ふぐの女房

秋月

ふぐの女房

 山口のほうに漁業を生業としている若者がいた。たいそう器量が整った若者だったが、彼が住む家の近くには同い年の若者はいなかった。若者には恋人がいなかったが、栄えた町まで行って女と遊ぶこともなかった。毎日が海に出て家に帰ることの繰り返しだった。


 ある日、若者は一匹のふぐを捕まえた。若者の器量がとてもいいので、ふぐは若者に一目ぼれした。そして自分の姿が急にみじめなものに思えてきた。こんなぶつぶつがある醜い肌では、あの若者の褐色の腕に触れることはかなわない。ああそれにしても、この若者はなんてきれいな目をしているのだろう。ぎょろりと飛び出た目とは違って、眼球は奥にあって瞳は透き通っている。そんな目で丸く膨らんだ身体を見られることが、ふぐには耐えきれなくなって、えいと渾身の力で跳ねて海に落ちると、そのまま若者の目が届かない海の深いところに消えてしまった。



 若者がふぐを釣り上げた日から一週間後、若者が漁から帰ると、家の前に若い女がいた。女はひどく疲れた様子で、どうか自分を休ませてくださいと若者に懇願した。

 若者は自分の寝床に女を寝かせ、自分にできることはないかと申し出たが、女は首を振り、しばらくじっとしていれば良くなりますからどうか私のことは気にしないで、あなたはご飯を食べて早く寝てしまってください、と言った。

 若者は女の言葉通りに夕食を食べることにした。今日釣った中で自分の食事のために持って帰ってきた魚をさばくとき、女がきゃっと甲高い声を上げた。大丈夫かと若者がたずねると、女は身体をぶるぶる震わせながら、大丈夫ですと答えた。包丁の音がするたびに自分の身が切られるように女は感じて、耳を塞ぎ、布団をかぶった。夕食を食べ終え、風呂に入ると、一日の労働によって若者は睡魔に襲われた。若者は床に横たわるとすぐに寝てしまった。


 朝、若者が目を覚ますと女はすっかり元気になっていた。若者のために、米を炊き、味噌汁まで作ってくれていた。若者の家には彼が取った魚があったが、女は料理に魚を使わなかった。そのことを若者が尋ねると、女はぶるりと震えて、魚が苦手なの、あのぬめぬめした感じ、鳥肌が立ってしまう、とこたえた。若者は女に朝食の礼を言い、漁に出た。


 若者が家に帰ると女は家にいた。女は夕食を用意して待っていたが、やはり魚は使われていなかった。主食がなくては明日の漁で十分な力が出せないと思った若者は、捕った魚をさばきだした。女に魚を食べるかと尋ねたが、女は首をぶるぶる振って断った。けれど昨日とは違って女は若者が魚をさばくところを見ていた。女は若者が調理した魚を食べなかったが、二人は一緒に食事をとった。今まで一人でご飯を食べていた若者は、女と一緒に食卓を囲むことに気晴らしを感じた。会話もせず黙々とご飯を食べているだけだったが、一人で食事をするよりもご飯が美味しいように感じた。それは女の料理が上手かったせいでもあるが。


 いつの間にか女は若者の家に居つくようになり、村のものからあれこれと噂されるようになった。町で水商売をやっていた女が流れ込んできたとか、不倫をした女が夫から逃げてきたとか、女は魚だという噂まであった。というのも、農家のおじさんが若者の家に米を届けに行ったとき、たまたま女に会ったそうなのだが、目はぎょろりと飛び出ていて、さらに生臭い匂いがしたそうだ。村の者は若者は漁をしているから、若者の服でも洗うところだったからそんな匂いがしたのだろうと言ったが、いやそれにしても強烈な匂いだったとおじさんは譲らなかった。


 女は魚をさばけるようになっていて、若者が帰ってくると食卓に二人分の食事が用意されるようになっていた。女は若者が捕った魚を美味しそうに食べ、若者は自分の捕った魚を美味しそうに食べる女を見て満足だった。村の人たちは若者から女の身元を聞き出そうとしたが、若者は女からここにくる以前のことを聞いたこともなかったし、問いただそうとも思わなかった。こうして女の身元をはっきりさせることもないまま、二人の生活は三年続いた。



 ある日、村に絹子という若い女が越してきた。村の人たちの間で絹子についてさまざまな噂が立ったが噂は根拠のないものばかりで、実際のところは街の喧騒に疲れた絹子が、若さゆえの身軽さで越してきただけのことだった。村の生活に飽きてしまえば、一年後でも絹子はいなくなってしまうだろう。

 あれこれ噂を立てる村の人たちは、実際に絹子を前にするとなにを話していいのか分からなくなり、絹子が元気よくこんにちはと言っても、絹子から逃げてしまうのである。絹子の挨拶を返したのは若者だけであった。海に向かう若者に、絹子は毎朝おはようと言う。若者はおはようとだけこたえて通り過ぎる。この小さなやりとりが絹子にとっての唯一の村の人との交流であり、自然に絹子は若者に頼るようになっていった。


 若者が家に戻るとすぐに外に出ていこうとするので、ご飯の支度をして待っていた女は呼び止める。すると、絹子さんが電球を換えられなくて困っているんだ、朝に取り換えると約束してしまったから、と言って絹子の家に向かった。そんなことが二三度あり、家に帰ってくるのが遅い日も何度かあった。

 女が絹子とのことを問いただすと、村で一人で暮らしているから助けてやらなくてはならないとはじめは言っていた若者も、しだいにぼろを出しはじめ、ついに絹子との関係を認めた。女は恨み言をぶつぶつ呟きながら、目には涙をためていた。若者はその目がぎょろりと飛び出ていることに気がつき、絹子の美しい目を恋しく思った。若者は家を飛び出して絹子の家に向かうと、絹子の家で夜を明かし、朝そのまま漁に行った。


 若者は絹子と一緒に暮らすことに決めると、元の家にもろもろの道具を取りに戻った。家に戻ると女は床に突っ伏してわんわん泣いていた。女が顔を上げると、若者は驚きのあまり叫んだ。

 涙に濡れた女の顔は人の顔をしていなかった。顔はもとの大きさの二倍にもふくれあがり、肌色の皮膚は下半分がつるりとした白に、上半分はグレーと黄色が混ざり合った色でぼつぼつとした斑点まであった。ぎょろりと飛び出た目が若者を見る。目と目が合ったとき、若者は恐ろしさのあまりもう一度叫んだ。

 女は若者に言った。私はあなたにいつの日か捕まえられたふぐです。あなたに恋をして人間となってあなたと一緒に暮らす日々はとても幸せでした。私は水に濡れると醜い姿に戻ってしまうようです。あなたと一緒にいるときはとても気をつけていたのに。それももう、どうでもいい。あなたはあの女のもとに行くのですね。あの女のことを私は一生恨みます。一生、恨んでみせます。女はそう言うと、腰を抜かしている若者の横を通り抜けて、家を出ていってしまった。


 女が家を出た三日後、絹子は魚の毒にあたって命を落とした。絹子が食べた魚があのふぐだったのか。それとも、食べたのは別の魚だったがふぐの呪いによって死んでしまったのか。はたまた、ふぐとは関係ないのか。実際のところは分からない。

 ただ一つ確かに言えることは、若者と呼べるほど若くなくなった男は今でも漁業を生業としていて、昔女と一緒に暮らした家に今も一人で住んでいるということである。

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ふぐの女房 秋月 @m-shion

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