため息をついた。


 「ただねえ。ここ十年はめっきり取れなくなったんです。もうこの町には一軒の蟹飯屋しかありません」

 「蟹飯屋はどこに」

 「そこの十字路を右に曲がるとすぐですよ」

 「わかりました。行ってみます」

 「まだ寒いですからね。お気をつけて」


 私は案内所を出た。男に言われた通りに十字路を右に曲がると蟹飯屋があった。創業昭和三年と書かれた青い暖簾が風に揺れていた。小さな、建てつけの悪い引き戸を開けた。テーブル席が四つだけある狭い店だった。私の他には誰もいなかった。


どうしたものかと考えていると、奥から娘が出てきた。十八、十九くらいに見えた。短い髪を後ろで結っていた。華奢で、赤い着物を着て、白い帯締めをきっちりと結んでいた。


 「あら。お客さん。何名様でしょうか」

 「私一人です」

 「席はどこでも構いません。お好きなところにお座りください。ご注文が決まったらまた声をかけてください」


 そういうと娘はまた店の奥へ行ってしまった。私は娘の後ろ姿を二度見た。席に着くと上着を脱いで椅子に掛けた。お品書きには蟹飯だけでなく、蕎麦だの、饂飩だの、親子丼だの、蟹とは関係のないものも載っていた。私は折角なので蟹飯を頼むことにした。


 「すみません」と私は少し大きめの声で言った。

 「はい。少しお待ちください」と返事が返ってきた。

 しばらくすると、娘が注文票とペンを持って小走りで来た。


 「ご注文は何になさいますか」

 「蟹飯をください」

 「承りました。出来上がるまでお茶でも飲んでお待ちください」


 娘はテーブルに置いてあった急須にお湯を入れてきて、お茶を注いでくれた。奥で料理をしていたのだろうか、娘からは蟹の匂いがした。


 「ありがとうございます」

 「外は寒かったでしょう。ゆっくりして行ってください」


 女性らしい手の、すらりとした指先から見える注文票に、丁寧に書かれた字が美しかった。


 「あ、あの」私は変に言葉が詰まった。

 「どうされましたか」

 「字がお上手ですね。とても」と私はしどろもどろに言った。

 娘は「そうですか。ありがとうございます」と言うと、店の奥へ行ってしまった。


 娘に出されたお茶を飲んだ。体の芯から温まった。


 「はぁ」と、短いため息が出た。


 湯呑みを握ったり、窓に反射した自分の姿を見たり、どうも落ち着けないでいた。あれこれ考えていると娘が来た。


 「御待遠様です。蟹飯一人前です」


 大きめの丼鉢を出された。米の上に蟹が敷き詰められていて、海苔と梅干しが添えられていた。


 「ありがとうございます。蟹のいい匂いがします」


 「この町で採れた蟹で作ったんです。梅干しは自家製のものなんです」と娘は誇らしげに言った。


 「へえ」と相槌を打った。私は何か話さなくてはと躍起になった。


 「ずっとこの町で暮らしてるんですか」

 「そうです。この町で生まれて、この町で育ちました。多分これからも……」


 娘はどこか物憂げだった。


 「お客さんは何処からいらしたのですか」

 「宮城から。電車で旅をしています。それで立ち寄りました」

 「それはそれは。随分遠くから」


 娘は少し驚いてみせた。


 「この町で観光できる場所ってありますか」と私は質問した。


 「お客さん。この店を出てすぐの所に浜があって、そこから見える内浦湾の景色が綺麗なんです。夜になると船の灯りがぽつん、ぽつんって」

 「見てみたいですね」

 「ええ。是非。私、好きなんですよ。そこ」


 その後も娘がこの町の海を一生懸命に身振り手振りで説明してくれた。娘が私に見せた海は、今までで一番美しい海だった。


 ひとしきり話した後、娘は「食べ終わったらまた声をかけててください」と言って、私の座っているテーブル席の正面にある帳場の椅子に座った。


 私は初めて蟹飯を食べた。ゆっくりと味わって食べた。口に入れる度に、蟹の匂いが鼻を抜けた。娘はきちんと足を閉じ、しゃんと椅子に座っていた。レジの中身と睨めっこしながら、紙に何かを書いていた。私にはその姿が、どこか退屈そうに見えた。


 蟹飯を半分ほど食べ終わったとき、店の奥から白い調理衣を着た、体格のいい若い男が出てきた。


 「主人です」と娘は微笑みながら言った。

 「お客さん。どうですか。うちの蟹飯は」と男は言った。

 「美味しいです。初めて食べました」

 「そうでしょう。なんてったって歴史がありますからね。よかったらお代わりなんてどうですか。サービスしますよ」

 「いえ。結構です。あまり量が食べられないので」

 「そうですか。残念です。それじゃあ、是非、この町を楽しんでいってください。と言っても海しかありませんが」


 男は笑いながらそう言うと、店の奥に戻って行った。冴え冴えとした男だった。


 私は蟹飯をさっさと食べ終えた。「お会計をお願いします」と言って席を立った。

 娘は「お客さん。お弁当もありますが……いかがですか」と聞いてきた。

 「いえ。結構です。十分、満足しました」と答えた。 

 「わかりました。千百円になります」と娘はレジを打ちながら言った。

 「とても、とても美味しかったです。ご馳走様でした」

 「ありがとうございます。また機会がありましたらいらして下さい」


 娘は深々と頭を下げた。頸が妙に艶っぽく見えた。


 私は蟹飯屋を出た。勧められた浜に行こうと思ったが、浜への道は積雪で通行止めになっていた。浜には行くことが出来なかった。私は諦めて駅に戻ることにした。


 駅に戻ると、腰の曲った老婆に声をかけられた。


 「お兄さん。お兄さん。カメラが壊れちゃってねえ。直してもらえないかい」

 「すみません。知識が無いので」

 本当に分からなかった。今までで一度もカメラを自分で持った事がなかった。

 「いやいや。大きな荷物を持っていたから、てっきりカメラをやってる人かと思ったよ。ここにくる人はカメラをやる人くらいだからねえ」

 「旅をしているんです。次の電車までの時間が空いたので立ち寄っただけですよ」


 老婆は大きく頷いた。


 「この町に来る電車は二時間に一本だけだからねえ。どうだい、この町は。楽しめたかい」

 「ええ。とっても。海を近くで見れなかったのは残念ですが……」

 「それはよかった。またおいでなさい」

 「そうします。忘れた頃にでも」


 老婆は私の話を聞いて嬉しそうにしていた。


 その後、駅で小樽行きの切符を買った。二十分ほど待つと電車が来た。電車に乗って窓際に座った。窓の外を見ながら、ぼんやりとしていたら眠くなった。私は目を閉じて頬杖をついた。まだ服からは蟹の匂いがした。

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蟹飯屋 太田肇 @o-ta

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