元戦艦大和乗組員の一生涯

@bingoyotaro

全1話

はじめに


私がなぜこれを書いたかというと、いつの日か誰かがこれを読んで将来の日本のことを予言した人がいたのだということを知って欲しいからである。もし、このサイトの運営が何十年も続けば、そういうこともあるかも知れない。自分をメンデルのような偉人に比較するのはおこがましいが、メンデルの遺伝の法則は彼の存命中はその意味が正しく理解されることはなかった。それと同じことが自分にも起きてくれるのではないか、という淡い期待を抱いてこれを書いた。


私の小さい頃からの夢は作家になることであった。しかし、今70歳に近づこうとして、それは所詮夢に過ぎなかったことが明らかになりつつある。だが、このままこの世から姿を消してしまうのでは残念で仕方がない。そこで、せめて自分の予想について話をしてみたくなったのである。


それは日本がこれから直面するであろう(と私が予測する)第3の開国に関する話だ。今からおよそ300年ほど前、英国でディビッド・ヒュームという哲学者が活躍していた。彼は1770年頃、60歳の時に「フランス革命は不可避」と主張している。そして、それからしばらく生き、1777年に67歳で没している。

果たせるかな彼の予言は的中し、フランス革命が1789年に起きた。それは彼が予言をしてから20年後、そして彼がこの世を去ってから約10年後のことであった。

ヒュームは歴史に造詣が深く、『英国史』という歴史書も著しているが、彼はそうした歴史を考察し、かつフランスのその当時の状況を観察して、「今後近い将来フランス革命が起きるのは間違いない」と考えたのである。

この下地になったのは言うまでもなく1645年に起きた英国の清教徒革命である。この時革命軍はチャールズ1世の首を刎ねている。

ヒュームはこうした英国の過去の歴史を検討した上で、その状況と現在のフランスの状況が酷似していることを見て、上記のような予測をしたのだろう。


ヒュームは会話の名手で、フランスの社交界では「ボンヌ・ディビッド(お人好しのディビッド)」というあだ名を付けられるほど人気があった(ヒュームは若い頃フランス留学していてフランス語も得意である)。

「ホホホ、まぁ、ディビッドさんたら、本当に冗談がお上手ね」などとフランスのサロンに集まる上流階級の奥様方からもてはやされたであろうことは想像に難くない。

しかし、ヒュームはフランスから帰国後上記のような予言をしているのである。表面上の人の良さそうな外見とは裏腹に彼は冷徹にフランスの今後の状況を見抜いていたのだ。

そして、フランス革命が起きるやいなや、上流階級にいた人達が次々に人民裁判にかけられ、国王や王妃はもちろんのこと、その周辺にいた貴族階級の人達も断頭台の露と消えていった。


米国の有名な投資家ジム・ロジャーズはネット上で次のように語っている。


『かつて「エコノミック・アニマル」と称され、一気呵成に経済成長を遂げた戦後の栄光は、今や見る影もない。国が抱える、月まで届きそうなほど積み上がった負債。先進国のなかで最も深刻な少子高齢化。新たな産業が育たず、イノベーションが生まれる土壌がない。平成以来続いている「失われた30年」は終わる気配がない。「一流国」から「二流国」へ転落したかのように思われるこの国に、逆境の嵐が吹き荒れている。円安だ。かつて安倍政権が推し進めた経済政策・アベノミクスの「第一の矢」である金融緩和が尾を引き、日本銀行は紙幣を際限なく刷り続けている。これが昨今の円安を誘引した。』


彼はまたこうも言っている。

「私がもし日本の若者で英語がしゃべれたら日本を逃げ出すことを考える。そうでないならカラシニコフを用意するだろう。」

カラシニコフというのはAK-47とも呼ばれるロシア製の機関銃のことである。要するにこのままでは日本は経済が破綻し内戦状態が起きても不思議ではないというのだ。


また投資家で経済評論家の藤巻健史も同じくネット上で次のように語る。

『日銀は長期国債を大量に保有しているため、金利が少しでも上がれば(=国債価格の下落)、日銀は巨額な含み損を抱える。中央銀行の信用にかかわる異常事態だ。中央銀行が信用を失えばどうなるか。通貨の信用が失われる、すなわち日本円の紙くず化という最悪の事態も考えられる。』


こうした人達が予測していることが当たらなければいいが、しかし、大なり小なり日本経済が行き詰まるという予測はほぼ当たっているのではないか。


なぜ、そうなったのだろう?

私はその原因は日本の閉鎖性にあると思う。日本はもっと世界に向けて門戸開放を行って世界と公平に競争を行うべきだった。世界は広い。その荒波の中でもまれることで真の競争力を身につけ、その中で国の発展を図るようにするべきであった。

しかし、日本はそれを恐れた。政界、官界、経済界、そして太鼓持ちの学界がグルになって外国からの物は日本に入れさせないようにし、日本から輸出だけができるようにした。

まったく不公正な貿易の仕方であったが、米国がこれを認めてくれた。日本が中国やソ連に対する防波堤になると考えたからである。おかげで日本はやりたい放題にお金を稼ぎまくった。


今から4~50年前の1970年代のことであるが、日本では「アメリカというのはつまらない国だ。あんな大きな自動車ばかり作ってガソリンを大量消費している。日本の自動車の方がよほど燃費がよくて優秀だし、家電製品でも故障がなくて高い品質のものを生産している」といったことがあちこちで語られていた。

70年代はオイルショックがあった頃で、世界や日本の石油価格が急騰した。

米国はベトナム戦争の後遺症でなかなか経済的に立ち直れないでいたのもこの頃である。


30年前の太平洋戦争で日本は米国に負けたが、日本は立派に立ち直ったのだという見方がされていたのだ。確かにあの頃は日本の輸出も好調だったし、世界でも有数の経済大国になっていた。だが、80年代に入ってバブル経済に沸いた日本もやがてバブルがはじけて失速していった。70年代に「戦争はもう終わった。立派いに高度経済成長を遂げたし、これで日本は安泰だ。米国など恐れるに足らず」という風潮が見られたが、それは大きな誤りである。日本が日清戦争をしたのも、日露戦争をしたのも、そして第一次世界大戦や第二次世界大戦を戦ったのも、大きな世界史の流れの中で見ればほんとうにちっぽけな出来事に過ぎない。


1300年もの長きにわたって世界の動きからほぼ隔絶されたような暮らしをしてきた島国日本が、本当の荒波にもまれるのはいよいよこれからなのである。世界地図を見れば分かることだが、日本は本当に小さい小さい島国である。瀬戸内海の島々を思い浮かべてみてほしい。あの中のいずれかの島が日本を席巻するような力を持つようになるだろうか?たとえ瞬間的に大きな力を持つようなことがあったとしても、日本本土を完全にコントロールすることはできないだろう。やはり、通常の場合、日本本土がそうした小さい島をコントロールするのが自然の成り行きというものである。このことが世界地図の場合にも当てはまる。日本のような資源に乏しく人口も少ない小さな国が、どんなに頑張ったところで世界を支配できるようになるはずがない。そもそも世界の大国と対等にやっていこうとすること自体無理がある。


これから、日本はますます世界の強烈な荒波に洗われるようになるのは間違いない。1853年に米国太平洋艦隊のペリー提督が来日したことがきっかけとなって開国をしたが、これを第1の日本の開国とすれば、第2の開国が太平洋戦争に負けて米国などの連合国の進駐軍が日本を占領した時期だと私は思う。しかし、これらはまだ序の口に過ぎない。今や第3の開国の始まりが迫っている。その際のキーワードになるのが、「日本円の没落」と「インターネットの発達」であろう。


日本は長年鎖国政策を続けてきた。そして、その態度は今も基本的に変わっていない。鎖国の方が時の為政者にとっては国を治め易い。上層部の階級の人達にしてみれば、自分達よりも優秀な人種が国内に入ってくるということは縄張りを荒らされるようなもので絶対に容認できない。徳川幕府も外国船が日本近海に出没するようになった頃、外国船打払令を出すなど、徹底して外国の勢力が日本に及ぶのを防ごうとしている。


これは現代でもプロ野球の世界で見られる。日本のプロ野球では外国人枠というのが設けられていて、1つの試合に何人もの外国人選手を出場させることはできない決まりになっている。もし、この制限を取り払ってしまえば、あっという間に外国人選手ばかりになってしまうのは間違いない。

このことからいかに日本に本当の意味での国際的競争力がないかがわかろうとういうものである。


日本はグローバルスタンダートでやっていくように変わらなければならなかったが、それをしなかった。というかできなかったのだ。


世界は白人が支配している。世界各国にたくさんの国があり、いかにもそれぞれが独立してやっているように見えるかも知れないが、実は今でも英国、米国、フランス、スペイン、ポルトガルといった国々が世界の大半を支配し動かしている。


特に世界の政治で主導権を握っているのは今も英国だ。今回のウクライナ紛争でそのことが鮮明になったのは英国のジョンソン首相(当時)の動きであった。

彼はロシアがキーウに侵攻した直後からただちにウクライナのゼレンスキー大統領と面談し、英国が全面的にこの侵略戦争に対抗するという意思を示した。

彼は武器弾薬を提供することはもちろんのこと、ウクライナ兵を英国で訓練するとまで申し出ている。そしてその約束は履行されている。

ジョンソン首相がこうした動きを見せたのは、国連も米国も、そしてフランスやドイツもまったく軍事的支援については態度を決めかねていた頃である。せいぜい経済的制裁でお茶を濁そうとしていたといっても過言ではない。

にもかかわらず、さすがイギリス外交の伝統というのであろうか、英国単独で国際外交を仕切るのは見事としか言いようがない。

「おい、露助、俺の裏庭で何をゴソゴソしてやがる。とっとっと消えせろ!」


この動きに対して米国もそれに追随する形を取った。

米国は英国の元植民地であったが18世紀末に英国との戦争に勝利して独立を勝ち取っている。言うなれば、元々両国は親子関係にあり米国が反抗息子のようなものである。

「仕方ないな、親父さんの言うことなら認めてあげなくちゃな」というところであろうか。

なぜ、ここまで英国はロシアに対して強気に出ることができるのか?

それは、19世紀半ばのクリミア戦争など、何度も英国がロシアを打ち破ってきたからである。

最近でも第二次世界大戦の時には、スターリンを支援してドイツ軍の猛攻をはねのける支援をしている。チャーチルがソ連を支援しなかったらソ連の運命もどうなっていたか分からない。



遺品


「何も買っていない!?」

先日93歳で亡くなった父親の遺品を整理しながら私は思わずそう呟いていた。


生前の父の口癖は、

「俺は国のためにボロ雑巾のようにこき使われた。100歳まで長生きして年金を使い尽くしてやる。」

「世間で下級役人の貧乏人と馬鹿にされた。だから、このうっぷんを晴らさずに死ねるか。」

であった。

だから、私もてっきりそうであろうと思っていた。


確かに、調べていくと75歳前後までは好きなことにお金を使い、さまざまなものを購入していたようだ。

大工仕事が好きだったし、手先の器用さを活かして工芸品もよく作っていた。

そのためのノミやかんななどの小道具、あるいはノコギリや砥石の電動工具、また塗料やニスなどの材料も死後大量に残っていた。

巻物、額縁に入れる書や絵画、書道の硯や筆類、そして篆刻用の道具もあった。

農作業用の耕運機や電動草刈り機なども安物ではなくかなり値の張るものを揃えていた。

これらは近所の農家の人達が、父の死後、「是非譲っていただきたい」と言って来たぐらい良い物であった。

もちろん、草刈り用の鎌や畑を耕すための鍬や鋤なども数え切れないほどあった。


また、テレビ、ラジオ、オーディオ機器、エアコン、冷蔵庫、調理家電といった電化製品や自動車、そして服飾類にも目がなく、クラウンなどの高級車や高価な背広なども購入していた。

パソコン類も使い方も分からないくせにデスクトップパソコンは言うに及ばずノートパソコンやプリンターまで購入していた。

また、スマホも持っていたが、父が通話以外の目的でそれを使用していたとは考えられない。ガラケーで十分だったはずなのに、何のためにあんな高い通信費を支払っていたのか理解に苦しむ。


その他にも囲碁や将棋の道具、たくさんの扇風機や暖房器具、一人暮らしでこれほどいるのかと思うほどの大量の布団や毛布などの寝具類、座布団、食器の数々・・・。


屋敷が広く、平屋の母屋だけでも延べ床面積が68坪あり、それに加えて2階建ての納屋兼倉庫まで別棟としてあった(70坪くらいの大きさ)。

最終的に整理屋に頼んですべて処分してもらったが、2トンラックで7~8台分ぐらいの量となった。

そのための出費も軽く50万円を超えた。


だが、父が行っていたほぼいずれの品々の購入も20年近く前までのことであり、そうした購入品のほとんどが古くなったものになっていた。

そして、何かを新たに買い換えたり、買い足したりしたような形跡がまったく見当たらない。

自動車も最後は軽四の中古であった。

鋤や鍬、そして鎌などは何年も手入れをしていない状態になっていて、泥まみれで赤い錆がびっしりとその周りに付着していた。

確かに、父が亡くなる前に家を新築しているので、それが大きな出費になったと言えなくもないが、いったい父は何に金を使っていたのか?



父は57歳まで警察官をしていた。

その前は兵隊として出征し、戦艦大和の工作兵(少年兵)をしていた。

警察官を57歳で退職し、日本道路公団の関連会社で嘱託の仕事をして65歳でまったく無職になった。

しかし、父の快進撃はここから始まる。

今は年金の支給は原則65歳からだが、父の頃は退職と同時に年金が出た。退職金も3000万円近いものが支給された。

さだかではないが、当時は退職金が税金の対象にはならかったと私は記憶している。

そのうち、1000万円ほどは住宅ローンの残高の支払いに消えたが、手元に2000万円が丸々残った。

しかも、彼は兵士として戦争に3年間出征していたため、年金の計算では軍人の場合1年間が3年間の在職期間として計算される。

父は警察官として37年間勤務し、それに軍人恩給が9年間分加算されるため、合計46年間公務員をしたことになる。

そのため、月額35万円以上という高額の年金が支給されることになった。

また、その頃父の養父が亡くなり、父は一人息子であったためその家と不動産をそのまますべて相続した。

そして、それまで住んでいた家を貸家にして、養父の家に住むことになった。

これによって家賃や地代収入が月に16~7万円入ってくる。

さらに、養母が同居した。養母は元学校の教師であったため、恩給が月額15万円支給される。加えて妻、すなわち、私の母であるが、父の妻にも国民年金などが支給される。

これらを合計すると、毎月何も仕事をしないのに7~80万円前後のお金が入ってくる。

無論この金額がそのまま手元に残るわけではなく税金などが差し引かれる。

しかし、住宅ローンの支払いがなく、子供に教育費もかからなず、何も無理な出費をしなくていい老人にとってこの金額は大変な金額になる。

父の幸運はまだ続いた。

彼の姉が亡くなったのだが、子供がいなかった。

亭主に先立たれその遺産や年金を彼女が引き継いでいたのだが、貯め上手というか、彼女の死後に1億円近い財産が残っていた。

それを親類などで分けたのであるが、父の手元にも3000万円近いお金が入ってきた。

父はそのお金で70歳を過ぎてから養父から相続した古い家を壊して新たに家を建てた。

世間は「あんな年寄りになってから、どうやって新築のためのお金を用意したのかね」などと噂をした。


私が子供の頃など、何かを父にねだろうものなら、

「おまえはすぐにものを欲しがる。」

「辛抱が足りない。」

「人のものをうらやましがるな。」

などと説教した。

また、電気の使い方にもうるさかった。

使っていない部屋の照明はすぐに切っておかないと機嫌が悪くなった。

戸を開けっ放しにしておくことでさえ嫌がった。

冬の時などすぐに戻ってくるのだから戸を開けたままにしておいてもよさそうなものであるが、寒気が入ってくると暖房費がかかるのが気に入らないのである。


だが、金が入ってくるようになると父の態度は豹変した。

エアコンはいつもオンにしたまま。

冬でも夏でもこまめに電源を切って電気代を節約するなどということはまったくなかった。

買い物に出かけて家を留守にするときでさえ、エアコンは動いていた。

「家に帰った時に寒いから/暑いから」というのが彼の言い分であった。

しかも、家の中のふすまや障子、そしてドアなども「開け閉めが面倒くさい。時間の無駄だ」といつも開けっ放しであった。

電気カミソリなどまったく内部の掃除をしない。

剃ったひげが中にそのままたまり、動かなくなったらすぐに新しいものに買い換えていた。

かつては「ものを粗末にするな。大事に使え」などと言っていた人と同じ人物とは思えないほどだった。


昔は「他人が持っているものをうらやましがるな」などと言っていたのに、他人が持っているもので何か面白そうなものがあるとすぐに飛びついた。

電動自転車などもその1つであった。

しばらく面白がって乗っていたが、充電するのが面倒くさくなり、大して使い道もないのでしばらくすると人にあげてしまった。

お掃除ロボットも買った。家の中を自動で掃除してくれるという家電製品である。

しかし、ゴミがよく詰まるし、ソファやベッドの下に潜り込んで動かなくなってしまうなど、普通の掃除機の方が使いやすいということになり、最終的に廃棄処分された。

自動按摩機や肩こりがとれるという磁気入りネックレスなども購入した。

テレビの通販番組で宣伝文句に乗せられて水まき用のホースや草刈り機を買い求めた。

読みもしない本や見もしないDVDの映画をしきりに買い求めた。

背広などの衣服やブランドもののバッグや財布なども今更身につけて出かける場所もないのに買いそろえていった。

かつて父が力説していた、我慢というものはどこにも見られなかった。

まさに衝動買いの連続であった。

私の子供時代に父が言っていたことは、子供の成長のためを思って人の世にある不変の真理を教えていたのではなく、単なる八つ当たりであったのだと私はこの時悟った。

父が私に説教をしていたのは、要するに自分が好きなものを買うことができないという境遇に我慢がならなかっただけのことであった。

人間の本質は境遇が変わった時に現れる。


こうしてお金をたっぷり使えて、何も言うことのない、順調満帆に見えた父の後半生であったが、75歳を過ぎた頃からこの状況に変化が起き出した。

まず、心臓の血管の血流が悪くなりだし、発作を起こすようになった。

カテーテルの手術を2回行い、最終的にペースメーカーを埋め込むことになった。

これ以後父の元気は口だけになり出した。

身体の動きがついていかなくなったのである。

家で寝ていることが多くなった。

相変わらず年金の支給日が近づくと「今度は何を買おうかな」などと言ってはいるものの、実際には何も買うことはなかった。

大きい車に乗るのが長年の夢であり、まだその夢をクラウンの購入によって実現したのであるが、70歳を過ぎる頃からその大きさを持て余すようになった。

しょっちゅう車を壁などにぶつけたり、カーブを曲がりきれなくてガードレールをこすったりするようになった。

あげく知り合いの人を乗せている時に、クラウンを急発進させてしまい危うくコンビニの店先に突っ込みそうになった。

父はもっと小型の車に買い換えた。

そして最終的に軽四に乗るようになり、ずっとその軽四を愛用し続けた。

父は次第に近所に住む娘、つまり私の妹に頼るようになった。

また、寺にしきりに出入りするようになり、寄付や奉公をして寺の世話役を無償で買って出た。

死ぬのが怖かったのではないかと思う。

誰しも体力が落ちてくれば気力も落ちてくる。

仏様や何かにすがらなくては生きていけなくなるのは必定であろう。


平安時代の大貴族、藤原道長は、「この世をば、我が世とぞ思う望月の、欠けたることも無しと思えば」とうそぶいた。

しかし、その彼も晩年は宇治の平等院鳳凰堂を建立し、最後は自分の身体を仏像に糸で結びつけ、念仏を唱えて死んでいった。


死を嫌った父は寺の発展のために尽力したが、そのおかげで寺の総代にも選ばれた。

何百人もの門徒衆の前で挨拶ができるようになり、父は誇らしげであった。

警察官時代はまったく出世とは無縁の父であったが、このことで少しは彼の名誉欲も満たされたのではないだろうか。

また、大和の体験を語る講演会にも講師として招待された。

新聞記事やテレビのニュースにもなった。

雑誌にも特集が組まれるほどだった。

父は少しばかり有名人になったのである。

父の葬儀には読売新聞や毎日新聞の地方支局の記者が取材に来るほどであったし、テレビのニュースでも父の死が報じられた。


父は心底「死」という概念を嫌っていた。

88歳になった時は「米寿になった、米寿になった」と喜んでいた。

あの戦争を生き延びることができたのがよほど嬉しかったのか、大和に乗艦していたことも70歳を過ぎる頃まで口にしたことはなかった。

私も彼の口から具体的な戦争体験を聞いたことはほとんどない。

しゃべりたくなかったのだろう。

私の叔父の例だが、戦時中彼は徴兵されて中国大陸に渡った。

しかし、フィリピンで激戦が続く中、兵員不足が起きて、台湾経由でレイテ島に輸送されることになった。

だが、彼の乗っていた輸送船が米海軍の潜水艦による魚雷攻撃を受けて沈没した。

しかし、彼は救助されて助かった。

彼はそのような体験を戦時中2回もしている。

「それがどうした?」と言われる人も多いだろうが、輸送船に魚雷が命中したら、ものの数分ですぐに海中に沈んでしまう。

しかも、船内は奴隷船よりもひどいすし詰め状態で寝返りを打つのにも難儀するくらいであった。

おまけに南方独特の猛烈な湿気と暑さが乗員を苦しめた。

甲板に出れば少しは涼しいのだが、やはり上官達がそういう場所は占有している。

魚雷攻撃を受けたら船内にいる人達は避難する間もなくまず助からない。

3000人程度の兵士を運んでいる輸送船が撃沈され、ほとんど全員が即死または溺死したという例もあるくらいだ。

だが、叔父はこうした話を生前一切しなかった。私は、彼の死後、そうした事実のあったことを彼の身内からの話で知った。

また、もう一人の叔父は潜水艦乗りだったが無事生き延びた。

詳しくは知らないが、戦時中潜水艦の消耗率は8割以上ではなかったか。

しかし、彼もまったく戦争のことは語らずに85歳で亡くなった。

また、私の義父、つまり私の妻の父親は中国大陸に二等兵で出征し、栄養失調になって帰ってきた。

痩せ細って帰国したその姿を見て、義父の母親は「半年もたないだろう」と思ったという。

その後何とか持ち直すことはできたが、歯が弱ってしまい、若いうちから入れ歯になってしまった。

彼も戦争体験は70歳を過ぎる頃までしなかった。

亡くなる数年前頃になってやっと中国大陸で空腹感にさいなまされた時の苦しさをぽつりぽつりと語っていた。

「中国人のおばあさんが親切だった、おにぎりを恵んでくれた。しかし、上官に見つかると殴られるので隠れてこっそり食べた」とポツリポツリ語っていた。

この人達は平時であれば、農業や大工、あるいは漁師といった普通の仕事をしていたはずの人達であった。

当時の日本国民のほとんどすべてが農業で生きていた。

本来「銃で敵を撃ち殺せ、銃剣で敵を突き刺せ」などと命令されても、とてもそんなことなどできるような人達ではなかった。

しかし、当時は徴兵制度というものがあった。

日本の男子は一定年齢に達すると徴兵検査を受けなくてはならない。

そして、徴兵令状がある日突然やってくる。

いわゆる赤紙である。

この赤紙1枚で普通の日常生活から切り離され、軍隊という理不尽な世界へと狩り出されていく。

(しかし、こうして無理矢理農家の次男三男を戦場へと引き出したことが、後で大きなツケになって日本社会に跳ね返ってくる。これについては後述する。)

そして、元々人殺しなどできないようなおとなしい若者達を、鉄拳制裁や尻バットなどのリンチまがいの「指導」によって無理矢理冷酷な殺人マシンに仕立て上げていった。


私の好きな作家に北杜夫がいる。私の父と同じ年に生まれている(1927年)。

彼は、言わずと知れたアララギ派の大歌人で医師の斎藤茂吉の次男である。

彼の『どくとるマンボウ青春期』は私も何度か読んだが、それによると戦時中、旧制高校生であった彼は長野県の松本市で寮生活をしている。

苦労をしたと書いているのだが、どんな苦労かと言えば食糧難程度のことである。

「自炊をしなくてはならなくなり、お釜に入れる水加減の調節が難しかった」などと書いている。

彼はお金持ちのお坊ちゃまであり、旧制高校から大学に進学すれば兵役は免除される。

(もっとも1943年の学徒出陣で大学生も兵隊にとられることになったが。)

北杜夫の場合、勤労奉仕で塹壕掘りの作業をすることもあったらしいが、私の父の苦労に比べればまるで軽い話だ。

生まれる場所が違うとこれほどまでもその後の人生が違うのか。


父は、17、8歳という多感な時期に戦場という非情の世界に身を投じて、ついさっきまで雑談をしていた同僚の兵士が敵の銃弾に当たって粉々に砕け散っていく様を目の当たりにしている。

映画や小説の世界ではない。

戦争末期になると父のような海兵が乗船するような軍艦はほとんどなく、あったとしても燃料がなくて航行不能になっていた。

いきおい、父は呉市内の守備隊に配属された。

敵の攻撃機を打ち落とす機関銃要員である。

眼前に敵機が迫ってきて、パイロットの顔が見えるほどだったという。

必死で迎撃するのだが、何しろ時速600kmを超えて急降下してくる敵機である。

全然命中しない。

それにこの頃は日本の工業製品の品質も最悪であった。

熟練工は徴兵されて日本国内にいなくなる。

その空席を埋めたのは女子学生やまだ年端もいかない少年達であった。

それが爆弾や銃弾、果ては空母の建造にまで携わるのであるから、ろくなものができるわけがない。

私の母も当時勤労奉仕の女学生として銃弾の製造工場で働いていた。

毎日軍歌を歌いながら工場に行き来していたという。

「八紘一宇(はっこういちう、天下を一つの家のようにするという意味)」だの、「七生報国(しちしょうほうこく、何度生まれ変わっても国のために尽力するという意味)」だの、かけ声だけは勇ましいが、内容はまったく乏しい。

彼女は作っていた銃弾のことについて「不良品が多くてね。全然使い物にならなかったそうよ」と言っていた。

そんな欠陥銃弾を父は大空めがけて撃っていた。


父は警察官になって銃の射撃訓練を受けているが、「ピストルの弾は20m離れた標的に命中させることは難しい。まして走って逃げている犯人には無理な注文だ」と語っていた。

父のように訓練を受けた人であっても、銃弾というものは当てることが難しいものなのである。


飛行機のように高速で移動するものに対して、銃撃というものがどんなに難しいことか、これで察しがつこうというものであろう。

滅多に当たることがない、そして当たっても破裂しない、そんな銃弾で高速性に優れ、高性能な大馬力のエンジンを搭載し、高品質な銃弾で武装し、高オクタン価の航空燃料で飛来する米軍機を迎え撃つ。

敵はこれでもかというほど機体やガソリンタンクに防御対策を施している上に、片翼だけで12.8mm機銃を3~4門装備している。

両翼合わせて6~8門という重武装である。

パッ、パッ、パッと火花のようなものが翼で光ったと思った次の瞬間、迎撃する対空砲火部隊の周辺が木っ端みじんになり、一瞬にして何名もの兵士の命が奪われていく。

12.8mmの銃弾の破壊力は凄まじい。

人間の身体など1発でも当たれば粉々になってしまうし、少々の鉄製防弾板など軽く貫通してしまう。

また、米機の複数の機関銃は、それぞれが微妙に異なる方向に発射されるように較正されているので(ただし、これは当たり前の話で米軍機だけの特徴ではないが)、1カ所だけに集中的に銃弾が来るのではなく、散弾銃のように照準器で狙った周辺部が根こそぎやられる。

狙われたら最後なのである。

父は「敵が爆弾を落とした瞬間を狙ってよけた」と武勇伝を語っていたが、これはどうも眉唾もののような気がする。


ともあれ、こうした話を父がするようになったのはずっと後年のことであり、彼の若い頃はほとんど聞いたことがなかった。

よほど怖かったのだろうと思う。

父は時々大声を上げて駆け出すようなことがあった。

どうしてそんなことをするのか理由が分からなかったが、湾岸戦争に出征した米軍兵士が帰国してPTSD(心的外傷後ストレス障害)に悩まされているという記事を読み、その理由が分かったような気がした。

父の心の中に昔のむごい体験がフラッシュバックのように浮かぶことがあったのではないだろうか。


父の生への執着心はこうした戦争体験があるからではないか。

北杜夫など晩年「死にたい。死にたい」と漏らしていたが、若い時の体験の違いがこれをもたらしたと言えなくもない。

『軍艦長門の生涯』などの作品がある作家の阿川弘之は北杜夫と親交があり、対談などをしているが、阿川は北杜夫ほどの弱気な態度は見られない。

彼は筋金入りの元海軍将校であったし、死を恐れないという態度は終生変わらなかった。

しかし、彼に己の命を粗末するという態度はみじんも見られなかった。

また、代表作『遙かなインパール』の伊藤桂一(中国大陸で戦った)や『レイテ戦記』の大岡昇平(フィリピンで戦った)なども長生きをしたが、最後まで強気の姿勢は変わらなかった。

「何としてでも戦場で起きたことを後世に伝えたい」という使命感のようなものがあった。

特に大岡の場合など国家権力に対する憎悪のようなものさえ持っていた。

「せっかく生き延びることができたのに、この命を粗末にしてはいけない」という思いが感じられる。

死と隣り合わせの絶体絶命の修羅場を生き延びた人は、やはり根性が違うのだろう。

彼らが全員「これだけお国のためにこき使われたのだから、軍人恩給を長くもらって良い思いをしなければ大損だ」という意識があったかどうかは分からないが、少なくとも他の似たような境遇にある旧軍人の人達はそうであろうと、私の父の例から推察できる。



ともあれ、弱気になった父ではあったが、75歳を過ぎても町内会や敬老会に湯沸かし器やホワイトボード、高いものでは大型テレビ、そしてゲートボール用品などの寄付をしていた。

ちょっとした名士気取りであった。

父が現役であった頃は、父の金遣いについて小言をしょっちゅう言っていた妻(私の母)であったが、この頃になるともう何も言わなくなっていた。

父の好きなようにさせた。


70歳前ぐらいまでは、町会議員に立候補してはどうかと薦める声も多かった。


親戚の結婚式や祝い事にこまめに顔を出し、祝儀を配っていた。

また、葬儀や法事などの仏事にも出席した。

父の葬儀の時に「お父さんには大変お世話になりました」と、私が顔もよく知らないような遠縁の人から挨拶をもらった時にはびっくりしたほどであった。


要するに父は「俺は長生きして年金を使い尽くしてやる」と豪語し続けていたものの、内容は周囲にお金を配るだけの生活になっていたのだ。

また、養母が亡くなり、その年金も入ってこなくなった。

父と母だけの生活になったが、だんだん身体が思うように動かせなくなる。

いきおい、近所に住む娘に日常の細々した仕事を頼まざるを得ない。

彼女はパート勤めも辞めて、毎日のように父母のところに通うようになった。

掃除、洗濯、料理など、やることはたくさんある。

当然、それなりのお金を娘に支払わなければならない。

父の自由になるお金が相対的に減っていった。

その内に妻がなくなり、その年金も消えた。

だが、生活態度は変わらず、出費は相変わらず多いので、持っていた貸家も手放さざるを得なくなった。

不動産も処分し始めた。

最後は毎月35万円の年金だけになってしまった。

その内から税金や介護保険なども差し引かれるので、実収入はもっと減る。


これが父の身の回りで75歳以後父の購入物が増えなかったことの主たる理由であった。

口だけは達者であったが、もう何かを自分の楽しみのために使うという元気はなくなっていた。

父は75歳以後93歳で大往生を遂げるまでそのまま18年間を生きた。

ほとんど苦しむこともなく、病院のベッドに3日間寝ただけで眠るように亡くなった。

一見すると何のための長生きだったのかという気もする。

人に金を配るだけで純粋に自分自身の娯楽のためにお金を使うわけではない。

だが、父は人にありがたがられることで己の現世における存在感を確かめることができた。

そこに充実感を得ていたのだろう。


人は社会と完全に断絶して生きていくことはできない。

父は57歳までは厳しい仕事に耐える日々であったが、その後37年間はほぼ毎日遊んで生きた。

しかも自由になるお金はたっぷりあった。

前半生と後半生を天秤にかけてみると、不思議に収支決算の合った人生ではなかろうか。


特筆すべきは、父は地味に細々と生きたのではないということであろう。

むしろどちらかと言えば派手な人生であったと思う。

近所の知り合いに電話をかけて焼き肉などを食べに出かけるということはしょっちゅうあった。

当然父がおごった。

相手も断りたいこともあっただろうが、「まぁ、お金を出さなくていいのならいいか」と自分を納得させて父に付き合ってくれたのだろう。

こうした世間様の行動には感謝しないといけない。



大和に乗艦するまで


父の前半生はあまり冴えたものではなかった。

彼の実父は、つまり私の実の祖父は、若い時は羽振りが良かった。

農村部に暮らしていたとは言え、当時としては珍しかったトラックを購入し、山の木を切り出してトラックに乗せ、街に売りに出かけて一儲けをした。

とりわけ1920年頃は欧州で起きた第一次世界大戦のため、日本は軍需景気に湧いていた。

今は外材に押されて日本の山林をほしがる人はほとんどいないし、持っていたところで固定資産税を取られるばかりで全然儲けにはならない。

しかし、あの当時は国産の木材に需要があった。

だが、1929年に米国ニューヨークのウォール街で始まった株の大暴落によって世界恐慌が起こり、日本もその余波をかぶって不況のどん底に落ち込んだ。

東北の農村部では幼い女の子が東京などの都会に身売りされて行く事例が後を絶たなかった。

都市部で工場労働者として働いていた人達は失業し、故郷の親戚を頼って都落ちして行った。

今と違い、失業保険とか生活保護といった救済策はなかった。

貯金をしておけばいいと言っても、日々の生活がやっとと言う程度の給料しかもらえなかった。

無論、労働組合や労働者の団結権などはまったく認められていない。

だから、農村に戻って行くしか他に生きる手立てがなかったのである。

昔の民法によれば、個人に権利は認めておらず、「家」というものが重視されていた。

そして、「家」の主、すなわち長男がすべてを相続する仕組みになっていた。

女子はもちろん、次男三男にも何の相続権もない。

だが、その代わり、いざというときには「家」が一族の面倒を見るということになっていたのである。

そこで、失業者は「家」を目指すことになる。

しかし、彼らが帰省すると言っても鉄道などの交通手段を利用するだけの金もなく、ただひたすら着の身着のままで歩き、野宿をしながら故郷を目指すしかなかった。

そうした人々の群れが延々と地方に向かう街道沿いで見られたという。


やっとの思いで故郷に帰っても、そこも不況のまっただ中にあるわけだから食事を少し恵んでもらえれば上等なぐらいで、寝るところは家の軒下や馬小屋くらいしかなかった。

これがわずか100年程前の日本の現実であった。

また、東京でも第一次世界大戦後の軍縮の流れの中で失業した軍人も多かった。

軍人時代に支給されたコートを着て、生命保険のセールスをして歩く中年の男性が多く見られるようになった。


このような情勢の中、木材需要もなくなり、父の実父も落ちぶれて金に窮することになった。

羽振りのよい時にもう少し不動産など買ったり、貸家を建てたりして安定した資産を増やしておけばよかったようなものだが、「飲む、打つ、買う」の三拍子で派手な生活をしてしまい、その癖が最後まで抜けきらなかった。

とことん金を使い尽くしてしまっていた。

彼には子供が3人いたが、私の父が3番目として生まれる頃には、もう父を養うだけの資力が家になかった。

そこで、父の実父は父を彼の弟のところに養子に出すことにした。

親戚の中には、「養子にもらったのだから、中学校だけは通わせてやれ」と養父に忠告する人もいたが、養父は聞く耳をもたなかった。

養父は若いときに当時日本の植民地であった朝鮮半島に渡って警察官をしていた。

あの当時は5年間警察官をするとそれなりに恩給が出た。

25歳くらいからその恩給で養父は暮らしていたのだ。

後に学校の教員をしていた女性、つまり父の養母となる人と結婚している。

養父はお金を使うのを嫌がった。

一生懸命お金を貯め込み、土地を買ったりするのが好きだった。

いわゆる握りであったのだ。

彼にとっては、父を養子にしたものの、中学校に通わせるというのは彼の金銭感覚からすると肌に合わないことであった。

少し後のことになるが、こうしてとにかくお金をケチり、貯蓄に励んだ養父であったが、第二次世界大戦に日本が負け、それまでの日本円がまったく無価値になった。

預金封鎖が起きたのだ。

銀行などに預けていたお金を一切引き出すことができなくなった。

そして、やっと引き出せる時期が来たときには、通貨の価値が下落し、100円が1円(現在のお金で)の価値しかないようになった。

あれほど爪に火をともすような生活をして蓄えた養父の財産は一夜にして灰燼に帰した。

養父(つまり私の養祖父)はこのことを終生悔やんでいた。

「日本は馬鹿だ、馬鹿だ、大馬鹿だ」とよく愚痴を言っていた。

養父は恩給生活者として一生大丈夫だと思っていたのか、それまであまり仕事をしていなかった。

終戦時には40代の後半になっていた。

ここまで仕事をまともにしていないと、ほとんど働くことはできない。

収入も途絶えた。

わずかにあった田畑を耕して糊口を凌いだ。

彼は、養子(つまり私の父)を中学校にいかせて教員にでもしておけばよかったのに、と思ったかどうかは分からない。

お金を握ることは知っていても、上手に使うことは知らなかったのか?

父は死ぬまで養父の悪口を言っていた。

上の学校に行かせてくれなかったことをこころよく思っていなかったのだろう。

しかし、私の目から見ると、むしろ父の実父(つまり私の実祖父)にこそ問題があるような気がする。

散々遊び歩き、稼いだお金も使い果たし、挙げ句育てられなくなった息子を口減らしのために養子に出している。

養父は、大した金額ではないにせよ、住む家とか田畑などそれなりに財産を父に残している。

父は養子に出たとは言え、実父に対する相続権はあるはずだが、彼が亡くなった時、何も父は受け取っていない。


父は養子に出された後も、実父のところに出入りしていた。

兄と仲が良かったからだった。

だが、養父はそれが気に入らなかったらしい。

「血は汚い」とよく言っていた。


軍隊生活の開始


結局父は3年間この養父の元にいただけで、高等小学校卒の学歴だけで世間に放り出された。

そして、1942年頃に海軍の機関兵養成学校のようなところに入った。

だから、父はすぐに大和に配属されたわけではない。

大和は、1941年の真珠湾攻撃や42年のミッドウェー海戦などにも出撃しているが、1943年頃までは主にトラック島に停泊していた。

これは、大和がいわゆる「大和ホテル」と揶揄されていた時期である。

大和は最新鋭の兵器を備えていたが、設備も素晴らしかった。

空調機器もあったし、食事も豪華であった。

だが、大本営は大和は米国海軍との戦艦対戦艦の決戦に使うのだと、この時期になっても実戦への投入をせず、温存し続けていた。

真珠湾攻撃の時も空母部隊の遙か後方にいただけであった。

だから、他の兵隊達は、戦闘をするわけでもなく、いい暮らしをしている乗組員のいる大和のことを「大和ホテル」と小馬鹿にしたのである。

しかし、父はそんな大和のトラック島時代はあまり知らないと言っている。

なので、彼が戦争というものを肌で知ることになるのは、1944年になってからであろう。

つまり、17歳前後である。

いずれにしても、父もまさかこんなに早く日本が米国と開戦して、自分がそれに巻き込まれていくとは予想もしていなかったのではないだろうか。


日米開戦の理由


では、日本はなぜ米国と開戦したのか?

その理由を知るには、時計の針を500年前までに逆戻りさせる必要がある。

1492年のコロンブスの新大陸発見により、スペインとポルトガルの南米大陸への進出が始まった。

彼らは南米大陸で略奪の限りを尽くし、現地人を酷使して鉱山で働かせ、掘り出した金銀財宝を本国に持ち帰った。

彼らに逆らう現地人は容赦なく殺戮した。

早くも1494年に両国はトルデシリャス条約を締結し、世界を分割した。

そして、子午線に沿った線(西経46度37分)の東側の新領土がポルトガルに、西側がスペインに属することが定められた。

これ以降両国は大いに繁栄する。

特にスペインは16世紀に最盛期を迎え、「太陽が没することのない大帝国」になった。


その頃、英国はヨーロッパの西の端に位置する小さな島国であった。

英国の正式名称は「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」である。

つまり、大きい方の島(グレートブリテン島)の南半分がイングランド、北半分がスコットランド、そしてイングランドの東にウェールズがあり、これらは元々別の国である。

そして、小さい方の島(アイルランド島)の北の一部が北アイルランドという、これまた別の国(というか独自の議会を持っている)である。

そして、アイルランド島にあるアイルランド共和国はこの連合王国の一員ではない。

1922年に独立を果たすまではイングランドの植民地のような存在だった。

そして、これらの国々の中で特に際立った発展を見せたのがイングランドである。

国土面積は13万400平方キロメートルで、日本の本州のほぼ60%くらいの面積である。

人口は2020年現在約5600万人であるが、16世紀頃はおそらく500万人程度だったのではないか。


イングランドの発展


植民地もなく常備軍もない、これといった産業もない貧乏国だったイングランドが、なぜ世界の檜舞台に立つことができたのか?

その鍵を握るのがヘンリー8世(1491~1547年)である。

この国王は女好きであり、生涯に6回の結婚をしている。

気に入らない王妃は「不貞を働いた」と濡れ衣を着せて首を刎ねている。

残虐非道な国王であったが、彼は世継ぎに男の子を欲しがった。

男の子を産めない王妃とは離婚したかったのだ。

しかし、彼はカトリック教徒である、というかあの頃キリスト教徒といえば、ほぼ全員がカトリック教徒であり、その頂点に立つのがローマのバチカンにいるローマ法王(教皇とも言う)であった。

これは無論今も変わらない。

全世界に12億人いるカトリック信者のトップに立つのはローマ法王である。


だが当時はローマ法王は今と比べものにならないくらいほど大きな権威と権勢を誇っていた。

ヨーロッパのほとんどの国の国王は、ローマ法王から許可を得ないと国王の座を維持することは難しかった。

11世紀には神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世が聖職叙任権(教会の司祭を任命する権利のこと)をめぐって教皇グレゴリウス7世と対立して破門された。

すると、彼の領土の諸侯たちがハインリヒ4世に不満を感じるようになったため、ハインリヒ4世は国内の動揺を沈めるため法王の滞在するカノッサに赴き、その門前で雪の降る寒い中3日間たたずんで許しを求め、教皇は赦免した。


この辺、日本人には理解しにくい点であるが、王冠というものは神様、すなわち、イエス・キリストが授けるものであり、その権威によって国王は国の代表になることができるという考え方がキリスト教にはある。

もちろん、キリストが直接王冠を授けることはできないので、その代役をローマ教皇が行うというわけである。

ナポレオンの戴冠式の時もローマ教皇が列席している。


中世の闇を切り裂いた暴君、ヘンリー8世


ヘンリー8世は男の子を産まないキャサリン王妃と離婚してアン・ブーリンと結婚することを望んだ。

しかし、ローマ教皇はこれを許可せず、彼を破門する。

怒ったヘンリー8世は、国内にあったカトリック系の修道院を廃して、自らを首長とする英国国教会を設立した。

これはイングランドの発展にとって重要な意味を持つ。

それまではローマ教皇の教えが絶対であって、例えば16世紀に地動説を唱えたガリレオ・ガリレイなどは、カトリックの宗教裁判所で火あぶりの刑になりそうになっている。

とにかく教会や聖書の教義に背くようなことは絶対に口にできないような世の中だった。

聖書の教えを重視する気風が強い米国南部では、今でもダーウィンの進化論をそのまま教えることは難しいという。

ところがヘンリー8世はこのくびきを切った。

英国の戴冠式は、ロンドンのウェストミンスター寺院で、カンタベリー大主教によって行われるようになり、ローマ教皇は関係のない存在になった。

これによって、「人間の都合に合わないような制度は壊してもいいのではないか?」という考え方が英国内で生まれ始めた。


海賊のパトロン、エリザベス女王


1559年、ヘンリー8世の不興を買って処刑されたアン・ブーリンの娘エリザベスI世が王位に就いた。

彼女は私掠船を奨励した。

私掠船とは、要するに女王から特許を得て海賊行為を行う武装船のことである。

中でも有名なのがドレイク船長で、スペインの船が南米から金銀財宝を満載し帰国するのを狙い、稼ぎに稼ぎまくった。

そして、それを女王に献上してサー(一代限りの貴族)の称号をもらっている。

英国はどんなことであれ、外貨をもたらしてくれる人にはサーの称号を与える。

例えば、ビートルズのメンバーもサーの称号をもらっているし、映画俳優にもローレンス・オリビエなどサーの称号がある人が多い。


形にとらわれず、利益をもたらすものに一直線に進むという合理的な気風が英国に生じだした。

こうしたイングランドの態度に業を煮やしたスペインは、1588年無敵艦隊をイングランドに差し向けた。

ところが、図体ばかり大きくて小回りのきかない無敵艦隊は、ドレイク船長らがあやつる小型の英国船にコテンパンにやっつけられた。

ドレイクは自国の船に火を放ち、それを密集した船団を組んでいるスペインの大型船めがけて突っ込ませた(この出来事は三国志の赤壁の戦いに似ている)。

無敵艦隊に大損害が出て、これ以降さしもの栄華を誇ったスペイン帝国にも陰りが見え始めて、代わって英国が大海軍力を擁する海洋国家としての礎を築き始めた。


清教徒革命


そして、1642年には清教徒革命が起き、国王チャールズ1世が反乱軍の指導者クロムウェルに処刑されるという前代未聞の事態が生じた。

清教徒革命は国王が議会の承認を得ないで課税を強化しようとしたことが発端となって起きたが、議会軍(クロムウェルが指導者)が国王軍を破ったことで、勝手に国民(といっても地主などの富裕層だが)に国王が課税をすることは許されないという政治原理が生まれた。

市民の力が強くなり出したのである。


名誉革命


その後、一時的にイングランドは共和制となるが、うまくいかなかったために王政復古が行われる。

しかし、1688年、時の国王ジェームス2世が反動的な政治を行い、国民の権利を抑え込むような態度を示したため、またもや革命が起きる。

ジェームス2世はフランスへ亡命し、議会は彼の長女メアリとその夫を新たな国王とした。

流血の惨事がなく革命が成立したため、これを名誉革命と呼ぶ。


議院内閣制の誕生


その後1714年に即位したジョージI世はドイツ出身で英語がうまく話せないことから、政治を大臣に委ねるようになった。

これにより責任内閣制が成立した。

「国王は君臨すれども統治せず」という英国の政治制度の始まりである。


市民権の確立


こうした一連の革命を通じて、英国で国民の権利というものが確立されるようになる。

私有財産の不可侵、表現や出版の自由、不当な逮捕や拷問の禁止など、個人の基本的人権が尊重され、市民が自由に経済活動を行うことや、個人の意見、思想、学問などの発表を自由に行うことができる環境が整ってきたのである。

私有財産の不可侵という原則が確立されたことにより、人々は安心して商工業などの日々の仕事に励むことができるようになった。

勝手に政府が人の財産を奪ったり、重い税金を課したり、あるいは徴兵制度で兵隊に狩り出すということがあったのではいくら頑張っても個人が豊かになることはできない。

また、表現や出版の自由、そして集会や結社の自由も大切な権利である。

カトリックの教えがすべてであったイングランド以外の地では、ニュートンが万有引力の法則を発見することはできなかったかもしれない。

たとえ発見できたとしても、それを公開することは命がけの作業になったであろう。

そして、カトリックの権威が強い国であれば、ダーウィンが進化論を唱えた『種の起源』も直ちに発禁処分となり、ダーウィン自身の生命さえ危機に瀕したであろうことは間違いない。

マルクスは母国ドイツを追われてロンドンに亡命し、そこで資本論を書いた。

すでに19世紀の英国ではたとえ資本家階級や時の政府を批判するような本を発表しても罰せられることはなかった。

また、不当な逮捕や拷問の禁止は個人の基本的人権を守る上で欠かせない原則だ。

拷問が禁止され被告人を自白だけで有罪とすることはできなくなったし、残虐な刑罰も禁止された。

「英国人の家はその人の城である」とは言い得て妙である。

誰も正当な捜査令状や逮捕令状なしでは、たとえ国王といえども、英国の個人宅に勝手に立ち入ることはできない。


英国に成文憲法はない。

要するに、日本や米国などその他の国のような、憲法第1条、第2条といったものは存在しないということである。

憲法は英語で表現するとコンスティチューション、つまり体質ということ。

基本的人権などの権利意識は英国民の体質にしみこんでいるので(いわば、ひとつの属性となっている)、わざわざ条文化する必要がない。

当たり前のことなのである。

「赤信号で道路を渡ってはいけません」などと憲法に定めたりしないのと同様だ。

上から押しつけられなくても、英国民ひとりひとりが基本的人権を前提として行動しているので、政府や警察など国家権力が干渉をする余地はない。

むしろ、そういう英国民の行動様式を観察して、ひとつの法則性を見いだし、それをまとめたものが英国では『憲法論』という本になる。

民主主義の本場とはそういうものなのである。

現代の日本は自動車や鉄道、あるいは通信、そして高層建築物や人々の服装など外見は英国に追いついているが、国民の内面に関してはどうだろうか?

私達日本人は、こうした高い権利意識や民主主義に対する深い理解という点に関してはまだまだ英国民にはるかに及ばないのではないか?


市民権を得た英国民は自由にものを考えることができるようになり、経済活動も保証された。

市民は勤勉に励み財産を蓄積し、生活の中で努力を重ねることで社会階層上昇できるという環境ができた。

そして、そうした環境の中で18世紀半ば頃から英国で産業革命が起こり始める。

蒸気機関が発明され、それが蒸気船や鉄道に応用される。

また、手作業で行っていた作業を機械で行うことが可能になり、綿製品などの織物が安く大量に生産された。

通信技術も発達した。

1858年には英国は海底ケーブルを世界中の自国の植民地に張り巡らせている。

日本ではその頃江戸時代で、国内各地間の通信手段は飛脚か早馬くらいしかなかった。

何日もかけて連絡を取り合っていた日本とは違い、英国ではすでに瞬時に世界中の情報を手に入れることが可能になっていた。


世界に冠たる大英帝国


英国は合理的精神に裏打ちされた科学の力で世界中に植民地を構築していった。

18世紀にはジェームズ・クック船長(キャプテン・クック)が、オーストラリアやニュージーランドを「発見」している。

また、英国は暗黒大陸と呼ばれ、スペインやポルトガルなどが見向きもしなかったアフリカ大陸の開拓にも乗り出した。

鉄道を整備することで、アフリカ奥地の鉱物資源などを採掘することが可能になった。


インドの植民地化にも着手する。

1876年にはビクトリア女王がインド皇帝になった。

抵抗勢力は強かったが、それにも増して英軍はもっと強かった。

米国の独立戦争(1775~83年)で負けたのを除けば、とにかく英軍は世界のどこに行っても負け知らずであった。

世界に先駆けて工業化を成し遂げた国であり、最新鋭の軍艦に銃や大砲を装備した彼らに適う敵はいなかった。

1819年にはシンガポール、続いてマレー半島を植民地化し、1886年にはビルマ(現在のミャンマー)も英国の支配下に置いた。

1840年に清朝との間で起きたアヘン戦争では英軍が清軍を粉砕し、英国は南京条約を結んで多額の賠償金を得ると共に香港を手に入れた。

また、1856年の清朝とのアロー戦争では九龍半島も手に入れている。

19世紀末にはアフリカ大陸の半分、中近東、インド、東南アジア、中国、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、そしてカリブ諸国など、世界中に英国の植民地が出現し、英国がスペインに代わって「日の没することのない大帝国」になった。

また、石油についても、早くも19世紀の半ば頃にはペルシャ(現在のイラン)の地下に石油があるということを英国の地質学者が発見している。

続いて、ユーフラテス川とティグリス川があるメソポタミア(現在のイラク)でも油田が発見された。

1900年初頭これらの地域を支配していたのはオスマントルコ帝国であったが、1914年に始まった第一次世界大戦で帝国が枢軸国(ドイツ帝国とオーストリア・ハンガリー帝国など)に加わって参戦すると、これをきっかけとして英国は帝国の打倒に向けて動き出す。

海軍大臣だったチャーチルの立案したガリポリ上陸作戦は失敗に終わったものの、映画『アラビアのロレンス』にも描かれている通り、英軍はアラビア半島でサウジアラビアを支援することで最終的に勝利を収め、帝国は瓦解する。

これによってオスマントルコ帝国の大半の領土は失われ、英国はイラクを支配下に置いて石油の利権を手に入れた。

1840年に英国が清朝を攻めた時、本気になってそのまま攻めていれば清朝を滅ぼすことだってできたはずだ。

そして、1920年にはオスマントルコ帝国という中近東一帯で大きな勢力を持っていた帝国を滅ぼしてしまった。

そうすると、英国は地球上で最大級の帝国を実質的に2つも滅ぼしてしまったことになる。


新教徒と旧教徒


この大成功の要因はどこにあったのか?

英国やオランダなど伝統的なカトリックの教えに従わない国の人々は新教徒(プロテスタント)と呼ばれ、スペインやポルトガルなどローマ教皇を崇拝する国の人々は旧教徒と呼ばれる。

旧教徒のやり方は収奪するだけの経済活動で、南米大陸を征服したのはいいが、ただ金銀だけを本国に持ち帰ればそれでいいという考え方であった。

それはレベルの低い考え方と言える。

例えば、英国が苦労の末にオスマントルコ帝国を滅ぼして石油の利権を手に入れた頃、旧教国のスペインは何をしていたか?

スペインは第一次世界大戦には参加せず、アフリカの分割にもほとんどかかわらなかったが、内戦には明け暮れていた。

基本的に、彼らは過去の栄光の上にあぐらをかき、南米大陸から持ち帰った金銀財宝や豊富に取れる食料で安楽に暮らすだけだった。

同じく旧教国のポルトガルも第一次世界大戦に参戦はしたものの、熱意はなく、アフリカに植民地はほとんど獲得しなかった。

要するに旧教徒は科学の技術で進歩を図るという考え方は苦手なのである。

とにかく手っ取り早くお金になるものがいいのであって、石油のように精製などという手間のかかるものなど論外なのだ。

「面倒くさいことは嫌い」、それが彼らのコンスティチューションなのだ。


これに対して新教徒は勤勉さを尊ぶ。

彼らはローマ教皇庁の支配を受けることは嫌う。

商売をするのに宗教はほとんど関係ない。

むしろ、そういったものの垣根などない方がいい。

要するに物を作って売って、それで利益が取れるなら相手が誰でも構わないのだ。

聖書の教義で生活ががんじがらめにされてしまうと、そのシステムの中で利益を得るのは貴族と聖職階級だけだ。

一般庶民にとってよいことは何もない。


町人は商工業に励み、農民は農地を開拓して収穫を増やし、資本家は機械を導入して生産性を上げる。そのどこが悪いというのか?

カトリックの教えのような頑迷な因習にとらわれず、毎日コツコツと働き、財をなしていくことを理想とする。

旧教徒が南米大陸でやったような一攫千金狙いの盗賊まがいの行為で利益を上げようとはしない。

例えば、1620年にメイフラワー号に乗船して北米大陸に渡ったピルグリム・ファーザーズと呼ばれる清教徒の一団は、宗教の自由を求めて新天地に渡ったのであり、北米に金銀が出たから渡ったのではない。

彼らは基本的に農業で生計を立てることを目指していた。

後にカリフォルニアで金が発見されたというので、ゴールドラッシュが起きてはいるが、やはり大部分のアメリカ人(新教徒)は地に足の着いた堅実な生き方を目指している。

それがあったからこそ、米国は鉄鋼、石油、電気、あるいは自動車といった産業を大きく発展させることができたのである。


19世紀に世界の工場として登場してきた英国の力は素晴らしく、その工業力、科学力、機械力にものを言わせ、加えて合理的精神の発露によりイギリス人は世界各地で活躍した。

聖書に書いてあることをそのまま鵜呑みにするのでなく、自分自身の眼で観察して確かめようとする、いわゆる実証主義や経験主義が新教徒の精神の根本にある。

1845年にカナダ北極圏の北西航路の開拓に乗りだしたジョン・フランクリン、1856年にアフリカ大陸横断に成功した初めての白人デイヴィッド・リヴィングストン、1870年代に南アフリカでダイヤモンド鉱山を見つけたセシル・ローズ、1912年に南極点一番乗りを目指したロバート・スコット大佐など、彼らの波瀾万丈の人生を記録しただけでも1冊の本が書けるほどだ。

同じ頃、米国はカナダを除く北米大陸の一部を西へ西へと幌馬車で進んでいたに過ぎない。

工業化もあまり進んでおらず、主な産業と言えば農業と牧畜ぐらいのもので、よくこれで先進国英国を相手にした独立戦争に勝てたと思えるくらいであった。


19世紀の英国は世界の中で最も進んだ国であり、実際、英国製品は1970年頃までは本当に優秀だった。

自動車では『007 ゴールドフィンガー』でジェームス・ボンドに扮したショーン・コネリーが乗って有名になったアストンマーチンや、ロールスロイス、ベントレー、ランドローバー、そしてジャガーなどの名車がそろっていた。

1946年に国有化されるまでは、イングランド銀行、つまり英国の中央銀行は民間の銀行であったが、その民間銀行の発行する銀行券が世界の金融界を支配していた。

ソ連という大国の国営銀行が発行するルーブルよりもはるかにポンドの価値は高かったし、信用もあった。

1970年頃までは1ポンドが1000円(現在は150円前後)近くもした。

だから、英国の書籍を持っているというのはそれだけでステータスであった。

欧米にはペーパーバックという日本では文庫本クラスの本があるが、大体5~7ポンドはする。

そうすると、あの当時ペーパーバックを買うとなれば少なくとも5000円は払わないと入手できない。

まして、専門書ともなれば1冊40~100ポンドはするから、日本円に換算すると5~6万円になる。

大卒の初任給が10万円もなかった1970年頃の5~6万円であるから、自宅にそうした洋書が何百冊もある大学教授や専門家ともなればかなりの権威ということになる。

昔は本をそろえるだけで威張っていられたのだが、今洋書を持っているからといって誰が敬意を払うだろうか?

この間も私は買いためていたペーパーバックを大手の古本屋に何十冊も売りに行ったが、「価値はありません。処分するだけなら引き取ります」と言われた。

英国製品の輝きも今は薄れた。

英国の自動車メーカーもその多くが外国資本の傘下に入り、ポンドの価値も下落してかつての栄光の面影はなくなった。

しかし、旧教徒の国々や彼らが支配していた南米と比べると、英国など新教徒の国々の活躍ぶりはやはり目を見張るものがある。

スペインやポルトガルの製品で是非手に入れてみたいと思うような工業製品は皆無だし、イタリアもフェラーリやグッチなど、有名なものも多少はあるが、一般的に言ってこうした国々は農業国のままである。

つまり、旧教徒の国々では近代的な産業らしい産業は発展していないのだ。


これが新教徒の立場からすると怠け者の姿に見える。

南米大陸から奪い取った金銀財宝の上にあぐらをかき、いい生活をするだけで自らの手は汚そうとしない。

イングランドがアイルランドを植民地化したというが、アイルランドはカトリック教徒の国であり、イングランドの新教徒(プロテスタント)とは考えが相容れない。

アイルランド人は古い考え方に縛られ、イングランドにあるような進取の気性は見られない。

イングランドから見るとなんとなく動きが緩慢で、考え方が遅れている国民だと思われ、そこを突かれたのではないか?


英国は確かに世界各地を植民地化していった。

それに対して悪く言う人はもちろん多い。

しかし、あの当時アフリカではどのような人達が暮らしていたか?

頭に鳥の毛をつけて、裸に近いような格好で動き回るアフリカの原住民達。

彼らは原始的な狩猟と採集だけの生活を送っていた。

朝から晩まで勤勉に働くわけでもなく、獲物が捕れればそれを食べるが、捕れなければ木陰で静かに休む。まるでライオンなどアフリカの平原にいる動物達と変わらないその日暮らしの毎日である。

武器と言えば槍や吹き矢、そして動物の毛皮で作った盾くらいのものである。

楽しみと言えば、太鼓を打ち鳴らし、奇声を上げて大地を蹴って踊ることぐらい。

そして、彼らが踊る大地の下には鉄、銅、亜鉛、鉛など貴重な鉱物資源が豊富に眠っている。

後には金やダイヤモンドも見つかっている。

この点に関しては、スペインのコンキスタドール(16世紀初めに南米を征服したスペイン人)の考え方とも似ている。

彼らが来る前のインカ帝国には、文字がなかったし、車輪という発想もなかったし、鉄もなく、またくつわの技術も知らないので馬も乗りこなせなかった。

雨が降らなければ、子供を何人も生け贄に捧げたし、太陽が出なくなるのでないかと心配して生け贄を殺して心臓を取り出し、それを太陽に向けて掲げた。

コンキスタドール達はこのような現地人の醜悪で野蛮な習慣を見て、キリスト教による教化を図らなければならない、それが自分たちに神が与えた使命だと考えた。


新教徒である英国人がアフリカにおける南米大陸と似たような状況を目にして、同様なことを考えたのは至極もっともな気がする。

しかも、英国人の方が、金銀財宝を強奪し南米の現地人を搾取し続けたコンキスタドール達とは考え方がよりまっとうである。

彼らは産業の育成、すなわち、殖産ということを考えた。

アフリカ大陸に鉄道を敷いて鉱物資源を掘り出し、それを本国に持ち帰って加工すれば莫大な富が生まれる。

無論、英国は契約社会であり、原住民との間で土地の使用や資源の採掘に関してきちんとした契約書を交わして鉄道などを敷設しようとしたのではあるが、そんな考え方が通用する相手ではない。

土地の所有権とか登記とか、そういった概念はまったくない人達だ。

気に入らなければ理屈も何もなくいきなり襲いかかってくる。

当時のアフリカには人食い人種さえも多数いた。

これに対して英国人が彼らのことを野蛮人と見なしたのはある意味当然ではないか?

そして、英国は軍隊を送り込み、武力で暴動や反乱を鎮圧していった。

やがて、アフリカに英国による支配権が確立する。

背が高くて金髪、そして色が白くて顔立ちの整った白人の男女がアフリカにやってくるようになる。

瀟洒な豪邸を建て、現地人の給仕を雇って優雅な暮らしを送る。

休日には正装で教会に出かけ、夜にはパーティも開く。

そうした姿を見た現地人が感化され、「ああ、文明とはこういうものか」と思うようになる。

優秀な人達の中には英国に留学し、法律や政治そして化学や物理などの工学的知識を吸収する中で、やがて自国の独立ということを考えるようになる。

しかし、いったん英国(後にはその他のヨーロッパ諸国)に支配権を握られてしまうと、これを打破するのは難しい。


ブリティッシュ・コモンウェルス


最終的にアフリカやアジアが独立できるようになったのは、第二次世界大戦後、英国(およびその他のヨーロッパ諸国)がかつての勢いを失ってからである。

しかし、独立した諸国のうち54か国は今でもブリティッシュ・コモンウェルス(イギリス連邦)という英女王を頂点とする1つの連邦国家を維持している。

英連邦の国々の面積は約3000万平方キロ以上(日本は約38万平方キロ)で、これは世界の国土面積の20%に相当する。

総人口は2016年時点で約24億人と推定されており、これは世界人口の3分の1近くに相当する。

こうしてみると、今でも大英帝国はそのまま健在であると言っても過言ではない。

英連邦の国々は英語を公用語とし、教育や政治、そして法律の制度などはほぼ英国流で、紅茶を飲む習慣もある。

あれほど「独立、独立」と大騒ぎしていたインドでさえも加盟国のうちの1つになっている。

しかも、そのうちの16か国の元首はエリザベスII世女王(以後「エリザベス女王」)である。

しかし、エリザベス女王もそういう国々に常駐するわけにはいかない。

そのため、オーストラリアやカナダなどには統治者であるエリザベス女王の代理人としてガバナー(総督)と呼ばれる人が派遣されている。

彼らは英国大使ではなく、エリザベス女王が任命したという形式を取る。

単なる名誉職とはいえ、それでもオーストラリアで一番偉い人は誰かを示すには十分な役職ではある。

植民地にされていた国々は英国の悪口を言いながらも、そのガバナンス(統治)の仕方にどこか敬意をもっているように思える。


私は英書は最近は読まなくなったが、法律書を学生時代に読んでいた頃は、英語は法律に限らず、自然科学の分野全般において非常に便利のよい言語だと実感した。

そのせいかどうか知らないが、英国人は契約というものを大切にし、契約書に書かれた文言を忠実に果たすことに強い責任感を持つ。

期日までに支払いが行えないことを恥と考える。

また、不正や不平等を嫌い、正義感も強く、自分達はこの世界を良くするための神から与えられた使命を持っていると信じている。

英国の役人はたとえ下級役人であっても汚職をしない、賄賂を取らない、というのが昔からの定評であった。

これらはまさに英国人のコンスティチューションである。



日本の開国



世界中が旧教徒と新教徒によってほぼすべて分割され終わった頃、ようやく日本が世界史の舞台に登場してくる。

1868年の明治維新により新政府を樹立した伊藤博文らの指導者達は、アヘン戦争で大敗北を喫した中国の清朝が欧米列強により植民地化されるのを目の当たりにし、日本がそうならないようにするため、一刻も早く軍隊を整備する必要があると考えた。

当時の日本人の国防意識は低く、農民が兵隊になるというような考え方は思いもよらないことだった。

「戦は武士がするもの」というのが当時の常識であった。

しかし、明治新政府にとってこの風潮は危険に思えた。

中国の租界では「犬とシナ人は入るべからず」という立て看板があり、中国人は欧米列強の人達から犬並みの扱いを受けていた。

明治政府の指導者達は「これではいけない。日本国民が国防という問題を全員で受け止めるようにしないと国が滅ぼされる」と懸念をした。

そこで山県有朋らが中心となって、1873年に徴兵制度を敷き、国内の成年男子に兵役の義務を課すことにした。

国民の義務である以上、これを拒否することはできない。

拒否すれば重い罪に問われる。

国民の間からこの国民皆兵制度に対する反発もあったが、1894年に始まった日清戦争で日本が勝利し、清国から台湾や遼東半島を手に入れた上に巨額の賠償金も得た頃から、「軍隊も悪くないな。これは儲けになるぞ」という国民感情が芽生え始めた。

ところが、ここにフランス、ドイツ、ロシアから横槍が入る。

「遼東半島は清国に返還しろ」というのである。

いわゆる三国干渉である。

日本はこれに反発するだけの国力もなく、渋々その要求に応じるしかなかったのであるが、これによりロシアに対する敵愾心が強まった。

この頃、臥薪嘗胆(がしんしょうたん、薪の上に寝て、熊の苦い肝を嘗めるような苦労をしてでも復習を果たす)という四字熟語が流行った。

「ロシア憎し」という反ロシア感情が国民の間に沸き起こった。

そして、ついに1904年、日本はロシアの朝鮮半島にあった拠点に攻撃を開始した(正式な宣戦布告はその後)。

最終的に日本は旅順攻囲戦に勝利し、また、バルチック艦隊も日本海で壊滅させて戦勝国となった。

その後結ばれたポーツマス条約の結果、日本の朝鮮半島における支配権が強まり、樺太の南半分や清朝の大連と旅順の租借権を獲得した。

勢いに乗った日本は1910年の韓国併合により朝鮮半島を植民地支配する。

またロシアから獲得した東清鉄道、後の満州国有鉄道の整備に乗りだし、この鉄道を足がかりに中国東北部、いわゆる満州への進出を強めることになった。

1911年には辛亥革命により清朝が滅んだ。

この時の清朝最後の皇帝溥儀が日本にとって後に重要な役割を果たすことになる

日本は中国東北部において当初満州鉄道という路線だけをコントロールしていたに過ぎなかったが、石原莞爾中将など日本陸軍の参謀達は満州の広大な農地に目をつけ、ここに日本人を入植させることを画策する。

1931年、日本軍は柳条湖事件をでっちあげ、中国軍が日本軍に攻撃をしてきたといって戦争を開始する。

いわゆる満州事変の勃発である。

そして1932年に関東軍(満州に駐留していた日本陸軍の部隊をこう呼んだ)は満州全土を制圧し、溥儀を担ぎ出して満州国を樹立した。

溥儀はこの頃、北京の紫禁城(中国皇帝の宮殿)を追い出され、天津の日本公館で庇護を受けていた。

しかし、満州国はその成立の経緯から世界の非難を浴びることとなり、日本が国際連盟を脱退する原因のひとつとなった。

日本の世界における孤立化の始まりである。

しかし、一方で日本の立場に同情的なドイツやイタリアなど、植民地を持たない国々との関係が強まり、1940年には日独伊三国同盟が結ばれている。


この時期、世界が何と言おうと、日本軍の領土的野心は止まらなかった。

1932年の上海事変や1937年の盧溝橋事件などを通じて、満州と中国との国境線を越えて、中国本土において蒋介石率いる国民党軍と(後に毛沢東が率いる共産党とも)交戦状態に入るようになった。

この戦争は1945年まで続いているので、日中は14年間もの長きにわたって戦争をしていたことになる。

太平洋戦争の印象が強すぎるせいかもしれないが、これは意外に日本人が気づいていないことではないだろうか?


蒋介石の妻、宋美齢は、米国の大学で教育を受けており、米国議会で演説をするなど、得意の英語力を活かして日本軍の非道さを米国内で訴えた。

ルーズベルト大統領も親中派で、彼女の訴えに耳を貸した。

さすがに日本に宣戦布告することはなかったが、フライングタイガーなど米国の義勇軍という形で蒋介石の国民党軍を支援した。


日本軍も中国大陸に攻め込んだものの、あの広大な大陸である。

点と線を抑えたに過ぎない。

ひとつの村を占拠したと思っても、夜にはゲリラによる急襲を受けて追い出される。

奪い取った敵の陣地を維持しようとすれば兵員をそこに配置し続けなくてはならないが、そのような場所は何万カ所とある。

その上、敵はまさに神出鬼没というか、普通の農民の格好をしている中国人が実は兵士であるということはよくあることで、誰を相手にして戦ったらいいのかも分からない。

当然、民間人を殺戮してしまうことも起きるわけで、宋美齢などはそうしたことを捕らえてしきりに日本軍の無慈悲で非人道的な行為を米国の世論に訴えかけた。


蒋介石は徹底した持久戦法をとり、日本軍を中国の奥地へと引きずり込んだ。

日本軍の兵站線が延びきり、物資の補給をするのにも難儀した。

日中戦争は日本軍にとって勝利なき泥沼の戦いへと変貌していった。

石油は出ない国だし(中国の石油開発が進むのはずっと後のこと)、土地の占領もままならい。

負ければもちろん大損だが、かといって個々の戦闘に勝ったところで何も利益が出ないのだ。

中国大陸という遠方の地に数十万人もの兵隊を派遣しているのだから、彼らの食料だけでもこれを日々賄うのは大変なことで、戦費ばかりがかさんでいく。

初めは「勝利した、勝利した」という新聞などの報道を受けて、これに喜んでいた日本国民だが、それにしては一向に自分達の生活が向上しないことに苛立つようになった。


米国は中国大陸から撤退することを日本に強く求めた。

しかし、日本軍としても中国大陸から引くに引けない事情があった。

東條英機などは「今、中国大陸から撤退したのでは、戦死した10万の英霊に対して申し訳が立たない」と語った。

先にも述べたが、1929年から始まった世界大恐慌の影響は日本にも及び、第一次世界大戦中やその後の好景気に沸いていた日本経済を直撃した。

また、軍縮が進み、多くの国で軍事費への削減が求められていた。

軍部としては自分達の存在感が低下することは何としても避けたい。

そのためにもどこかで戦争を起こし、戦果を挙げて実力を誇示しなければならなかったのである。


軍部の跳梁跋扈


そうした状況の中、1932年に五・一五事件、そして1936年に二・二六事件が起きた。

日本軍の若手将校達が起こしたこの一種のクーデータは、「政治家や資本家が腐敗しているから、日本の景気がよくないのだ」ということがその動機となっている。

しかし、これは間違っている。

政治家や資本家が腐っていたのではない。

日本軍という組織そのものが腐りかけていたのである。

軍部は、政府から予算など何のコントロールも受けず、自分達だけの判断で突き進む。

使いたい放題に国のお金を使い、しかも徴兵制度を悪用し、兵員が足りなければ平気で市民を徴用する。

いわゆる独断専行であるが、これをチェックする手段がなかった日本社会にこそ問題があったのだ。

こうした事件の後、軍幹部の横暴さは増し、政治家達はテロに怯えるようになる。

「軍部の言うことを聞かなければ、おまえ達もこうなるのだぞ」という無言の圧力が彼らにかかった。

道で車がパンクし、パーンという音が聞こえただけで家の中の隠れ場所に逃げ込むようになった。

内閣の中に、軍関係者の姿が見られるようになり、そして、1941年には、遂に国民から選挙で選ばれたのでもない軍人が総理大臣になった。

東条英機である。


これに先立つ1939年、第二次世界大戦がドイツと英仏連合軍の間で始まっている。

1940年、ドイツ軍は破竹の勢いでフランスのパリに進撃し、6月には勝利を収めている。

日本はドイツと同盟関係にあったため、フランス領インドシナに日本軍を進駐させた。

フランスが降伏したのだから、同盟国日本は仏印進駐をしてもいいはずだという論理であった。

しかし、これに米国は激怒した。

直ちに日本に対して経済制裁に踏みきり、石油、鉄鋼、くず鉄、工作機械など軍需物資の日本に対する輸出を禁止した。

他のものはともかく、石油を止められたのでは何もできなくなってしまう。

まさに息の根を止められたにも等しい。


大和の建造理由


日本が米国と戦争をするのもやむなしと考えた理由はこれであった。

そんな中、大和が建造された。

大和は日本海軍、いや大日本帝国の期待の星であった。

日露戦争で1905年にロシアのバルチック艦隊を撃破するという大金星を成し遂げた日本海軍は、米国との関係がこれほど険悪なる以前から、次の敵は米国になるかもしれないと想定はしていた。


そして、その戦争もバルチック艦隊を破った日本海海戦の時と同じように、アメリカの太平洋艦隊がハワイの西海上に進んできて、それを日本の連合艦隊が迎え撃ち、これを撃退すると想定された。

そのためにはどうしたらいいか?

そこで日本海軍の首脳陣は、アメリカの太平洋艦隊の戦艦を瞬時に沈めることができる強力な砲弾を、米戦艦の主砲の射程距離外から発射させれば必勝間違いなし、と考えた。

そして、後に大蔵省(現在の財務省)をして昭和三大馬鹿査定と言わしめた、途方もない巨額の国家的出費を伴う(当時の国家予算の約4パーセント)戦艦大和の予算が組まれたのであった(他の2つは諸説あるが、伊勢湾干拓と青函トンネルと言われている)。


これはちょっと信じられないような話ではあるが、太平洋戦争が起きる30年も前にロシア海軍との間に起きたことが、またアメリカの太平洋艦隊との間で起きると予測し、それに従って軍備を整えたというのはあまりにも硬直した思考方法ではなかっただろうか?


目的が達成されなかった真珠湾攻撃


当時の山本五十六連合艦隊司令長官は米国との開戦前こう考えた。

「アメリカの太平洋艦隊はハワイの真珠湾にある。ならば、ここを叩いて戦艦をすべて沈めてしまえば、米国は戦意をなくして日本に講和を申し入れてくるだろう。ちょうど東郷平八郎元帥がロシアのバルチック艦隊を壊滅させて日露戦争で日本を勝利に導いたように・・・。」

それで真珠湾攻撃を実行したのであるが、結果は山本の予想に反して米国の戦意を大いにかき立てた。確かに、真珠湾にいた米国海軍の主立った戦艦はこの奇襲攻撃でほぼすべて撃沈された。

しかし、この真珠湾攻撃には詰めの甘さがあった。

燃料タンクや船舶の修理工場などの施設をまったく破壊しなかったのだ。

おまけに、真珠湾の海底は浅く、戦艦を撃沈したといってもそのほとんどは後に引き上げられ、無傷だった工場でまた元通りに修復されている。


米国の戦意を喪失させるという山本のもくろみは見事に外れた。

こんなことで屈服するような米国ではない。

それまでは日本がどこにあるのかすら知らなかった米国民が、強い敵意を日本に対して抱くようになった。

やられたらやりかえす。

それが1775年に始まった英国に対する独立戦争以来、米国民のDNAとなっている。

山本は米国に駐在していたが、その時代にこうした米国民の気風について学ばなかったのだろうか?

彼はニューヨークの摩天楼を空爆すれば、米国民も日本の脅威に怖じ気づくだろうと語っていたというが、それを逆に日本がやられというのはなんとも皮肉な話である。


米国の参戦


真珠湾攻撃があった日の1941年12月8日(米国時間で7日)の演説で、時のフランクリン・ルーズベルト米国大統領は、米国民の戦意を大いに高揚させ、「リメンバー・パールハーバー(真珠湾を忘れるな)」がその後の合い言葉となって、米国民は一致団結して欧州戦線と太平洋戦線の2つの戦域に次々と軍隊を送り出していった。

まずかったのは、米国の日本大使館が暗号の解読に手間取り、真珠湾攻撃が開始される前に宣戦布告を米国に通告できなかったことである。

これが「日本が卑怯なやり方で米国に戦争をしかけた」ということになり、その後の宣伝活動でこの表現が散々使われることになる。

「卑怯」というのは、米国民が一番嫌う言葉のひとつである。

米国は真珠湾でだまし討ちにあったという共通認識が米国民の間に生まれ反日感情が高まった。


それまでは、米国は1939年から始まっていた独伊対英仏による欧州の戦争に関心はあまりなかった。

昔から米国はモンロー主義をとり、欧州のことや世界の他の地域のことには干渉しない、という政策をとってきた。

元々、米国は英国の植民地であった。

英国による植民地支配に苦しんだ過去があるため、他国の領土を侵略するようなことは嫌いな国民性であった。

だから、日本が中国に侵攻したり、仏印進駐をしたときに日本に対する態度を硬化させたのである。


苦戦の英国


当時の英国首相チャーチルは、ヒトラー総統率いるドイツ軍に対して「絶対降伏しない」と大見得を切ったのはいいが、苦戦続きであった。

欧州での開戦から半年もしないうちにドイツ軍は簡単にパリを陥落させてしまった。

フランスを防衛するために駐留していた30万人の英軍はダンケルクに追い詰められ、あわやそのままドイツ軍の捕虜になろうかという状況であった。

ドイツ陸軍の戦車隊が彼らの目前に迫っていた。

ところがこの時、ドイツ軍のゲーリング空軍元帥が何を思ったか「陸軍に手柄を立てさせるのはよくない」とヒトラーに進言した。

そのため、ドイツ軍の戦車隊に進軍停止命令が出された。

実はドイツ陸軍はヒトラー総統と相性が悪かった。

何しろ第一次世界大戦時のモルトケ参謀総長以来エリートを輩出してきたドイツ陸軍である。

その幹部達は貴族出身者が多く、彼らのプライドは高い。

陸軍大学校など陸軍の高等教育を受けていない、ただの下士官上がりのヒトラーに何が分かるかという態度で、ヒトラーのことを小馬鹿にしていた。

「たかが、オーストリア出身の元画家志望の平民ではないか」というわけである。

ヒトラーはこれを不服に思い、彼独自の軍隊、すなわち、親衛隊(SS)を組織した。

彼は陸軍に当てつけるかのように最新鋭の兵器や装備をSSに優先的に配分した。

後にチャーチルは「英国にとって本当の味方はヒトラー自身ではないか」と語ったというが、案外真実を突いているのかもしれない。

いずれにせよ、つまらないドイツ軍内部の指導権争いのおかげでチャーチルはダンケルクから英国の兵士達を救出することができた。

しかし、その後ドイツ空軍による空からの爆撃が始まり、ドイツ海軍のUボートによる海上封鎖も熾烈を極め、英国内の物資の欠乏も甚だしくなった。


英国の苦境に冷淡な米国


チャーチルはルーズベルトに泣きついた。

第一次世界大戦の時と同じように米国からの支援が欲しかった。

しかし、ルーズベルトはなかなかこれを承諾しない。

日本では米英とひとまとめにして表現することが多いので、まるで2つの国は兄弟国であるかのように考える人も多いが、実は両国はそれほど仲はよくない。

ルーズベルトは「英国の思うようにはさせない」と決意し、チャーチルに対して「あなたの国の植民地主義を止めなさい」と説いた。

インドやアフリカなどにある英国の植民地を独立させろというのだ。


米国の国内世論も英国に同情する声は低かった。

後に第35代米国大統領になるジョン・F・ケネディの父親、ジョセフ・ケネディは株取引で財をなした人物である。

その財力にものを言わせてルーズベルトの側近になっていたが、彼はアイルランド系アメリカ人である。

アイルランドは1800年頃からイングランドの支配下に置かれて植民地化されていた。

アイルランドの領民はひどい差別的扱いを受け、イングランドの地主や貴族によって搾取された。

1840年代にはジャガイモ飢饉が起こり、多くの国民が飢えで亡くなっている。

これが契機となり、祖国アイルランドに絶望した人々が新大陸アメリカへと移住していった。

ジョセフ・ケネディの祖先もそのひとりである。

アイルランドが独立したのは、第一次世界大戦後の1922年になってからだ。

こうした時代背景があるため、ケネディの父親は英国に対する嫌悪感があった。

彼はルーズベルトと近かったので、アイルランド系アメリカ人であるにもかかわらず、駐英米国大使になることができた。

アイルランド系アメリカ人はカトリック教徒が多く、WASP(白人、アングロサクソン系、清教徒)出身者が多い米国のエリート達を押しのけてこのような高い地位につくのは異例なことであった。

しかし、彼は戦争が始まっても英国の立場を積極的に擁護するでもなく、むしろドイツを応援するかのような態度を取り始めたため、さすがのルーズベルトも彼を解任せざるを得なくなった。

「英国などドイツに負けてしまえばいい」と暴言を吐いたとも伝えられている。

また、ドイツ系のアメリカ人も米国内には多い。

欧州における連合国軍指揮官であったアイゼンハワー元帥も祖先はドイツ系である。

そういうわけで、必ずしも米国民が一枚岩となって、欧州大陸という遠い世界に自国の兵隊を派遣しようという気持ちになっていたわけではなかったのである。


ところが、1941年12月に日本軍が真珠湾を攻撃したという知らせがチャーチルの元に飛び込んできた。

彼は大喜びした。

「これで米国の戦争への参加が決定的になった」と。

そして、ドイツのヒトラーも同様に驚いた。

「同盟国日本がドイツを支援してくれる」と思ったからではない。

彼は戸惑った。

「日本が米国に攻撃をしかけた?なぜなんだ?」

ヒトラーは第一次世界大戦に下士官として従軍している。

あの大戦でドイツが負けたのは戦争終盤になって米国が参戦してきたからだった。

彼は、物量の豊富な米国が戦争に参加すれば、ドイツが圧倒的に不利になることはよく知っていた。


ヒトラーの本音


正直なところ、彼は英国も相手にしたくなかった。

世界の4分の1の大陸と7つの海を支配する大英帝国である。

戦って勝ち目のあるはずがないことは、彼でさえも承知していた。

フランスを降伏させれば英国も講和に乗ってくるだろうと期待していた。

だが、チャーチルが徹底抗戦の意志を明らかにし、彼の期待は裏切られた。

ヒトラーとその幹部達が英国が屈服しないのを知り、がっかりした表情を浮かべている写真が残っている。

彼の元々の目標はヨーロッパの中央部にドイツ民族、すなわち、アーリア民族を中心とした帝国を築くことであった。

だからヨーロッパ中央部のチェコスロバキアやオーストリアを併合した。

「世界に冠たるドイツ帝国」と唱道はしていたが、何も世界征服を目指していたわけではない。

ヨーロッパ中央部にドイツの覇権を打ち立てて、広げた領土にドイツ人を入植させる予定であった。

このあたり、日本の満州国の発想と似ている。

当初ヒトラーは、諸外国、特に英仏に対して、この構想さえ許してくれればいいという態度を示していた。

英国の当時のチェンバレン首相は、この構想に猛反対ではあったが、「これ以上の領土拡大はしない」ということを条件に1938年のミュンヘン会談でヒトラーの要求を受け入れた。

ロンドンに帰国したチェンバレン首相はヒトラーと交わしたこの外交文書を振りかざし、「これでヨーロッパの平和が保たれる」と語った。

しかし、それはただの紙切れにすぎなかったことがすぐに判明する。

1939年9月にドイツ軍はポーランド侵攻を開始し、10月にはポーランドを征服した。

この時、東側からソ連軍もポーランドに侵攻し、ポーランドは両国によって分割占領された。

ポーランドと同盟国であった英仏はこれを受けてドイツに宣戦布告した。

それなら、英仏両国はソ連にも宣戦布告しなければならないはずだが、なぜか彼らはそれをしていない。

諸説あるが、この時点でソ連を叩けば、ドイツに有利に働くとみたのではないだろうか。


ポーランド侵攻くらいで英仏両国がドイツに宣戦布告をするようなことはないだろうと高をくくっていたヒトラーだが、そうは問屋が卸さなかったのだ。

さらに、1940年5月にチェンバレンの後を継いで英国首相に就任したチャーチルが手強い存在だった。

英国の超名門貴族マールバラ公爵家に生まれた彼は、小さい頃から兵隊ごっこが好きだった。

戦争が大好きだったのである。

彼が下院議員になれたのは、1899年に起きた南アフリカ地方でのボーア戦争で武勲を立てたからである。

戦闘で華々しい活躍をしたのではなく、敵の捕虜になり、その収容所から鮮やかに脱走したというのが世間に受けたのだ。

チャーチルは川の水辺で水を汲もうとしていた。

その時背後から敵兵が迫り、銃を向けられたという。

その時、偶然にもチャーチルは腰にピストルを提げていなかった。

もし、彼がピストルを携行していたら、そこに手を伸ばしただろう。

そうすれば、彼は敵の銃弾で名誉の戦死を遂げるところであった。

1874年生まれの彼はこの時20代半ばで血気にはやる頃だ。

ピストルを持っていれば、それを使用した可能性は十分にある。

だが、彼は、運が良かったと言うべきか、ピストルを持っていなかったことにより捕虜になることができた。

そして、敵の捕虜収容所をまんまと脱走し、英国で英雄視され、国会議員に当選できた。

余談だが、この時チャーチルを捕虜にした敵の将校は後にその敵国の政治家になり、英国首相になっていたチャーチルに資金援助を頼んだという。

チャーチルがこれに応じたかどうか、その詳細は明らかになっていない。


英国や米国では敵の捕虜になることは恥とは見なされない。

むしろ、そういう辛い時期をよく辛抱したというので英雄視される。

先頃亡くなった、米国のマケイン上院議員もベトナム戦争で空爆に参加し、北ベトナムの対空砲火で撃墜されて5年間の捕虜生活を送っている。

だが、彼はその時の経歴を活かして国会議員になることができた。


これと真逆なのが日本である。

戦時中の日本では東条英機が陸軍大臣の頃に唱えた戦陣訓というものがあり、兵士達は「敵の捕虜になることは恥である。捕虜になるくらいなら自決の道を選べ」と教えられた。

このため多くの日本兵が死ななくてもいいような状況で自ら選んで死なざるを得なかった。

だが、東条英機は敗戦後自殺を図ったが死にきれず、敵の捕虜になっている。

「言うは易く行うは難し」の典型である。


チャーチルはその後順調に政治家としての経歴を積み、第一次世界大戦の時に海軍大臣になった。

だが、オスマントルコ帝国とのガリポリの戦いにおいて、無謀なダーダネルス海峡突破作戦を決行し、味方の艦隊が大損害を受けることになった。

彼の向こうっ気が強いのは終生変わらなかったが、この時ばかりはやり過ぎた。

彼は失脚し、陸軍将校としてヨーロッパ大陸の最前線に出征するなどしている。

しかし、第一次世界大戦後はまた政界に復帰し、さまざまな大臣職を経験するなどそれなりに活躍をした。


バトル・オブ・ブリテン


チャーチルの写真を見て、ブルドッグに似たその風貌からも分かるように、彼は一度食らいついたら死んでも相手を離さない。

1940年7月にヒトラーとゲーリングは英国に対して空爆をしかけた。

チャーチルは空爆されたロンドン市内を見て回り、市民の士気を高めた。

英国空軍(RAF)は勇猛果敢に立ち向かい(バトル・オブ・ブリテンと称される)、ドイツ空軍(ルフトバッフェ)の爆撃機を次々に撃墜した。

ルフトバッフェの戦闘機は航続距離が短く、満足に爆撃機の護衛ができなかった。

ドイツ軍は英国の制空権を握った上で、英国本土上陸作戦を決行する予定であった。

しかし、1940年10月に終わったバトル・オブ・ブリテンの戦いで、ルフトバッフェはRAFによる執拗な抵抗で多大な損失を被り、上陸作戦は断念せざるを得なくなった。


ドイツのソ連侵攻


チャーチルを屈服させることができなかったヒトラーは、1941年6月に独ソ不可侵条約を一方的に破棄し、バルバロッサ作戦を発動した。

独ソ戦の始まりである。

ドイツはソ連に領土を広げて、植民地を作ることを狙っていた。

ヒトラーはこの時、同盟国日本がシベリアからソ連を牽制してくれることを期待していた。

時の松岡洋右外相は「この機に乗じてドイツと手を組み、ソ連に攻め入るべきだ」といわゆる北進論を政府に提言している。

だが、満州国とソ連の国境線沿いで起きた1939年のノモンハン事件でソ連に大敗を喫している日本陸軍は、この案に及び腰であった。

あの手強いソ連軍を相手にしたくない、という思いが関東軍の首脳達にあった。

特に、ノモンハン事件では敗戦の責任を取って自決を迫られた将官もいた。

そういう事情もあり、陸軍は北進論に乗り気でなかったのである。

それにシベリア方面に出兵しても石油がないし、物資の補給もおぼつかない。


だが、後から考えてみるとこれはもったいない話であった。

関東軍は70万人の兵員を擁する最精鋭部隊である。

シベリアに直接出兵しないにしても、シベリアに侵攻するというそぶりだけでも見せておけば、ソ連のスターリンも警戒せざるを得ず、そこに駐留していた軍隊を東部戦線に転用することもできない。

そうすれば、東部戦線で戦闘を続けるドイツ軍の負担もだいぶ軽くなったのではないか?

その後、太平洋戦争が始まり、南洋の島々に関東軍の兵士や武器弾薬が輸送船で送り出されていったが、そのほとんどが米軍の潜水艦や軍艦、あるいは戦闘機や爆撃機などの航空機によって撃沈されていった。

まったく戦闘に使われることなく貴重な人命と物資が海底の藻屑と化したのである。


目論見の外れたヒトラー


そうした中、日本が米国と開戦したという一報がヒトラーの元に届く。

彼は、英国と戦いを続けたくなかったし、まして米国を巻き込めばとんでもないことになると心配していたのだから、まさかあの日本が米国と戦争を開始するとは夢にも思っていなかったに違いない。

確かに、ヒトラーはシンガポールなど英国のアジアにある拠点へ攻撃をしかけることを日本に要請している。

しかし、米国と戦争を起こしたということになると、ドイツも米国から宣戦布告されることは必然である。

「こんなことになるなら、日本なんかと同盟関係を結んでおくべきではなかった」と彼が悔やんだかどうかは分からない。

ただ、日本が真珠湾の奇襲に成功したことや、マレー沖海戦で勝利したことなどを受け、ヒトラーも気を取り直したのか米国に対して宣戦布告した。

しかし、私はなぜ日本は米国を相手に戦争を始めなければならなかったのか理解に苦しむ。

北進論が採用されず、米国と開戦することになったことを知った松岡は、「これでもうおしまいだ」と号泣したという。

識見の持ち主であったというべきか、米国との戦いに勝ち目がないことを彼はよく知っていたのだろう。


山本長官の真の狙い


山本五十六連合艦隊司令長官は、真珠湾攻撃の作戦について、「この作戦が許可されないのなら、俺は長官の職を辞する」とまで言い切った。

山本は元々米国と戦争をするのには反対だった。

「どうしてもと言えばやるが、最初の1年は何とかもったとしても、その間にうまく講和することができなければ敗北は必至だ」というのが彼の持論であった。

それなのに米国との開戦に踏み切った。

これが腑に落ちない。

私には、山本長官には米国に勝つと言うよりも何か別の狙いがあったように思える。

彼はもしかすると日本の軍部のあり方に懐疑的であったのかもしれない。

日本の軍内部の事情に精通した彼のことである。

彼らが専横で、それが日本経済の発展の足かせになっていることを彼は知っていたはずだ。

かといって、彼がその改革をできるわけがない。


米国を戦争に引きずり込めば日本は必ず負ける。

しかし、そうなればそれがきっかけとなって日本も米国のような民主主義の国に生まれ変わることができるかもしれない。

彼は日本の軍部を大掃除してくれることを米国に期待したのではないか?

真珠湾攻撃の後、態度を硬化させた米国を見て、彼は1942年6月にミッドウェー作戦を実行する。

しかし、この作戦は日本海軍の失敗に終わり、主力空母4隻と航空機の大半を失った。

また、歴戦の熟練パイロットもその多くが戦死した。

その後、山本長官はやる気をなくしたかのようだ。

1943年4月18日に彼は前線に視察に出かけるという名目で一式陸上攻撃機(略して一式陸攻)に搭乗した。

だが、なぜかこの時の暗号文は米国が簡単に解読できるようなもので、まるでこれから山本長官がどこかに行くことを米軍に知らせるような内容であったという。

米軍はこの暗号文を解読し、長官機の飛行経路に向けて16機のP38ライトニング戦闘機を発進させた。

P38は標的の長官機の一式陸攻を見つけるとその高速性を活かして一撃離脱(ヒット・アンド・ラン)態勢に入る。

一式陸攻は米軍のパイロットからワンショット・ライター(一発で点火するライター)と呼ばれていた。

被弾すると防御対策が施されていない機体のため、すぐに火を噴くのである。

長官機も被弾するとすぐに炎を上げながらジャングルの奥へと墜落していった。

こうして山本五十六長官の軍歴は幕を閉じた。

まるで自死の場面を自ら演出したような最後であった。

敗戦を覚悟した彼は、敢えて敗軍の将として米軍が日本本土に上陸するのを迎えるという境遇に我慢がならなかったのかもしれない。

これは私だけの感想ではない。

山本長官の戦死直後から「長官は自殺したのではないか?」という噂が軍関係者の間でささやかれた。

彼の真意がどこにあったのか、今となっては知る由もないが、敗戦後の日本が米英などの連合軍の占領下にあって民主化されている様子を天国から見て喜んだかもしれない。

そういう意味では、山本五十六は確かに名将軍(名政治家?)であった。



日本軍の南方進出


1941年12月8日の真珠湾攻撃の大戦果に比較して影が薄いのだが、実は日本軍はこの作戦と同時に東南アジア方面への作戦も開始している。

そして、真珠湾攻撃から2日後の12月10日、マレー半島の沖合で、ベトナムのサイゴン基地とツドウム基地を飛び立った九六式陸攻と一式陸攻が、水平爆撃と魚雷による攻撃でイギリス東洋艦隊の戦艦プリンス・オブ・ウェールズ(POW)と巡洋戦艦レパルスを撃沈したのである。

艦隊決戦ではなく、航空機だけで戦艦を沈めることができるということを日本軍が世界で初めて立証してみせた。


真珠湾攻撃で米国を開戦に向かわせることができたと大喜びしていた英国首相チャーチルは、POWとレパルスが撃沈されたという知らせに驚愕する。

「有色人種が軍用機を飛ばし、それで我が国の最新鋭艦を2隻も撃沈した?」

彼にしてみれば、猿が飛行機を操縦して、優秀民族であるはずの白人の軍隊に襲いかかったような気分だったろう。

こうした状況を目撃した白人達の中には、「日本人などに飛行機の操縦ができるわけがない。あれはドイツ軍のパイロットが操縦しているのだ」と考える人も多くいた。

当時、自動車はおろか航空機を自前で製造できるような国は有色人種の国にはなかった。有色人種の扱いはそんなものだったのである。



シンガポール陥落



ところが1942年2月8日にチャーチルが腰を抜かさんばかりのことがまた起きた。

シンガポール要塞が日本軍の手に落ちたのだ。

ここは英国が中心になって防備を固め、極東に対して日本軍の進出に睨みをきかす重要拠点であった。

だからこそ、チャーチルもPOWやレパスなどを含む強力な艦隊をこの方面に配置していた。

それなのに、わずか10日あまりでシンガポールが攻略されたのだ。

チャーチルは大いに落胆した。

ヒトラーは、三国同盟国のひとつである日本がシンガポールなどの英国のアジアの拠点を攻撃することを期待していたが、まさかシンガポールの占領に成功するとは思っていなかった。

そして、嬉しい反面、「有色人種に白人支配の象徴が攻め滅ぼされた」という事実を前にして複雑な心境であったという。

彼はドイツ民族、すなわちゲルマン民族こそが世界で最も優れた民族であり、世界の支配者となるべき民族であるとして大いに国民意識の高揚を図っている。

彼はそうした理想像のことをアーリア人と称しているが、その特徴は金髪、青い眼、そして背が高いという点であった

要するにヒトラーは一言で言えば白人優越主義者だった。

彼の著書『我が闘争』はユダヤ人批判で有名だが、白人であってもスラブ人(ポーランド人、セルビア人、ロシア人など)は「下等である」として嫌っていた。

それがホロコースト(約600万人のユダヤ人をヨーロッパ各地の収容所に送り込みガス室で毒殺した)が起きた理由であり、またソ連侵攻の際にドイツ軍が徹底的にスラブ系の民族を虐殺した理由である。

まして、アーリア人の特徴をまったく持たない日本人を含む有色人種をヒトラーやドイツ軍が重要視しているはずはない。


その他に、1942年2月から翌1943年11月まで2年近くもの間、日本軍はオーストラリア本土を空爆している。

当時のオーストラリアのジョン・ジョゼフ・カーティン首相は本国のチャーチルに支援を要請するが、チャーチルはドイツ軍の猛攻にさらされてそれどころではない。

こうした第二次世界大戦中の宗主国英国のつれない態度が、後にオーストラリアの関心をアジアへ向かわせるきっかけとなった。

白豪主義(白人しかオーストラリアに入れない)一辺倒だったオーストラリアが、「自分達はアジアの一員となるべきだ」という考え方にシフトし始めたのである。

日本軍の影響はこんなところにも出ていた。


インド方面での日本軍の展開


そして、極めつけは、1942年4月初旬にインド洋セイロン島沖で日本海軍とイギリス海軍が戦ったセイロン沖海戦である。

真珠湾攻撃を成功させた南雲忠一中将を指揮官とする空母機動部隊が日本海軍の主力であった。

日本海軍は、英国海軍の艦船を多数撃沈し、またセイロン島のコロンボの空爆にも成功して地上の軍事施設に多大な被害を与えている。

これに対して日本海軍の損失は十数機の航空機だけで艦船の沈没はなかった。


勝機を逸した日本軍


私はこの時期こそがインド上陸作戦を決行するチャンスであったと考える。

英国海軍の主力艦艇を撃沈し、隼や零戦の活躍によって制空権も奪った。

英空軍の戦闘機は英国本土防衛のために引き抜かれていて、残っていたのは旧式の戦闘機ばかりであった。

とても零戦に太刀打ちできるような代物ではない。

空も海もこの時点で日本軍に適う敵はいなかった。

だからこそ、この時点で日本の海軍は陸軍と呼応し、インド本土に上陸作戦を決行するべきだったのだ。


日本の真の開戦相手は英国とソ連?


私は、第二次世界大戦で日本が相手にすべきは英国とソ連であったのではないかと思う。

ソ連と開戦すべきであったことの理由は先に述べている。

悔やまれるのはなぜ米国を巻き込んでしまったのかということである。

クラウゼビッツの『戦争論』に「戦略的誤りは戦術的勝利によって補うことはできない」というのがある。

つまり、そもそも戦争をしかけるべきではなかった相手に対して戦争を起こしてしまったら、その戦争の中でいくら個々の戦闘に勝っても意味がないというわけだ。


日本は何も真珠湾を攻撃する必要はなかった。

また、米領のフィリピンやましてオーストラリアなどは放っておけばよかったのだ。

あの頃、日本軍は中国や満州にいた陸軍の将兵を次々と南洋の島々に派兵している。

派兵先の島々を見ると、こんなに多くの島に日本軍がいたのかとびっくりするぐらい、あの広い太平洋の各地に日本軍の基地が点在している。

どうするつもりだったのだろう?

米軍はそんなものは相手にせずに素通りするだけでよかった。

日本軍の小銃はおろか大砲を撃ったところで米海軍の艦船に届くはずもない。


米国を相手に戦争を始めたばかりに、無駄な作業ばかりが増えた。

真珠湾を叩かずに、英領の香港からマレー半島、シンガポール、ビルマ(現在のミャンマー)といった地点を攻略してそのまま西進し、インドに上陸しておけば、米国だって何もできはしない。

先に述べたように米国の世論はそれほど第二次世界大戦への参戦に前向きだったわけではないし、アイルランド系アメリカ人の中には英国が負ければいいと思っていた人もいるくらいである。

それに、ドイツ系やイタリア系のアメリカ人だって、英国を熱心には応援していなかっただろう。


インドに上陸すれば、インドの守備兵力は手薄である。

そして、そのほとんどはインド人で構成されている。

英国の植民地なので仕方なく英軍のために働いているが、日本軍がインドの独立のために上陸したと聞けば次々と寝返ったであろうことは想像に難くない。

そうなればチャーチルも仰天するどころの話ではない。

インドは大英帝国にとってドル箱であり、いわば生命線ともいうべき重要な植民地である。

これを奪われたのでは大英帝国の命運は尽きたも同様である。

もし、日本軍がそのままインドを西に横断してバグダッドのあたりまで進み、ソ連を攻めて南下してきたドイツ軍と合流するようなことにでもなれば、ソ連(現在はアゼルバイジャン共和国)のバクー油田までも占領されてしまう。


インドネシアはオランダ領であり、ドイツはこの頃オランダを征服していたので、日本軍がここに進出する口実はある。

開戦初期のうちに、空の神兵と呼ばれた日本軍の落下傘部隊はインドネシアの大油田基地であるバレンバンをほぼ無傷で占領した。

原油は採掘するだけでは駄目で、その精製技術が重要になる。

だが、日本の技術力は大したものでこの時既にそうした技術も持っていた。

そしてさらに日本が支配していた中国北部の撫順炭鉱では、石炭から石油を作り出すことまで研究されていたという。

だから、インドネシアの油田地帯を制圧し、貴重な鉱物資源などを確保したことは重要なことであり、米国の石油輸出禁止など恐れるに足らずであったはずだ。

日本は開戦前世界有数の大海運国家にまで成長していた。

これは軍艦のことを言っているのではなく、普通の商戦やタンカーなどの民間船のことである。

そうした船団を利用すれば、南方の資源を日本に持ち帰ることも容易にできる。

なぜなら、米国が参戦しないのであるから、米国海軍の潜水艦による攻撃も受けなくて済んだからだ。


そうしていれば、元々英国の帝国主義的な植民地政策を快く思っていなかった米国である。

案外、休戦の仲介役を買って出るというようなこともあったかもしれない。

しかし、キリスト教とは何か、あるいは旧教徒や新教徒の違い、ユダヤ人問題、そして米国内にある民族間の対立などまったく理解していない日本軍の指導者達である。

ただ、チャンチャンバラバラが好きなだけで、そういうような要素につけ込もうとする考えは毛頭ない。

戦後総理大臣になった吉田茂は外務省出身で英米の文化に精通している。

元軍人を政治家に登用してはどうかという側近の提案に対して、「軍人?駄目だ!あいつらは馬鹿だ」とこの提案を一蹴している。


インパール作戦


1944年3月になって日本陸軍はインド北部にあるインパールへの侵攻を目指す作戦を決行した。

この都市は、中国国民党軍の蔣介石将軍を支援するルート、いわゆる援蔣ルートの起点となっていた。

中国軍を叩くためにはこの地点を押さえる必要があるというのがこの作戦を立案した牟田口廉也中将の方針であった。

しかし、ビルマ(現在のミャンマー)の山岳地帯を越えて大部隊を移動させるというのは大変な作業で、しかも物資の補給がまったく追いつかず、十数万人もの日本兵が戦闘行為ではなく飢えと病気で命を落とすという惨憺たる結果に終わった。

「兵の運用は拙速を尊ぶ」というが、その実例がこのインパール作戦であった。

2年前のセイロン島沖海戦の時にインド上陸作戦を決行していれば、こんなことにはならなかったはずで、あの頃と違い、この頃の英軍は対ドイツ戦が有利になってきたせいもあって、アジアに十分な物資を回すことができるようになっていた。

1944年3月といえば同じ年の6月に起きたノルマンディー上陸作戦の数か月前であり、欧州戦線でのドイツ軍の敗北は誰の目にも決定的なものとなっていた。

米国の軍需産業の生産力も軌道に乗り、軍用機の製造数も急上昇した。

日本では主力戦闘機の零戦を敗戦までに1万機程度製造したに過ぎないし、隼、飛燕、紫電改などその他の戦闘機の製造数をすべて足してもせいぜい2万機程度の戦闘機を作り出しただけであろう。

しかし、米軍のP38ライトニングは1万機、P47サンダーボルトは1万5000機、P51マスタングは1万5000機、F6Fヘルキャットは1万2000機、F4Uコルセアは1万2000機と、主力戦闘機の生産総数は6万機を優に超える。。

これにはF4FワイルドキャットやP39エアラコブラなどの初期の戦闘機の生産台数は含まれていない。

その他にも米軍は、B17、B24、B25、B26、B29といった双発や四発の爆撃機も多数生産している。

特にB29などは戦闘機11機分のコストがかかると言われており、それが終戦までのわずか数年の間に4000機近くも作られているのだから米国の工業力には恐れ入る。


さらに頭数だけそろえても意味がない。

稼働率が問題である。

戦争中、多くの熟練工が徴兵されてしまった日本国内の工場では、その不足を補うために少年少女達が動員されて働いていた。

当然技術力はなく、練度も低い。

だから、日本軍の航空機も満足に機能するものがほとんどなくなった。

ドイツのメッサーシュミットを真似て製造された飛燕などは、日本軍としては画期的な水冷式エンジンを搭載していたが、このエンジンは何分の1mmといった単位で非常に精密な部品作りが要求される。

ドイツはあの頃から既にポルシェやベンツといった高性能車を作り出していた。

水冷式エンジンは、工業先進国のドイツであったからこそ達成できた技術であって、日本の工作機械ではドイツの工作機械のような精度を望むすべもなく、空冷式エンジンに比べてはるかに複雑な工程が要求される液冷式エンジンなど、その完成度が低くなるのは当たり前であった。

無論、そのドイツ以上に工業化の進んだ米国である。

製造された航空機の稼働率は、水冷式エンジンを搭載したP51のそれを含め、100パーセントに近かったであろう。

1930年頃の米国の自家用車の普及率はすでに5人に1台になっていた。

同じ頃の日本では自動車などよほどの大金持ちでなければ乗れない。


戦時中、日本では「進め一億火の玉だ」、「欲しがりません、勝つまでは」などと精神論一辺倒であったが、物量の不足はどうしようもなかった。

そのような状況の中でのインパール作戦である。

「2年も経ってから、何でいまさらインド侵攻なのか?それも海からではなく交通の便の悪い山岳地帯を通って?」ということになる。

英軍は兵士も武器弾薬もこれでもかというぐらい整えて、日本軍を待ち構えていた。

航空機や戦車などの機械化部隊の力も日本軍のそれをはるかに凌駕した。

この頃の日本軍に空からの支援は望むべくもない。

英軍を包囲して、「勝った」と思っても、空から輸送機がいくらでも物資を英軍の陣地に落としていく。

それを撃ち落とす日本軍の飛行機はいっさい存在しない。

敵の輸送機は任務を果たすと悠然として去って行く。

逆に補給のない日本軍は細る一方で、日本兵が一発でも小銃を撃てば、そこをめがけて何百発もの銃弾や大砲の砲弾が飛んでくる。

たまに、日本軍の陣地の近くに誤ってそうした補給物資が落ちることがあるが、それを奪いにいくのは命がけであり、まず成功する見込みはなかった。

出て行ったとたんに敵の銃弾で蜂の巣にされるのが関の山であった。


地球上の400分の1の陸地に住む国民が、世界の大半を支配する連合軍に立ち向かったのであるが、これを「怖いもの知らずの猪突猛進」とか「井の中の蛙、大海を知らず」と呼ぶべきか、あるいは「私たちの祖先は偉かった」と称えるべきなのか、表現に苦しむ。


このインパール作戦の大敗北により、インドを揺さぶって戦局を日本の有利に導くという可能性は完全に潰えた。


ミッドウェー海戦


インパール作戦より約2年前の1942年6月、セイロン島沖海戦に勝利した南雲部隊はミッドウェー作戦に出動する。

赤城、加賀、飛龍、蒼龍の4空母からなる第一航空艦隊はミッドウェー島に向かって進んだ。

ミッドウェー島はハワイ諸島の北西にある小さな島で、戦略的にそれほど重要な地点とも思えないが、山本五十六長官は真珠湾攻撃で撃ち漏らした米海軍の空母群をこの海域におびき出し、今度こそ殲滅してやろうという意気込みであった。

山本長官は空母群による艦載機での決戦を念頭においていたため、大和などの戦艦を中心とした山本が率いる主力部隊は空母部隊から550kmも離れた位置にいた。

もし、日本海軍の空母群が敗れたら、敵機の攻撃によって大切な大和が持たないという判断であった。

空母艦載機を使用して真珠湾攻撃を成功させて、航空機の戦艦に対する優位を証明した山本でありながら、この期に及んでなお戦艦対戦艦の戦闘を念頭においていたのだろうか?

この時点で、大和などの軍艦を空母のそばに大量に配置して敵機の迎撃にあたらせるという考え方はまだなかった。

最初、日本の空母から発進した攻撃部隊はミッドウェー島の爆撃に成功する。

そして、第一次攻撃隊からの「第二次攻撃の要あり」との知らせを受けた南雲は、通常爆弾を装着していた艦載機に陸用爆弾への換装を命令する。

一言で換装とは言うが、爆弾を取り替えるには1時間以上もかかる大変な作業になる。

しかも、やっと換装が終わったと思ったとたん、日本海軍の索敵機から「敵空母発見せり」という一報が入った。

南雲は、今度は魚雷への換装を命令する。

空母の艦内は蜂の子をつついたような大騒ぎになった。

その一瞬の隙を突いて、敵の急降下爆撃機が突っ込んできて、赤城、加賀、蒼龍に爆弾を落とした。

艦内に換装用の爆弾や魚雷がごろごろ転がっていたのだが、それに火が付き、あっという間に3空母は炎上を起こして沈没した。

その後、残っていた飛龍も敵機の攻撃で沈没した。

このときの蒼龍には私の母方の叔父も乗艦していて戦死している。

飛行機の整備員であったというから、おそらくこの時の爆発で命を落としたのであろう。

享年26歳であった。

日本海軍はこれによって主力空母すべてと真珠湾攻撃以来の歴戦の熟練パイロットを多数失った。

日本海軍が再び米海軍と相まみえるのは2年後の1944年6月のマリアナ沖海戦であった。

日本軍の破竹の進撃は開戦から半年で終わりを告げ、1945年8月15日までの残り3年間ほぼ負け戦ばかりが続く。


空前絶後の空母対空母の決戦


ただ、私はここで注目すべきは、セイロン島沖海戦での英空母との戦いやビスマルクの撃沈に一役買った英空母の事例を除き、日本と米国が世界の海戦史上初の本格的な空母対空母の決戦を行ったということではないかと思う。

これは少し日本人として誇りに思っていいことではないか?

それまで劣等だと思われていた有色人種が空母を建造し、そこから飛行機を発進させて敵の空母やその艦載機と渡り合った。

これはドイツもなしえなかったし、イタリアもフランスも空母対空母の戦闘などは行っていない。

独海軍はグラーフ・ツェッペリンという空母を建造しかけたが、結局完成できず、無論艦載機による空母同士の決戦などは夢物語であった。

また、そもそも旧教徒国のスペインは第一次世界大戦も第二次世界大戦も参戦していない。

ポルトガルも第一次世界大戦中、連合国側に参加したが、第二次世界大戦には参戦せず、中立政策をとっている。

私は、「戦争とは有形力を持って行使する国家的意志の発露である」と言うが、とどのつまり、戦争とは失業対策ではないのかと思う。

スペインやポルトガルは南米大陸を握っている。

19世紀になって南米大陸にあったスペインやポルトガルの植民地はほとんど独立したとは言え、かつての宗主国との絆は強い。

これらの国々の公用語は今でもスペイン語かポルトガル語であって、スペインやポルトガルの人達がこれらの国々のことを別の国と考えるだろうか?

あの広大な土地からは豊富な穀物や野菜、果物、そして家畜が育つ。

スペインやポルトガル、そして南米大陸の国民は基本的に食うことには困らない。

だから、世界大戦に参加して飢えた国民を兵隊に駆り立てて戦地に送る必要がなかった。

対してドイツや日本には植民地がほとんどない。

農家の次男三男には農地がなく、しかも当時の産業としては農業しかないので、彼らは職がなくなってしまう。

ドイツ軍のSSと呼ばれたヒトラー直属の親衛隊は勇猛をはせた軍団で、通常の軍隊の10倍の働きをすると言われたが、その出身母体は農村であった。

SSは農家の次男三男からなる部隊であった。

これは日本も同様で、やはり農家の次男三男が軍隊に志願もしくは招集されている。

旧教徒は新教徒から見ると怠け者に見えると先に書いたが、怠け者というよりはやはり余裕が違うのである。

そんなにムキになって働かなくても食っていける。

だから、空母などという複雑なものを建造するわけがない。

空母はかなり高度な技術を要する、当時としてはハイテクの塊のような軍艦であった。

そして、それは今も変わらない。

中国海軍は空母、遼寧と山東を建造しているが、満足に機能していないという。

2021年の4月になり、両空母とも途中で航行不能に陥ったということが報告されている。

太平洋戦争勃発から80年以上経った今でも、中国のような大国においてさえこの体たらくである。

いかに当時の日本の技術力が優れていたかが分かろうというものである。


空母はそれを作るのも大変だが、それを運用するのはもっと大変である。

空母の建艦技術、航海術、艦載機を操縦するパイロットの技量、空母を護衛する艦船、さらに燃料などを運ぶ補給船、そういったものがすべてそろわないと運用できない。


空母が港に停泊している時は大きく見えるが、広い太平洋に出てしまえばごま粒程度の大きさでしかない。例えば、赤城の飛行甲板の長さはわずか260mである。

その甲板上に戦闘機零戦、次に九九式艦上爆撃機、そして最後が九七式艦上攻撃機という順番で並ぶ。

戦闘機が一番軽く単座なので滑走距離も短くて済むからだ。

九九式艦爆機は250kg爆弾を積むのでその後、九七式艦攻は800kgの魚雷を積むので一番最後になる。

空母は、風上方向へ全力航行して少しでも艦載機に揚力が発生するようにするが、それでも零戦の場合100mちょっとの滑走距離で発艦しないといけない。

今の空母ならカタパルトがあって、F/A-18ホーネットのような自重が14トン(零戦は1.8トン)を超えるような巨大な戦闘攻撃機でも軽々と空中に打ち上げてしまうが、当時はそんなものはない。

離陸に成功するか否かは、まったくパイロットの技量頼みなのである。

そして、戦闘機群は、上空で後から上昇してくる艦爆や艦攻を待ち、編隊を組んで敵軍に向かっていく。

しかし、あの大海原の上である。

見えるのは海と雲とそして太陽のみで、それ以外何も目標になるものはない。

零戦は単座でパイロットのみ、艦爆はパイロットと機銃手の2名の乗員、そして艦攻は3名で前席がパイロット、中席が偵察員、後席が機関銃手である。

ここから先は推察だが、おそらく艦攻の偵察員が距離や方向などをナビゲートしたのではないかと思う。

もちろんGPSや電卓などない時代のことであるから、地図と分度器、そして計算尺などを使って自機の位置と敵の位置を割り出していったのではないか?

私はネットで「零戦には、クルシーと呼ばれる無線帰投装置が装備されていた」との記述を見つけたが、これも故障が多くて実戦には不向きだったらしい。

また、無線もあるにはあったが、あまり使い物にならなかったと往年のパイロット達が証言している。

だから、偵察員のいる艦攻に誘導されながら目標地点まで飛行したのだろうが、敵地上空では空中戦で大混乱状態になる。

そのような状態の中で零戦が帰投する時、もし艦攻からはぐれてしまったらどうなるのか?

単機であの何もない大海原を太陽の位置だけを頼りに飛行を続けることになる。

日本本土上空とか、何か地形が見えるところなら位置の確認のしようもあるが、海の上ではどうしようもない。

やがて母艦が見つからないまま燃料が尽きて洋上に不時着し、そのまま力尽きて亡くなったパイロットも多いのではないか?

母艦では未帰還機は撃墜されたものとして片付けられるが、実際にこうした戦死の仕方もあったのだろう。


この点、米軍は人命保護のために最新の注意を払っている。

ブッシュ元大統領の父親(いわゆるパパブッシュ)も元大統領だったが、彼は太平洋戦争中志願して米海軍のアベンジャー雷撃機のパイロットになっている。

パパブッシュの乗機は小笠原諸島近くで撃墜され、彼は洋上を漂うことになったが、米軍の潜水艦に救助されている。

撃墜された他の米軍機の乗員は日本軍の守備隊に捕らえられ、斬首された上に人肉として日本軍守備隊の司令官達に食われた(小笠原事件)。

後に、戦犯として裁かれた元司令官は絞首刑になるまで連日にわたって米軍兵士によるむごたらしいリンチを受けたという。

後に米国大統領になったパパブッシュは、新聞記者にインタビューで「原爆投下について日本に謝罪の必要があるのでは?」と問われた時、「どうしてそんなことをしなればならないんだ?」と穏やかな性質の彼にしては珍しくやや気色ばんだ様子を示している。

おそらく、小笠原事件のことが彼の記憶に焼き付いて離れなかったのだろう。


B29が本土爆撃をしたときは、搭乗員に対して「被弾して飛行不能になったら、とにかく海上に出て不時着しろ」と命令が出されていた。

米軍は一定間隔で潜水艦や駆逐艦、また飛行艇などを配備して海中に救命ボートで漂う搭乗員達を救出している。


日本軍の人命軽視の思想はこの後も続くが、ともあれこのような不利な条件の中で勇敢に戦った日本の兵士にもっと敬意を払ってもいいのではないかと思う。

これは戦争賛美論とはまた次元の違う発想ではないだろうか?


餓島


1942年8月から43年2月にかけてガダルカナル島の戦いがあった。

日本軍はこの島に上陸して米軍の飛行場を占拠することを目的としていたが、航空兵力に優る米軍は日本軍の輸送船を次々と撃沈した。

補給路を断たれた日本軍将兵の多くが戦闘ではなく飢えによって命をおとした。

このことからガダルカナル島は「餓島」と呼ばれた。

日本軍は1943年2月に餓島から退却したが、上陸した時に約3万人いた日本軍将兵のうち30パーセント程度しか救出されなかった。

しかも、戦死した2万人ほどの将兵のうち約15,000名は餓死と戦病死だったと推定されている。


山本長官の戦死


1943年4月18日には山本五十六連合艦隊司令長官が戦死した。

米軍はこの頃2つの方面から日本軍を攻める計画を立て、ニミッツ海軍大将はマリアナ諸島方面を、そしてマッカーサー陸軍大将はフィリピン方面から日本軍に迫ることになった。

1943年5月にはアッツ島の日本軍守備隊が玉砕した。

玉砕とは要するに日本軍の全兵士が敵の陣地めがけて一斉に「バンザーイ」と叫びながら飛び込んでいくことで、半ばやけっぱちな集団自決的戦闘方法であった。

傷病などで動くことができない兵士にはバンザイ突撃の前に自決用の手榴弾が手渡された。

これ以降、日本軍がいる太平洋各地の島々で玉砕が続くことになる。


戦局は日本軍の不利に傾きつつあったが、大和はこの頃あまり活躍せずトラック島と内地の間を行き来するだけで、日本軍の関係者からは「大和ホテル」と馬鹿にされた。

先にも述べたが、父は生前「トラック島の頃の大和は知らない」と語っていたが、晩年講演会に呼ばれてその時話した内容が雑誌の記事になっている。

それを読むと父は「1943年の8月に大和に着任した」と語っている。

とすると、この時父はトラック島に行っていた可能性もあるわけだが、1943年といえば父が16、7歳の時であるから、まさに少年兵というか、よくもこんな若い兵士が大和に乗っていたものだと驚く。

無論この頃の父は、新教徒と旧教徒の争いとか、英国の産業革命がどのように世界を変えたとか、植民地支配とはどういうものなのか、そういったことはまるっきり知らなかっただろう。

また、その後の人生でも世界史に関する知識はほぼゼロのままだった。

父は、ただ黙々と機械室でエンジンの調子を見ながら働いていたに違いない。



マリアナ沖海戦


1943年12月に大和は米軍の潜水艦による魚雷攻撃を受けて破損するが、大きな損傷ではなく内地に帰って修理を受けた。

そして、1944年6月にマリアナ沖海戦に出陣した。

ミッドウェー海戦で主力空母を失った日本海軍であったが、あれから2年が過ぎ何とか大型正規空母の大鳳を建造できた。

加えて大型空母の翔鶴と瑞鶴、そして軽空母6隻をそろえた。

ゼロ戦は防御能力を高めた五二型に改良され、九七式艦上攻撃機の後継機「天山」、そして九九式艦上爆撃機の後継機「彗星」も用意された。

しかし、彼らが米海軍の空母群に迫った時、米海軍はレーダーによってその位置を正確に割り出し、彼らを上空で待ち構えていた。

米軍機は圧倒的に優位な位置、すなわち、敵機の真上に位置することができたため、後に「マリアナの七面鳥撃ち」と称されるほど容易に多くの日本軍機を撃ち落とすことができた。

さらに、空母翔鶴が敵の潜水艦の魚雷攻撃で沈没し、新鋭空母の大鳳も米軍の潜水艦が放ったたった1発の魚雷が原因であっけなく沈没してしまう。

マリアナ沖海戦はミッドウェー海戦に続き、日本軍の大惨敗に終わった。

日本軍はこれによって400機以上あった艦載機のほとんどすべてを失い、もはや空母対空母の決戦は望むすべもなくなった。

なお、この戦いにおける米軍側の損失は130機程度であるが、撃墜されたのは40機程度で、残りは不時着などによる飛行機だけの損失になっている。

米海軍は勇敢というか、日没間際になって日本の艦艇を発見し、マーク・ミッチャー中将は空母の艦載機に攻撃命令を出した。

今飛び立てば帰投する頃は日が暮れて空母に着艦することは難しくなることを承知の上での命令であった。

米海軍は夜間明かりを灯して帰還する米機のために目印とした。

無論、空母の甲板上に着陸することは無理なので、帰投した米機はその明かりを目印に母艦の近辺に着水し、夜明けを待って救出されたのである。

夜間照明は敵の標的になりやすいので、これは危険な賭けであったが、敵ながらあっぱれと言うしかない。


この海戦における大和や武蔵などの主力艦艇であるが、彼らはこのときもやはりミッドウェー海戦の時と同じく主力の空母部隊からかなり離れた場所に位置している。

日本軍には戦艦を空母の護衛に使うという発想はあまりなかったのだろうが、米軍は空母を中心に置き、その隣に駆逐艦、そしてその外側に戦艦や巡洋艦を配するという円形陣を採用し、さらに上空には戦闘機が護衛の任に常に就くというまさに鉄壁の布陣であった。

しかし、大和が遠く離れて配置されたおかげで父も助かったのかもしれない。

米軍の狙いは既に空母に移っていて、戦艦などには目もくれなかったからだ。


マリアナ沖海戦と呼応して米軍はサイパン島への上陸作戦を決行し、日本軍の激しい抵抗に遭いながらも同島やグァム島、そしてテニアン島などのマリアナ諸島を占領した。

サイパン島が陥落し、長距離大型爆撃機B29の航続距離内に日本本土が入ることになり、日本本土への空襲は必至の情勢となった。

東條英機内閣はサイパン島の陥落を受けて総辞職した。


マリアナ沖海戦からわずか4か月後の1944年10月に米軍はフィリピンに迫る。

大本営は「米軍には物資の補給がいるから1944年末までは何もしかけて来ないだろう」と思っていた。

しかし、米国の物量の豊富さや輸送力はその予想をはるかに上回るもので、まさに海を埋め尽くさんばかりの大艦隊がフィリピンを目指して進撃してきた。

この時既に米海軍の空母数は、艦載機を輸送することだけを目的とした空母を含めると100隻になろうとしていた。


米軍の参謀本部はフィリピンを攻略することには乗り気でなかった。

フィリピン方面は相手にせずに直接日本本土を目指せばいいではないかというのである。

私もそう思う。

何もフィリピンを攻めなくても、米軍の進撃に邪魔になるわけではないし、それよりも早くマリアナ諸島から硫黄島や小笠原諸島など、飛び石伝いに各島を占拠して、その基地から日本本土を直撃した方がよっぽど安上がりだし、手間もかからないだろう。

だが、ここにはフィリピン方面の指揮官ダグラス・マッカーサー元帥(当時は大将)の面子があった。

彼は太平洋戦争の開戦時にフィリピンを逃げ出してオーストラリアに向かったのだが、そのとき「アイ・シャル・リターン(私は戻ってくる)」と大見得を切った。

マッカーサーという人は軍人としての美学、すなわち「かっこよさ」にこだわる、どちらかと言えば役者のような人物だった。

レイテ湾上陸の時のニュース映像を撮影にきた記者達に対して、自分が海岸に上陸する様子を何回も撮り直させている

フィリピンでの戦争を渋るルーズベルト大統領をマッカーサーは「米国の植民地をこのまま見捨てては米国の歴史に汚点を残す。そんなことをしたらあなたの再選も危うくなるだろう」と彼にこの作戦の重要性を訴えた。

ルーズベルトはこの主張を受け入れフィリピンへの侵攻を許可した。

1944年10月17日、マッカーサーは17万人もの大群を率いてフィリピンのレイテ島への進攻を開始した。海からはニミッツ大将が率いる太平洋艦隊がその支援に当たった。

日本海軍は艦船が70隻に航空機が600機とそれなりに数はそろえたが、米海軍の艦艇数は、補給船などの支援のための艦船を加えるとその数は優に1500隻を超えた。

米軍機の数も1000機で、頭数だけは多くて稼働率の低い日本軍の航空機と比べて、どれもみな最新鋭の優秀な航空機ばかりだった。


レイテ沖海戦


日本海軍はレイテ島に上陸しようとするマッカーサーの軍隊を阻止するため、捷一号作戦を発動する。

日本海軍の部隊は主に3つの部隊に分かれた。

1つは小沢治三郎中将が率いる航空母艦を中心とした艦隊でルソン島の北東部を進む。

もう1つは、栗田健男中将が率いる大和や武蔵を中心とした主力艦隊で、この部隊がレイテ湾に突入することになっていた。

栗田艦隊はブルネイを出て西側からフィリピン諸島に向かった。

ブルネイは東南アジアのボルネオ島北部にある国だが、父は生前「南の島のようなところに行った。みんなとトラックに乗って走っていたら、大きなバナナの木があった。そこに登ってバナナを取って食べた」というような話をしているので、おそらくこの地にいた時の話をしていたのではないかと思う。


そして最後の1つは、西村中将と志摩中将の率いる旧式の戦艦を中心とした艦隊で、西村部隊はミンダナオ島の北側を進み、志摩部隊はルソン島の西側から進んだ。

小沢艦隊の空母には艦載機はなく、ただ米太平洋艦隊を引きつけるための囮的な役割を担っていたにすぎなかった。

また、西村中将と志摩中将の部隊も同じく囮的な役割を担っていた。

この時、神風特別攻撃隊いわゆる特攻隊が編制され、5機の零戦が敵の艦船めがけて自爆突撃を敢行した。

小沢艦隊は見事ハルゼー大将の指揮する高速機動部隊を引きつけることに成功する。

また、西村艦隊も敵陣の十字砲火の中に飛び込んで行って壊滅的打撃を受けたが、敵の注意を栗田艦隊から逸らすという任務を見事に果たした。

小沢も西村も特攻隊もすべてその職責を果たし、後は大和がレイテ湾に突入するのを待つだけという状況になった。

何しろ、その時レイテ湾には上陸用の輸送船や補給艦ばかりで、ここに栗田艦隊が突入していればそれこそいくらでも米軍の艦船を沈めることができたはずであった。

ところが、突入間近になって栗田中将は大和以下すべての艦船に反転を命じる。

そしてそのまますたこらさっさと戦線を離脱してしまったのである。

なぜ、反転したのかについて栗田中将は戦後一言もしゃべらなかった。

元々彼は上空に航空機の援護がないのに艦隊攻撃をしかけても負けるだけだという考え方の持ち主だった。

現にレイテ湾に向かう時も、大和の同型艦の武蔵が米軍の艦載機による猛攻撃を受けて撃沈されている。

こうしたことで彼も恐怖心を感じるようになったのではないだろうか?

栗田中将の写真を見ると生粋の職業軍人というか、厳しい風貌の持ち主で、まさに戦うために生まれてきたのではないかと思わせるようなところがある。

これに対して西村中将はおとなしそうな顔立ちで、とても自分の身を挺して大量の敵の艦船が待ち構えるそのまっただ中に飛び込んでいけるような度胸があるようには見えない。

人は土壇場の状況に置かれた時にその人の本質が分かるというが、これはその実例と言えよう。

栗田中将は、ここ一番というところで慎重になりすぎるところがあったのかもしれない。


いずれにしても大和が反転したことは、父にとって幸運であった。

もし、大和がレイテ湾に突入していれば、かなりの大戦果を挙げたことは間違いないが、しかし、やがて米軍の艦載機による猛攻を受けて武蔵と同じ運命をたどったであろう。

仮に、父がうまく沈没する大和から脱出できたとしても、そのままフィリピンにいる日本陸軍に徴用されて兵隊として使われていた可能性がある。

沈没した武蔵の生存者の一部が実際にそうした運命をたどっているが、うまく生きて祖国に帰ることができた人は少ないという。


父の負傷


ただし、父は簡単に命拾いをしたわけではない。

1944年10月24日に武蔵が沈んだとき父は大和の船内で作業をしていた。

父はこの時17歳で正式な兵士ではなく工作兵として艦内の修理だけを担当していた。

そして、大和にも敵機の爆弾が命中し、父のすぐそばで爆発したため何人かの兵士が亡くなった。

周りが火の海になり、父は慌てて上甲板まで逃げたが、背中に大やけどを負っていた。

その時にできたケロイドは、私が小さい頃父といっしょに風呂に入った時に何度も目にしたが、父はなぜ負傷したのかについて詳しく語ろうとはしなかった。

もし、あの時少しでも父のそばで爆弾が爆発していれば、父のそばにいた他の戦友同様、粉々になって戦死していたことは間違いない。

父の生き運の強さはこの頃から発揮され始めている。


レイテ沖海戦で武蔵は46センチ主砲を軍艦同士の海戦に活かすことなくシブヤン海に沈んだ。

武蔵の主砲から三式弾(散弾銃の弾に似ている)と呼ばれる対空射撃用の弾丸が発射されてはいるが、艦隊決戦に主砲が使用されることはなかった。

大和は少しだけ艦隊決戦をしている。

武蔵が沈没したのと同じ時期の10月24日、大和は米軍の護衛空母を中心とした小規模の艦隊に向けて主砲を100発ほど発射した。

これによって大和は護衛空母のガンビア・ベイを撃沈したと言われているが、大和でなく重巡の利根であったとする説もある。

いずれにしても、日本側の戦果は護衛空母1隻と駆逐艦2隻のみであり、大和がそれほど大きな活躍をしたわけではない。

米国の太平洋艦隊と日露戦争の時のような大決戦をするべく建造された世界最大の2戦艦が、これぐらいの使われ方しかされなかったというのは何ともお粗末な話である。

大和も武蔵も完成した時には既に時代遅れの無用の長物と化していた。


日本に帰国した大和は母港の呉軍港が機雷で封鎖されたため徳山港に待機した。

1943年3月26日に沖縄戦が始まり、約12万人の日本軍守備隊に対して米軍が約18万人の兵員を擁して上陸作戦を決行した。

米軍の総兵力はその後55万人近くになった。


大和の水上特攻


大本営はこれを受けて大和を沖縄に突入させることを決定する。

いわゆる海上特攻の開始であった。

命令を受けて大和に乗艦することになった第二艦隊司令長官伊藤整一中将(大和の艦長は有賀幸作中将)は、当初この作戦(菊水作戦)に反対だったが、上層部の強い説得を受けて出陣を決意する。

しかし、父はこの時も生き運があったというべきか、沖縄特攻が行われる1か月前に既に大和を退艦して陸上勤務に就いていた。

父の話では、父は大和に搭載されている水上偵察機の整備にあたっていたのだが、その飛行機がなくなったので父の仕事がなくなり、それで大和を降りたという話であった。

もし、あのまま大和に乗艦していたらどうなっていただろう?

大和は軽巡洋艦矢矧と駆逐艦8隻のみで艦隊を組んで出撃したが、航空機の援護は途中までしかなく、それ以降は空への防備は丸腰の状態であった。

案の定、大和の位置はすぐに米軍の察知することになり、4月7日に鹿児島県の坊ノ岬沖で米艦載機300機以上による波状攻撃を受けて沈没した。

乗組員約3000人のうち、生還者はわずか269人しかいない。

生存できた確率は10分の1であり、父が乗艦していれば戦死していたことはほぼ間違いない。

私が伊藤整一中将が偉かったと思うのは、大和が出港する直前に少尉候補生ら七十三名に退艦を命じていることである。

彼は「日本は負ける。しかし、若い諸君らは是非生き残って日本復興のために力を尽くしてほしい」と語ったという。

部下に無謀な命令を下しておきながら、自分は安全な場所に逃げ込むような指揮官の多かった日本軍の中にあって、こういう立派な人格者の指揮官もいたのである。


日本の敗戦


1945年8月15日に日本はポツダム宣言を受け入れ無条件降伏をした。

だが、私としては、先述したとおり、短期決戦に持ち込んでいれば、日本がこの戦争に勝つ可能性は十分あったと思う。

しかし、負けは負けである。

「あれだけの物量の差があったのだから、負けたのは仕方がない」と言ってしまえばそれまでだが、私は「負ける軍隊には何かしらそれ自体が問題を抱えている」のだと考える。

日本の軍隊には勝利を得るための美徳がなかったのだ。

日本軍は国民を幸福にする軍隊ではなく、国民に理不尽な犠牲を強いる軍隊だった。

チャーチルは英国が勝利したとき「これは自由と民主主義の勝利だ」と演説した。

英国では戦時中でも個人の自由は守られ、基本的人権は尊重された。

国内の炭鉱労働者は自分達の賃金を上げてもらうためにこの時期でもストライキをしている。

ストライキを起こした労働者達のリーダーは語った。

「英国が大変なのはわかるが、我々労働者もせっかく手に入れたこの権利を簡単には手放せない。」

こうしてみるとチャーチルが「自由と民主主義の勝利」と言ったのは、裏を返せば「欧米列強の金持ち国に、極東の貧乏国や植民地も持たないドイツやイタリアなどが勝てるわけがない」と言っているようにも聞こえる。


また、少し話は古いのだが、第一次世界大戦中、ドイツ軍がパリに迫ってきた。

パリからわずか200kmくらいのベルダンなどでは大激戦が行われていたにもかかわらず、パリ市民は普通にカフェでお茶をのみ、カップルが手をつないでセーヌ川の河岸を散策していた。

女性達は着飾ってシャンゼリゼ大通りを闊歩した。


日本で太平洋戦争中こんなことをしようものなら、たちまち憲兵や、秘密警察の一種、特別高等警察(いわゆる特高)の刑事が「この非国民」と怒鳴りつけ、逮捕されてしまっただろう。

女性はパーマも禁止され、おしゃれな格好をすることもままならず、木綿の代わりにスフと呼ばれる粗末な人造繊維で作った衣服を着ていた。


今から100年前のフランスはこれとはまったく違う。

太平洋戦争が始まる約30年前の1910年代でもフランスにおける市民階級の成長は著しかった。

間違っても軍の兵隊や憲兵が飛んできて「おまえら、この非常時に何をしている!武器をとってパリを守れ!」など怒鳴るようなことはない。

パリ市民にしてみれば、

「戦争は軍隊の仕事であって、我々の仕事ではない。

軍隊が懸命に働くのは我々の税金で賄われているのだから、その軍隊が我々に指図することはない。

そもそも兵士に雇われているのは貧しい農家の次男三男、あるいは労働者(プロレタリアート)や無産労働者(ルンペンプロレタリアート)であって、我々ブルジョア(市民階級)もしくはプチブル(小市民階級)の人間が戦争などで手を汚す必要はない。」という論理であった。

実際、兵士達の給料は安く、兵士になったのは、パリ市民の富裕層からではなく貧しい農村部からかき集められた農民達であった。

また、パリ市内にあったタクシーが総動員されて兵員を前線に運ぶ手伝いをしているが、もちろんそのためのタクシー代は国から支給されている。


日本軍の凋落


日本では太平洋戦争中、お国のためということで寺の鐘や家庭内の金属製品まで無償で軍のために拠出した。

戦争末期、日本軍はもはや支離滅裂の状態にあった。

ただ、戦争を遂行することだけが目的となり、市民生活を犠牲にすることや特攻隊を編制することなどなんとも思わなくなっていた。

沖縄戦では女子学生が動員され、日の丸の鉢巻きを額に巻き、モンペ姿で竹槍を持ち、敵の戦車に突撃しろと命じられた。

挙げ句は米軍の捕虜になるくらいなら自決しろと手榴弾を渡された。

学徒動員された学生達は、いきなり特攻隊を命じられた。

訳も分からないまま、「行くのか行かないのか、はっきりしろ」と上官に怒鳴られ、「行きます」と答えるしかなかった。


作家の司馬遼太郎は、戦時中、戦車隊の小隊長だった。

彼は、当時の上官が「戦争に勝つためなら(日本人の)市民を犠牲にしてもかまわない」と語るのを聞いて愕然となったと述べている。

太平洋戦争終結後、日本占領軍の総指揮官になったダグラス・マッカーサー元帥は日露戦争当時の日本軍幹部を知っている。

しかし、敗戦後の日本の高級軍人の姿を見て、「これがあの明治時代の時と同じ日本の軍事指導者か」とそのお粗末ぶりにあきれかえったという。


明治時代の高級軍人はほとんどが武士階級の出身である。

彼らは「武士は食わねど高楊枝」ではないが、自分達の階級に対する強い誇りがあった。

いやしくも武士たるものが、町民や農民を犠牲にするとは何事か。

戦国時代であってすら、農民を兵隊に使うようなことはしていない。

現に関ヶ原の合戦の時は、近在の農民達はその様子をそばから見学している。


戦後の東京裁判で戦争責任を問われた日本の指導者達の多くは、言い訳や弁明に努め、部下に責任をなすりつけた。

そこに武士階級に見られた潔い態度というものは微塵も見られなかった(ただし、文民でありながら広田弘毅だけは例外で、彼はひたすら戦争責任は自分にあるとして進んで絞首刑に処せられた)。


1904年の日露戦争当時、旅順攻囲戦で勝利した乃木希典将軍(元長州藩士)など、威厳もあったし、貫禄もあった。

太平洋戦争中の日本軍と違い、捕虜を虐待するなどとんでもない話で、敗軍となったステッセル将軍らロシア軍人を丁重に扱っている。


また、第一次世界大戦の時に、日本軍は中国にあったドイツ軍の拠点、青島を攻めて攻略し、そこにいた4000名あまりのドイツ兵を捕虜にしたが、まったく虐待問題などは起こしていない。

それどころか収容所の日本人関係者は、彼らからソーセージ作りやバームクーヘン作りなど、いろいろな技術を学んだり、音楽活動をしたりするなど、彼らとの交流を深めたという。


ところが、太平洋戦争の頃になると、撃墜したB29搭乗員を捕虜にして、その首を刎ねたり、人体実験に使って殺したりしている。

また、日本国内や海外にあった捕虜収容所でも捕虜を虐待し、そのことによって戦後多くの旧日本軍兵士が処刑された。

彼らはただ上官の命令に従っただけなのに、そんな抗弁は米英連合軍の裁判所において通用するはずもなかった。


第一次世界大戦からわずか2~30年でどうしてこうまで日本軍の体質は変わってしまったのか?

結局、軍人というものがサラリーマン化してしまったのである。

国を背負って立つという気概や名誉よりも、むしろいかにしてお金を多くいただくかの方に注目が集まるようになった。

日露戦争から25年を過ぎた1930年頃(大正時代から昭和時代の初期)には、名誉とか誇りとか、武士としての矜持を保つ、などといったことではもはや食えなくなっていたのである。


文民統制のない日本軍


軍隊はそもそも市民が税金を支払って、そのお金で運営されるものであり、市民に従属する存在のはずである。

それがどうして独走を初めて膨張し、やがて自国の市民に対してまで牙をむくようになったのか?


戦前の軍部は帝国議会(今の国会のこと)から分離した存在と見なされていた。

その行動について政府や内閣の支配は受けず、軍部は天皇直結の組織として独立して機能することが許されていたのだ。

予算も、国の富をぶんどり放題で、議会の承認を経ることなく勝手に決めることができる。

これを統帥権と言った。


しかも、戦前は徴兵制度という軍部にとって都合の良い制度があった。

赤紙1枚で日本の男子を軍隊に無条件で徴用できる。

兵隊の数を増やせば増やすほど、軍幹部の部下は増えることになり、それだけ給料も上げやすくなる。

1万人程度の兵隊をそろえれば、尉官クラス(大尉など)が100人、佐官クラス(大佐など)が10人、将官クラス(中将など)が1人になる(これはおおよその数字である)。

兵隊は兵隊のままだが、幹部は上に昇進したい。

戦争で功績を挙げて出世するのが本道だが、平時ではそうもいかない。

何かと口実を設けたり、上司にごまをすったりして、己の保身を図ろうとする。

現代のサラリーマン社会と何ら変わらない図式がそこにある。

武士のような名誉を重んじたり、高潔な態度を維持しているだけでは出世はおぼつかない。


特に日露戦争に勝利してからの軍部の驕り高ぶる様はひどいものがあった。

「俺たちのおかげで日本があるんだ」と連日連夜、芸者を呼んで飲めや歌えの宴会を繰り広げた。

ところが第一次世界大戦後に軍縮の時代がやってきた。

軍人にもリストラが強行されたのだが、軍部は国の予算に対する支配権を握っているので、また息を吹き返し、朝鮮半島から中国大陸へと触手を伸ばした。

国民生活が困窮しようがお構いなしで、軍部が良ければそれで良かったのだ。

そして、この暴走をチェックする機能は国民にも政府にもない。

おまけに1936年にはドイツとの関係を強化する日独防共協定を締結し、後にこれは1940年の日独伊三国同盟に発展した。



ガバナンスの下手な日本軍


太平洋戦争中、日本軍はフィリピンやインドネシアなどを占領し、そこを支配下に置いた。

当初、日本軍を解放軍と位置づけた現地の人達だが、やがて日本軍に失望をするようになる。

白人のように背が高くないし(当時の日本人の成人男子の平均身長は160cmくらい)、胴長短足で動きもスマートではない上に、顔立ちも貧相というか、アジア諸国の人達とそんなに変わらない。

特に、英国などヨーロッパの将校は貴族階級や富裕層の出身者が多い。

貴族は食べ物が違う。

体格もよく、身長が2メートル近くあるのはざらである。

ハロー校やイートン校といった貴族階級の子弟だけが通う私立のパブリックスクールで学び、その後はオックスフォードやケンブリッジといった有名大学に進学する。

日本のような単なる暗記主義の詰め込み式教育ではなく、あくまで人格を磨くことに主眼が置かれている。

パブリックスクールでは午前中は普通の授業だが、午後はいろいろなスポーツをして体力を鍛える。

「健全な精神は健全な肉体に宿る」というわけだ。

ナポレオンとのワーテルローの戦いに勝ったウェリントン公爵は、「英国の栄誉はパブリックスクールの校庭がもたらした」と語っているが、確かにあれだけ身体を鍛えておけば、軍人になってからも風格のある堂々としたリーダーが誕生するであろう。

平民階級の兵士達はこれほどでもないが、肩幅が広く、手足が長くて軍服がよく似合うのは一様であり、これに比べれば日本兵はまったく見劣りがする。


若いときの白人は、笑顔もチャーミングだし、女性にも優しい。

鼻が高く、目の色も緑、灰色、青など透き通るような輝きがある。

髪の毛の色も金、銀、赤、ブルネットなどさまざまで個性がある。


これに負けじとばかりに、日本の将校も威張りくさってふんぞり返ってはいるが、風格という点では英国の将校に遠く及ばない。

それなのに現地の人達を見下したような態度を取り、日本の風習や文化を相手の都合も考えず押しつけようとする。

ごちゃごちゃしてわかりにくい漢字を学ばせたり、日本風の神社などで拝礼を強制したりする。

果ては現地の資源を横取りして日本に送り出し、現地の人達を飢えに苦しませる。

占領から1年もしないうちにフィリピンでは抗日ゲリラの活躍が目立つようになった。

マッカーサー元帥は、戦争が勃発してフィリピンを離れる時、「アイ・シャル・リターン(私は戻ってくる)」と約束した。

そして、彼がその約束通りフィリピンの日本軍を制圧して戻ってきたときには、米国がかつてはフィリピンを植民地にしていたにもかかわらず、まるで凱旋将軍でもあるかのようにフィリピン国民は彼を大歓迎している。

彼が乗った車列が通る道に沿って多くのフィリピン市民が並び、紙吹雪が山のように舞い上がった。

今でも彼が上陸した海辺には彼の銅像が立っている。

後にフィリピンが独立してから彼は1961年にマニラを再訪している。

これは、フィリピン政府が独立15年式典の国賓としてマッカーサーを招待したためであるが、パレードが行われるほど熱狂的に迎え入れられている。

「フィリピンを米国の植民地から解放したのは本当は日本ではなかったのか?なんでこうなるの?」と苦言の1つも呈したくなるが、日本の功績はまったく無視されている。

また、マッカーサーは日本を占領した連合国軍の総司令官となったが、トルーマン大統領と朝鮮戦争の戦闘方針を巡って解任され(元帥は原爆の使用をトルーマン大統領に求めた)た。

しかし、日本を離れる時には、沿道に多くの日本人が並んで日の丸と米国の旗を振って彼との別れを惜しんだ。

元帥は日本にいたときに日本国民から送られた何千通という感謝の手紙を大切に持っていた。


話は違うが、最近インドの人と話をする機会があって、「英国に植民地にされて大変だったですね」と言ったら、「いいや、そうでもない。鉄道などが整備されてよかった」と返事されたのには正直びっくりした。

この例だけで演繹するのはどうかと思うが、今でもインド人は英国人に対して一種畏怖の念を持っているらしい。


ガバナンス(統治)に関しては、やはり白人、特に英国系の白人が巧みというか上手いような気がする。





かつて植民地にされていた地域の人達は被害者意識というか、自分達は食い物にされたという言い方をよくするが、しかし、もし彼らが英国の植民地にされていなかったらどうなっていたか?

英国の持ち込んだ進歩した文明に触れなかったらどうなっていただろう?

彼らは、旧態依然の生活を、人類がこの地球上に誕生したときとさして変わらないような生活を、続けるしかなかったのではないか?

交通手段といえば徒歩だけで、迷信を信じて医療といえば呪術師に頼る。

食料も手に入ったり入らないでまったく安定しない。

中には人食い人種まで出現する。

それでよかったのか?

口では帝国主義の批判をしている人達も、内心では英国(人)のおかげで自国の近代化が果たせたと思っているのではないか?

彼らは、ある意味崇敬の念を英国に抱いている。

先述の通り、独立後もブリティッシュ・コモンウェルスに留まっている国が多いのは、その証だと言える。


植民地化を免れた日本


ただし、私は、日本にも凄いと思うことがある。

確かにガバナンスという点では白人にはるかに見劣りがする。

しかし、江戸時代末期、欧米列強が日本に進出を図る中にあって、それを跳ね返しただけでなく、西欧文明を瞬く間に吸収してしまった。

アフリカやアジアの国々は、そして大国中国でさえも、何百年も前から白人と交流があったが、その文明を自分のものとして吸収発展させることはできていない。

しかも、日本は何も資源がない国でありながら、それをやり遂げている。


欧米列強が日本に迫ったのはいいが、この国には何もないことに気づく。

鉱物資源に乏しく金や銀が多少ありはするが、それほど大量にあるわけではない。

この地は、せいぜい水や食料、あるいは船員の休憩所にするくらいの価値しかない

かといって占領しようとすれば武士階級がいる。

彼らが振り回す日本刀の威力は、さすがの白人達にとっても脅威であった。

それに鉄砲や大砲も扱う。

白人達がどうしたものかとあれこれ手をこまねいているうちに、あれよあれよというまに日本は西欧化した。

「脱亜入欧(アジアを離れて、西欧化する)、富国強兵」がその頃の日本のスローガンであった。

鉄道、通信設備、郵便、道路網などインフラストラクチャを整え、木製の和船に代えて鉄製の軍艦などの船舶を建造した。

白人達が見向きもしなかった「何もない国」の、どこにそんな資金があったのだろう、あるいはどうやって必要な資金を捻出したのだろと私は今でも不思議に思う。

会田雄次の『アーロン捕虜収容所』の中に、「日本軍の捕虜達が英軍の捕虜収容所内で、どこから材料を仕入れてくるのか、何も支給されていないのに、いろいろなものを作るのを見て、英軍の兵士が驚嘆していた」という趣旨の記述があるが、日本人はこうしたことが得意なのだろうか?

そして明治維新から40年もしないうちにロシアの極東艦隊を打ち破るほどの大海軍力を築き上げている。

サマセット・モームの短編小説『P&O』の中に1920年頃のP&O(東洋航路)の船内にいる日本人のことを記述したくだりがある。

彼は女主人公に、「白人と同じような格好をし、英語をしゃべり、白人と同じようなゲームに興じる日本人を見ると、どうして彼らがこんなにもうまく白人の真似ができるのか不気味である」というような趣旨のセリフを吐かせている。

これはもちろんモーム自身の観察であったわけで、そういう意味では、モームは慧眼の持ち主であったというべきか、彼のこの悪い予感はやがて20年後の太平洋戦争で的中する。


20世紀に入り、日本は、自力で軍用機を作るまでの工業国に成長した。

特に零戦は当時としては画期的な高性能戦闘機で、航続距離が1920kmもあった。

フォッケウルフやメッサーシュミットといったドイツの戦闘機は航続距離が短く、800km程度しかない。

バトル・オブ・ブリテンの時も爆撃機に長い間随伴することができず、満足な護衛ができなかった。

英国本土上空で15分も戦えば、もう帰投しなければならなくなる。

もし、零戦をルフトバッフェに貸与していたら、バトル・オブ・ブリテンはドイツ軍の楽勝に終わったかもしれない。


父の戦後の始まり


日本が負け、1945年の9月頃には父も郷里に帰ってきた。

父は16歳という若さで本物の戦場というものを経験し、九死に一生を得た。

しかし、父が大和に配属されたのはある意味幸運であった。

日本軍が大和の温存方針をとってくれたおかげで、父は助かったのだ。

他の戦艦などに配属されていたら、ほぼ間違いなく戦死していたであろう。


だが、復員した父を待っていたのは荒れ果てた祖国であった。

戦死した連中のことを父が羨ましく思うほどの大変な人生がその後の人生に待っていた。

就職難の時代でろくな働き口などあろうはずもない。

父の最終学歴は高等小学校卒であり、新米の警察官、つまり巡査になるぐらいしか生きる術はなかった。


混乱の戦後日本


父は警察官になってしばらくの間、駐在所勤務をしていた。

1950年頃の日本は敗戦の痛手からまだ回復していなかった。

失業問題や食糧不足が慢性化し、配給米をめぐって「米よこせ」運動などが各地で起きた。

1942年にできた食糧管理制度、いわゆる食管によって米の自由な売買は禁止され、国が一括して買い上げる制度ができたのだが、敗戦後国による再配分がうまく機能していなかった。

この制度を厳格に守った裁判所の判事が餓死する事件まで起きている。

都市の住民は米を求めて地方の農家まで闇米を買い出しに出かけた。

食管制度の枠組みを逃れて農家が隠し持っていた米と着物などを物々交換してもらうためであった。

出かけるといっても汽車もようやく走り始めた頃で、しかも進駐軍の関係者が優先的に利用するので、日本人用の列車内はすし詰め状態であった。


進む世界の共産化


1949年には中華人民共和国が成立した。

日中戦争時は蒋介石率いる国民党軍と毛沢東率いる共産党軍が共同して抗日戦線を張っていたのだが、日本の敗北後両者は激突し、蒋介石は敗れて台湾に逃れた。


1948年には朝鮮半島の北緯38度線を境界にして、北側に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)、南側に大韓民国(韓国)が成立した。


日本国内でも生活の苦しさからいっそ日本も共産主義の元で政治体制を整えた方がいいのではないかという雰囲気まで生まれ始めた。

「中国も北朝鮮も赤化したではないか、日本にできないはずはない。」


朝鮮戦争勃発


そんな折も折、1950年6月に北朝鮮軍が突如北緯38度線を超えて韓国に侵攻を開始した。

朝鮮戦争の勃発であった。

ソ連や中国の後押しを受けて北朝鮮の金日成主席が引き起こしたこの戦争では、不意をつかれた韓国軍と国連軍は釜山にまで追い詰められた。

しかし、この戦争で総司令官に任命されたマッカーサーは仁川に逆上陸をして、逆に背後から北朝鮮軍を攻めた。

これによって形勢が逆転し、駆逐される立場になった北朝鮮軍だが、彼らが中国との国境付近まで退却した時、中国の義勇兵と称する大軍団が応援に駆けつけた。

彼ら中国軍は志願兵ということになっていて、中国政府とは関係ないということになっていたが、実態は中国が北朝鮮に支援に回ったのは間違いなかった。

米軍などの連合軍は人海戦術と呼ばれた敵の波状攻撃に苦戦する。

倒しても倒しても後から後から続々と中国の義勇兵(人民解放軍)が攻めてくるのだ。

マッカーサーは激怒し、原爆の使用をトルーマン大統領に求めるが、トルーマンはこれを却下し、元帥を解任した。

日本国民はそれまで天皇陛下よりも偉いと思っていたマッカーサーを、本国の大統領が解任したという知らせを聞いて驚き、改めて米国の文民統制と民主主義の底力を思い知った。

帰国したマッカーサーは議会で演説し、「老兵は死なずただ消えゆくのみ」と名言を吐いて拍手喝采を浴びた。

彼を次期米国大統領に推す声もあったが、米国民がトルーマン大統領の後継者に選んだのは欧州の連合軍総司令官であったアイゼンハウアーであった。

アイゼンハウアーが欧州の連合軍総司令官に選ばれたのは、戦争が上手かったからではなく、その調整能力の高さを買われてのことであった。

英軍のモンゴメリー元帥や米陸軍のパットン将軍など、あくの強い連合軍の指揮官達を上手にまとめられるのは彼しかいないというので時のルーズベルト大統領によってアイゼンハウアーが大抜擢されたのだ。


この朝鮮戦争により思わぬ影響が日本に生まれた。

朝鮮戦争が始まった時、マッカーサーは朝鮮半島を視察し、初めて日本が戦前この地域で行ってきたことは正しかったのではないかと思うようになったという。

「朝鮮半島と中国東北部を抑えておかなければ、ソ連が侵攻してくる。そうなれば世界中が共産化してしまう。」

そう危惧したマッカーサーは日本に再軍備を迫った。

しかし、日本の吉田茂首相はこれに断固応じなかった。

「日本は戦争を放棄した国です。再軍備はありえません。」

吉田の腹では、「これからは軍隊ではなく、経済の力で世界に乗り出していくべきだ」という考えがあった。

この意気込みを示すかのように、今の経済産業省の元となる通商産業省(通称通産省)が創設されたのもこの頃だ。


日本の再軍備


それまでは日本を東洋におけるただの観光地的なおとなしい国にしようと思っていたマッカーサーであるが、態度を変え、日本の独立を急がせることにする。

日本を独立させて朝鮮半島有事の際には、米兵の血を流すことなく、日本の軍隊にその任務に当たらせようという算段であった。

1951年にサンフランシスコ平和条約が締結され、日本は独立国となったが、それとほぼ時を同じくして日米安全保障(安保)条約が締結された。

安保条約は米軍の日本駐留をほぼ無制限に認める内容で、米国は日本を極東戦略の基地に利用しようとした。

これに対して日本国内の社会主義や共産主義の勢力から猛反発が起きる。

だが、敗戦から5年の間、疲弊しきった経済にあえいでいた日本国民は、朝鮮戦争によって生じた国内景気の上昇に沸き立った。

いわゆる朝鮮特需である。

日本は米軍などからなる国連軍のための兵站基地となり、彼らに物資やサービスを提供し、死に体であった日本がよみがえるきっかとなった。

米国がアジアで戦争をするたびに日本が儲かるという図式の始まりであった。

米国も日本を共産勢力に対する防波堤と見なしたので、さまざまな形で経済援助をした。

日本製品がたやすく米国に輸入されるようにしたため、最初は製造に手間のかからない繊維産業などが潤った。


米国の影響力の強化


1960年に安保条約の更新の頃には、「米国の存在はありがたい」という考え方が日本国民の間に浸透し始めており、共産主義の台頭も下火になりつつあった。

しかし、それでも「世界同時革命」が起きると信じる人達はいた。

安保条約の自動更新を巡って60年安保闘争が起き、国会議事堂に多数のデモ隊がなだれ込んだ。

安保条約反対派の主張は、「条約があれば日本がまた戦争に巻き込まれる」というもので、主に学生や知識人がその主体となっていた。

日本は右(資本主義)に進むのか、それとも左(共産主義)に進むのかと国中が騒然とした雰囲気に包まれた。

そして、世界同時革命を信じる人達に対して、共産党から日本全土に細胞となって潜伏しろという命令が下ったという。

このあたりの事情は、柴田翔の小説『されど我らが日々』に書かれている。

「世界同時革命ののろしがソ連方面から上がったら、直ちに蜂起しろ」というのだが、現代の日本ではちょっと信じられないような話ではある。

駐在所の巡査であった父も安保騒動のために動員がかかった。

都市部で警戒にあたる警察の応援のために招集されたのである。

私達家族は父を見送りに駅まで行ったが、なんとなく心細い心境になったのを覚えている。

まだ、幼稚園ぐらいだった私にも、これから大変な場所に父が行くのだなということはうすうす理解できた。

そして、安保闘争で死者が出た。

東京大学の女子学生でこの時のデモに参加していた樺美智子がデモ隊の下敷きになって亡くなったのだ。

一説にはこのとき国会の警備にあたっていた警察の機動隊によって暴行を受けての死だとも言う。

いずれにしても、父が危険な場所に派遣されていたのは間違いない。

松本清張が『日本の黒い霧』で取り上げている、松川事件、三鷹事件、下山事件、そして帝銀事件など重大事件が次々に起きた。

1952年には共産党員の手により警察官が射殺された白鳥事件が起きている。

犯人は共産党員の男とされたが、これは冤罪事件で共産党の仕業ではないという説も有力である。

しかし、共産党員が山中で射撃訓練をしていたことは事実である。

日本共産党が武装闘争路線を採っていた事実を踏まえると世界同時革命の可能性も否定できない世情であった。

もし、日本で武力革命が起きたらどうなるか?

軍隊は廃止されているし、自衛隊もまだない(後の自衛隊に発展する警察予備隊というものはあった)。

そうなると、こうした騒動の鎮圧にあたることができるのは警察しかないわけで、文字通り警察官の仕事は命がけの仕事であった。


高度経済成長時代の幕開け


しかし、その後、1964年に東京オリンピックが開催され、日本は高度経済成長の時代を迎えることになる。

食い詰めた人々が多いために殺伐としていた世の中が続いていたが、国民の生活も次第に落ち着きを取り戻し、いつしか、安保問題も下火になり共産党の力も弱まっていった。

国会の議席数は自民党が3分の2を占め、残りのほぼ3分の1を社会党が占めるという勢力図がこの頃から完成してくる。

新幹線(東京と大阪の間)や東名高速道路も完成し、1945年から20年以上が過ぎたこの頃は「日本はもはや戦後ではない」とまで言われるようになった。


悪い住宅事情


その頃の父の仕事は交通整理や事故処理、窃盗犯の捜査など社会の底辺を支え続けること。

それがすべてであった。

私達家族も交番に併設されたおんぼろの住居に暮らしていた。

床はあちこち抜けそうで、押し入れもボロボロ、古びた五右衛門風呂にはナメクジやムカデがしょっちゅう出現していた。

その後、父が警察署内に勤務するようになり、私達家族は貸家暮らしをした。

当時の日本の住宅事情は極端に悪かった。

貸家といっても満足なトイレもなく、くみ取り式で、お風呂は大家さんの家のお風呂を使わせてもらっていた。

しかし、実のところ、その貸家には当初トイレすらなく、大家さんの古い方のトイレを使わせもらっていた。

私は面倒くさいので夜中に畑で満点の空を見上げながら用を足すことも多かった。

台所もなく、母は家の外にある流し場のようなところで米をといでいた。

夜などは裸電球で明かりをとっていた。

その頃、インスタントラーメンというのが売り出された頃で、それに卵を入れて食べるのが我が家のごちそうであった。

幸いなことに母の実家が農業をしていたので米だけはたっぷり食えた。


貧窮に喘ぐ日々


父の給料は低いままで、母が縫製工場などに勤めに出て家計を支えざるをえなかった。

「勉強して出世すればいいのに」と母はいつも父を責め立てた。

父は「うるさい」といってただ怒鳴り返していた。

父が聞く耳を持たないのを知った母が、そのうっぷんを私に向けるようになったのは自然の成り行きであった。

朝から晩まで「勉強、勉強」と満足におやつも与えずにそれだけを呪文のように唱えていた。

仕方がないので私は勉強に励んでクラスで級長に選ばれた。

ところが、その小学校では級長に選ばれた子の親はPTAの会費を多く負担しなくてはいけない決まりになっていた。

それは今の金額に換算して数千円程度の微々たる金額であるにもかかわらず、親は「何で級長になんかなったんだ、この馬鹿野郎!」と怒鳴りつけ、ものすごく機嫌が悪くなった。

勉強をしても叱られる、しなくてもまた叱られる。


また、今と違って、あの頃の日本の社会には子が年老いた親に金銭的援助をするのは当然だという習慣のようなものがあり、父の養父が金の無心をすることも多かった。

そうしたことも私の家が火の車だった理由である。

母は「何にもしてくれなかったのに、こっちはあれこれねだられる」というような愚痴を言っていた。

あるとき、小学校のアンケートで「家に車がある人」という欄があったが、父はそれを見て「家には火の車がありますと書け」と言った。


父のような公務員がよかったのは戦後の1945年から1949年までのほんの5年間であった。

警察官であるといって威張っていられたし、親方日の丸で給料も間違いなくもらえたので、不況に喘ぐ他の民間人よりはまだましであった。

また、父はこの頃独身であったから生活の苦労というものも少なかった。

しかし、1950年の朝鮮戦争勃発から1975年頃までの公務員の生活は惨めなものであった。


父の事故


そして、事故が起きた。

私が小学校から帰ってくると父が布団で寝ている。

白バイで警ら中に対向車と衝突して重傷を負ったのだ。

脊椎をやられていて車椅子の生活になるかもしれないというのを聞き、私はショックを受けた。

父は警察官の仕事を休職し家で約半年間療養した。

何とか身体が動くようになったので、仕事にも出るようになったが、これでますます出世の道は遠のいた。


寂しい昇進


父はそんな状態になっても20年間ひたすら巡査の身分で耐え忍んだ。

だが、上司に「巡査、巡査」と馬鹿にされてこき使われる毎日に嫌気がさし、さすがに40歳を前にして昇進試験を受けることにした。

父は、県警本部のお情けもあったのか、巡査部長の任官試験に合格した。

下から2番目の地位で昇進しないよりはましという程度のものであった。

だが、その時の研修は悲惨なもので、研修会場にいた周囲は全員が20代後半の若手ばかり。

不惑の年頃になってやっと巡査部長に昇進するなどというのはほとんどない話である。

体力測定の時など、彼らからはさんざんに冷やかされた。

それはそうであろう。

20代の若い人と同じような運動能力が40歳近くになった父に残っているわけがない。


父と同じような境遇の巡査は県警内部にも他にたくさんいたのであるが、これが嫌で昇進の打診があっても受けない古参の巡査も珍しくはなかった。

不惑の年頃になって今更昇進もないであろうというわけだ。

確かに、年齢を重ねてから巡査部長に昇進しても特に意味があるわけではない。

給与もさして増えるわけではない。


それなら巡査のまま派出所や交番にでも勤務して気楽に警察官稼業を終えることを狙った方がいいという考え方も成り立つわけである。

当時は55歳が定年であったし、52、3歳で早期に退職しても定年までの残りの年数分の給与を補ってもらえた。

そしてすぐに年金が出た。


若い内なら巡査部長になって、その上の警部補や警部を目指す道もある。

せめて40代後半のうちに警部になっていないと警視つまり警察署長にはなれない。

警察署の次長を7、8年経験しないと署長にはなれないのが通例なので、年齢が行き過ぎると出世階段を登るのがきつくなる。

署長になってしまえば大将なので比較的仕事は楽になるが、次長の時代が大変で、何もかも一手に責任を引き受ける必要がある。

というわけで30過ぎた頃になると大抵の巡査は昇進を諦める。

昇進したところで先は見えているし、肉体的にもきついばかりで大して良いこともないからだ。

実際、次長クラスのまま警察官の人生を終える人も多い。


ただし、いずれにしても今と違って当時の地方公務員の給料は安かった。

1970年頃の警察官の年収は40代半ばで150~200万円程度ではなかったかと思う。

そう、50年前の日本では「年収180万円前後」が標準だったのである。

月収が20万円もあればかなり高給取りの方であった。



就職先として最悪の公務員


戦後30年近く、景気が改善されるたびにその恩恵を受け取ることができたのは、圧倒的に民間の業者の方が多かった。

何か商売をすればとにかく儲かった時代で、公務員のような割の悪い職業をしたがる人はほとんどいなかった。

戦後の高度経済成長の政策下で大いに潤ったのは商工自営業者であり、また、農地解放によって土地を得た元小作農達も生活が良くなった。

これは当たり前だろう。

太平洋戦争で一番多く戦死したのは農家の次三男坊である。

安穏な生活を送っていた地主階級が土地を取り上げられたのも無理からぬことだ。


戦前、職業と言えば農業しかなかったが、戦後になって米国が自国の市場を解放し、さまざまな職業が生まれた。

自力で際限なく金を稼ぐことの喜びを知った日本人は大いに働き、彼らは働けば働くほど豊かになっていった。

ガチャマンという言葉がはやったのも昭和20~30年代のことである。高級な布地を織る機械が「ガチャン」と音を立てて鳴るたびに「1万円」の金が転がり込んで来るという意味だ。

綿織物や絹織物など作るそばから米国に輸出された。

米国で流行っているものがあれば、それに少し手を加えて改良し、安い値段で米国に持って行けばそれで商売になった。


しかし、これはあくまで自営業者や商売人の話である。

父のような下級公務員の場合、給与はほんの少しずつしか上昇していかない。

残業代などあってなきがごとだし、あったとしても雀の涙。

商工自営業者の稼ぎには遠く及ばない。

景気のよい自営業者達をただ羨望の眼差しで見ている以外になかった父であるが、ついに我慢の限界に達し、独立してミシン工場を経営するとまで言い出した。

父は、いつまでも安月給の警察官の仕事に見切りをつける覚悟であった。

父と母は、工場として使う物件まで見学に行ったほどだったが、母が「商売なんかやりたくない」と猛烈に反対したのでこの計画は頓挫した。

結局、母の猛反対によって父の夢は潰えた。

父は後年になって「女房の反対でせっかくのもうかる時期を逃した」と母のことをなじっていたが、私は父には商売の才覚はなかったと思う。

ただ、あの当時の日本では、鉄鋼、化学、造船、自動車といった重工産業はもとより、鉄工所、縫製工場、建築業、食品、部品加工業といった中小企業も景気がよくなった。

メーカーの工場勤務の工員ですら父よりいい生活をしていた。

彼らは、私が暮らしていた貸家よりもよほど立派な一戸建てのマイホームを購入することができた。

さすがに自家用車を持つ人はまだまれで、1960年代の半ばで100人に1人ぐらいのものだったのではないか。


母はいつも家の中で「金がない」とか「子供が勉強しない」と愚痴をこぼしていた。

あんな安月給の男のどこに魅力があったのか知らないが、父に女性問題が発生したりして、余計に母の機嫌が悪くなり出した。

また、あるときは父が母のへそくりを勝手に流用して株を買ったことがあった。

それで父は大損を被り、2人は大げんかを始めた。

実は以前も父は似たようなことをして、その時は大もうけをしたので二匹目のドジョウを狙ったのであったが、その狙いが裏目に出たのである。

とにかく2人はしょっちゅう喧嘩ばかりしていて、私の両親の記憶と言えば「常にいがみ合う2人」というイメージしかない。

今なら離婚していてもおかしくないような状況であったが、当時は離婚に対して強い偏見があり、そう簡単にできることではなかった。


究極のところ、2人の喧嘩の原因はお金がないことであった。

私自身、子どもの頃から何も親に買ってもらった記憶がない。

おもちゃも、洋服も、靴も、野球のグローブなども何にも買ってもらえない少年時代だった。

漫画の雑誌も好きだったが、たまにしか買ってもらえないので1日10円の貸本で我慢した。

小学校の六年生の時に臨海学校で海に行ったときも、水着は小四の頃に買ってもらったもので体格的にピチピチの状態だった。

おまけに、色は剥げかかり、腰のあたりにはほころびまで出かかっていた。

家庭科の授業で使うプラスチック製の裁縫箱が壊れたことがあるが、親は新品のものに買い換えてくれず、私は小学校を卒業するまでその割れた裁縫箱のフタにセロテープを貼って使い続けた。

あるとき私が通う中学校で数学の参考書が販売されたことがあった。

定価は1000円。

多くの生徒がそれを買うために列を作った。

私は家庭の事情でそれを500円ずつ2回に分けて払わなければならなかった。

そんな生徒は一人もいなかった。

というか、本当に貧しかった生徒は初めから列に入らなかったのだと思う。

私はそんな境遇が惨めで列を離れた。

あれ以来数学が嫌いになった。

高校生になる頃でも着るものと言えば学校の制服だけで私服はほとんど持っていなかった。

休日になっても学生服を着て町に出るしかなかったし、出たところで金もないし、何も夢はない青春時代であった。


戦争が終わって25年たっても、県庁、市役所、学校の先生、自衛官、警察官、消防署員といった公務員になりたがるものはあまりいなかった。

大卒で学校の先生になるような者は「デモ・シカ先生」と呼ばれたものである。

「学校の先生にデモなるか」、「学校の先生にシカなれないのか」というわけで、それくらい大卒の価値は高かった。

自動車で学校に来る先生はほとんどいなかった。

大抵が電車かバス、あるいは自転車や本田のスーパーカブという小排気量の原付バイクで通ってきていた。

本来、石油、石炭(昔は花形だった)、電力、造船、鉄鋼、銀行、保険、商社、家電といった民間の優秀な大企業に入れる大卒の人材が、わざわざ学校の教員のような安月給でうだつの上がらない職業に就くというのは、よほどの落ちこぼれに違いないと世間一般からは考えられていた。

高校の先生の中には、卒業間際の生徒に向かい、「大学を出て教員になるなんて、そんな馬鹿な話があるか。君らはこんなつまらん人生は歩むな。」と生徒に説教をする人もいたくらいである。


教員ですらこの有様であるから、まして高卒で警察官になるというのはよほどの変わり者であった。

あの当時、私の高校から卒業と同時に警察官になったのがいたが、その同級生達は「あんな馬鹿が警察官に採用されるなんて、警察官というのはよほどレベルの低い人間がなる職業なんだな」と噂をしていた。

私は自分の父親が警察官であるいうことをそれ以来誰にも言わなくなった。


これに反して自営業者は羽振りが良かった。

運送会社、建築業者、そして土建業者などが目に付いたが、特に繊維産業が有力であった。

それほど大きな資本がなくてもミシンが一台あれば始めることが可能で、安くて良質な衣服を作れば、それをアメリカが買ってくれた。

私が住んでいた町は人口数万人程度の小さな市であったが、たくさんの繊維や紡績の会社があった。

ほとんどが小資本の家内工場のようなもので、亭主とその奥さん、そして親戚のおばさんや近所のパートタイマーで構成されていた。


栄える商工自営業者


そして私の母親はその下請けをしていた。つまりボタン付けである。

こうした繊維工場でできあがったドレスやブラウスなどにボタンを付ける作業を各家庭にいるおばちゃん達に工場側が委託するのだ。

母親の時給は100円程度のものであったろうか。

1日仕事をしても1000円にも満たない。

このような事情を見て父は「縫製業をして独立する」と息巻いたのかもしれない。


確かに工場主など新興の資本家側の暮らしは豊かであった。

当時はまだ庶民にとって高値の花であったいわゆる3C、すなわち、カラーテレビ、クーラー、そしてカー(自家用車)を所有し、家にはホームバーという洋酒を並べた一角を設けて、シャンデリアなどを天井に配置し、満足に弾けもしないくせに娘のためにグランドピアノを購入していた。


中小企業の社長連中は、昼はゴルフ、夜はバー、キャバレー、ナイトクラブで飲み歩く、といった豪勢な生活ができた。電車で帰るのが面倒だというので何時間もタクシーに乗って帰宅する社長もいた。

税金で取られるくらいなら、交際費や接待費で落とせというわけである。

これが、料亭や寿司屋、そして居酒屋などの料金をつり上げる元凶となった。

自分の財布から出て行くお金の量も多いが、それによってまた戻ってくるお金も多かったので誰も文句は言わなかった。


やたらと大きな肩書きが増えたのもこの頃で、役所と違って民間企業なので何でも肩書きを作れた。

部下がいようがいまいが、給料が高かろうが低かろうが、学歴があろうがなかろうが、中小企業にとって部長、課長、係長といった肩書きはいくら乱発してもかまわなかった。

昨日までは学歴もなく風采も上がらなかった人が、勤めていた中小企業の景気が良くなったおかげで地位も上げてもらえるようになった。

私の父とほぼ同い年くらいの人が、学歴もなく、戦後何でもないような小さい運送会社にトラック運転手として入社したのだが、会社が高度経済成長期にどんどん大きくなり、全国に支店を展開する中で社員数千名という大所帯になったおかげで副社長にまで出世した人がいた。


また、父の後輩で警察官をしていた人が数年間警察官をしていたが、100万円程度のお金を貯めて紙製品の会社を興し、たちまちのうちに大金持ちになった。

グロリアという高級車を購入し、大きな岩をいくつも配した築山のある庭や池を作り、豪奢な和風の家を建てた。お手伝いさんもいた。後に潰れたが…。


ボーリング場やゴルフ場も流行った。

1レーンを設置するのに1000万円かかったが、36レーンのボーリング場を建てた金持ちの地主がいた。

「毎日100万円の金が入ってくる」と豪語していた。

サウナというのができたのもこの頃で、ゴルフをしてサウナに入り、ビールを飲むのが優雅な休日の過ごし方と見なされた。

父の小遣いではゴルフをするのは無理だったが、ボーリングはするときもあった。


戦後、特に1964年の東京オリンピック以降日本の景気は、時に浮き沈みがあるにせよ、ほぼ右肩上がりによくなっていった。

所得倍増計画や日本列島改造論などが時の内閣によって政策として掲げられた。

少々の不景気の時期があっても、辛抱していればまたよくなるという楽観論が日本社会で支配的であった。


邱永漢という経済評論家が日本経済の成長に歩調を合わせるかのように登場してきた。

彼は私の父より3歳年上であるが、ほぼ同年代と言ってよいだろう。

その彼は戦後焼け野原となった東京に来た時、原宿を見て「ここは将来パリのシャンゼリゼ通りのようになる」と予感したという。

そしてタダ同然であったこの近辺の不動産を買いあさりビジネスホテルなどを建設して大成功を収めた。


また、三鬼陽之助、藤原弘達、細川隆元といった評論家や経済学者なのか、それともただの財界の太鼓持ちなのかわけのわからない人達がテレビでラッパを吹き鳴らし日本の経済繁栄ぶりをはやし立てた。

確かに1950年頃から90年まで、日本経済はたまに不況になることはあっても、少し辛抱していればまた景気が回復するという状況が続いていた。

テレビも花盛りで、当時の深夜放送の人気番組11PMでは大橋巨泉、藤本義一、愛川欽也といった司会者が活躍した。

彼らは夜遅くまで働く日本の企業戦士に大人の楽しみを提供した。

プロ野球ニュースが高視聴率を得たのもこの頃であった。

夜遅くまで会社から帰ることができず、ナイターをくつろいで見る余裕のないサラリーマンのために、深夜近くになってプロ野球の試合結果を伝えてくれるこの番組は視聴者から好評を博した。


こうした状況の中で蚊帳の外に置かれていたのが、父のような下級公務員である。無論、官僚と呼ばれる上級公務員はこれとは違う。出世も早いし、50歳くらいにもなれば大金のもらえる天下り先が待っている。

しかし、それは例外であって、多くの公務員はこうした高度経済成長とはほぼ無縁であった。

少なくとも1970年頃までは。


割に合わない警察官の仕事


父の仕事はきつい割には金にならないものであった。

事故が起きたとなれば夜中でも出動しなければならず、しかも今と違い自家用車があるわけではないので(当時自家用車を持っている警察官などほとんどいなかった)、寒い日や大雨の降る中であっても自転車を漕いで何キロも先にある警察署まで出かけていかなくてはならなかった。

後になって安月給の署員でもバイクなどを購入できる余裕が出てきて、いくらかこの状態も改善されたが、劣悪な勤務条件と給与体系にほとんど変化はなかった。

パトカーなどは大きな警察署でも1台あるかないかであった。


1970年頃、父が、夜勤が終わって家に帰り、一息ついたかと思うともう署から呼び出しの電話がかかってくるということも珍しいことではなかった。

情けないことに私の家には1980年頃まで電話がなかった。

学校で各家庭への連絡網が作成され、それが私達生徒に配布されたことがあるが、50人くらいいたクラスの生徒の中で電話がない家は私の家だけであった。

私の家に連絡するときは「この電話番号に呼び出しの電話をかけてください」となっていた。

この「私の家」というのは、鉄筋コンクリート造りで4階建てエレベーター無しの2DKの警察官用の官舎のことである。

家族4人が6畳2間に1畳の台所、そしてトイレ・風呂という空間に住んでいた。

1つの部屋にちゃぶ台という折りたたみ式の小さなテーブルを置いて、畳の上に直に座ってその台を使って食事をした。

昔『巨人の星』という漫画があり、主人公の星 飛雄馬の父親、星 一徹がちゃぶ台をひっくり返す場面が有名だった。

私の家の食事風景もあれといっしょで、テーブルにイスという家具で食事をするようになるのは私が20歳を過ぎた頃のことだった。

そして、寝るときはそのちゃぶ台をたたんで布団を川の字に並べて家族4人が寝た。

もう一部屋はタンスなど、物置状態だった。

風呂は木炭というか何か廃材のチップを固めたようなものを燃やして炊いていた。

黒いすすがいっぱい出て、官舎の風呂場の煙突の周囲は真っ黒になっていた。

それでも自分の風呂に入れるようになって私は嬉しかった。

しかし、トイレが水洗になったのはいいが、母がトイレットペーパーの使い方にうるさかった。

「あんた、紙を使いすぎでしょう!」

母は、コロコロとトイレットペーパーの巻紙が回る音を聞いて私のトイレットペーパーの使う量をチェックしていたのだ。

カレーには肉は入っていなかったし、母はそれに片栗粉を入れてカレー粉を節約した。

肉料理と言えば、ニワトリのガラを使った水炊きくらいのものだった。

その中に、白菜やニンジン、シラタキなど安い食材を入れるだけ。

父は鶏ガラについた小さな肉まですすって食っていたが、私はその気になれなかった。

カツ丼とかステーキ、ハンバーグ、あるいは中華丼というものは18歳を過ぎて東京に出る頃まで知らなかった。

さすがに、ラーメンとか寿司の意味は知っていたが、ラーメンは何かの祝い事の時に食べるものだと思っていた。

私が寿司を食べるようになったのは回転寿司が多くなった1980年代の後半、私が30歳を過ぎた頃からである。


電話は、1階に住んでいる警察官の一家のところにだけ1台あって、そこが受け口になり、留守番役の奥さんが、電話がかかってきたことを告げに私達一家の住んでいる3階の家まで階段を登って来るのである。

その音が聞こえるたびに、何とも言えない嫌な気がしたものであった。

大抵はそういう時の電話は父に非常招集がかかったことを告げるものであり、父の辛そうな顔を見なければならないからであった。


これが戦後約30年経ったときの日本の現実であった。

うまく時代の流れに乗って金回りのよくなった大企業の社員、中小企業の経営者、そして農地改革によって地主から土地を分けてもらった都市部の元小作の農民。

特に農民達は農協という組織をバックにして大きな政治的圧力団体を形成した。

また、農地改革によって地主から農地を小作が分けてもらったが、都市部の元小作人はその農地を農業に使うのでなく宅地に転用して賃貸し、大きな収入を得ることができた。


日本国内に日の当たる場所と日の当たらない場所ができ、貧富の格差が拡大した。

私の父のような、財産も持たず女房の安いパート収入を家計の足しにしながらなんとかその日その日をしのいでいく下級公務員や日雇い労働者がいた。


私達一家が暮らしていた県警アパートと呼ばれる集合住宅式の官舎には、16所帯が狭い一角に詰め込まれていたが、その建物全体の敷地面積は200坪もなかったのではないか。

すると、その隣にほぼ同じ敷地面積の場所に家を建てた人が引っ越してきた。

大阪で鉄工所か何かを経営し大金を手にしたので引退して地元に帰ってきたという触れ込みであった。

夫婦二人暮らしのその一家の主が県警アパートの奥さん連中を自宅に招待してくれた。

近所に住むことになったので皆さんにご挨拶したいという。

私の母なども行き、家の中を見せてもらった。内部は高価な材料を使った豪勢な造りで、いろいろと料理なども出て丁寧なもてなしを受けた。


私は毎日自宅のある3階からその家を眺めた。

美しく剪定された庭や池のある大きな家であった。

車も3台くらい入れるような駐車場が付いていた。

自分の部屋も持てない私にとって、そこは別天地のような気がした。

14インチの白黒テレビが1台しかない我が家と違い、その家には大画面のカラーテレビ(と言っても当時は20インチが最大)が何台も置いてあるという話だった。

庶民の16倍の資本を持つ家がそこにはあった。


憧れの米国式生活


『ディズニーランド』、『奥様は魔女』、『かわいい魔女ジニー』、『パパは何でも知っている』、『逃亡者』、『コンバット』、『ラット・パトロール』、『スパイ大作戦』、『ララミー牧場』、『ローハイド』、そして『0011ナポレオン・ソロ』など、アメリカで作られたさまざまな番組が日本で放映されたのもこの頃で、私は画面に映し出されるアメリカ人の家庭を見て羨望を禁じ得なかった。

プール付きの大きな家に何台もの車が止まり、しかもガレージまでがある。

子供部屋は個室で、中には机やベッド、そして望遠鏡や書籍、レコード、衣服などがたくさん置いてある。

台所も広々しているし、それとは別に食事をする食堂がまたもう1つあった。

冷蔵庫を開ければ、中には美味しそうな食品が山のように入っていた。

だが、私がテレビで見ていた米国の家庭は中流程度の家庭であり、ビング・クロスビーやグレース・ケリーらが主演した映画『上流社会』(1956年)に描かれているようなもっと凄い『家庭』もあった。


父は、こうしたテレビ番組をそれほど熱心に観ていなかったが、それでも何らかの影響は受けたであろう。

縫製工場の夢は諦めた父だが、何かの経営者に憧れる気持ちは強かった。

無理もない。

朝から晩まで警察官の仕事をしてもろくな給料ももらえない。

署内には暖房はあるにしてもクーラーなどはなかった。

父は昼食として留置所にいる被疑者に出される給食のようなものを食べていた。

まずかっただろうとは思うが、安い給料を補うためにはそれもやむを得なかった。


父の知り合いの中には、ガソリンスタンド、自動車の修理工場、家電の販売店、喫茶店、縫製工場、建築会社、レンガ製造所、牛乳販売店などを経営して成功している人達が大勢いた。

それもこれも究極のところ米国が市場を解放し日本の製品を購入してくれたおかげであった。

最初はあまり資本のいらない繊維産業から始まった日本の輸出産業であったが、やがてラジオ、テープレコーダー、テレビ、冷蔵庫、エアコンといった家電製品に発展し、さらに高度な技術力を必要とするオートバイや自動車にまで輸出品の得意分野を拡大していった。

また、先に述べた1950年の朝鮮戦争や、1960年代から始まったベトナム戦争が日本に軍需景気をもたらした。

太平洋戦争の時とは違い、日本は戦場になることなく戦争にかかるお金が落ちるだけの場所となったのだ。日本の経済は大いに潤った。


しかし、父はマイホームはおろか自家用車さえも買う余裕などない。

父は一計を案じた。

タクシーとして使用されていたプロパン車で、巷で言うところの「タク上げ」をただ同然で手に入れたのである。

走行距離は30万キロ以上、いやそれ以上乗ったためにもはや残存価値ゼロとして市場に放り出された、自動車と呼ぶにはあまりにお粗末なポンコツ自動車であった。

父はこんなおんぼろの中古車のタイヤでさえも中古で買っていた。

ラジアルタイヤなど夢のまた夢であり、そんなものを履いている国産車は日産のスカイラインGT-Rとかトヨタのセンチュリーくらいのものであったろうか、とにかく他の車種にはほとんどなかっただろう。

冬場などはエンジンがなかなかかからないので、県警アパートの住人の人達が後ろから押すことでやっとエンジンがかかるというようなことも日常茶飯事であった。

助けてくれた人達は、白い煙を吐きながらガタガタと走り去る父の愛車を笑いながら見送っていた。

私も時に押すことはあったが、恥ずかしいのでたいていは影に隠れて知らぬ顔をしていた。

母の熱心にただひたすら父の愛車を後ろから押す姿は今も脳裏に焼き付いている。

父はその車に乗っている時、前を人が歩いていてよけないと、通りすがりに運転席の窓を下げてその歩行者に向かい、「どけろ!この馬鹿野郎!」と怒鳴って、走り去る癖があった。

まるで仕事の憂さ晴らしをそれでやっているかのいようであったが、今そんなことをしたら車のナンバープレートをスマホで撮影されてしまうだろう。



ニクソンショック


ところがこの頃世の中に大きな変化が起きた。

1971年8月に、ベトナム戦争の戦費が嵩んだことで米国のニクソン大統領がドルの金との交換を停止したのだ。

これをニクソンショックと言うが、その年の年末までには早くも1ドルが320円前後になっている。

続いて1973年にはドルが変動相場制に切り換えられた。

すなわち、1ドル360円の固定相場が完全になくなったため、一気に円高へと流れが変わったのだ。

ドルの価値が下がったため、日本はもはや輸出で大きな利益を得ることができなくなった。


公務員の給料が急上昇


そして同じく1973年にオイルショックが起きた。

1973年10月にイスラエルとエジプト・シリアをはじめとするアラブ諸国との間で第四次中東戦争が勃発し、イスラエルが勝利したのだが、イスラエルがアラブ諸国の占領地から撤退しなかった。

このため石油輸出国機構(OPEC)のうちのペルシア湾岸の6カ国が原油価格の引き上げを発表し、イスラエルを支持する国々への石油禁輸も発表した。

この石油危機によって、今のコロナ騒動の時と似たような石油製品やトイレットペーパーなどの買い占め騒動が起こり、消費者物価が20パーセント以上も上昇した。

いわゆる狂乱物価と呼ばれる事態が発生したのである。

これを受けて、時の日本政府は公務員の給料をいきなり30%も上げるという決定をした。

それは高度経済成長の終焉を意味したが、皮肉なことに逆に父のような下級公務員の待遇が良くなり始めた。


贅沢三昧の米国人


ドル安になった米国は景気が悪くなり出し、日本を非難し始める。

集中豪雨的に自動車を米国に売りつけて、米国の国内情報を荒らしまくったとわめき立てた。

しかし、何のことはない、日本から安い製品を買って楽な生活をしたのは米国民自身ではないか。

この頃日産はフェアレディZというスポーツカーを発売していた。

日本の若者にとって憧れの的であったこの高級スポーツカーはいかんせんあまりに高額であって普通の日本の消費者が買えるような代物ではなかった。

ところが、なんと言うことか、米国本土においてフェアレディZは他のメーカーのスポーツカーに比べて安いので(ポルシェが6000ドルくらいなのにZは3500ドル)、普通の大学生や高校生が通学に使うための足代わりとしても販売されていたのである!

日本の高級車は米国では自転車くらいの価値にしか認められていなかった!

ろくに勉強もせず、酒を飲んで乱痴気騒ぎをし、時にマリファナまで吸い、ダンスパーティーをして、スポーツ大会に興じ、ドライブインにフェアレディZに乗って駆けつけてハンバーガーを頬張り、毎夜毎夜自宅のプールでガールフレンドと遊びまくることにしか脳ミソを使わない米国の学生のために一生懸命尽くしたのはどこの国民だろう?



日本人が安月給、長時間労働という劣悪な環境下で汗水垂らして良質な自動車を米国の若者のために製造し、これほどまでにアホな彼らが快適な生活を送れるようにした日本に対して米国はこの態度である。

しかし、これは仕方のないことかもしれない。

1970年頃の米国で上級な自動車のモデルにサンダーバードというのがあった。

大衆車よりは少し格上だが、キャデラックやリンカーンまではいかないというレベルである。日本で言えばさしずめマークII(今のマークX)といったところか。


そのサンダーバードの排気量はV8の7000ccであった。

V8というのはV型8気筒ということなので、1つのシリンダーの排気量は900cc近くになる。

つまり、サンダーバードのエンジンは、その当時日本で主流であった1000cc自動車が搭載しているエンジンを7台分装備しているのに等しかった。


しかも、このサンダーバードという車は2ドアクーペであり、お一人様で乗りこなすことを想定した車であった。

ついでに言えば、大衆車のシボレーでも排気量4500cc前後あったが、今の日本でもレクサスを除きこれほど大きな排気量を持つ自家用車はほとんどない。

また、映画『ブリット』でスティーブ・マックイーンが乗り回していたマスタングも5リットルV8エンジン (480馬力!) を搭載していたが、これでも米国流に言えば「低価格」でスポーティーな「小型車」の部類に入る。

一家に一台ではなく1人につき1台というのが当たり前の米国にあって、自動車後進国の日本で製造されたフェアレディZの排気量は北米用が2400cc(もう少し排気量の大きいモデルもあった)であった。

これを考えると、Zが米国市場においてお子様向けの自動車と見なされても無理からぬことだったのかもしれない。


ベトナム戦争


同じ頃、ベトナム戦争で米軍は、一発何百万円もするような高価な爆弾を何発も積んだ戦闘機や爆撃機を、1回の飛行で何百万円もするようなジェット燃料を使ってベトナムのジャングルに大した目標もないままに落とし続けた。

多額の運用経費のかかる何隻もの航空母艦を何年もの間ベトナムの沖合に浮かべて大量の物資を浪費し、あげくグァム島からはるばるB52爆撃機の編隊まで飛ばして北ベトナムのハノイなどを絨毯爆撃をした。

機銃弾の1発は数百円程度のものかもしれないが、高性能な機関銃ともなれば、数秒も引き金を引くと何十発あるいは何百発という弾丸が飛び出ていく。

1回の斉射で数万円が飛ぶ勘定だ。

これを最盛期50万人とも言われた米軍兵士が毎日のように行えばその金額は天文学的なものになる。

さらに武器の中には、航空機用のミサイルや機関砲 (機関銃より口径が大きい)、地上戦用の迫撃砲、榴弾砲、カノン砲、バズーカ、火炎放射器、手榴弾といったものが加わる。

戦闘機や爆撃機も撃墜されているし(B52のような大型爆撃機でさえも北ベトナム軍のSAM(地対空ミサイル)の犠牲になっている)、これも大きな損害になる。

もちろん、食料の問題もある。1人の兵員にかかる食費は少なく見積もっても1日につき1000円くらいはかかるだろう(今の価格に換算で)。

ビールなどは飲み放題のような状況にあったし、単純計算で1日につき1000x50万=5億円!

これにはヘルメットや銃器、そしてベルトや軍靴、そして軍服といったものは含まれていない。

そして1つの仮定として1人の兵士が1日に銃弾を100発撃ち、手榴弾を1発投げて、食事をして、という風に足し算していけば、年間の合計額は数千億円規模になるだろう。


これに加えて機械化部隊の運用がある。

戦闘機、ヘリコプター、戦車、ジープ、トラック、哨戒艇といった機械的装備品は本体を購入するのに費用がかかるのは当然ではあるが、これを維持していくだけでも大変なお金がかかる。

一定の期間使用すると交換しなくてはいけない部品も多数あるし、特に戦闘機用のレーダーなどは数百時間運用しただけでもう交換になる。

それもたった1台に付き数億円単位だ。

また、海上にいることが多い空母の艦載機などは塩害が激しいし、普通の地上配置の飛行機に比較してもっと消耗が激しくなるだろう。


そして燃料代。

特にジェット燃料はオクタン価を高めなくてはならないので非常に値段が張る物になる。

詳しくは知らないが、1回普通の戦闘機が作戦行動で数時間くらい飛行すれば数百万円程度の燃料代がかかるだろう。

無論、交戦状態に突入したら燃料の消費量は一気に跳ね上がる。

それこそ、少々の空中給油では追いつかない。


また、兵士が戦死したり負傷した場合には補償も行わなくてはならない。

米軍は戦死者が出た場合には多額の費用をかけてできるだけ生きていた状態に近い形で本国に空輸されるようにした。

こうした死体をきれいにするための施設が日本にもあったはずである。


とにかく戦争はお金のかかるビジネスだが、米軍は10年近くベトナム戦争を行ってきた。

これで国家財政がおかしくならない方がどうかしている。



念願のマイホーム


それまでは気前よく米国の市場を日本に解放して、どんどん日本製品を買っていた米国だが、自国経済が悪化する中で日本に対してさまざまな要求を突きつけるようになった。

米国と日本の貿易摩擦の始まりであるが、そんな雲の上の世界のことは父のような立場の人間にはどうでもいいことだ。

未だ持ち家もなく安月給の万年下級公務員の地位に甘んじ続けていた父は、オイルショックの狂乱物価への対策として公務員の給料が大幅に引き上げられたのを契機に、40代の終わり頃になってやっと念願のマイホームを持つことを考えるようになった。

目の前を高級車に乗った羽振りの良さそうな中小企業の経営者達が通り過ぎるのを、ただ黙って見ているしかなかった父にもようやく光が差したかのように見えた。


しかし、基本的に金のない父は、自分でできることは自分でやろうと考える。

父は交通事故を起こしたある土木業者を取り調べているうちに、その男と親しくなった。

小さい時から鑑別所や少年院への「入退院」を繰り返していた、前科もある得体の知れないKKという名の男であった。

その交通事故というのもひき逃げ事件であった。

どうしてよりによってそんな人物と知り合ったのか不思議ではあるが、KKの金回りはよかった。

学歴もなく地位も低い警察官ではその程度の人物としか知り合えなかったのかもしれない。

父は、いつの間にかKKの会社の事務所に出入りし始めた。

その会社は建築の仕事なども請け負っていたので、父は現場の手伝いなどをして小遣いをもらった。

やがて、会社所有の高級車までも勝手に持ち出して自分のもののようにして乗るようになった。

この頃、土建業も繊維関連の業種同様、比較的元手をかけずに立ち上げることができた。


飲み屋やバー、そしてキャバレーといったきれいなお姉さんのいる場所にも頻繁に出入りし、あちこち遊びに連れてもらっていったりしていた。

景気の良い頃など私に向かって「お前も学校を出たらこの会社で専務をしたらいいんだぞ」などと語る始末であった。

父は有頂天であった。


田中角栄の登場


だが、1974年になってドル安の影響で不景気がやってきた。

田中角栄の内閣の日本列島改造論に踊らされて反映を享受していた日本経済、特に土木建築業者達は大打撃を受けた。

同年末に不正な資金集めをしていたことを理由に田中内閣は倒れる。

田中角栄という人物は、「高小卒の学歴だけで総理大臣にまで上り詰めた」ということで今太閤ともてはやされた。

「コンピュータ付きブルドーザー」とあだ名され、それまでの歴代総理大臣の中では破天荒な人物だった。

しかし、私は「今太閤」という言葉を聞いて嫌な予感がした。

太閤とは誰もが承知の通り豊臣秀吉のことを指す。

尾張の足軽の家に生まれた貧乏侍が、己の才覚だけを頼りに関白で太政大臣という宮中で最高の位にまで上り詰めた。

田中角栄はその現代版というわけであるが、こういう成り上がり者は得てして自分の出身母体を大切にはしない。

この点は明治政府の重鎮、山県有朋と似ている。彼は、明治維新の頃に共に長州で戦った同士に対して、自分が偉くなってからはつれない態度をとっている。

田中角栄は確かに地元新潟の選挙民は大切にしたが、一般の日本国民のために良い政治を行ったわけではなく、むしろ彼らを食い物にした。

彼の錬金術は、日本列島改造論をぶち上げて国中に土木建築の一大ブームを引き起こすことだった。

「皆さん、家が建たない、土地がないといって心配する必要はありません。どんどん高層ビルを建てればいいんです。そうすれば、みんながいい家に住めるようになるんです。」

「高速道路や新幹線をどんどん延ばして、交通の便をよくしようじゃありませんか。」

彼の迫力のある、独特のしわがれ声は、軽快な音色となって国民の耳に響き、1972年の田中内閣発足時の支持率は70パーセントもあった。


しかし、彼の本当の狙いは土地転がしにあった。

こういう面で彼は天才的なところがあり、それは誰も思いつかないような方法であった。

ダミー会社をいくつも作り、そうした会社同士の間で土地を転売して土地の価格をつり上げていった。

高速道路や新幹線の通りそうな用地を所有者にはそれと知らせず、国の権力を使って買い占め、それを彼が影で所有する会社間で売買させることによって値をつり上げ、今度はそれを国の公共建築物の用地として高く売りつけるのである。

悪党と言えば悪党であったし、歴代総理大臣の中でここまであこぎなことをしたものはいない。

彼には愛人や妾が何人もいたが、中でも越山会の女王と呼ばれた佐藤昭子は美人であったばかりでなく、頭の回転も速く、田中角栄の金庫番と称され長年にわたって彼の秘書を務めた。

彼女が田中金脈の総元締めであった。

この辺のいきさつは立花隆の『「田中角栄研究~その金脈と人脈」』に詳しい。

田中は、自分の元に挨拶に訪れる官僚には「おう、これを持って行け」と分厚い札束を差し出したという。

田中の世話になった元官僚達は、「本当に嫌みのない、きれいなお金の手渡し方でした」と奇妙な関心の仕方をしている。

そうやって霞ヶ関の官僚達を手中に収め、また政治家達を資金力にものを言わせて田中派を築き上げた彼に、適う敵はいなかった。

田中のモットーは「政治は数であり、数は力、力は金だ」であった。

アクが強く、押しが効いて、凄みのある風貌だったが、基本的に明るく楽天的で、どこか憎めない愛嬌のある人物でもあった。

そういう点は「人たらし(人を丸め込むのが上手い)の名人」と言われた豊臣秀吉に一脈通じるものがあった。

彼の豪邸は敷地約2500坪で東京都文京区目白にあった。

彼は高価な錦鯉を何匹も自宅の庭で飼い、それに餌をやるのを趣味にしていた。

毎日何人もの陳情者がこの目白御殿訪れた。

彼は気前よく「よっしゃ、よっしゃ」とその要求に答えた。

しかし、何のことはない、国民から巻き上げた金を自分の意のままにばらまいているだけの話で、彼の内閣ができてから、1年もたたない1973年には、もう地価や物価が急上昇するようになり、国民生活が圧迫された。


1985年から始まるバブル時代の基礎を作ったのは田中角栄であると言っても過言ではない。

彼のやり口を真似た人達があの土地の値段が極端につり上がり、地上げが横行した時代を作ったのだ。

多くの国民は彼のことを批判していたが、内心彼のことをうらやましく感じて「自分も田中角栄の真似をして一旗揚げようと」思う人もいたのだろう。


1976年のロッキード事件で彼は外国為替管理法違反に問われ、元総理大臣が裁判にかけられるというとんでもない事件の首謀者になった。

法定では涙ながらに「私のような学歴のない者は、金の力で這い上がっていくしかなかったんです」と陳述している。

その後、裁判は1993年の彼の死まで続くが、彼の死によって結論はうやむやのままに終わった。

彼は総理辞任後も長く政界に影響力を行使し、目白の闇将軍と呼ばれた。

彼の後輩である東大出身で元内務省官僚の中曽根康弘首相ですら、彼には頭が上がらなかった。

後に田中角栄に議員辞職を迫った彼であったが、相手にしてもらえなかった。

また、田中派であった竹下登は首相になりたかったが「竹下は駄目」と田中角栄から大反対された。

結局、竹下は田中派から離れて経世会を結成し、また、田中が脳梗塞で倒れたこともあってやっと1987年に総理大臣になることができた。


田中角栄は首相辞任後もこれほどまでに長く影響力を誇示し続けた。

彼はまさに政界の風雲児というか、良くも悪くも彼はそれまでの政治構造の破壊者であり、今太閤というよりは、織田信長と豊臣秀吉を足して2で割ったような人物であった。

戦後の歴代首相を見ると、吉田茂(外務省、東京帝国大学)、岸信介(農商務省、東京帝大)、池田勇人(大蔵省、京都帝大)、佐藤栄作(鉄道省、東京帝大、岸信介の弟)など、圧倒的に高学歴で高級官僚出身者が多い。

これに風穴を開けたのが田中角栄であった。

誰でも総理大臣になれるという先例を打ち立てたという意味では彼は偉大であったと言える。


最近では東大や京大出身者でなくても、あるいは高級官僚出身者でなくても総理大臣になる人が増えた。いや、むしろそういう経歴の首相の数は減っている。

田中首相以降の首相は、三木武夫(明治大学)、福田赳夫(東京大学)、大平正芳(一橋大学)、鈴木善幸、中曽根康弘(東大)、竹下登(早稲田大学)、宇野宗佑(神戸大学中退)、海部俊樹(早大)、宮澤喜一(東大)、細川護煕(上智大学)、羽田孜(成城大学)、村山富市(明大)、橋本龍太郎(慶応大学)、小渕恵三(早大)、森喜朗(早大)、小泉純一郎(慶大)、安倍晋三(成蹊大学)、福田康夫(早大)、麻生太郎(学習院大学)、鳩山由紀夫(東大)、菅直人(東京工業大学)、野田佳彦(早大)、安倍晋三、菅義偉(法政大学)であり、この中に東大卒は、福田赳夫、中曽根康弘、宮澤喜一、鳩山由紀夫の4人しかいないし、京大卒はゼロである。


田中角栄が政界の学閥を打ち破ったと言えなくもないが、よくみるとそうした首相は父親や祖父の代から政治家であった人達が多い。

国会議員にも二代目、三代目の政治家が多くいるというが、実際、政治家の世界でも世襲化が進み、むしろ硬直化が進んでいる状況だ。

東大を出て官僚になり、出世して50代になったら政治家に転身するという構図はもはや過去のものとなった。

首相になれるかどうかはほとんど出自で決まる。

親の世代は東大卒、国家公務員上級職合格、そして本庁採用で出世コースを邁進することで総理大臣になった。

だが、今やその息子や孫達の世代に入り、彼らはそんな苦労はしなくて済む。

東大に合格するとか、そんな面倒くさい回り道は選ばない。

学歴としては、どこかの大学を出ておけばそれでいい。

そして後は父親の秘書をやっておけば、やがて自分のところにお鉢が回ってくる。

だが、お坊ちゃま育ちのせいか、最近の首相はいずれも小粒で、「決断と実行」をスローガンにした田中角栄ほど行動力のある人はいない。


1970年代半ば頃、テレビ局などはもうコネ無しでは入社できなくなっていた。

いやテレビ局だけでなく、どの大企業もすべてコネになっていた。

伊藤整の小説「氾濫」は1960年頃の時代背景を元にしているが、その中にある大学の教授職がひとつの一族から代々占められていくという記述がある。そして、氾濫が書かれた時点で既に孫やひ孫の代になっていたと言う。つまり、最初に優秀な人が教授職に就き、次にその教授の娘に婿を迎えて彼を別の講座の教授職に就け、また、次に生まれた娘に優秀な婿を迎えて彼をさらに別の講座の教授職に就けるという具合に続ける。そうすると1つの私立大学の教授陣の大多数が名前こそ違え、ほぼ同じ1つの家系に属するようになる。小説であるから多少の誇張はあるかもしれないが、これが今から60年前の現実であったのではないか。私自身も東京の私立大学に通っていたがこれに類似した例を見聞した。民法の講座を担当していた助教授は同じ大学の法学部で憲法の講座を持っていた教授の息子であった。となると、こうした一族は今や第6もしくは第7世代に入っているということになる。冠婚葬祭の場ともなると、それは豪勢な顔ぶれになるであろうと簡単に想像できる。


これは学界に限ったことではない。官界や政界、そしてもちろん財界の世界でも起きているのは間違いない。広瀬隆の「私物国家」という本を読むと、日本の上層部の人達は何らかの姻戚関係を持って密接につながっていることが分かる。これは無論日本だけの話ではなく、世界の経済を牛耳っているのは2000あまりの一族だと言われている。また、米国では国の富の大部分を国民の5%の人達が握り、残りの95%は貧しい人達だという説もある。


いずれにしても、努力すれば、勉強すれば、有名大学にいけば、出世競争に励めば、といったことはほぼすべて幻想であって、この日本や世界の社会にあって、下の者は上にほぼ絶対に這い上がれないようにできている。

私たち庶民は国の支配者によって1つの巨大な競技場で戦いをさせられている剣闘士のようなものである。確かに裸一貫から身を起こし、大成功を収める者も中にはいる。しかし、基本的に彼らは広告塔として利用されているに過ぎない。


私はこうした日本の現状を見るたびに、大英帝国の指導者は偉いなと実感する。

ある英国貴族の出身者が子供時代を回想したエッセイを読んだことがある。

「私が8歳になったとき、私は父に呼び出された。父は私を抱きしめると『息子よ、これでもうおまえとはお別れだ』と言った。そして、執事が入って来て私の手を取り馬車に乗せた。

私が連れて行かれたのは深い森の中を抜けた場所にある全寮制のパブリックスクールだった。そこでは厳しい教師と上級生達が待ち構えていた。私の楽しかった幼年時代はそこで終わった。」

英国の貴族階級は自分の息子だからといって溺愛したりはしない。厳しい環境の中に放り込み、その中を自力で這い上がってくるような力量のある者でなければ跡を継がせない。

英国首相だったチャーチルも同じような経験をしている。彼の場合、父親が早くに亡くなっていたので学校に彼を預けたのは米国出身の母親だったが、考え方は似たようなものだ。

素行が不良であれば、尻を鞭で叩かれる。上級生からは理不尽な要求を突きつけられる。

ある日、チャーチルはいたずら心で、ある上級生をそれと知らずに池の中に突き落としてしまったため、危うく上級生の一団からリンチに遭いそうになっている。

彼は英国貴族の中でも超名門の家柄の出身だが、それでも扱いは他の生徒と変わらない。

どのような仕打ちを受けようとも親が口を挟むことはない。


『サハラに舞う羽根』という映画がある。19世紀の英国において英国貴族の子弟の任務は海外の英国植民地に指揮官として出て行き手柄を立てることであった。

そして、少しでも多くの領土をビクトリア女王のために獲得することが使命とされた。

だが、そうした指揮官養成所、すなわち、陸軍士官学校の卒業生の中に任官拒否をした人物がいた。

彼は父親から「おまえは私の息子ではない」と言われて縁を切られてしまった。


所有権は義務を伴う。ノブレスオブリージュ(身分の高い者はそれに応じて果たさねばならぬ社会的責任と義務があるという、欧米社会における基本的な道徳観)ではないが、国の支配階級であり続けるためには、常に市場を開拓し続けなくてはいけない。そうでないと、後から出てくる下層階級の人間に追いつかれ、やがては打ち倒されてしまう。


こうした英国社会の例に照らすと、先ほどの政治家の世襲の例ではないが、どうも日本の支配階級は代を重ねるごとに覇気を失っていくように思える。



父の借金


しかし、これはあくまで歴史学者的なものの見方であって、1970年代半ばの頃、上を向いたらきりがない、下を向いたら後がない生活をしていた、生粋の庶民である父にとってそんな雲の上の世界のことなどお構いなしだった。


「イギリスの貴族階級?ふん、何だおとぎ話か?」

「でも、社会党が政権をとったら生活がもっとよくなるのでは?労働者の味方のはずだし。」

「馬鹿、あんなものに政権担当の意欲があるか!」


高小卒の学歴しかない彼にとって政治的理想がどうとか、民族の特性がどうだとか、世界の中の日本などといった高尚な話は戯言に過ぎない。

英国がどこにあるのか、ショクミンチなどという言葉の意味さえも知らなかったのではないか?

形而上学的なことは苦手であり、自分が直接目に見えるもの、手で触れるものしか彼の頭の中に存在しない。

世界史や国際情勢、英語やフランス語といった外国語、そんなものの知識が何になる?

彼にとって、ただ、大工の仕事を手伝って、小遣い銭が稼げて、飲んで歌って楽しめればそれでよかった。

だが、父の副業先の土建会社も、田中角栄の失脚による不動産業の衰退の煽りを受けた。

その会社が倒産してからすぐに私の家に債権者が押し寄せて来た。

父はKKの口車に乗せられて、いやもっと正確に言うとKKの妻の甘言にそそのかされて、多額の債務の保証人になっていたのである。

KKの妻というのが水商売をしている年の割に(40歳過ぎ)やたらに化粧の濃い女で、この妻に父は保証書の実印を押すよう懇願された。

世の中にただのランチはないというが、KKの資金でただで遊ばせてもらったツケが大変な形で父の元に戻ってきた。

ブーメランの顔面直撃である。

この衝撃は激しかった。

父は債権者の群れに追い詰められた。

台所から包丁を取り出し債権者の家に直行しようとしたところを母が泣いて止めるという場面もあった。

まさに修羅場であった。

父は夫婦で親戚中を駆け巡り、体裁の悪いのを我慢して何とかまとまった金額を工面して債務を返済しようとしたが、それでも足りなかったので、分割払いにしてもらうことで一応は事態が収束した。

だが、この問題が警察署の幹部に知られることとなった。

債権者が署まで問い合わせを行っていたからだ。

署長は激怒した。

「これはどういうことだ!」

父は、それまで通勤していた署から200km以上離れた所にある小さな駐在所に左遷された。

手当も大幅にカットされ、ただでさえ低かった給料がさらに下がった。

当然単身赴任である。

父は落ち込み、ふてくされた。

そして、何か考え事をしていたのだろうか、駐在所の50cc のスーパーカブに乗って警ら中に事故を起こし重傷を負った。

一命は取り留めたし、独り相撲だったので誰か他人を巻き添えにした事故でなかったのが唯一の救いであった。

父の鎖骨や肋骨、そして大腿骨など身体のあちこちの骨が折れたりひび割れしたりしていたが、50歳近くになっていたのでなかなか骨が元通りにならない。

病床にくくりつけられた状態になった父は痛さのあまりうめき声をあげて苦しんだ。

自業自得と言えばそれまでだが、見ているこちらの方が辛くなるような状況であった。

感染予防の薬を摂取しているため、その副作用で激しい頭痛がした。

痛み止めもあまり効き目がない。

食事も満足にとれず、トイレは自力では無理。

風呂にはもちろん入れず、家族や看護師に身体をタオルで拭いてもらうだけ。

病室に臭い消しが欠かせなかった。

そんなこんなで入院生活は4か月に及んだ。

そして退院したのはいいが、恐怖のリハビリが待っていた。

長期間ギブスで身体の各所を固定していたのでなかなか思うように動かないのだ。

無理をして身体を動かそうとすると思わず悲鳴が出そうなくらい痛みが走る。

結局、職場への復帰は事故から1年あまりが経過してからのことだった。

ところがここで思いがけないことが起きた。

職務中の事故だったので公務災害扱いとなり警察からかなり多額の補償金が出たのである。

それによって父が負っていた債務を完済することができた。

まさに、父は自分の血を持って損失の穴埋めをしたのであった。


定年退職


その後、父は残りの数年間を黙々と働いて警察官の職をまっとうし、日本道路公団関連の会社に再就職して65歳で完全に職業人生からは身を引いた。

もはや父は、商売のことについて語ることはなく、商売人との付き合いもいっさいしなくなった。

1985年にバブル時代が始まり不動産ブームが起きた時、父に建築の仕事を手伝わないかと昔の知り合いが誘いをかけてきたが、父は相手にしなかった。

父は、何かうまそうな話を持ちかける人に警戒心をいだき、人におごってもらうことを極端に嫌うようになった。そしておべんちゃらを言う人を時には罵倒することさえあった。

過去の経験によほど懲りたのであろうが、それ以上に金銭的な悩みから解放されたことの方がこの心境の変化に大きな影響を与えたようだ。

そして、父親の父親、つまり私の祖父の死を契機に故郷の家に帰って静かに暮らし始めた。


1990年、父が警察官を退職する頃、バブルがはじけた。

大蔵省の総量規制がきっかけだった。

自由に不動産取引ができなくなった。

これにより景気の発展に急ブレーキがかかり、長銀や北海道拓殖銀行などの大手の金融機関でさえ倒産に追い込まれた。

同じく1990年には湾岸戦争が起きたが、朝鮮戦争やベトナム戦争の時のように日本の景気は良くならなかった。

逆に、国際紛争で血や汗を流さない日本ということで非難を浴び、日本政府は第一次イラク戦争のために1兆2000億円もの資金提供をした。

米国が戦争をすれば日本が潤うという構図がこの時点で崩れ去った。

2000年の第二次湾岸戦争でも似たようなものだった。


私は、1990年頃は太平洋戦争の経験者が第一線を退いた時期に一致すると思う。

あの死に物狂いで、どんな困難にでも耐えて立ち向かった人達がこの頃からもう職場にいなくなりだしたのだ。

日本は戦争に負けて軍部の支配が終わったことによって途端に民主主義の良い社会になったかのように言う人もいるが、それは間違いだ。

軍の支配は終わったかもしれないが、軍人精神をたたき込まれた人は大勢残った。

彼らは後から生まれてきたものに対して自分達がやられたようにやり返した。

要するに後輩いじめである。

彼らは仕事を部下に押しつけ、働かせることによって太っていった。

大本営が命令を出すのと何ら変わりはない。

それでも後輩は辛抱した。

私の父親もその一人だった。

警察官の下っ端で40歳過ぎてもうだつが上がらないが、辞めようにも他に働き口はない。

これは他の業種でも似たようなもので、商社の社員などサービス残業など当たり前、土曜日曜もゴルフなどの接待で家にはいない。

家庭などあってなきがごとしだと、ある商社員の妻は嘆いていた。

それくらいみんながむしゃらに働き、世界からはエコノミック・アニマルだと揶揄されるほどだった。

しかし、1990年にバブルがはじけてから30年以上経つが、まったく景気が回復する兆しは見られない。

もはや日本経済を支えてきた骨のある人材がいなくなったのだ。


公務員の立場の逆転


また、この頃からそれまで見向きもされなかった公務員という職種に人気が集まりだした。

給料は安いが、安定していて、安心して働けるというので就職志望者から支持を得るようになったのだ。

逆に、中小企業の経営が悪くなり出した。

何か商売をすれば儲かる時代は終わり、建築業や縫製業、あるいは飲食店や喫茶店など、それまで金回りのよかった職種が軒並み潰れていった。

誰も、ミシン工場など見向きもしなくなった。

私が中学生の頃、従業員が10人程度の縫製の会社を経営している家の息子がいた。

レコードを買ってもらったり、おしゃれな洋服や靴などをたくさん持っていて、家にお金のあることを自慢していたが、その会社も潰れた。

1日に100万円の金が入ってきていたボーリング場も潰れた。

また、かつて高級車を乗り回して羽振りのよかった時計店の主人は、父が警察官を退職して3000万円の退職金を手にしたという話を聞きつけ、「金を貸してほしい。必ず返すから」と夫婦で父のところに頼み込んできた。

父は「もう商売はごめんだ」とその要求を断った。

時計店の主人は2時間近くも頭を下げてねばりにねばったが、父の決意が固いのを見て諦めて帰っていった。


倍返し


こうして、1990年代に入ってから仕事の第一線を退いた父は、ほぼ毎日何も仕事をせず、年金をたっぷりもらい、そして優雅に暮らした。

それは自分をこき使った日本の軍部や国家に対する仕返しのようでもあった。

父のような考え方の老人は今の日本に少なくないだろうと思う。

特に兵隊に取られて、満州や中国大陸で戦った兵士、あるいは南方の島々に送られて食べるものもなく、武器弾薬もなく、浮浪者のような様になってジャングルの中をさまよい歩き、挙げ句の果てに人肉まで食うような状況に追い込まれた兵士。

爆弾を抱えて自分の命と引き換えに敵の戦車に体当たりするよう強制された兵士。

そんな地獄を見て、そして生きて帰ってきた人達が国から年金を貰えるようになったとき、何を考えるだろうか。

「こうなったら、できるだけ長生きをして今まで失われた自分の人生を取り戻してやる。」

そして、そういう人達の年金や医療費や介護の費用を誰が負っているのか?

ウィルスに耐性菌というのがある。

どのような抗生物質を開発しても、それに抵抗力を示す菌のことである。

昔、人の命が赤紙1枚で買えた頃、そして軍人なるものを簡単に製造して戦地に送り出せた頃、誰がこれほどまでに人命が高くなるということを想像しただろうか?

無論、ここで言う高い人命とは戦場を生き延びて帰還してきた人達のことである。

あれほど、死ぬのが間違いのないような状況の中にあっても、必ず生きて戻って来る人達がいる。

そして、その人達の請求する金額は莫大なものになってくる。

今も父のように90歳を超えても高額の年金を受け取る人達はたくさんいる。

そして、そうした社会保障費を負担しているのは彼らよりも若い世代である。

子供の数は減るが老人の数は増える。

若い世代の負担はそれに比例してますます増えるが、かといって今若い人が年寄りになったときにその社会保障費を負担してくれる若い世代の数はもっと少なくなっているだろう。

結局良い思いをしているのは父の世代だけである。

そして、彼らはたっぷりと年金をもらい、これでもかというくらい長生きをしようとする。


弱い者いじめの代償


私はつくづく弱い者いじめをしてはいけないなと思う。

父のような少年兵までこき使った当時の日本政府は、今その代償を支払うために大きな困難に直面しようとしている。

私は、私達の世代があまり社会保障を受け取れなくなったのは、父達の世代の人間が社会保障費をどんどん食い潰しているからではないかと思う。

しかも、これからは子供の数も少なくなるし、私達の子供の世代は私達よりも受け取れる年金額はもっと減るのは間違いない。

戦前、赤紙1枚で若者を軍隊に徴収し、戦地に送り出したことが借金となって今の世代の日本人に跳ね返ってきている。

所有権は義務を伴うと言うが、所有している人が自分の持ち物をぞんざいに扱うと、そして、それjは軍隊が兵士という人の命をぞんざいにして扱ったことを意味するが、どこかでその代償を支払わなければならない。

戦前の地主階級や華族といった特権階級は日本の敗戦によって、財産も地位もすべて失った。

安いからといって気楽に構えていると、後でとんでもない事態が待ち受けているのだ。


左うちわの晩年


晩年の父はお金に恵まれた自らの境遇を楽しみ、周囲の人に気前よくお金を配った。

お金を無心してくるような人や貧乏人は嫌ったが、筋の通ったことへの支出は怠らなかった。

親戚の冠婚葬祭や、寺や神社への寄進や奉納、町内会や老人会のための集会所、あるいは町内で共同で使用する娯楽施設などのために寄付をした。

だが、私には金銭的にあまり優しくはなかった。

ことあるごとに、「おまえはだめな奴だ、大学まで出してやったのに稼ぎが悪い」と責めた。住宅ローンや子供の教育費などで私が苦労していても、知らん顔で見ていた。

いやむしろその状況を面白がっているようでさえあった。

父がそのような態度を取ったのも学歴に対するコンプレックスのせいかもしれない。

松本清張は高小卒の学歴で文壇の大御所になったが、彼の小説は官僚など高学歴で出世した人達をけなすような作品が多い。

彼の態度と父の態度にはどこか似通ったものがある。


老後格差


父は私の年金額を聞いてあざ笑った。

「何だ、大学まで出ていてそれくらいしかないのか?」

私は事情があって国民年金しかないので、介護保険費などを差し引かれると毎月の手取額は6万円程度にしかならない。

幸い翻訳の仕事をしているし、妻が小学校の教員をしていたので2人合わせれば何とかやってはいけるが、父のような豊かな老後は望むべくもない。

また、私の周囲を見渡しても公務員や教員、あるいは会社員を定年退職した人が多くいるが、その年金額は父よりもはるかに少ない。

学歴、学歴と私の親たちは騒ぎ、戦前とは比べものにならないくらいのたくさんの大学生が誕生したが(戦前の大学進学率は100人に1人ぐらいの割合)、その割にはそうした高学歴の人達が、その人の親の世代ほど恵まれた老後を送っているとは言いがたい。



今も残る徴兵制度


今の日本に徴兵制度はないが、それに似た制度に義務教育の制度がある。

日本の子供は7歳になると文部科学省の管轄する小学校に入学しないといけない。

そしてその後も中学校の義務教育期間を経て、高等学校、大学あるいは専門学校と、ほぼ文部科学省の定める、いわゆる「教育」と呼ばれるコースをたどることになる。

ここには個人の自由な発想による教育というものはなく、ただ官僚の支配があるだけであって、有無を言わさず各家庭の子供を教育組織の中に織り込もうとする姿勢は、どこか昔の徴兵制度に似ていないだろうか?

そして、「子供のため」と言いながら、子供のためになるかならないのか検証もされないままに、役所的な都合だけで「教育」が決められていく。

役人が教育内容を決めるのであるから、役人になるための資格があるかないかに主眼が置かれた教育になる。

ペーパテストの点数だけで才能の有無が計られて、それが現実に即したものになっているかどうかは分からない。

これだけ、職業の多様化が進んでいる中にあって、画一的な教育に子供を押し込めようとするのはあまりに現実にそぐわないのではないか?

それほどまでに役人に向いた人材ばかりを育てる必要がどこにあるのか?

役人をやるのなら、決められた通りにロボットのごとく事務処理をしていれば、それでいいのかもしれないが、民間の会社や自営業の世界ではそうはいかない。

世の中は、役人が得意なデスクワークだけをしていれば動くのではない。

大工も要れば、佐官も要る。

美容師も要れば、家電製品の販売員や自動車のセールスマンも要る。

もし、仮にAKB48のメンバーをペーパテストだけで決めるとしたらどうなるだろう?

あるいは彼女達の学校の勉強に関する偏差値を見たら、素晴らしい数字が並んでいるのだろうか?

大英帝国が建設できたのは、ペーパテストに強い秀才を育てたからではない。

貴族の子弟が通うパブリックスクールが、体力や体格、そして知力に優れたエリートを輩出したからである。


実際、学校秀才が必ずしも社会人となって秀才になるとは限らない。

男の世界で重要なのは学力よりもむしろ体力である。

端的に言えば、喧嘩に強い男が世渡りにも強い。

ある大手の損害保険会社の社長が「勉強ができる人材は100人に1人しか要らない。とにかく体力があって理屈を言わずに働いてくれる人材がほしい」とはっきり言っていた。

就職活動で有利な学生は体育会系で辛抱してきた学生である。

主将だとかレギュラーになれなくても大学の4年間運動部で辛抱してきたという実績が一番重要な意味を持つ。

また、企業は、何でもそこそここなせるが、どこといって取り柄のない学生は敬遠し、一芸に秀でた学生を歓迎する。

就職には、何か他者と違う得意なものがあると有利だ。

となると、学校でテストの成績が悪いとか、もっと日本史の年号などを暗記しなくてはいけない、などと騒ぐことにどれほどの意味があるのか、ということになる。

私が大学を出る頃に全優に近い成績をとっていた学生がいたが、就職活動では大手の有名企業に全部落ちた。

理由はよく知らないが、「性格が暗い」というのが理由だったらしい。

そういえば、彼の笑った顔は見たことがなかった。

また、私が以前アルバイトで教えていた塾に、漢字の書き順にうるさい男の子がいた。

私が何か漢字を黒板に書くたびに、「その書き順違う」と大声を張り上げるのである。

「これが勉強だ、これが優秀な証拠だ」と思って彼は大人になっていったのだろうが、仮にデパートの店員になったときに、お客さんが中元をして届け先の宛名を書くときに、「書き順が違う!」と大声を上げたのだろうか?


文科省は「子供の教育を守るため」と主張して予算を獲得しようとするが、あまり子供が幸せになっているとは思えない。

いじめの問題があれば、学校にスクールカウンセラーだのを配置する。それにかかる予算が増えるだけでいじめの根本問題は解決することはない。


そして、全国統一テストなどを実施して、ますます強く子供や教員を数字で縛り付けようとしている。

テストの点数が悪い学校は教員が怠慢な証拠だと決めつけるというのであるから、恐れ入る。

そこまでして権威を振りかざしたいのであろうか?

かといって、教員が組織する日本教職員組合(日教組)も「子どもと教育の、より良い今と未来をめざします」と主張しているが、実態は「教員の待遇を改善して給料を上げろ」というのが本音ではないのか?

官製の教育の領域を減らして、もっと民間の教育機関を活用した方が、子供の個性を伸ばす教育ができると思うのだが、文科省は自己の権限を手放そうとはしない。

学校にいじめの問題があると言えば、カウンセラーを配置しますといい、児童の数が減ったと言えば、予算を減らす代わりに複数担任制を導入しようとする。

果ては大学をどんどん新設して、その事務室に文科省のノンキャリアの役人の天下り先を確保しようとする。

これのどこに子供の幸せがあるのか?

むしろ、戦前の徴兵制度と同じで、「就学年齢に達しました」ということだけを根拠に子供という国にとって大切な資源を搾取しているのではないのか?

子供は大人の未来を担う存在であり、今の日本の教育制度は大切に育てるべき未来を大人の都合で損なっているのではないのか?

今の少子化の現象は、この状況と無関係ではないような気がする。


私の父達の世代は赤紙一枚で辛酸を嘗めたが、その仕返しとして長生きをし、年金をたっぷりもらうことで憂さ晴らしをしようとした。

そして、そのツケを我々の世代が払わなくてはならない。

今後も、子供を大人の利益のために利用しようとし続ければ、父の例のようなしっぺ返しが日本社会に来る可能性が十分にある。


内向きになる日本


残念なことに日本には旧植民地や領土はない。

いや、正確に言うと、朝鮮や満州などが旧植民地であるが、ブリティッシュ・コモンウェルスのような形式にはなっていない。

日本語が通じるのもこの地球上でこの日本国土だけである。

そして、そのことが日本を内へ内へと向かわせる。

私の父の世代の人達はもっと海外へ出て行くことに意欲があった。

父は高小卒の学歴しかないので海外赴任などということはなかったが、父よりも学歴の上の人達は商社マンやメーカーの営業マンとして世界中に飛び出して行った。

彼らは「戦争では負けたが経済では負けない」とそれこそ粉骨砕身で働いた。

そして外貨を稼いで日本に持ち帰った。

父と同じような経験をした他の戦争世代の人達も日本を立て直すのに必死だった。

だが、今そうした人達はいない。

そして、「地元で働けるから」、「残業がないから」、「安定しているから」という理由で公務員に人気が出る。

そのために国民は、国内を細かく開拓する以外に生きるすべがなくなっていく。

一方、役人は海外への仕事がないので国内の規制に熱心になる。

例えば、最近では老人から免許を取り上げようとしている。

事故が減れば警察はやりやすいかもしれないが、日本の人口構成で老人の占める割合は高いし、こんなことをすれば自動車を購入する人の数が激減する。

そうなれば自動車産業は衰退し、若い人の職が無くなる。

自動車を手放した老人のためにタクシー代やバス代などの援助をしなければならなくなって、国の負担が増える。

日本の人口構成でかなりの部分を占めるのは老人であり、彼らは主要な消費者でもある。

むしろ、お金にある程度余裕のある彼らにこそもっと車を買ってもらうべきではないのか?


役人の本質


役人になりたがる人が増えているが、役人は国に利益をもたらすわけではない。

役人は本来国民の税金で賄われて、国民にサービスを提供するだけの存在である。

役人が今でも食えるのは、1990年代まで私の父親達の世代が頑張って海外から外貨を稼いできたからである。

戦争を経験した人達が、「あのときの苦しさに比べれば、こんな苦労は何でもない」という覚悟で世界中に日本製品を売りさばいていった。

そうやって外貨を稼ぎ貯めに貯め込んだから今でも日本経済は持っているのだが、もはやそうした活力を支える人材はいない。

私が大学生の頃、先輩に北海道出身の人がいた。

「君は大学を卒業したらどこに就職するの?」

「はぁ、やっぱり故郷に帰って公務員になろうかなと思っています。」

すると、彼は怒ったような語調になってこう言った。

「そういう考え方はちょっと気に入らないね。」

「・・・」

私はどう答えていいのかわからなかった。

彼はこう続けた。

「日本経済を支えているのは俺たちじゃないか!」

彼は北海道で父親が北海道電力の社員をしている家庭に三男として生まれた。

三男なので家の財産は大して継げない。彼の長兄は東京で大学生活を堪能した後、ちゃっかり父親のコネで同じく北電に入社した。

住宅ローンに悩むこともなく、勤め先も電力会社なので安定している。

それに比べてこの先輩には何も相続するほどのものはない。

従って、東京のどこかの企業に入って働く以外にない。

有名企業に勤めていると言えば聞こえはいいが、実態は日本国中、あるいは世界のどこか知らない国にまで転勤や出張で出かけていかないといけない。

家庭なんてあってなきがごとしで、会社にいる時間が長ければ長いほど、仕事を熱心にしていると見なされる。

『24時間働けますか』という精力剤のコマーシャルが流行ったのもこの頃である。

まさに、この頃の日本経済を支えていたのは地方出身の次男三男の子供達であった。

彼にしてみれば、私のように故郷に帰って公務員をしながら親の建てた家に住んで気楽にやる人生を送る人間に対して腹立たしい気持ちが湧いてくるのも無理はない。


そんな人達の頑張りにより、トヨタ、ソニー、キャノン、日立、パナソニック、そしてユニクロなど名だたる日本の大手企業は、世界中に拠点を設けるようになったが、もはや日本にわざわざ利益を持ち帰ろうとしない。

トヨタは世界中で1000万台の自動車を販売しているが、日本国内のそれは150万台程度であって、日本よりも世界の方がトヨタにとって重要になっている。

もはや、日本企業であっても日本企業ではなく、むしろ多国籍企業と呼ぶのがふさわしい。

ユニクロの柳井社長は「1億人の市場よりも70億人の市場を相手にする」と語っている。

では、役人を養う資金はどこから来るのか?

役人が外貨を稼ぐわけではないし、国内で経済活動を行って景気を豊かにするわけでもない。

むしろ、役人にとっては、景気が良くても自分の給料がそれほど高くなるわけではないので、デフレのままの方が都合がいいだろう。

そうなると、役人を含めて日本国民全体が、ひとつ前の世代が稼いでくれたことでできた含み益を食って食いつないでいくしかない。

このため、戦前の軍部と同じような暴走がまた始まろうとしている。

軍部は徴兵制度を悪用し、国家の経済とは無関係に自己の権限を強化しようとした。

現代の役所は規制を作り、規制に役職を付けて縄張りを大きくし、予算を大きく獲得しようとする。

しかし、日本が内向きになって、規制ばかり作って世界の中で自分達の力を弱めるようなことをしていると、クラウゼビッツの『戦争論』に言うところの「争いを好まない民族は争いを好む民族によって必ず滅ぼされる」ではないが、日本は外国との競争を厭わない民族によって滅ぼされかねない。

いやもしかしたら省庁間で予算を巡って内ゲバが起きるかもしれない。


2021年現在、日本のGDPは世界第3位で経済大国だというが、他の諸外国と比較してもそれほど豊かさは実感できない。

むしろ日本よりはるか下位にあるオーストラリア(14位)やスペイン(13位)の国民の方が日本人よりも余裕のある豊かな暮らしをしているのではないか?


この違いは老後の不安感があるかないかによるものだろう。

国の基盤がしっかりしていて、自分達の老後に心配がなければ安心して今持っているお金を使える。

しかし、日本のように狭い国土しか持たず、外国の領土や旧植民地もなく、世界的にも孤立したような立場にある国は、国がよって立つ基盤というものが弱くなる。

英国も、その本土は確かに小さい国だが、しかしブリティッシュ・コモンウェルスがあるし、世界中ほぼどこでも英語が通じる。

仮にアフリカ大陸のどこでも日本語が通じるとしたら、日本人は日本しか生きる場所がないと考えるだろうか?

私は今でも世界は旧教徒と新教徒が支配していると考える。

この他にもイスラム教徒や仏教徒、またユダヤ教徒の存在もあるが、やはりこの2大教徒が圧倒的に勢力がある。

彼らはこの地球上に深く根を張り、今もその勢力は衰えていない。

このどちらかに属しているということはそれだけで大地主のようなステータスなのである。


ゾルゲ事件


1941年に日本でゾルゲ事件というのが起きている。

ドイツ人ジャーナリストのリヒャルト・ゾルゲがソ連のスパイであったことが判明し、彼とその一味が逮捕された事件である。

歴史学者でもあった彼は、特高(特別高等警察)に逮捕されて取り調べを受けたが、その際、「日本人はヨーロッパ外交の複雑さについて何も知らない」と語っている。

1945年7月にポツダム宣言が発せられ、連合国は日本に対して無条件降伏を迫った。

しかし、日本の軍首脳はこの期に及んでもなお「国体護持」にこだわり、ソ連に米国との和平の仲介役を引き受けてくれることを求めた。

表向きは国体護持とは天皇を守ることを意味したが、その内実は天皇を守ると同時に自分たち軍幹部の立場や身分もそのまま認めてくれという虫のいい要求であった。

ソ連はそんな日本の甘い考えに乗るはずもなく、1945年8月8日には日ソ中立条約を一方的に破棄し(本来は条約の有効期限は1946年4月24日であった)、怒濤のごとく満州の国境を越えて侵攻してきた。

まるで火事場泥棒のような手口であるが、相手国が弱いとみるや情け容赦なく襲いかかってくる。

それがヨーロッパ外交の掟であった。

そして、樺太と千島列島をちゃっかり奪い返した上に、不法占拠した北方四島に関しては未だに日本に返還しようとしない。

日本がもっと早く無条件降伏していれば、こんなことにはなっていなかっただろうし、特攻隊の隊員や飢えに苦しむ南方の島々の日本兵の命も救えただろう。

米国を相手に開戦してしまったことといい、ソ連にすがったことといい、「外交を軽視し過ぎる」と一言で片付けるにはあまりにも残念な結果である。

ゾルゲの言うとおり、日本は鎖国時代が長かったせいか、外交に関しては本当に幼稚なままで、これは今に至るも改善されていない。

ソ連のこのひどいやり口に比べれば、中国国民党の蒋介石がよほど偉い人に見えてくる。

蒋介石は「恨みに報いるに徳をもってする」とし、戦後、中国にいた約130万人の日本の敗残兵をすぐに帰国させている。

彼は、ソ連のように日本人捕虜を抑留して、強制労働をさせるというようなことはしなかった。

この点、白人はあこぎないというか、有色人種や異教徒に対して残虐で苛烈な態度を取る。

日本が負けたのに乗じて連合国の敗戦処理の仲間入りをし、北海道をよこせとまで息巻いている。

甘い夢にすがらず、ソ連のこの領土欲の強さに日本はもっと警戒をすべきであった。

チャーチルは戦後、米国で議会演説をし、「鉄のカーテンがソ連との国境に降りている」などと語って共産主義の脅威を説いているが、そんなことなら最初からヒトラーに任せてソ連を滅ぼしておけばよかった。

戦争中は米国も英国もソ連を支援していたくせに、後から仲違いになっている。


ゾルゲは、スパイ行為を行った罪により処刑された。

しかし、その直前に日本にとって気になるもうひとつの予言をしている。

「日本はこの戦争に負ける。負けた後、米国は日本と仲良くしようと言ってくるだろう。しかし、それは危険なことだ。」

日米関係は90年代まではよかったかもしれないが、最近は「日本が敗戦国になって貧窮に喘いでいたときに、経済援助をして助けてやったのは米国ではないか。今はもう日本は経済大国なのだから、米国にあの時の借りを返せ」と言ってきているように見える。

日本人は外国と言えば米国のことをよく思い浮かべるし、日本に入ってくる外国文化は圧倒的に米国の文化が多い。

しかし、日本と米国は宗教観は違う。

基本的に日本は仏教と神道の国であり、米国はキリスト教の国である。

神道は多神教だが、キリスト教は一神教だ。

日本は結婚式はキリスト教の教会で、葬式は仏教のお寺で、家を建てる時の地鎮祭は神道、というふうに奇妙な使い分けをするが、米国はキリスト教がメインである。

米国は建国して240年くらいだが、日本は1300年以上だ。

米国の言語は英語でアルファベット26文字の大文字小文字と数字しか使わないが、日本語は漢字、カタカナ、ひらかな、ローマ字、数字と非常に多くて煩雑だ。

米国は主に白人で構成されるが、日本は有色人種の大和民族が大多数を占める。

アメリカ人にはヨーロッパやその他の世界各地に親類縁者が山のようにいるだろうが、日本人でアメリカやその他の国に親類縁者がいる人は少ない。

要するに米国と日本は利害関係でつながっているだけであって、それがなくなるとお互いを結びつける共通点がなくなってしまう。

今のところは、米国にとって日本は反共の防波堤になるし、米軍の基地も配備できるという地政的に都合のいい場所にある。

日本にとって米国は日本の製品を買ってくれる上得意先である。

これは言い換えれば、日本とアメリカは単なる表面的な友好国に過ぎないのであって、共通の根はないということになる。

利害関係のバランスが崩れれば、ソ連の満州国侵攻のように米国は白人特有の論理に従って我が国を蹂躙していくだろう。

日本のテレビや新聞は海外のニュースというとアメリカのことを頻繁に取り上げるので、日本人はアメリカはいつも日本のことを考えていてくれるのかなと錯覚を起こすかもしれないが、実際は違う。

アメリカのニュース番組で日本のことが取り上げられることは滅多にない。

完全な片思い状態である。

米国にとって対日本の外交政策はいくつもある外交政策の1つに過ぎないのであって、むしろ、アメリカにとって重要なのはイスラエルで何が起きているかではないか?

それは米国の経済を支配している主要な民族のうちの1つがユダヤ人だからである。

もし、日本人がアカデミー賞の外国映画作品賞を狙うなら、ユダヤ人を助ける日本人というテーマの作品を作ったらいい。

そうすれば受賞する可能性が高くなるだろう。

なぜか?

それは、米国の映画界を牛耳っているのは主にユダヤ人(資本)だからである。

MGMやワーナー、そしてコロムビアといった映画会社の設立者は全員がユダヤ人であり、監督も、ビリーワイルダー、スティーブン・スピルバーグ、そしてウディ・アレンなどユダヤ人(ユダヤ系)が多い。

また、『栄光への脱出』、『シンドラーのリスト』、『戦場のピアニスト』、『ライフ・イズ・ビューティフル』、『ヒトラーの贋札』、『炎のランナー』などアカデミー賞に輝いた映画作品にはユダヤ人の差別問題を取り上げた作品や、あるいはユダヤ人をヒーローにした作品が多い。

アカデミー賞が取れるかどうかはテーマ次第といっては過言だろうか?


いずれにしても、映画の世界でさえも民族間の問題や宗教観の違いが入り込んでいるのだから、政治や経済の世界ではなおさらこの力関係を理解することが重要になるだろう。

実際、こうした理解なくして国際外交というものは成り立たないと思うが、残念ながら日本の選挙民でこうした考えの重要性を理解している人は少ない。

ユダヤ人がなぜキリスト教徒に嫌われるか、その理由を理解している日本人がどれだけいるだろうか?

世界が新教徒と旧教徒の力関係のバランスの上に成り立っていることなど、ほとんど誰も知らないだろう。

だから、政治家もそんな問題を取り上げようとはしない。

政治家がまったく知らないわけではないだろうが、そうした問題を持ち出したのでは選挙民の支持が得られないのだ。

結果、政治家は地元に橋や道路を建設しますだとか、老人福祉のための設備や制度を充実させますだとか、あるいは外国産の米は絶対に日本に入らせません、などとありきたりの話しかしない。

旧態依然の地元への利益誘導型政治がそこにある。

それよりももっと外に出て行って、外交で点数を稼いだ方がよほど利益が上がると思うが、先に述べたとおり、日本はますます内にこもるようになり、外交の重要性は認識されようとしない。


しかし、それも無理はない。

日本人は新教徒でもないし、旧教徒でもない。

繰り返しになるが、海外に領土はないし、旧植民地もないも同然である。

国際外交を考えると言っても、動かす駒を持っていないのだからどうしようもない。

自衛隊の海外派遣はできない上に、武器輸出もできないのだから、世界の治安維持に貢献するというのはできない相談である。

中国の一帯一路構想のようにヨーロッパ大陸で独自の経済展開をするなどあり得ない話だし(中国は鉄道を使ってドイツなどと経済協力を強めようとしている)、アメリカと対等な貿易条約を結ぶなど到底できるわけがない(日本の農民が反対し、米国の製造業者が反対する)。

まったく、日本が世界の中で自主的外交を行う余地はない。

言うなれば日本は世界の中で小さな離島のような存在である。


国際理解ということに政治家は関心がないし、国民も関心がない。

だから、今後も日本が国際社会で存在感を増すことはないだろう。

むしろ沈下していくのではないか?

日本が世界を相手に太刀打ちできるはずがない。

ではどうするか?


傾向と対策


ケネディ大統領は就任演説で「国が自分に何をしてくれるかではなく、自分が国のために何ができるかを考えるべきだ」と語った。

だが、私は、日本国民が一丸となって何か目標に向かって進むという時代はもはや過去の話になったと思う。

日本人はこれまで「みんなと同じ事をしていれば何とか生きていける」という島国根性というか集団主義的な生き方をしてきた。

しかし、集団主義は崩壊する。

日本の家制度は崩壊し、今の日本では離婚率も増え家族という単位ですら崩壊しようとしている。

ソ連の集団主義農場も崩壊した。

日本に熊はいるが、日本オオカミは絶滅した。

なぜか?

熊は単独で行動し、都合の悪い季節は冬眠で生き延びるが、オオカミは群れを作らないと生きていけない。

そのため一網打尽にされやすかった。


時代はインターネットへ


私の父は亡くなる直前に「おまえ達の世代はもういいことはないぞ」と予言した。

私もその通りだと思う。

中間層は搾取されて痩せ衰え、富裕層と貧困層のみが税制の恩恵を受ける。

そして、老人を支える世代が少なくなるのだから、父の世代のような手厚い社会保障制度は我々の世代が望むべくもない。

年功序列の弊害ここに極まれり、ということか?

戦争中、多くの若者が戦地に送られて命を落としていった。

終戦時に800万人という大変な数の人が兵隊になっていた。

そのうち2~300万人程度が戦死もしくは病死あるいは飢え死にしたと言うが、それでも無事に生還した人の方が多かった。

そしてその後ベビーブームが発生し、多くの若者が誕生した。

これを戦中時代の人々が大いに利用したのである。

1920年から25年頃に生まれた人が主導権を握った。

彼らは復員後、官庁はもとより、民間の商社や製鉄、メーカー、船会社、金融機関など日本の基幹産業を構成する企業に再就職した。

日本は元々資源のない国である。

あるのは戦後次々と生まれてきた安い若年労働者のみである。

比較的教育程度が高い割に安い給料で黙々と働く。

復員軍人で日本経済の復興を担った人達は自分達がやられたことを後から生まれてきた者達にしていった。

若い人材に苦労を押しつけて甘い汁を吸う。

「俺たちだって上官の命令でひどい目にあった。今度は俺たちの番だ。」

さすがに爆弾を抱えて敵艦に突っ込めなどという命令は下さないが、朝早くから夜遅くまで世界各国からエコノミックアニマルと揶揄されるような働き方で日本経済を支えた。


戦後、学制改革で雨後の竹の子のように新制大学できた。

大宅壮一の表したいわゆる駅弁大学である。

そのおかげで学徒出陣から生還したラッキーな学徒が大して勉強もしていないのに、大学の教官になれた。

戦後の高度成長のおかげで中小企業に入社した復員兵でも、日本の若者人口が増えたおかげでその波に乗って企業が大きくなるので出世ができた。

受験産業も大いに潤った。

大した違いもないのに大学の偏差値を煽って宣伝し、受験生を翻弄して無意味な受験競争に駆り立てた。

私は東京の予備校の現実を知っている。

狭い教室にこれでもかというぐらい生徒を詰め込んで荒稼ぎをしていた。

それでも、後から後から受験生が都会に押し寄せた。

日本は資源のない国である。あるのは比較的教育レベルが高い安い労働力だけ。

これを徹底的に利用した。

若者を食い尽くすことによって伸びたのが日本経済の実態であった。

これは食物連鎖のある自然界の実情と同じである。

イワシをカツオが喰い、マグロがカツオを喰らい、そしてカツオをマグロが喰らう。

いい加減イワシを食うのを止めておかないと、カツオも食えなくなる。

でも止めない。食い続けることができる限り、イワシをカツオは食い続け、マグロはカツオを食い続ける。やがてイワシがいなくなり、カツオがいなくなり、最後に残ったマグロも食うものがなくなって滅亡する。


『わかっちゃいるけど止められない』とはこのことだ。

商売は真空状態を嫌う。

必ず隙間を埋めるまで収まらない。

若者をずるい年長の大人達が食い物にするのはたやすい。

そういうことをしてはいけないと『わかっちゃいるけど止められない』ので、やってしまう。

やらなれば他のずるい大人が食い物にするからだ。

勉強しなきゃだめだとか、仕事をしなきゃだめだとか、若者を煽りに煽って、大人の金儲けの手段に利用する。

受験勉強、タレント養成学校、長時間労働、名ばかり店長、等々。


しかし、今やその資源が枯渇しようとしている。

言わずと知れた少子化である。

もはや、先に生まれた者が後から生まれてきた者を利用する、という図式は過去のものとなりつつある。

儒教的思考方法の終焉だ。


ひとつのアイデアとして、私が思うのは、「日本という枠組みを離れた生き方をしたらどうか?」ということである。

そこで、私が注目するのはインターネットである。

これが作り出す仮想空間は無限であり、地球上でかつて行われたような領土獲得競争をする必要はない。

国籍、人種、宗教、性別、年齢、貧富による差別はない。

私は会社員をしたこともあるのだが、対人関係のストレスでうつ病を発症し、会社を辞めざるを得なくなった。

その後、フリーターのようなことをしながら生活をしていたのだが、インターネットが発達したおかげで翻訳の仕事ができるようになった。

初めは日本国内の翻訳会社から仕事をもらっていた。

しかしリーマンショックのせいでまったく仕事が入ってこなくなった。

そこで思い切って海外の翻訳会社に問い合わせをしてみた。

すると、世界は広いというのか、いくらでも仕事が見つかった。

日本で翻訳会社というとそれほど数は多くないが、世界ではその何倍、いや何十倍もあるだろう。

しかも、国内の翻訳会社に採用してもらうのは大変だったが、海外の翻訳会社は気さくというか、割と簡単に仕事をくれた。

彼らは日本語は分からない。

ではどうやって品質を確かめるのか?

同じ日本人翻訳家同士で訳とチェックを分担させるのが一番オーソドックスなやり方だが、それ以外に少しずつ仕事を与えるという手段を使う。

少し仕事をさせてみて、それがクライアント側で問題にならなければ少しずつ大きい仕事を任せる。

また、1回仕事を発注した後で、つぎの仕事を発注するまでしばらく期間をおく。

この期間は時には半年近くになることもある。

そして、その時期でもまだ翻訳の仕事をやっているようなら、その翻訳家は実績があるから長続きしているのだと判断する。

ある外国人クライアントの事例だが、私は他の翻訳会社からの仕事が忙しくてそのクライアントからの依頼はいつも断ってばかりいた。

すると、そのクライアントは腹を立てるのでなく、「あなたはトップの翻訳家に違いない。私が仕事を依頼しても、いつもあなたは忙しいといって断る。それだけ、仕事の良い流れがあるのは、あなたに能力があるからだ。」

私にそんな能力があるとも思えなかったが、なるほどそういう人物判断の方法もあるのかと少し感心した。

また、会話もしやすい。

日本の翻訳会社だと、「いつもお世話になっております。お忙しいところ恐縮ですが」などと回りくどい挨拶文を入れたり、敬語の使い方などの気をつけないといけない。

しかし、海外のクライアントの場合そんな気遣いは無用である。

「はーい!ビンゴ!元気でやってる?仕事をお願いしたいんだけど、いいかな?」

先輩とか後輩とかそんな概念はないし、相手が年上だろうが何だろうが、いきなりファースネームで呼びかけてくる。

そして、相手の立場を尊重する。

日本の翻訳会社の場合、こちらが忙しい時に仕事の依頼を断るのは大変なことで、気苦労も多い。

「誠に申し訳ありませんが、ただいま大きな仕事に取りかかっておりまして、今回はお引き受けできません。あしからずご了承ください。」

などと長々と弁明に努めるのが通例ではあるが、海外のクライアントの場合、都合が悪ければ仕事の依頼を即断っていいし、手に負えない案件は「ごめんなさい」の一言で引き受けなくて済む。

それでこちらのことを悪く思ったりしない。

人はそれぞれすべて違うものであるという個人主義の考え方が徹底している。

それは主義というよりはコンスティチューションと呼ぶのにふさわしい。


スペインのある翻訳会社の例だが、そこに東欧出身の社員が入社し、私の担当になった。

すると、入社して1か月もしないうちに、彼はいきなり3週間近い有給休暇をとった。

その有給休暇を利用して彼は東京にやってきている。

彼はヨーロッパ言語を数多く操ることができるのだが、日本語も習得したいと語っていた。

そのブラッシュアップのために彼は東京にやってきたのである。

彼はその後数年も経たないうちにロンドンにある別の翻訳会社に転職していった。

一般に日本では同じ会社に長く勤めている人が尊重されるが、海外ではその逆で、同じ会社に長くいるというのは能力がないからスカウトされないのだ、と判断されてしまう。

だから、長く勤めていても自然に昇給や昇格があるわけではなく、下手をするとリストラされてしまう。

イタリアの翻訳会社の例だが、40代くらいのやり手の女性マネージャーが他の会社からヘッドハンティングされてきた。

すると、やたらに品質管理とかコスト管理がうるさくなり、私の仕事にも細かいクレームが以前よりも多く出されるようになった。

結局、私はその会社との取引を止めたのだが、彼女の下で働いているスタッフとは良好な関係だったので少し残念な気がした。

海外の場合、「管理職は他社から来る」というのが常識のようだ。

日本では「大学に入るのは難しいが出るのは簡単だ」と言われ、そして、海外では「大学に入るのは簡単だが出るのは難しい」と言われる。

これは職探しでも当てはまることで、欧米では「入社するのは簡単だが、その状態を維持するのは難しい」ということになる。

日本企業では社員面接、係長面接、課長面接、重役面接というふうに何回も人物審査を行って新入社員を採用しているが、今時こういうやり方は非効率的であって、入社してみたいというのなら試用期間を設けてやらせてみたらいい。

しかし、こういう考え方は日本社会には受け入れられない。

日本人は会社というものを大事に考え、滅私奉公的に一途にひとつの会社や組織で働き続けることを美徳と考える。

それと引き換えに、社員はいったん採用してもらったら、定年まで身分は安泰と思う。

また、途中で社員を首にするような経営者は嫌われるし、経営側が社員側の終身雇用や年功序列への期待を裏切ることは難しい。

日本人は、どうしてそこまで会社を崇拝するのか?

会社は英語でカンパニーと言う。

カンパニーとは仲間という意味であり、会社などと訳すと重い感じになるが、要するに仲間同士で何か仕事をしようというのがカンパニーであって、それほど強い意味があるわけではない。

だが、なぜか日本では制度の方が上で個人が下に来てしまう。

欧米人は制度もお金も物も個人の生活を向上させるためにあるのであって、間違っても彼らがそれに従属することはあり得ない。

それでは道具に人間が支配されている状態になってしまう。

私のクライアントのひとつにカナダの翻訳会社AAがある。

これを立ち上げたのはカナダ人の白人女性ベスさんで、当時彼女はシングルマザーであった。

ベスさんがシングルマザーになったのは、夫と離婚したのでもなく、死に別れたのでもない。

彼女は、「子供は欲しいがひとりの男性に縛られるのは嫌だ」というので敢えてシングルマザーの道を選んだ。

彼女の実家は資産家ではないし、特に収入の当てがあるわけでもなく、また誰も頼る相手はいなかった。

しかし、彼女は子育てをしなくてはいけないので家を離れるわけにはいかない。

そこで彼女はインターネットを使い、世界中の翻訳家に呼びかけてあっという間に40か国近くの国々にネットワークを作り上げてしまった。

彼女はポーランド系カナダ人で5か国語が話せる。

そして、その実績を元に単身フランスの会社に乗り込んでいき、たったひとりで交渉して翻訳の仕事を勝ち取ってきた。

私はこの話を聞いたとき、「白人であることはこんなにも有利なことなのか」と実感した。

彼女のようなことをシングルマザーの日本人女性にできるだろうか?

いや、日本の翻訳会社だってなかなかこういうことは難しいだろうと思う。

彼女は赤毛で鼻が高く、目の色は日本人に似た黒い瞳をしているが、背が高くグラマーでかなりの美人である。

彼女が白人であるからこそ、フランスの会社もすぐに彼女との交渉に応じたのだろう。

白人同士ならすぐに打ち解けてひとつの家族のような気分になれる。

ましてベスさんのような美人の女性ともなればなおさらである。

その後、彼女は数名のスタッフと共にカンパニー(いわゆる日本の会社)を運営している。

最近、ポーランド人の男性と結婚したが一緒には暮らしていないと言っていた。

ポーランドとカナダの間をお互いに行き来しながら「夫婦」をしている。

「旦那さんは、いわゆるパートナーということですか?」と質問したことがあるが、「いいえ、正式に婚姻届を出しています」と答えた。

こうなると我々日本人の感覚ではついていけないような気分にもなってくるが、白人にとって世界は自分達の庭のようなものであって、気軽に飛び歩ける場所なのかもしれない。

ベスさんもラスベガスやニューヨーク、あるいはメキシコ、ブラジルといった場所によく出かけている。

それは仕事のためでもあるが、友人に会ったり(ベスさんには世界各地に友人、知り合い、親戚がいる)、旅そのものを楽しむことが目的であることが多いようだ。

何世紀も前から地球上のほとんどの場所を支配している白人だからこその感覚である。

ベスさんに限らず、カナダの人達はおおらかで人柄のいい人が多いような気がする。

寒い国にもかかわらず、ハートが温かい。

人種差別もあまりないし、米国のように銃犯罪が多発するということもない。

こういう人達と知り合いになれることもインターネットを通じて仕事ができることのおかげであろう。


インターネットを通じて世界の人達と仕事をしていると、本やテレビなどでは分からない実態に触れることもできる。

もうひとつの私のクライアントに、華僑の人達が運営する翻訳会社がある。

彼らは基本的に中国人だが、時の政府というものはまったく信用していない。

お互いの血脈だけを頼りに世界中に拠点を持ち、その間で資金や情報を融通し合っている。

その歴史は古く、明朝の頃から存在しているらしい。

彼らは、オリンピックで金メダルを取るとか、ノーベル賞を受賞するとか、そういった華々しい世界とは無縁の世界に生きている。

国際舞台で表舞台に出てくることはまずない。

しかし、白人達が構築したこの世界の枠組みの隙間にうまく入り込み、その中で自分達の保身を図ろうとしている。

彼らは目立つことを嫌い、決して白人社会に対して真正面からぶつかろうとはしない。

あくまで、白人社会のニッチな部分に入り込み、白人社会の影の部分で活路を見いだしている。

そして、リスク管理が非常に上手い。

私が仕事でミスをしても決して非難したり強くなじったりするようなことはしない。

まして、翻訳料をカットするなどと言ってくることもない。

ただ、「ここを直してください」と指摘するだけでそれで終わりである。

華僑達は日本の鎖国時代よりも以前から海外で仕事をしている。

だから、こうした仕事でもリスクがあることは承知していて、リスクを全部織り込み済みで経営をしているのだろう。

海外の人を相手にビジネスをしていると、こうしたことがよく分かるようになる。


4、50年前に翻訳の仕事は労力のかかる仕事であった。

ワープロとかファックスもあまり発達していなかったし、仕事は郵送で送られてきた原稿を手書きでレポート用紙に書くというものであった。

やがてワープロやファックスが普及して幾分作業の効率も改善されたが、それでも煩雑な作業であることに変わりはなかった。

日本の企業が製品のマニュアルなどを各国語に翻訳する時など、せいぜい英語とフランス語に訳すのが精一杯だったのではないか。

後は現地の取引先に任せるしかなかったであろう。

しかし、インターネットの登場により、この状況が一変する。

先のベスさんの例にもあるように、個人がたちまちのうちに何十か国もの言語に翻訳を行うことができるようになった。

これを専門用語でローカライゼーションと呼ぶのだが、これにかかる費用はかつての何十分の一にまで減っている。

世界の企業も、日本市場に自社製品を売り込む際に、もはや日本の翻訳会社だけを当てにしていない。

そうではなく、コストのかからない世界各地の翻訳会社に依頼するようになった。


翻訳会社は東京など大都市にしかなかったので、ちょっと前までは翻訳の仕事を地方で請け負うのはほぼ不可能であった。

だが、今は違う。

はっきり言って東京で翻訳の仕事をするメリットはあまりない。

混んだ通勤電車で何時間もかけて会社に通わなければならない上に、物価や家賃も高くて生活費にかかるコストが大きな負担になる。

とはいえ、東京の翻訳会社にしてみれば、やはり都内に住んでいる翻訳者の方が何かと相談もし易いし便利だと考えるだろう。

しかし、海外の翻訳会社にしてみれば、直接会うことなど最初から考えていない。

とにかく良質の仕事をしてくれさえすればそれでいいわけであって、相手が東京に住んでいようが地方の小さな田舎町に住んでいようが関係はない。

もちろん、海外のどこかに住んでいてもかまわない。


トヨタやソニーは日本で育った会社だが、もはや日本市場だけを相手にしていない。

日本市場も重要な市場には違いないが、極端な話、彼らは日本市場がなくなったとしても経営には困らないだろう。

彼らは「モノ作り」を通してひとつの教団のようなものを作り出した。

それは世界中で通用する言語であり、信条である。

彼らは、北米、南米、ヨーロッパ、アフリカ、東南アジアなど、世界各国に拠点を持ち、現地の人を雇用して現地で生産し、そして現地で販売している。

利益を日本に持ち帰ることはなく、現地で税金を納めている。

彼らはかつては日本の政治家や役所にぺこぺこ頭をさげて、自分達が貿易で有利になれるよう取り計らってもらった。

美味しい天下り先もたっぷり用意した。

そのおかげで一般庶民の生活を犠牲にする中で大きく成長できた。

「あんた達は日本のおかげで大きくなったのだから、少しは日本国民に利益を還元しろ」と言いたくもなるが、所詮負け犬の遠吠えである。

もはや、彼らは日本がなんだという態度である。

たかが、一億人の市場なんか相手にしてもしょうがない。

あれほど役人や政府関係者に頭を下げていたくせに、今や顎でつかう。

まさに、国際的企業の天下とはこのことだ。


そして、こうした大企業にうまく入り込めなかった人は公務員を目指す。

だが、公務員は利益を生み出さない。

それでも役人は「自分達がいるから国がある」と思っている。

中央公論という出版社がある。

かつては日本の言論界を背負って立つ、というぐらいプライドの高い出版社であった。

しかし、60年くらい前から漫画がはやるようになった。

講談社、集英社、そして小学館などが漫画雑誌を売り出し、それが当たった。

だが、中央公論はプライドが高く、「漫画なんて」と馬鹿にし、そんなことはしなかった。

そして、発行部数が激減して潰れた(今は読売新聞の傘下で存続)。

「中央公論があるから読者がある」という意識が捨てきれなかったのだろう。


まさか、私の父親の例を見てそんなことを思ったのではないだろうが、今公務員志望の人は多い。

だが、公務員になって40年後に私の父親と同じような手厚い老後が待っているだろうか?

日本の人口予測では40年後の総人口は約9000万人。

しかし、その内訳が問題で半数近くが60歳以上になるという。

となると、60歳を過ぎた人達の社会保障費を負担する国民の数はせいぜい3千万人程度しかいないということになる。

3千万人が4500万人を養うということになれば、3千万人が受け取っている給料を全額国に納付してももまだ足りない。

今から公務員になった人は20年後に自分の給与明細書を見てびっくりするのではないか?

恐らく、給与の半分近く、いやもしかしたらそれ以上が、年金だの健康保険料だので天引きされているのではないか?

これでは共稼ぎでないとやっていけない。

しかし、今や離婚率は3組に1組になっている。

配偶者の収入を当てにできない状況なのだ。

世界と違い、日本では先輩後輩という概念がある(中国や韓国もこれに似た儒教思想があるが)。

後輩は先輩を立てて、先輩に従う。

なぜそうするかというと、自分が年を取った時の安全保障になるからだ。

自分が先輩の立場になれれば、後輩が自分の生活の面倒をみてくれる。

しかし、これからは先輩の数が増えて後輩の数が減る。

どこまでいっても後輩の生活は楽にならず、先輩だけが美味しい暮らしをする。

大企業などでも、高い給料を取って大した仕事もしていない老人がなかなか辞めようとしない。

これでは後輩は救われない。

下克上の再来があるのか?


いずれにしても、人生100年時代にあって、60歳で定年になり、その後年金だけで暮らすのは苦しくなる。

私の近所の人に小学校の校長をしていた人がいた。

その人が80歳近くになったとき、妻の母親が亡くなった。

大した財産などなかったのに、彼は妻といっしょにその亡くなった「妻の母親」の実家に駆けつけ、49日もまだ終わっていないというのに「財産を分けてくれ」と言った。

ここで気をつけてほしいのは、亡くなったのは彼の母親ではなく、彼の妻の母親である。

そこに乗り込んで行って遺産のことでもめるというのはあまりにも情けない話ではないだろうか?

本当にその母親は何もない。ただ古い家に息子夫婦と住んでいるだけで、彼女名義の財産など通帳に数百万円もあるかないかである。

それを3人兄弟で分けるとなれば、100万円にもならない。

元校長といっても、定年後20年も経てば退職金も使い果たしカラカラになったのか?


では、公務員の定年を80歳まで伸ばしたらどうか?

80歳になった航空自衛隊のパイロットが、おぼつかない足取りでF35戦闘機に搭乗し、スクランブル発進をするのだろうか?

80歳になった小学校の女の先生が、赤い水着を着て入れ歯をガクガクさせながら笛を吹き、水泳の指導をするのだろうか?

80歳になった警察官が、眼をしょぼつかせながらパトカーを運転し、スピード違反の車を追跡するのだろうか?


これは冗談ではなく、今でも現に起きている。

ある過疎地の高齢者施設では老人を送り迎えする運転手の確保に苦労している。

75歳の運転手が働いているのだが、「もう辞めたい」と何年も前から言っている。

だが、後継者がいないので施設が無理を言って働いてもらっている。

しかし、彼はもはや道を覚えることができないような状態になっている。

私が住んでいる町の建設現場でも人手不足が起きていて、80歳の人がコンクリート作業を手伝っている。

80歳近い人が介護施設で働いて100歳の人の面倒を見ているというのはもう珍しい話ではなくなった。


公務員があって国民があるのではない。

国民があって公務員がある。

それなのに誰も彼もが公務員という船に乗りたがれば、船はその重みに持ちこたえられなくなって沈んでしまう。

80年前の日本では軍人になって出世することが名誉なこととされていた。

若者は海軍兵学校や陸軍大学校に進学することを望んだ。

誰も彼もが軍隊という大船に乗り込んだが、その船は轟沈した。

私の父親は運良くそれを生き延び、後半生でいい思いをした。

しかし、これからの未来にそれが上手くいくとは限らない。

多国籍企業へと発展していった日本の大企業や、何百年も前から白人社会の裏の部分に貼り付いて繁栄を続けている華僑のように、個人もそろそろ海外に拠点を持つことを考えた方が得策ではないだろうか?

日本では人口は減り、産業は伸びず、税金や社会保障費や年金の支払いばかりが増えていく。このままだと、日本が単なる貧しい寒村のような国になっていくのは目に見えている。

瀬戸内海の島々を見ればいい。こうした小さな島々が日本本土を動かすような力を持つようになるだろうか?

世界地図の中で、日本というのは本当にちっぽけな存在で、世界中の大部分の人が日本がどこにあるのか知らないだろう。

瀬戸内海の島々と同様、世界の中でそんなちっぽけな存在の国が大きな力を維持し続けることができる訳がない。

英国は日本と同じくらいの国土面積しかもたない国だったが、世界中に植民地を作って大きな繁栄をし、今もその時の遺産で優雅に暮らしている。

それに遅れて日本も同じようなことをしたが無残に敗れ去った。英語はほぼ世界中で通用するが、日本語が通用するのはこの狭い島国の中だけだ。

まさに、八方塞がりで四面楚歌の状態である。


日本は太平洋戦争に負けてこれで世界への仲間入りのための禊ぎが終わったかのように思っているかも知れないが、それはとんでもない誤解で、これから本当の意味で日本の開国が始まる。

そこには日本人同士のなれ合いでは通用しない厳しい競争の世界が待っている。

今、多くの外国人が日本観光に訪れているが、やがて日本に定住する人も増えてくるだろう。彼らとまともに勝負したのでは日本人に勝ち目はない。

その理由は先に述べたとおり、日本人は小さな島国に暮らす少数民族に過ぎないからである。しかもその内訳の大部分を占めるのが65歳を過ぎた老人ばかりになっていく。


そこで、この苦境に対する打開策の鍵を握るのがインターネットが可能にする仮想世界ということになる。

この世界は無限大の広さがあり、その可能性に際限はない。

私は翻訳の仕事しか思いつかないが、仮想通貨など他にももっと活用の仕方があるだろう。

沈みゆく船に最後までしがみつくか、それとも体力のあるうちに海に飛び込んで対岸まで泳ぎ着くか、それとも最初からそういう船には乗らないようにするのか、それは自分次第である。


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