夏が終わるまでにしたい10のこと
薮坂
第1話「本屋強盗」
「オラァ! ジジイ聞いてんのか! 早よ出すモン出せやぁ、死にたいんかオルァ!」
──目の前に広がる光景。それは、僕の理解から三光年くらい離れた場所にあった。
まるで意味がわからなかった。僕は、馴染みの小さな本屋に注文していた本を取りに来ただけだ。ずっと追っていたマンガの最終巻、それも初回限定受注生産版。これを120%、余すところなく楽しみたい。ネタバレ防止のためしばらくの間ネット断ちさえしていたくらいだ。それが僕の人生の、唯一と言っていい「幸せ」だった。なのに、それなのに。
なにゆえ僕は、本屋強盗に巻き込まれているのか。マジで意味がわからない!
「コラァ! 早よ出せ言うとるやろ! 急いで出せや! 刺されたいんか!」
レジ前に立っている強盗が吠える。その強盗は一見して、おかしな格好をしていた。具体的に言うと、黒いフルフェイスヘルメットにモスグリーンのロングコートを着ていたのだ。クソ暑いのにコイツは何してんだろう。
「聞いてんのかジジイ! 早よせぇや!」
強盗はボイスチェンジャーでも使っているのか、くぐもって割れたような機械音声だった。かなり用意周到なヤツに違いない。凶器のナイフを目の前に掲げて、レジとの距離を徐々に縮めていく。
こいつは本気だ。ヤバすぎる。僕は強盗の後ろで突っ立っていることしか出来なかった。幸い、この強盗は他の客には興味がないらしい。
「早よせぇ!」
「いやそう言われましても、この店で一番価値のあるモノなんて何を選んだものか……、小さな店ですし……」
個人経営しているこの本屋に、それほど価値の高い書籍があるとは思えない。それにここの店主である鈴木のジイさんは、商売っ気がなくてイイ人なのだ。ジイさんが傷付くのは見たくない。ここは潰れてはいけない、町の憩いの場所なのに。
「なんでもええんや! 価値のあるもんならな! それともなんや、本なんかよりジジイの命の方が価値あるってかぁ? ほなお前が人質になれや!」
強盗は身を乗りだすと、鈴木のジイさんの胸ぐらを引っ掴んだ。ジイさんは「ひっ」と短く声を上げる。クソ、これ以上は見てられない。鈴木のジイさんにはまだまだ生きてもらわねばならない。
それに。鈴木のジイさんがいなくなってしまったら、僕の「初回限定受注生産版」は手に入らないかもしれないじゃないか! クソ、背に腹はかえられない! でも「僕が人質代わります」なんて言う勇気はカケラも持ってない! 当たり前だ、僕は他の人から見ればただの路傍の石。蹴り飛ばす価値さえないゴミ、それが僕なのだ。
もしそんな勇気のある人間ならきっと、こんな最底辺のフリーターで、夢も希望も将来の展望もなくて、六畳一間のワンルームに住んでいて(ユニットバスは辛うじてある)、マンガが唯一の楽しみで、友達も家族もいないクソみたいな人生は送ってないハズだ。
──でも。なんの価値もないからこそ、僕が人質に最も向いているんじゃないかとは思う。この店にいるのは、店主たる鈴木のジイさんと客である僕、そしてその他の数人の客だけだ。
子供づれの美人人妻は娘を抱いて必死に庇っているし、この二人には未来がある。もう一人の客である女子高生も言わずもがな。聡明そうな雰囲気は、未来の日本を背負うに足り得る人物だろう。
でも僕には何もない。僕がもしここで死んだって、誰も悲しまないし職場にも迷惑はかからない。そう言う意味で、僕が人質になるのが最も合理的だ。それは覆しようのない事実だった。
「あ、あの……」
おずおずと手を上げて、女子高生が発言した。待て、待て! まさか「私が代わりに人質になります」とか言うんじゃないだろうな! 何の価値もないのに女子高生に助けられるなんて、生きて帰ったとして世間からの厳しい目は避けられない! そんな自分勝手な僕の思いを余所に、女子高生は続ける。
「ここの店主、とても良い人なんです。この本屋は小さいけれど、町の人に愛されてます。だから店主を人質にはしないでください。その代わり、」
女子高生は上げていた手をスッと下ろすと、ピシリと僕を指差した。
「あの人がいいと思います。人質。近所でたまに見かける人ですけど、いつも暗いし、目つきが気持ち悪いし、私の友達まわりでは不審者って言われてるし。だから人質はあの人にしてください」
「ぼ、僕? 僕が不審者だって?」
「そこの親子にも、店主にも、私にも未来がある。でもあなたにはなさそうです。だから人質、代わってください」
僕はゴクリと唾を飲みながら、親子を見た。母親は僕に強く頷いた。お前がいけよ、と心の声が聞こえた気がした。次に鈴木のジイさんを見た。ジイさんも強く頷く。なるほど満場一致である。
「で、お前そう言われてるけど、どうするんや? このジジイと人質代わる気ィあるんか?」
強盗が、ちょっと申し訳なさそうに僕に言った気がした。数の暴力はエグい。民主主義万歳である。
さすがにここまで言われたら拒否なんてできないだろう。この場で僕が一番価値のない人間だと決定してしまっているし、悔しいことにそれは事実なのだ。だけどひとつだけ譲れないことがあった。僕はそれを口にする。
「じょ、条件が」
「条件? なんや言うてみぃ。場合によっちゃ、考えたってもええで」
「初回限定受注生産版。それだけは読ませてほしい」
「はぁ? お前、なに言うてるんや?」
「マンガだよ! ずっと追いかけてきた大好きなマンガが今回で最終巻なんだ! それの限定版なんだ! もうお金も払ってる! それを読めれば、僕はもう死んだって構わない。だけどそれを読めずして死ぬのは絶対に嫌だ!」
「……オタクか、お前」
「あぁそうだよ、それの何が悪いんだよ! 確かに僕は日陰者だ、生きてたって意味のない、世の中になんの利益も出してない取るに足らない人間だよ。でもな、そんな人間にも平等なのがマンガなんだよ! 僕はこのマンガに生きる希望をもらった。だから今まで生きてこられた。それの最終巻なんだぞ? それが読めれば僕にもう悔いはない。煮るなり焼くなり好きにしろよ。でもその前に僕を殺すって言うなら、僕は全力で抵抗するからな!」
気がつけば僕は叫んでいた。自分にこんな反逆の精神があるとは驚きである。二十四年生きてきて、初めての発見だった。
しかし言ってることが最高にカッコ悪いし、相手は話が通じなそうな強盗である。しかし。強盗は高笑いをしながら言った。
「はっはぁ、お前おもろいなぁ! 気に入ったわ、ほなお前が人質や。おい店主、あいつの初回限定版とかいうのん持ってこい」
鈴木のジイさんは振り返ると、レジの後ろの棚から二秒でそれを持ってきた。いや対応が早すぎるだろ、少しくらい間を持たせろよジイさん。
「はーん、これがその初回限定版か。よしこれ貰うわ。おいお前、付いてこい。これを燃やされたくなかったらな」
強盗は振り返ると、僕の初回限定版を持って颯爽と退店する。僕は意を決してその後を追う。強盗は細い路地を走り抜け、僕は見失わないように追従する。
町は夕刻。ビルも雲も自分さえも、オレンジ色に染まる夏の夕焼け。僕はその光の中、強盗を必死に追いかけた。あのマンガだけは、燃やさせはしないと心に決めて。
──────────
「ここまで来たらもう大丈夫やろなぁ」
どこをどう走ったのか、もうわからなくなった頃。急に強盗はその足を止め、細い路地の奥で僕に振り返った。ヘルメットのシールドはミラー加工がされているようで、その表情までは見えない。映っているのは呼吸困難で酸素を求めている自分の姿だった。
「おいお前、よう付いて来たな。そんなにコレが大事なんか」
「当たり、前だろ……それは僕の生きる、希望なんだ」
ぜぇぜぇ呼吸をしながら僕は言った。あれは僕の全てだ。あれを読まずして、死ぬのは絶対に避けなければならない。
「これ、どんなマンガなんや」
「神作、だ」
「はぁ? なに言うてんねん、お前」
「僕はな、自慢じゃないけど、数多くのマンガを読んできた。五千冊は下らないだろう。金がないから漫喫読みがメインだけどな。別にマンガの読破数を誇るつもりじゃないけど、とにかくたくさん読んでるんだ」
「はぁ、それで?」
「その中でも一番の作品だ。一番だ。誰が何と言おうと一番。それは譲れない」
「いや譲らんでええけど、どんな作品なんやって訊いてんねん」
次第に呼吸も整って来た。僕は早口で捲し立てる。好きな作品について語るのは、オタクの専売特許だから。
「主人公は、ひょんなことからある女の子と知り合うんだ。ヒロインは傍若無人な女の子でな、生きているうちに必ずやり遂げたいことがいくつかある。それは一見ふざけていることばかりだ。自作の船で航海に出たいとか、風船で空を飛んでみたいとか、警察とガチの『ケイドロ』をしてみたいとか。それで、ヒロインにある弱みを握られた主人公は、仕方なくそのヒロインに付き合うんだ。ひとつずつヒロインの希望を叶えていくなかで、いつしか主人公はヒロインに恋をする」
「ラブコメか?」
「まぁ、大まかなジャンルはそうだ。でもそれだけじゃない。『生きる』って壮大なテーマに真正面から挑んだ意欲作なんだ」
「人気あるんか?」
「一部の人間にだけな。だってそれ、エロマンガだからな」
そうなのだ。僕が愛してやまないこの作品『夏が終わるまでにしたい10のこと』はエロマンガなのだ。ほのかにエロいとかじゃあない。成人指定されたガチエロマンガだ。
エロマンガにはストーリーがないだって? 読んでから言ってくれ。僕はエロ、非エロ問わず様々なジャンルを網羅しているけれど、たとえこの『なつ
僕はそれを有らん限りの勢いで強盗に説明する。強盗から返って来た答えはシンプルだった。
……キモいな、あんた。
強盗はそう言うと、モスグリーンのロングコートを脱ぎ始めた。中身はシンプルな、黒いワンピース。極めて厚底のブーツを脱ぐと、持っていたカバンの中から華奢なサンダルとカンカン帽を取り出した。どちらの色も、黒だった。
そして強盗は、ついにヘルメットを脱いだ。そこから現れた顔を見て、僕は腰を抜かしそうになった。
艶やかな黒髪のショートボブ。病的なまでに白い肌。不釣り合いに赤い唇をニヤリと歪ませて、彼女は僕に言った。
「──あんた、キモいけど気に入ったわ。この夏が終わるまで、あんたはウチの人質な?」
【続】
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